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敬意は強制されるものではない
「天皇は謝罪を」のどこが「不適切」「無礼」なのか

天皇も同じ人間なのだから、「あんたあの裕仁の息子やろ。かわりに誤ったってもええんちゃうん。」ぐらいは言ってかまわないと思う。強制じゃないんだし。無礼でも非礼でもないし、ましてや前時代的な「不敬」であるわけがない。もし日本側が文議長の発言を「不敬」だなどと感じているのならそっちの方がはるかに大問題。不敬罪は戦前の法律だし、「不敬」という概念自体が今は存在してはいけないからだ。なぜならある特別な人間だけを敬わなければならない、敬わなければ不敬だなどとは逆に人権問題になってくる。人は自分の自由意思で人を敬うからだ。それこそが敬うということに他ならない。誰をどう敬うかという個人個人の権利を侵害している人権問題だろう、立派にこれは。
敬意を強制されることこそ無礼な話だろう。
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現代の異常な暴力性
AERAdot.野田市虐待死 栗原心愛さんと船戸結愛ちゃん事件に共通する父親の過剰な家族依存

日本の社会は特に男性たちに対して、存在を否定するようなマイナスの突き上げが強く、DVも虐待も顕在化しています。恥や屈辱といった感情を抑え込めず、自分の正しさを証明しようとすることで、暴力をふるい、困窮をし、転居、転職、転校を繰り返すようなケースは今後さらに増えるのではないでしょうか。このままでは子どもなど家族の中でも一番弱いところに被害が出てしまうと危惧しています。これらの事件は社会の縮図のように感じます。
社会から排除され、存在を否定されたと感じた加害者が、子どもの教育や将来のためにと“しつけ”に執着したり、子どもに関する問題には特に威圧的な態度で公的機関に乗り込んでくる。
カナダでは、セルフ・エスティーム(自尊感情)を揺るがされた人が抱えた怒りを取り除く加害者治療に取り組む。


児童虐待や煽り運転での異常な暴力性は男どもが自尊感情を傷つけられることに起因するのだろうか。それはきっとフェミニズムの台頭と反比例しているのかもしれない。あちらを立てればこちらが立たないのだ。それは最初から男の方が偉いと思い込んでいるからなのかもしれないが。最初から対等だと思っていれば、何も自尊感情が傷つけられることもないはずだが。
こういった振幅の繰り返しで真の多様化が進んでいくのかもしれない。要はこれからは振幅の振れ幅を小さくしていくことだろう。
小津安二郎に完全にはまってしまって困っている
この年末年始は小津安二郎に完全にはまってしまって困ってしまっている。僕の短歌の方向とは真逆だからだ。おかげで短歌が全くできなくなってしまった。
全部で14本見た。
『晩春』を皮切りに『麦秋』『東京物語』『宗方姉妹』『風の中の牝雞』『早春』『東京暮色』『お茶漬の味』『東京の合唱』『東京の女』『一人息子』『淑女は何を忘れたか』『戸田家の兄妹』『父ありき』とよくぞこれだけ見たなというぐらい見た。おそらく著作権切れが多いのだろう。YouTubeなどで簡単にみられる。
戦前の無声映画はちょっときつかったのでさすがに二本でやめた。小津が兵役から帰ってきてからの昭和16年から途端に質が上がる。特に戦後の白黒映画は至高だろうと思う。
ここまで見て小津の映画を僕なりに総括すると、ありふれた人情もの、ホームドラマが多いながらも冷ややかなリアリズムを基底とした静かで穏やかな悲劇と言える。時代を超えた普遍性をこれでもかと突きつけられる。これでもかこれでもかと何本見ても。その普遍性に圧倒されるのだ。

で、カラー映画はまだ心の準備ができてなくて、戦後の白黒映画で最後に残されていた『長屋紳士録』を今日見た。最後の楽しみに残してとっておいたのではなくて、人情喜劇だということで小津らしくないなと思い、あまり気がすすまなくて結局最後になってしまっただけだ。評判もあまりよくなかったし。
しかしこれが意に反して大変面白かった。笑いのツボがあの時代だというのに全くずれてない。ここに驚いた。そして泣ける。最後は辛い終わり方で、ああやっぱり小津は悲劇にもっていかないと気が済まないのだな、とは思ったが、これは『男はつらいよ』の原型かもしれない。

この動画の笠智衆は歌が半端なく上手い。リズム感が今のロックなんかよりいいんじゃないかとさえ思えてくる。これだけでも見る価値はあると思う。笠智衆さんが謙遜気味に言ったことには小津監督にただ一つ褒められたのがこの歌だったとか。厳しいらしかったからね。
のぞきカラクリの唄 映画「長屋紳士録」より 歌:笠 智衆

『長屋紳士録』の本篇はこちらです。
長屋紳士録 - Nagaya shinshiroku - Record of a Tenement Gentleman (1947) Yasujirô Ozu
昭和22年なので完全に著作権切れでしょう。安心してみてください。
小津安二郎監督『宗方姉妹』
小津安二郎監督の『宗方姉妹』(1950年)を観た。三日前、『晩春』を小津監督作品としては初めて見て、いたく感動してしまい、そのあと三日連続で『麦秋』『宗方姉妹』と観た。
『晩春』は特に描写や物語の展開を抑えることでちょっとした表情の変化などを際立たせていて、昨今の派手な映画やドラマとは全く違うストイックさを感じて小津安二郎にはまってしまった。小津作品に対して食わず嫌いだったことを思い知らされた。

『宗方姉妹』は『晩春』程の感動はなかったけど、高峰秀子の圧巻の演技に圧倒された。弁士の真似をして上原謙をからかう場面だ。こんな女優さん今いない。
でも特に印象に残ったのはやはり田中絹代演じる姉が高峰秀子演じる妹にこう諭す場面だ。

「私は古くならないことが新しいことだと思うのよ。ほんとに新しいことはいつまでたっても古くならないことだと思ってんのよ。そうじゃない? あんたの新しいってこと、去年流行った長いスカートが今年は短くなるってことじゃない? みんなが爪を赤くすれば自分も赤く染めなきゃ気がすまないってことじゃないの? 明日古くなるものでも今日だけ新しく見えさえすりゃ、あんたそれが好き? 前島さん見てご覧なさい。戦争中先に立って特攻隊に飛び込んだ人が、今じゃそんなことケロッと忘れてダンスや競輪に夢中になってるじゃないの。あれがあんたの言う新しいことなの?」


要するにいつまでたっても古びず時の試練に耐えていくものを見極めろということだ。新しく出てくるものにもそういうものがあるのだが、なかなか見極めるのが難しかったりする。言うことはよくわかるし共感するが、刹那的なものにも面白いものはあるのだけど。

言えることは高峰秀子の弁士の真似に68年の時を経て大笑いできたので、これは真に新しいことなのでしょう。それと共に小津安二郎の映画も今になって感動できてそれは真に新しいものなのだと思う。

小津作品は著作権切れなのだろうか、youtubeで簡単に見ることができる。年末年始は小津安二郎祭りになりそうだ。
さて今日はどれを見よう。
高校国語から文学が消える?
今日の毎日新聞から阿部公彦さんと田中和生さんの対談。

大原 「国語教育やテストから文学が消える」という議論がありますね。紅野氏の新書で問題が指摘されています。

阿部 「国語」を形式的な論理を学ぶ科目ととらえる考え方が跋扈しているんです。

田中 言語を一種の情報ツールとみなす考え方ですね。

阿部 そうなんです。かつて科学が発達しつつあったイギリスでも同じことがあった。「物と言葉は一対一の対応が可能」という考えです。文学者は反発した。言葉と物が完全に重なるという理念に依存するのは危険です。人間には思惑があるから、言葉はつねに表面的な字義と含意がずれる。それを先鋭に表現するのが文学。それに、誤解や意味のずれからこそ、新しい認識や文化が生まれる。文章の根本にはそういう把握困難な「他者性」があるということを、さまざまな出合いを通して生徒に実感させるのが国語の本務だと私は思います。

田中 一対一で対応させるのは、それぞれの人間にある言語のデータベースが一致しない以上、不可能な夢という気がしますね。教育現場にその考え方がやってくるのは危険で、そこでは文学を読むことが不可能です。でも、メール一本打つのでも文学的な言葉の使い方をするし、情報だけでは返事ももらえない。


物と言葉が一対一に対応していないからこそ、そのずれから様々な豊かさが生まれてくる。
そして言葉は常に変わろうとしている。辞書に載っている意味はほんの参考程度に過ぎないのだから。
自己責任論の無責任を問う
恥ずかしい日本の自己責任論の無責任を問う20181026NEWS23

要するに外国で何が起ころうが知るかい、何で知らなあかんねん、という人が「自己責任」を言うわけ。
日本さえよければいいと思っている、まさに無責任。
歴史の史実と解釈
靖国神社職員有志の主張

靖国神社職員有志の主張
「大東亜戦争は、欧米列強によるアジア植民地支配からの解放を成し遂げるための、正義の戦いでした。」
「私たちとしてはこの正義の戦いである大東亜戦争について、日本国家には一切謝罪も反省も必要ないと考えています。一切の戦争責任を負う必要ないと考えています。」


ではなぜ東アジアや東南アジアで旧日本軍が少なく見積もっても1500万人もの人を殺す必要があったのでしょうか。
歴史は解釈は如何様にもできますが、史実はたった一つですから。旧日本軍がアジアで大量虐殺したという史実は揺るがないのです。歴史は科学だという所以はここです。
僕の解釈では、欧米列強からアジアを守るためというのは1割ぐらいはあったかもしれないけど後の9割は侵略だったということです。その1割をまるで10割のごとく言ってくるのが歴史修正主義者のいつもの言い分。史実をまず受け止めてから解釈に移ってほしい。史実を受け止めない解釈は無意味でしょう。
利己的な民族
麻生氏が不適切発言=医療費負担「あほらしい」に同調

珍しく、麻生の言ってることはそんなにはおかしくないと思った。
不摂生が理由で病気になった人の医療費を健康のために努力している人が負担するのは「あほらしい」つまり不平等だ、と言ったわけだが、「人間は生まれつきがある。一概に言える簡単な話ではない」と言って慎重に炎上を避けてるし。

ただ麻生はもちろん何もわかってない。国費で賄う健康保険は本来個人の損得で考えるものではないからだ。自分も社会の一員でみんなでみんなの面倒を見てるんだ、という意識が必要。
安全保障でいう集団自衛に似ている。みんなでみんなを平和にするのが集団自衛。自分とこは平和なのに派兵して損してるなんて思いだしたら世界平和は成り立たない。それと一緒で自分は健康なのに不健康な人のために掛け金を払ってて損してる、なんて思ったら健康保険そのものが成り立たなくなる。

日本人は欧米と違ってみんなで元気で平和になろうという意識がない。利己的なのかもしれない。だから麻生に同調する人は多いだろうと思う。
杉田水脈衆議院議員の「LGBT生産性なし」発言について
杉田水脈衆議院議員の「LGBT生産性なし」発言について、こんなバカバカしい発言はすぐに収まるだろうと思ってて、スルーしていたのだけど、そうもいかなくなったようで、少しちゃんと書こうと思う。

「LGBT生産性なし」発言ばかりが目をむくのでこちらにばかり目が行きがちだが、これは単なる釣りだと言ってる人が多い。確かにそんな感じで、この議員はLGBTに対する税金投入が必要ないと言ってるのだ。それを言いたいがために、「LGBT生産性なし」というとんでも発言にまず及んだのだろうと思われる。普通に言っても注目されないので人目を引く作戦に出たのだろう。要するに注目されて党内の地位を上げようという魂胆だ。
だがそこでちょっと待てよだ。LGBT支援に対する税金投入がはたしてどれほどか。杉田議員の発言だとまるでLGBTは何か特権があるかのごとくである。でも実際は普通の異性カップルと同等な権利があるようにするためにおそらく税金と言えるほどではない微々たる金額で法整備していこうとしているだけだと思う。LGBT特権なんてもちろん聞いたこともない。
ここで在特会が思い起こされる。正式名称は「在日特権を許さない市民の会」でこの名の通り、在日朝鮮人韓国人にまるで何かの特権があるかのごとく吹聴している。しかし彼ら在日の人には日本人と同等の権利を有する権利が当然あるだけのことで、日本人以上の権利はもちろんない。それがまるで日本人以上の特権があってそれは許さん、という構図に持っていこうとする。そして徹底的に在日の人を叩くのである。もちろんだからこの場合「在日特権」は釣りで、本当に言いたいことは差別発言であることは言うまでもない。嘘でもいいから何かに言いがかりをつけて徹底的に差別したいわけだ。この今の日本で最も醜悪な団体である。
そこで杉田発言に戻るが、「釣り」と「本論」が実は逆転してしまっている。「LGBT生産性なし」が釣りだと言ってる人が多いし僕も最初そう思ったが、実はこっちが本論だろう。ありもしないLGBT特権なるものをさも正論のように言っといて、最初、釣りとして言ってた「LGBT生産性なし」を結局言いたいのではないだろうか。在特会と一緒で何かありもしない嘘でもいいから理由をでっち上げて、徹底的に差別したいのだろう。叩きたいのだ。「LGBT生産性なし」も科学的にFakeだし、LGBT特権も社会的に全くの大嘘だ。二つとも嘘なのだ。この今の日本で最も醜悪な女性である。
高知県本山町
今度の豪雨で最も降水量が多かったのは高知県の本山町だけど、あの早明浦ダムのすぐ東隣の町。1,700㎜程ふったらしい。想像できない量だ。でも被害は報道されていない。
その本山町出身の人に今日たまたま会ったのでおそるおそる聞いてみた。どうでしたかと。
心配で電話したけど、大丈夫だった、避難はしたらしいけどね、とのこと。
その人が言うには、その町は以前から雨が多いところでしばしば土砂崩れがあり、それを避けるために絶妙に家を建ててるらしい。たとえば両サイドが土砂で崩れても間のその家だけは大丈夫とか。土砂の抜け道を長年の経験で言い伝えてあり、危ないところには家を建てないらしいのだ。
う~んなるほど。未曽有の降雨量だったけど、こんな場合でも先人の言うことはやはり聞いといたほうがいいということだ。古くからの町にはなにかといいことがある。新しいものは確かにいいかもしれないが、伝統も大切にしていきたい。