大橋麻衣子・猪幸絵 短歌展「百歌繚乱」
sora歌会の仲間である大橋麻衣子さん、猪幸絵さんのお二人が短歌展なるものを開催されます。何をされるのか知らないのですが。行ってみてのお楽しみ。

場所は大阪の京橋です。お近くの方はぜひお出かけください。


☆☆☆☆☆☆☆ 大橋麻衣子・猪幸絵 短歌展「百歌繚乱」のご案内☆☆☆☆☆☆☆

日時:2010年2月11日(木)〜2月16日(火)午前11時〜午後5時
場所:大阪市都島区片町2-9-24 Nビル2F カフェ&アート「月の宴」
http://padonavi.net/kansai/osaka/27102/gen50/1901-00121435-000/shop_top/
糞尿をしない犬
今日、近所を歩いていたら、犬の散歩をしている人が、突如周囲をキョロキョロ見たかと思うと、その犬がその場にしゃがんでおしっこをするのだ。そこで突然思いついた。将来、遺伝子工学が発達したら、きっと糞尿をしない犬が発明されるに違いない。技術的にどうやって開発するのかは考えなかったけど、なんの根拠もなく実現可能だと確信してしまった。糞尿をさせる側もされる側も困っているのだから、こんな犬がいたらみんな飛びつくだろうし。
おそらく糞尿を違う形で(つまりきれいな形で)排泄させることが可能だと思うのだ。どんな形であれ、とにかく体内の不用なものを体外に排泄させればいいのだから。

帰る道々、あまり長生きはしたくないなぁ、と思った。

あるいは人間もそうなるかもしれない。
武力よりルール
なんと1月6日の読売新聞の記事からだ。もうずいぶん前の記事で、書こう書こうと思って、書かないことが最近特に多いのだけど、これだけは絶対書こうと思っていた。日本を外国人の目から見ている。

英国の外交官で東京駐在の経験もあり親日家で、現在はEUの対外政治軍事問題担当事務局長であるロバート・クーパー氏という人の国際政治に関する論説。目から鱗だった。

まず、日本、英国共に中規模国家だと断じる、大国ではなくて。それは「自国の利害を独力で守るには小さすぎる」からで、しかし「こうした中規模国家こそ、世界を武力ではなく、国際的な規則によって統治することに最大の関心を持つ勢力だ」と期待を寄せる。そしてこのような立場を維持するにおいてこそアメリカの傘(安全保障)が必要なのだと説く。英国を含めた欧州も日本もアメリカの傘なくして国際的なルール作りを進めることはできない、と力説する。矛盾するようだが確かにそうなのだ。特に「日本は海外派兵を自ら制度的に禁じる国」であり、この特徴こそが「政治より経済力」「武力ではなくて国際ルール」の国を作ったと高く評価している。

そしてクーパー氏は現代国家を次の三つの段階に分ける。

「近代」国家・・・古典的な国家で、軍隊や政府など国家の制度が整っていて自国の安全保障を基本的に自国の武力に頼る。アメリカ、中国、インドなど現代の多くの国がこの部類に入る。国益のための戦争をすることもあり、時には帝国主義的に振舞う。

「ポスト近代」国家・・・領土拡張や他民族の支配に興味を持たない。自国内での民主制度が確立している上に、紛争解決に武力を用いようとはせず、国際法やルールで解決しようとする。「近代」国家に比べ進化していて、欧州連合(EU)や日本がこの部類に入る。

「プレ近代」国家・・・統治機構が不十分で、国民に最低限の秩序を提供できない国。ソマリヤ、アフガニスタン、など。

う〜ん、わかりやすい。
ただEUと日本の違いは周辺の国際環境で、「日本の周辺諸国は、安保や国力についての考え方が古い。武力頼みの国もある。」だから周辺国の考えを変えて国際ルールで紛争を解決するようにならなければ、と説く。

なるほどー、目から鱗でした。日本人はもっと日本という国に誇りを持つべきだ、と言外に言われているような気がした。ひょっとしたら日本は戦後、無意識に「ポスト近代」国家の最先端を突っ走ってきたのかもしれない。周辺国の考え方が古いのだ。確かにそうなのだが、それを変えるのは並大抵のことではない、がやっていくしかない。

クーパー氏は日本人を「本質的に製造業が得意な国民であり、そのデザイン、芸術感覚、創造力はすばらしいの一語に尽きる」と絶賛する。じつはクーパー氏のプライベートでのパートナーはなんとあのピアニストの内田光子さんなのだ。びっくりした。これにはびっくりした。モーツァルト弾かしたら世界中で右に出るものはいない、と絶賛されているあの内田光子だ。まぁそういうこともあって、日本人には甘いのかもしれないが、やはりもっと誇りを持つべきだろう。いい意味での誇りを。そんなに卑屈にならずに。もちろん日本人がこの世界で一番だー、という排他的なウルトラナショナリズムでもなく、適度な誇りを。

しかし日本に対する苦言もある。
「日本はEUに比べ、ルール作りが弱い。EUは国際標準やルールを次々と生み出し、米国をもしのぐ、国際規範作りの最先端地域である。これに対して、日本は米欧が作ったルールに追われるばかりだ。製造業の強さを生かすためにも、規範作りにもっと強くなる必要がある。」

そのためには強い政治家が必要だ。そして日米安全保障を維持しつつ(つまりアメリカの言うことを聞きつつ)、周辺国家に媚びずに考え方を変えさせていき、つまりアジアをリードしていき、欧州に見習って自ら国際規範を整備していく必要がある。それをやれてこそ、真にクーパー氏の言う「ポスト近代」国家になれるのだろう、と思うのだ。なかなか困難な道のりなのだけれど、その方向を見定めて、国民全員がその方向に舵を取るだけでもずいぶんと違うのではないだろうか。

沖縄問題もそういう観点から見ることも必要だと思う。また周辺諸国を納得させる謝罪ももちろん必要で、そのためなら皇室も動いていいのではないか、と思うのだ。

思うに、宮台真司氏の唱える日本重武装論は「近代」国家的で古い。国土を守るだけではなくて踏み込まれたら終わりなので、踏み込まれる前にこちらから攻めることの出来る体制を整えよ、これが日本重武装論だが、それこそ周辺国家の古い考え方に合わせているだけではないだろうか。もっと外部からの目を持って社会学者はものを言ってほしいものだ。クーパー氏のほうがよほど社会学者的である。井戸の中のかわず大海を知らず、である。

また日本がそういう方向へ進むことは世界全体もいい方向に向かうはずだ。クーパー氏の論説を読み、そう信じる自信だけは持てた。日本の外に立って客観的な観点から見て、

日本がんばれ!

なのである。世界から見て日本は相当必要とされている国なのだ。日本しか出来ないことがまだまだあると信じることが出来た論説だった。クーパーさんありがとう。日本人として自信が持てました。
多様性そのものが世界
世界は多様性に満ちている、とよく言うけれど、多様性そのものが世界なのではないか、と思うのだ。その多様性こそが世界そのものなのである。だからその多様性を受け入れていない、ということはこの世界を受け入れていないことになる。

しかしこれは大変難しいことで、この世界にはそれこそ無限に多様性があるからだ。様々な民族、文化、宗教、モノ、生物、それら無限の多様性を認識して受け入れることは、まず不可能なわけで。しかしこの世界には、自分には到底理解できない無限に多様な物事があるのだ、という認識ぐらいなら誰にでも出来る。そう認識するだけで、ずいぶんこの世界への向かい方が変わってくるだろう。まだまだ自分の知らないことがいくらでもこの世の中にはあるのだ、という謙虚な認識だ。これは簡単なようで、年齢が高くなると、頭が固くなり、自分の知らないこと認識したくないことはもうこの世界のことではないように思いがちだ。これはこんなことを言っている僕自身自戒せねばならないわけで。

でも最も難しい多様性は、自分と相反する多様性に対面した場合だろう。人は自分と利害を反する多様性に直面した場合、たいていの場合、うろたえ、絶望する。そして相手を拒絶してしまう。相手の存在を認めなくなる。それはたとえばパレスチナ問題だ。でもそれを解決不可能、と簡単に断じてはいけない。大変難しいことだ、とまず思うべきで。多様性そのものが世界なのだから、自分も世界の一部、相手も世界の一部なのだし。不可能だと思って拒絶するのではなく、この相反する多様性を受け入れることは大変難しいことなのだ、と認識するだけで、もう相手を半分受け入れているのである。相手も同じ思いなら、もう半分以上解決しているではないか。

多様性そのものが世界なのだから、その多様性がいくらでもあるのだと、いうこと、だっていくらでも多様性があることそのことが世界なのだから、このことを認識するだけで、ずいぶんと世界が違って見える。しかしそれは大変難しいことなのだということ、その難しさを認識することが一番大事なことのような気がするのだ。多様性そのものが世界なのだと認識し、その難しさを認識して初めて、一歩前に踏み出せるのである。世界が自身に開かれてくるのである。
アレグリのミゼレーレ
世に僕が知らない名作名曲はまだまだたくさんたくさんある。

たまたまFMを聴いていたら、あまりに美しい音楽に驚いてしまった。アレグリの「ミゼレーレ」という曲ということだ。初めて聞いた。無伴奏の合唱曲である。

youtube

調べたら、グレゴリオ・アレグリ(1582年―1652年)はルネンサンス期後期のローマ楽派の代表的作曲家で、この「ミゼレーレ」という曲が代表曲ということだ。音楽はバロックから始まったと思い込んでいただけに、世界はまだまだ奥が深く広いのだと思い知らされる。

この静謐で美しい教会音楽を当時のローマ教皇庁はその霊気を保たんがため、楽譜の複写を禁じた。それで長く楽譜が出版されなかったらしいが、1770年になって、当時14歳のモーツァルトが父親に連れられてローマを訪れた際これを2度聴いて記憶を元に記譜をし、その翌年、このモーツァルトの記譜をもとにイギリスで楽譜が始めて出版されたという作ったみたいな逸話もある。

場合によってはバロック以前の最高傑作らしいが、バロック、古典派、ロマン派、近代音楽、こそがクラシック音楽だと思い込んでいる耳には何か不思議と現代音楽のようにも聴こえる。従来知っている枠の外にあるからだろうか。
みんなロックで大人になった
NHKのシリーズもの「みんなロックで大人になった」の今日は第3回で「パンクロック」。

ラモーンズ、セックスピストルズ、パティスミス、ザ・クラッシュ。と続き、結局ちゃんと知っている曲はザ・クラッシュの「ロンドン・コーリング」のみだったが、血が騒いだ。僕も結局ロックで大人になったのだから。

全体に通じてあるのは、体制に対する反逆だ。キリストに対して、イギリス王室に対して、政府に対して、企業家に対して、それはこの世界を牛耳っているあらゆる威圧的な存在、権威、に対する、無意識の嫌悪だったろう。この1970年代のイギリスにおいて、あらゆる反逆精神はすべてそこにピントを合わせることができた。だからパンクロックが成り立ったのだ。

翻ってこの現代、若い人の反逆精神はどこにピントが合うだろうか。体制に反逆しても自分に跳ね返ってくる。だからピントはバラバラになるしかない。労働者のデモ行進一つとっても、精彩がないし、筋が通っていない。はては人種差別のデモ行進もあったりして、犯罪まがいのヘイト・スピーチがまかり通ったりする世の中だ。

だから反逆精神のある歌人や詩人やミュージシャンは攻撃目標を失い、フラットになり、無意識にノイズばかりを生産するのだろうか。彼らのとってノイズこそが唯一つのアイデンティティなのかもしれない。

あのパンクロック・ムーヴメントの先頭を疾走しながら突然自壊したセックスピストルズはその最後のステージで、ジョニー・ロットンが観客に向かい「やっとだまされていたのがわかったか、ばかやろう」とつぶやいてその幕を閉じた。後年彼は自分もだまされていたことに気がついた、と言っている。天に向かって唾を吐けば自分に返ってくるのである。今はそんな時代だ。セックスピストルズは何十年も先を行っていたのかもしれない。
西瓜の奈良漬
最初、ご飯と一緒に食べて、大変おいしかったのだけど、これはお酒にものすごく合うのでは、と思い、その日の晩、ビールのつまみに食べたらこれが激うま!それ以来、毎日これでビールを飲んでいて、あと少ししか残っていない。ああ、やみつきになる。これヤバイわ。なくなったらどうしよう。

ということで、本場奈良の老舗、森奈良漬店の西瓜の奈良漬です。西瓜と言っても、あの大きな西瓜ではなく、直径5cmぐらいの西瓜の赤ちゃんを奈良漬にしている。
森奈良漬店
これはなくなったらここで取り寄せるしかない。

これは単品で取り寄せ出来るんだけど、6年ほど前、「お江戸でござる」の杉浦日向子さんがテレビの「はなまるカフェ」でこの森奈良漬店のひょうたんの奈良漬を激賞されていて、でもこのひょうたんは単品では取り寄せ出来なさそうです。残念。詰め合わせで頼むしかないみたい。日本酒にものすごく合うとか。この西瓜も日本酒に合いそうです。ぜひ試さなきゃ。

ものすごくおいしいもの食べると、精神がどこか落ち着いたりする、という効果がきっとあるのだと思った。ほんと、しあわせな気分です。
みんな友達
精神障害者の幻聴や妄想を理解してもらうため、「幻聴妄想かるた」というのが作られ評判になっているらしい。抜粋を読んでみたらなかなか面白かったし、これは統合失調症などで苦しんでいる人を理解する上でいい試みだと僕は思うのですが。批判もあるようだけど。差別を助長するだけだとか。でもやっぱり善意の人の理解を深めることがまず第一だと思うのです。
Yahoo!ニュース

あ…「ありがとう幻聴さん ありがとう大野さん イライラする」
お…「弟を犬にしてしまった」
か…「過去から現在をながめる予言者となった」
こ…「コンビニに入るとみんな友達だった」
ち…「ちょっとだけ将来を考える 後頭部に違和感を感じる」
て…「テレパシーがやってきて 自分の望みがすべてかなった」
な…「なにかやっていないと聴こえてくる」
に…「にわとりになった弟と親父」
の…「脳のなかに機械がうめこまれ しっちゃかめっちゃかだ」
ほ…「星が人々だと思って叫んでいた」
ま…「毎日 金縛り状態」
ら…「ラジオから 自分のことがいわれている」
り…「理由もなくやってくる金属音キーン」


抜粋を読んだだけだけど、結構なんていうか面白い。もちろん幻聴や妄想がどういうことなのか理解するのに役立つんだけど、僕のように俳句や短歌をそれも自由律でやってきたものにとっては、無意識にそういう作品として読んでしまったりするわけで。中でも秀逸だと思ったのは

「コンビニに入るとみんな友達だった」

これは一読笑える。作成者サイドはユーモアを交えて作っていると言っているので、これは笑っていいと僕は思うのだ。強いプラスの妄想を持つとこう思うのは、なんとなくわかるし。ところが「幻聴妄想かるた」から切り離して一般の人が作ったとすれば、それは本当にコンビニに入ったら、偶然友人ばかりいた、ということになる。お互い、へー、偶然だねぇ、ということだ。これは全くありえないことではない。だがちっとも作品としては面白くない。
一方、もしトリッキーで難解な現代川柳の作品一覧の中にこの作品を入れれば、がらっとニュアンスが変わる。それはまるで現代の若者の孤独を逆説的に言っているような、たとえば、「みんな友達に見えるぐらい孤独なのだ」、とか、「だから友達なんかいないんだって」、とか、悪意をこめて「だからみんな友達なんだよ」と言っているとか、つい深読みしてしまう。形式も577で、現代川柳としては特別破調でもなく、かなり考えさせるシリアスな一句に仕上がっているような気がするのだ。コンビニという狭くて閉じた空間にいる見ず知らずの人たちがみんな友達だという虚構は、現代人の孤独の在り処がぱっと見えた気にさせる。

あと
「脳のなかに機械がうめこまれ しっちゃかめっちゃかだ」
「星が人々だと思って叫んでいた」
も現代川柳として深読みできそうである。いや、どれもそんな読みが可能な気がしてくる。

俳句や川柳というのは短いだけに様々な解釈を誘発してくるけど、この「幻聴妄想かるた」はやはりちゃんと作成者側の意図を酌んで読むべきなんだと思う。そしてちゃんと意図を酌んで読んでもわかるし、短詩形文学としても面白く読めた。このかるたがなんだかほしくなりました。
天動説と地動説
天動説とは大地は静止していて、空の星々が動いているとみなすこと。地動説は逆に大地のほうが動いているとみなすこと。今やもう地動説が当たり前だが、これには続きがある。この地球が動いて回っている太陽系も、じつは銀河系の中の渦の中で動いて回っているし、その銀河系も大宇宙の中で動いている。一切が静止していないのだ。何かが静止していないことには誰もが落ち着かないわけで、その意味で人は誰もが多かれ少なかれ天動説者だと言えないだろうか。どこかが静止していると無意識に思い込んでいるのだ。

経済のグローバリズムについてもこれは言えて経済も地動説だと重々わかりながら、政治家は国内経済のどこかが静止していると思い込む。あるいは思いたいのだろう。そう思わないことには何を基準に考えればいいのか途方にくれるだろうから。だからどの政治家も経済を見誤るのかもしれない。今の民主党政権もそうなのだと思う。

俳句や短歌においても、動かないものがあると、我々は思い込んでいるだけなのかもしれない。周りが動いているだけで、自分たちは永遠だと。永遠にこの詩形が続くのだと。本当は一切が静止していないはずなのに。

ベツレヘムに導かれても東方で妻らは餓える天動説者
Staring at the star of Bethlehem,she`s a starving stargazar!

中島裕介歌集『Starving Stargazer』


日本語は英語短歌のルビだということだ、翻訳ではなくて。ルビもまた一つの短歌になっていて、本文とお互い響きあう構成になっている。
人は誰もが「餓える天動説者」だと、どんなすばらしい思想に導かれても。こう読めないこともない。そして同時に短歌の旧態依然とした在り様を、この歌集巻頭の一首で暗に批判しているのだろうか。

短歌の大地は動いているか。短歌にはまだコペルニクスは現れていない。
12月5日東京で、この歌集の批評会が行われる。
南港にて
きっと女から別れ話を持ち出され、かっと切れて、殺ってしまったのだろう。それだけの話なら、太古の昔からよくある話で、人間に男と女がいる限りこれからも起こり続けていく単なる痴話げんかの果ての殺人であり、とりわけニュースバリューがあるわけではないはずなのだが、いろいろと枝葉がついた。まず相手の女性が白人だったこと。そして現場から2年半も逃走していたこと。挙句の果ては整形で顔を変えて、ちゃんとまじめに働いていたこと。ニュースバリューというものはその事件の本質にあるのではなく、その枝葉のほうにあるのだ、と思い知らされた。この男もすぐ捕まっていたら、こんな大きなニュースにはならずに、お互いのご両親をこんなにまで悲しませずにはすんだかもしれないのに。世間とは酷薄である。

そして個人的には、この間まで南港に住んでいたものとしては、捕まった場所にまた、ニュースバリューがあった。南港フェリーターミナルの待合室は、二度ほど散歩がてら行ったことがあるだけで、あまり記憶はないのだけど、なんとなく覚えてはいた。最初に犯人が護送された住之江署は、引越しの際に車の通行許可証をもらうべく何度も行ったなじみのところである。妙に懐かしかった。

フェリーターミナルや住之江署とは少し場所がずれるが、僕が住んでいた、南港ポートタウンはとても住みよいところ。許可証がないと車は入れないので車はほとんど走ってなく、海に囲まれているので大阪市内だというのに、空気がとってもきれい。埋立島だといのに、緑が豊かで、新緑のシーズンに散歩するのがいつも楽しみだった。今頃は様々な広葉樹林が様々な色に色づき、目を楽しませてくれる、なかなか得がたいところだ。海辺に行くと海鳥がやってきいて、夏はコアジサシ、海鵜、冬はユリカモメやカモメあるいは鴨が見られる。南港野鳥園、というのもあるがあそこはなぜだかほとんど野鳥は来ない。普通に海辺に行けばいくらでも見られる。野鳥も自然な状態が好きなのだ。南港は今度の事件で日本中の耳目を集め評判を落としたかもしれないので、とりあえず書いておいた。これから大阪に住みたい、という人にはぜひお勧めです。公団は結構家賃安いしね。