自立は、依存先を増やすこと、希望は、絶望を分かち合うこと
TOKYO人権 第56号 自立は、依存先を増やすこと、希望は、絶望を分かち合うこと

素晴らしい。
この人自体が素晴らしいし、この人の言うことがとんでもなく普遍的で素晴らしいです。感動しました。
依存先を増やすことと絶望を分かち合うこと。この二つは障碍者だけでなく、誰でも共有できる大切な世界の摂理。

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北の湖
僕が中学2年の時、その年の大阪場所前、相撲キチガイの友人と一緒に銭湯に入って並んで体を洗っていたら、友人が興奮して僕の右側から囁くのだ。
「きっ、きっ、北の湖や!」
僕の左側に座っているのが、当時最年少か何かで幕の内に入ったばかりの北の湖関だったのだ。真っ白な巨体だったように覚えている。僕はその価値がわからなかったので、ふ~ん、とか言ってただけだと思う。確かその大阪場所、13勝ぐらいしたように記憶している。友人の炯眼に場所が終わってから畏怖したものだ。

三保ヶ関部屋の宿舎がすぐ近くだったので、稽古帰りの北の湖とよくすれ違った。いつも上半身裸でふうふういいながら巨体を揺らして帰ってくるのだ。稽古熱心だな、とよく思っていた。あの大横綱が付き人もつけずにいつも一人だった。

僕の母は買い物の行く途中でよくすれ違うことがあって、帰ってくるなり、「また北の湖とおうたで」と飽き飽きしたとでも言わんばかりに言ってた。たぶん100回は会ってるだろう。

そんなこんなで馴染みだったので応援してた。母も応援してた。強すぎて嫌われていたので、僕も母も逆に判官贔屓っぽいのりで応援したものだ。

早すぎましたね、62歳とは。ご冥福をお祈りします。
デマは公職選挙法に抵触?
大阪ダブル選挙で橋下市長の暴言とデマがヒドい!

選挙に勝つための意図的なデマは、あまりにひどいと公職選挙法に抵触するのではないのかな。 だから選挙で受かっても無駄?
精神病質的嘘つきとは
「橋下氏は『病気』である」は名誉毀損…新潮記事に賠償命令 大阪地裁

 精神科医が書いたから問題だったのかもしれないけど、ドイツのメルケル首相のように、「罵倒されることも政治家の仕事」ぐらいの度量で政治家をやってほしいものだ。

人間だれしも何がしかの精神病質じゃないか、という気もするし。

高校時代のエピソードをもとに
「うそを平気で言う。ばれても恥じない」
と演技性人格障害だと専門家は評した。
つまり精神病質的嘘つきなのだと。

普通に、嘘つきだ、と書いておけば別に名誉棄損じゃなかったんだが。

人間だれしも少々の嘘はつくが、平気では嘘をつかないし、嘘をつくことそのものに恥じるのが普通の人間。つまり、ばれなくても恥じるものだ。
しかしこの男は確かに「うそを平気で言うし、ばれても恥じない」

言われなくても、この男がただの嘘つきではない、ということを我々大阪民はよ~く知っている。
いったい何度、大阪民はこの男に振り回されてきたことか。
何度この男が嘘をついても、どんな重大な嘘をついても選挙には受かるのだから、始末に負えない。これからもそうだろう。
これから日本国民がそして世界中がこの男の平気な嘘に振り回されるのだろう。日本で通じても世界では通じないのだということをわかってても嘘をつくんだろうな。

僕は精神科医じゃないから言ってもかまわない。
この男は「うそを平気で言うし、ばれても恥じない」

反知性主義
東浩紀氏のツイッターより

反知性主義には2つあって、「歴史なんて学びたくない、直観でモノ言うぜ」が反知性的主義なのは言うまでもないけど、「おれの学問が絶対、同じ語彙で話さないやつは無知」と条件反射的に返すのも反知性主義であって、本当の知性は、なぜここで言葉がすれ違うのか考えるものだと思います。


歴史を科学だと思ってないのはもちろん反知性主義の代表だろうけど、自分の考え方思想信条がこの世界の絶対正義、だと思ってそれを周囲に押し付けるのも、同じレベルの反知性主義だよなぁ。
こういう人、僕の周りにも多いわ。決して悪い人じゃないんだけどね。人はいいんだけど、人にはいろんな考え方あるのをわかってないし、世界が多様性に満ちている、ということもまるでわかってない。こういう人と話してると疲れるし、酔ってると、十中八九喧嘩になる。だからなるべく話さないようにしている。
韓国船沈没事故

船焼捨てし
船長は

泳ぐかな

高柳重信




これがすべてなんだろうけど、しかし、素人だから思うんだろうけど、もっとうまくやれなかったんだろうか。とにかくやりきれない。「史上最大の作戦」が始まろうとしている。なんとかならないか。たとえ一人でも・・・
コロッケ屋
閉店間際のコロッケ屋に並んでいた。ここは人気店で自分の後ろにはまだかなりの列。すると前の人がコロッケを6個注文した。店のおばさんが「ごめんな、まだようけ並んでるよって、3個にしといて、一つサービスしとくから。」
だいたい妻はいつもコロッケは3~4個買う程度だ。このとき妻はあることを思った。妻の番が来た。妻はおばさんに「6個ください」と言ったのだ。言うんだこの人は、ほんとに言うんだから。そしたらおばさんは妻の予想した通り「ごめんな、まだようけ並んでるよって、3個にしといて、一つサービスしとくから。」と全く同じことを言ったのだ。

ということで今日の夕食のメイン・ディッシュは4個のコロッケ。妻からコロッケ屋でのいきさつを聞きながら、これらを二人で平らげた。そして妻はコロッケ3個分の代金で4個買えたことにとても満足だったのだ。

妻とはこういう人だ。
でも今日の夕食は笑い声がたえず和やかだった。
これでいいんだろうと思う。
極右政治家としてのセンスの問題か
橋下氏発言「大迷惑」 石原共同代表が批判 - 中国新聞

日本維新の会の石原慎太郎共同代表は18日、共同通信のインタビューで、共同代表の橋下徹大阪市長による従軍慰安婦発言が党勢低迷を招いたことについて「大迷惑だ」と批判した。参院選の結果次第では、橋下氏の進退判断もあり得るとの認識を示した。橋下氏を擁護してきた石原氏が厳しい姿勢に転じたことで、日本維新の混乱が拡大する可能性もある。

 石原氏は、橋下氏の責任をめぐり「(参院選の)結果を見て、その素因をつくった橋下氏がどう理解するかの問題だ」と指摘した。

 橋下氏は慰安婦発言をめぐり「日本も悪かったが、世界各国も過去を見てほしいと訴えたかった」と釈明しているが、石原氏は「言わなくてもいいことを言って、タブーに触れたわけだから、いまさら強弁してもしょうがない」と述べた。

 橋下氏によるオスプレイ一部訓練の八尾空港(大阪府八尾市)受け入れ提案については「無理だ。防衛省は笑っている。行政を知らないから、ああいうとんちんかんなことになる」と強調。橋下氏とは「歴史観が基本的に違う」とも語った。



石原の方がもっとひどいこと言ってるのにお前が言う権利ないだろうが。でも石原の方が政治家としてのセンスがあるのかも。極右政治家としてのセンスが。

いくら石原でも米軍に買春を進めることを公では言わなかっただろうな。飲み屋では言っても。

橋下氏とは「歴史観が基本的に違う」というのは、石原の方がもっと右寄りということなんだけど。自分の方がもっとひどい、ということを、自分の方がまし、と言ってるところが笑える。

要はやっぱり政治家としての経験とセンスの問題なのでしょう。

とりあえずこれで維新は分裂して消滅するだろう。やれやれだ。
最近特に興味あること
なんと、2か月もブログを更新していない。
これはまずい。

なんせ、mixiにFaceBookにTwitterにと、あちこちに書いているから、ブログにまで目が行き届かない。

でもなにか書かないと。
で、最近特に興味あることを書こうと思う。

写真―ルイス・ボルツ(Lewis Baltz、アメリカ、1945年~)
音楽―アルヴォ・ペルト(Arvo Pärt、エストニア、1935年~)
文学―フランツ・カフカ(Franz Kafka、チェコ、1883年 - 1924年)

カフカはだれでも知っているから省略するとして、ルイス・ボルツなんか誰も知らない。写真の世界では相当影響力のある人なんだけど。こんな写真を撮っている。
Red List - Baltz, Lewis

建物を真正面から撮ったりとか、ゴミ集積場や廃屋を撮ったりする。エイトバイテンという大型カメラで。徹底的に精細にリアルに取るのだ。究極のリアリズム。そしてミニマリズム。

アルヴォ・ペルトは祈るような静謐な音楽。現代音楽にしては聴きやすい。シンプルな旋律の繰り返しが多い。これもやはりミニマリズム的。
Arvo Pärt "Für Alina"

最近はミニマリズムとマジック・リアリズムに特に興味があるみたいだ。
時代が変わっても変わらない普遍的なもの。内奥へ簡単にすっと入っていけるもの。それでいつまでたっても新鮮なもの。そういったものを直感的にこれからも感じ取っていきたい。
多様性そのものが世界
世界は多様性に満ちている、とよく言うけれど、多様性そのものが世界なのではないか、と思うのだ。その多様性こそが世界そのものなのである。だからその多様性を受け入れていない、ということはこの世界を受け入れていないことになる。

しかしこれは大変難しいことで、この世界にはそれこそ無限に多様性があるからだ。様々な民族、文化、宗教、モノ、生物、それら無限の多様性を認識して受け入れることは、まず不可能なわけで。しかしこの世界には、自分には到底理解できない無限に多様な物事があるのだ、という認識ぐらいなら誰にでも出来る。そう認識するだけで、ずいぶんこの世界への向かい方が変わってくるだろう。まだまだ自分の知らないことがいくらでもこの世の中にはあるのだ、という謙虚な認識だ。これは簡単なようで、年齢が高くなると、頭が固くなり、自分の知らないこと認識したくないことはもうこの世界のことではないように思いがちだ。これはこんなことを言っている僕自身自戒せねばならないわけで。

でも最も難しい多様性は、自分と相反する多様性に対面した場合だろう。人は自分と利害を反する多様性に直面した場合、たいていの場合、うろたえ、絶望する。そして相手を拒絶してしまう。相手の存在を認めなくなる。それはたとえばパレスチナ問題だ。でもそれを解決不可能、と簡単に断じてはいけない。大変難しいことだ、とまず思うべきで。多様性そのものが世界なのだから、自分も世界の一部、相手も世界の一部なのだし。不可能だと思って拒絶するのではなく、この相反する多様性を受け入れることは大変難しいことなのだ、と認識するだけで、もう相手を半分受け入れているのである。相手も同じ思いなら、もう半分以上解決しているではないか。

多様性そのものが世界なのだから、その多様性がいくらでもあるのだと、いうこと、だっていくらでも多様性があることそのことが世界なのだから、このことを認識するだけで、ずいぶんと世界が違って見える。しかしそれは大変難しいことなのだということ、その難しさを認識することが一番大事なことのような気がするのだ。多様性そのものが世界なのだと認識し、その難しさを認識して初めて、一歩前に踏み出せるのである。世界が自身に開かれてくるのである。