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川柳の句集批評会
東京の未来60周年記念大会、絶対行きたかったんだけど、東京はなかなか無理。で、昨日、神戸三宮のメランジュ(詩の合評会)に行こうと思ったけど行かずに、大阪上本町の川柳の句集批評会に行ってきた。近いという理由で。いやもちろん昔お世話になった俳句川柳の方たちに久しぶり会うのが目的なんだけど、なんせ歩いて10分。実家が引っ越す前、上本町に住んでいて、上本町界隈は僕の遊び場だった。高校の時よくパチンコ行ってた。引っ越してからも地下鉄一駅分のところなので近い。

渡辺隆夫さんの第5句集『魚命魚辞』と小池正博さんの第一句集『水牛の余波』の合同句集批評会。小池さんは先にセレクションが出ていたので、実質第2句集なのだが、本人はこれが第一句集なんだそうだ。つまりセカンドバージン。隆夫さんがそう言ってた。たしかに。

『魚命魚辞』パネラーが吉澤久良さん、小池正博さん、野口裕さん。司会が堺利彦さん。
『水牛の余波』パネラーが湊圭史さん、渡辺隆夫さん、彦坂美喜子さん。司会が樋口由紀子さん。

秋は奈良仁王つれ出しウンコもさせ    渡辺隆夫『魚命魚辞』
亀鳴くと鳴かぬ亀来て取り囲む
原子力銭湯へ行っておいでバカボン
ウンコなテポドン便器なニッポン

渡辺さんのは第一句集が衝撃的だったので、どうしてもそっちと比べたりして、インパクトが弱く、概ね厳しい批評だった。しかし挙げた句のように世情や政治を強く穿つ独特の精神は健在だ。石部明さんが模倣者がいない、と言っておられたが、なるほどと思う。とことん下品でこの強い穿ちの精神は誰にも真似できないのだろう。

水牛の余波かきわけて逢いにゆく        小池正博『水牛の余波』
黄昏のふくろう パセリほどの軽蔑
内臓を見せあっている県境
鴉声だね美声だね火星だね        
調律は飛鳥時代にすみました         
コミックかギミックなのか蝉しぐれ
カモメ笑ってもっともっと鴎外

小池さんのは打って変わって知性派の詩性川柳。誰もが読み解くのに難儀するのだ。しかし湊圭史さんのウェブが当会でも紹介され、
小池正博『水牛の余波』、渡辺隆夫『川柳 魚命魚辞』(s/c)

つまり、「難解」という見方とは逆に、『水牛の余波』の句ではすべてがあっけらかんと句の表面に投げ出されているのであって、「解くのが難しい」というところの「解く」べき謎がそもそも欠けているのである。


でなんとなく皆さん納得。あと湊圭史さんの言う「アレゴリー・隠喩の拒否」つまり言いなおすと「メタファーの拒絶」になると思うがこれが僕には大納得だった。これは現代川柳だけでなく、現代短歌でも「修辞の武装解除」に表れているとも言えるし、最近の現代詩の修辞の破壊、というか、やっぱりこれも「メタファーの拒絶」なのではないだろうか。懇親会で湊さんをつかまえ、ここらあたりを聞いてみたのだがあまりのって来なかった。メタファーが成り立つためにはその背景となる社会がしっかりした価値軸を持っていないと成り立たないのだろうと思うのだが。だから今は価値軸が失われていて、価値軸を対象として初めて成り立つメタファーが成り立たなくなってきている。だから詩人はメタファーそのものを胡散臭い、と感じているのでは、とそんなことを勝手に思った。湊さんの一言でここ何年も考えてきた問題に筋道が立ったような気がした。するっと謎が解けたような気がしたのだ。

小池さんが飲みつぶれる前につかまえて、小池さんの作品は詩か俳句か川柳かギリギリのところを狙っていて、最後に川柳の側に落としているのでは、と聞いたが、ジャンル論はちょっと違うのでは、とたしなめられた。確かにジャンル論に持っていくのは安易だ。僕の悪い癖である。

真面目な批評会、ちょっと真面目な懇親会、は終わり8時ぐらいから居酒屋で3次会。結局4次会のカラオケまで付き合って帰ったのが午前1時だったか。帰りは歩いて10分なんで楽。大変楽しかったです。ありがとうございました。現代川柳は今大変刺激的だというのがわかった。また上本町で川柳の会があったら行きますので、よろしく。
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みんな友達
精神障害者の幻聴や妄想を理解してもらうため、「幻聴妄想かるた」というのが作られ評判になっているらしい。抜粋を読んでみたらなかなか面白かったし、これは統合失調症などで苦しんでいる人を理解する上でいい試みだと僕は思うのですが。批判もあるようだけど。差別を助長するだけだとか。でもやっぱり善意の人の理解を深めることがまず第一だと思うのです。
Yahoo!ニュース

あ…「ありがとう幻聴さん ありがとう大野さん イライラする」
お…「弟を犬にしてしまった」
か…「過去から現在をながめる予言者となった」
こ…「コンビニに入るとみんな友達だった」
ち…「ちょっとだけ将来を考える 後頭部に違和感を感じる」
て…「テレパシーがやってきて 自分の望みがすべてかなった」
な…「なにかやっていないと聴こえてくる」
に…「にわとりになった弟と親父」
の…「脳のなかに機械がうめこまれ しっちゃかめっちゃかだ」
ほ…「星が人々だと思って叫んでいた」
ま…「毎日 金縛り状態」
ら…「ラジオから 自分のことがいわれている」
り…「理由もなくやってくる金属音キーン」


抜粋を読んだだけだけど、結構なんていうか面白い。もちろん幻聴や妄想がどういうことなのか理解するのに役立つんだけど、僕のように俳句や短歌をそれも自由律でやってきたものにとっては、無意識にそういう作品として読んでしまったりするわけで。中でも秀逸だと思ったのは

「コンビニに入るとみんな友達だった」

これは一読笑える。作成者サイドはユーモアを交えて作っていると言っているので、これは笑っていいと僕は思うのだ。強いプラスの妄想を持つとこう思うのは、なんとなくわかるし。ところが「幻聴妄想かるた」から切り離して一般の人が作ったとすれば、それは本当にコンビニに入ったら、偶然友人ばかりいた、ということになる。お互い、へー、偶然だねぇ、ということだ。これは全くありえないことではない。だがちっとも作品としては面白くない。
一方、もしトリッキーで難解な現代川柳の作品一覧の中にこの作品を入れれば、がらっとニュアンスが変わる。それはまるで現代の若者の孤独を逆説的に言っているような、たとえば、「みんな友達に見えるぐらい孤独なのだ」、とか、「だから友達なんかいないんだって」、とか、悪意をこめて「だからみんな友達なんだよ」と言っているとか、つい深読みしてしまう。形式も577で、現代川柳としては特別破調でもなく、かなり考えさせるシリアスな一句に仕上がっているような気がするのだ。コンビニという狭くて閉じた空間にいる見ず知らずの人たちがみんな友達だという虚構は、現代人の孤独の在り処がぱっと見えた気にさせる。

あと
「脳のなかに機械がうめこまれ しっちゃかめっちゃかだ」
「星が人々だと思って叫んでいた」
も現代川柳として深読みできそうである。いや、どれもそんな読みが可能な気がしてくる。

俳句や川柳というのは短いだけに様々な解釈を誘発してくるけど、この「幻聴妄想かるた」はやはりちゃんと作成者側の意図を酌んで読むべきなんだと思う。そしてちゃんと意図を酌んで読んでもわかるし、短詩形文学としても面白く読めた。このかるたがなんだかほしくなりました。
笹井宏之・白鳥の歌
未来・4月号が笹井宏之さんの最後の歌稿。その10首から1首。

水鳥をうみつづけてもしあわせになれないことを知っていて、産む



そういうことなんだ。そういう人生が逆に一番しあわせなような気がしてくる。なにかを産みつづけるということが。


またまた自己責任(その2)
 昨日の続きである。昨日の作者不詳の川柳だが、どうも文学というのは誤解されやすいところがあるような気がしてならない。

貧しさは貧しい奴の自己責任

短詩系文学に日ごろ接しておられる方はなんでもないだろうが、そうでない方にはどうも誤解を招きそうな気がして不安になった。この句には反語的表現がちょうど半分含まれている。意味としては字義通り「この自由競争社会において、その人の貧しさは、その人の自己責任であって、社会に責任は無い」という意味になる。これは一面真理である。だから後の半分はこの真理にある。そしてこの強烈な真理を読み手に提示して、もう半分で「これでいいのか」とぐいぐい読み手に迫ってくるのだ。読み手は、本当にそうなのか、そうじゃないのか、考えざるを得ない。本当にそうならどうすればいいのか、ここまで考えさせれ力をこの句に感じる。それは真理と反語がちょうど半分づつだからだ。ちょうど半分づつでお互いが引き合う緊張感が持続し、その緊張感が正に今の時勢にみごとにシンクロしてくるのだ。僕がこの句を傑作だと言ったのはこの点にある。おそらくこの句は無名の人のサラリーマン川柳だろうが、プロの現代川柳作家にも全く引けをとらない、或いはそれを凌駕すらしている気がする。

 もう一度、昨日の僕の文章から引用する。

被災地の救援対応を担当する米連邦緊急事態管理局(FEMA)のマイケル・ブラウン長官は、「避難命令は出したんだから、(自分の意思で)残った住民は自己責任を自覚すべきだ」とCNNテレビで発言した、ということだ。


つまり貧しさゆえにどうやっても逃げられなかった人たちは、その貧しさがその人の自己責任だということにどうしてもなってくる。この発言を実際にそういう人たちが聞いたらどう思うだろうか。今度また避難勧告が出たら、車を持っている人をぶっ殺してでも、車を奪い逃げようと思うだろう。そしてこの行為は今回のこの長官の発言によって正当化されるのである。こうなれば社会は完全に崩壊したも同然だ。個人と社会の関係が全く成り立たなくなる。もちろんこの長官はクビになったが、この発言は彼独自の考えでは決してなく、「貧しさは貧しい奴の自己責任」が大前提のアメリカという国家が思わず彼に言わせただけに過ぎない。謂わばこれがアメリカの本音なのだ。

 民主社会以前の階級社会ならいざ知らず、民主主義をくぐり抜けてきたこの現代において、国家が国民をその経済状態で区別するようになったら、それはもう民主主義の終焉と言ってもいいだろう。或いはそれは民主主義の発展途上に必ず待ち受けている大きな壁に過ぎないのだろうか。そうならば我々はその壁をどうやって乗り越えるのだろうか。
 郵政民営化を掲げた小泉自民党を圧倒的に支持した我々日本も、その壁に向かって突き進んでいることはどうも間違いないようだ。
またまた自己責任
 ハリケーンの被害がまだまだ治まりそうにない。あらゆるアメリカの病巣がこれで抉り出されている感がある。そのなかで去年の日本を思い出したものがあった。またぞろ「自己責任」騒ぎでなのである。
 被災地の救援対応を担当する米連邦緊急事態管理局(FEMA)のマイケル・ブラウン長官は、「避難命令は出したんだから、(自分の意思で)残った住民は自己責任を自覚すべきだ」とCNNテレビで発言した、ということだ。
 今まで聞いた「自己責任」でおそらく一番ひどいものだろう。耳を疑う。議論にもならない次元の低さだ。でも無理やり議論に持っていく。
 すべての人に自分の命を守る「自己責任」は当然あるわけで、それを放棄することは確かに自殺行為である。だがこの場合逃げようにも逃げれなかった人が大多数だろう。その場合にも自己責任を押し付けるのは

貧しさは貧しい奴の自己責任

という路上日記@天六さんのブログに載っていた作者不明のこの傑作川柳の世界になる。(ちなみにこの川柳は反語がちょうど半分混ざっているという点で傑作だと思うのだ)
たとえ搾取することが正当化された社会(たとえばアメリカのような)においても、寅さんじゃないが「これを言っちゃあ終しめぇ」である。おのおのがスーパーマンであるはずもなく、自己責任の枠の中でできることとできないことが誰しもある。それはそれぞれの人で様々に違っていよう。それは一人一人が能力、個性が違うからだ。その自己責任でできないことがあるから社会が必要なのである。その社会の側が「自己責任」を伝家の宝刀のように使っていたのでは、その社会の信用に関わってくるだろう。確かに市民の側も社会に頼ってばかりではいけない。なんでも政府のせいにする人々がいるが、まず自分でできることがあるだろう、と僕はいつも思うのだ。こういう人たちにはこの社会の構成要員が自分たち一人一人だという意識がない。まずお上が在って、自分たちは守ってもらわないと、と常に思っている節がある。お上とは実は自分たちなのである。
 理想的な社会とはおそらく、市民一人一人が自己責任を自覚し、また社会の側は個々の自己責任を把握して、何かこちらにできることはないか、と常に見守るような社会ではないだろうか。お互いがお互いを信頼し合える社会。こんな社会ではおそらく「自己責任」という言葉すらないだろう。こういう言葉が出てくる社会こそ、個人と社会の関係がうまくいっていない社会に違いないはずだ。
癒しの構造
スピッツの「涙がキラリ☆」という曲がここ2、3日頭から離れない。それであらためてCDで聴いてみた。

 目覚めてすぐのコウモリが 飛びはじめる夕暮れに
 バレないように連れ出すから カギはあけておいてよ
 君の記憶の片隅に居座ることを 今決めたから
 弱気なままのまなざしで 夜が明けるまで見つめているよ
 同じ涙がキラリ 俺が天使だったなら
 星を待っている二人 せつなさにキュッとなる
 心と心をつないでいる かすかな光

5行目「俺が天使だったなら」が頭の中ではずっと「君が天使だったなら」と鳴っていた。「俺」ならいいのである。「君が天使だったなら」とはまた情けない男の歌だなぁ、と辟易していたのだ。

いつぐらいからだろうか、〈天使〉という言葉あるいは概念が溢れるように流布しだしたのは。映画『ベルリン天使の詩』からだろうか。〈天使〉とは本来キリスト教に出てくるもので、無宗教の日本人には全く関係がない。〈クリスマス〉も一緒で、関係がなくても口当たりのいいもの、なんだか安易にキレイなものは日本人の間では急激に普及するらしい。これも我らが民族性である。
では日本人にとって〈天使〉とは何なのか。それは結局〈癒し〉ではないだろうか。〈癒し〉という概念をこの〈天使〉一語で象徴してしまっている。とにかく癒してほしいわけである。日本人はいつの頃からか他から癒してほしくて仕方がなくなったのだろう。川柳作家の石田柊馬さんが以前、川柳誌『コン・ティキ』に〈癒しは卑しいことだ〉というふうなことを書いていた。この時日本中が〈癒し〉の大ブームだったように記憶している。〈癒し〉とは他から慰めを乞うことである。確かに卑しい。それは誰でもどんなに強い人間でもある程度の〈癒し〉は必要だろう。しかし常に癒されていないと落ち着かないようなこの現代をどう考えればいいのか。たとえば旅行など部屋が汚れていたりとか、接客態度に問題があったとか、で予定通り癒されないことがあったときに客が憤慨してひょっとしたら損害賠償にまで発展しかねない。〈癒し〉に少しでもヒビが入るともうだめなのだ。〈癒し〉が溢れすぎて、まるで女王様のように君臨するのがこの現代なのだろうか。

石田柊馬さんはまた自身の川柳でもこの問題を違った角度から攻めている。

 釘打って天使をぶらさげておく   石田柊馬

 杉並区の杉へ天使降りなさい     〃

1句目はこの〈癒し〉の象徴である〈天使〉に相当悪意を込め、時代を宙ぶらりんに吊るしたままにしている。2句目は難解だが、〈杉並区の杉〉と言うことで〈杉並区〉という地名を無化し同時に〈天使〉も無化することに成功している。これも天使的な概念を葬り去ろうとする悪意であり、同時に〈癒し〉の洪水に溺れかかっているこの現代に対する痛烈な侮蔑でもある。

 いや死だよぼくたちの手に渡されたものはたしかに癒しではなく  中澤系

この短歌はおそらく中澤系27歳、1997年の時の作品である。もうすでに〈癒し〉が何者かを見抜いている。もちろん〈いや死〉と〈癒し〉は駄洒落だが、これほどシリアスで引き締まった駄洒落をいまだかつて僕は知らない。この駄洒落は決して安易ではなく、かえってこの短歌の韻律をシャープで且つヘヴィなものに仕上げることに成功している。これを歌人の才能と呼ぶのだろう。自分の詩性を短歌という定型に押し込めることによって溢れるほどの才能を制御しているのだ。そういう場合にのみ韻律というものは引き締まるのだろう。〈癒し〉を〈死〉と提示することで世界が反転する。その反転した世界で僕らはいま息をしている。そして1997年と違って2005年の今、もう誰もがこの世界は反転したほうの世界だとうすうすは感づいているはずだ。

「俺が天使だったなら」と聴く女性はうっとりと癒され、男は、そうだ自分が癒すんだと気づき、気づくことで癒される。人を癒すことによってまた自分が癒されるのだ。癒されることと癒すこと、この需要と供給のバランスが崩れてしまうことが僕は恐ろしい。それはもう始まっているのかもしれないが。


セレクション人(2) 石田柊馬集 [邑書林]
中澤系第一歌集「uta0001.txt」[雁書館]
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