エヴァンゲリオン第弐拾六話
中断していたエヴァの最後の2話をやっと見た。
一般聴衆を無視した庵野秀明のやり方に驚いたし、わけがわからないところも多かった。これから劇場版も見ないと納得がいかないが、第弐拾六話(最終話)での主人公シンジの葛藤には考えさせられた。

碇シンジ:僕は僕が嫌いだ。でも僕は僕でいたい。

誰だって自分は嫌いなのだ。でも自分は自分で在りたい、と痛切に願う。そのことに思い至らされた。そう願う限り、人は自ら命を絶つことはおそらくないだろう。たとえ自分をどんなに嫌いでも。
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Stand Alone Complex
前エントリーの続きである。
映画版『攻殻機動隊』に飽き足らず、TV版『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX』まで見た。26話全部見た。要するに嵌まったのである。
もちろん映画版に比べてアニメの質はかなり落ちる。これは仕方ない。また映画版がその作品世界を描くことに心骨砕いていたが、TV版はキャラクターの内面を描くことを割合とやっている。これも仕方ない。お茶の間で流れるのだから、口当たりのよいキャラクターが望まれる。しかし全部見終わって、その作品世界は映画版に匹敵するかあるいは凌駕しているかも知れない、と気がついた。異色のキャラ「笑い男」の存在が全篇を覆っていることにもよるだろうが、ここではそれについては言わない。ここでは副題にもなっている〈Stand Alone Complex〉という言葉について考えてみたい。かなりの多義性を感じさせてくれるからだ。その前にこの物語の概略を、参考までにあるサイトからそのまま引用する。

西暦2030年――あらゆるネットが眼根を巡らせ、光や電子となった意思をある一方向に向かわせたとしても“孤人”が複合体としての“個”になるほどには情報化されていない時代……。
情報ネットワーク化が加速度的に進展し、犯罪が複雑化の一途を遂げる社会的混乱の中、事前に犯罪の芽を探し出し、これを除去する攻性の組織が設立された。内務省直属の独立部隊公安9課、通称「攻殻機動隊」である。
公安9課の役割は、深刻な電脳犯罪への対処、国内における要人の援護、政治家の汚職摘発、凶悪殺人の捜査から極秘裏の暗殺まで、多岐に渡っている。彼らは電脳戦を最も得意としつつ、高性能義体を生かした物理的な戦闘においても特筆すべき能力を発揮する、精鋭部隊である。


ようするに手に汗にぎる、近未来ポリスアクションである。彼ら攻殻機動隊の隊員はほとんどが完全サイボーグ化、電脳化されてはいるが、なかには生身の人間もいて、サイボーグとは何なのか人間とは何なのかネットとは何なのか、と常に問いつつ、真の人間性とは何なのかということを逆照射してくる仕掛けだ。これは映画版からの統一した思想だろう。だがTV版ではもう一つ、組織とは、社会とは何なのか、ということも問うてくる。それが〈Stand Alone Complex〉という副題に集約されているのでは、と思うのだ。

〈Stand Alone Complex〉には様々なとり方があるようだ。僕は英語はあまり得意ではないが、英語というのはどんな場合も単純に上から読み下せばいい。まず〈Complex〉は複合体という意味で、劣等感という意味は本来無い。あれは日本語の〈コンプレックス〉だろう。〈inferiority complex〉ではじめて劣等感になる。だから〈Stand Alone Complex〉は〈Stand Alone〉つまり〈独立して機能している個〉の〈複合体〉になるだろう。つまりこの社会そのものを最も簡潔に説明しているに過ぎない。意味そのものは単純である。

意味は〈独立した個の複合体〉だが、とり方はいろいろある。
まずこのアニメに即して見ていく。
第何話だったか忘れたが、公安9課の荒巻課長が部下である攻殻機動隊の隊員に訓示みたいな形でこう言う場面があった。

「我々の間にチームプレイなどという都合の良い言い訳は存在せん。あるとすればスタンドプレーから生じるチームワークだけだ」

最も活性化した理想の組織がこうなのだろうか。組織に依存しない完全に独立した〈個〉の集合体である組織。このセリフ自体が〈Stand Alone Complex〉をよく説明していると思う。

また最終話では、笑い男と草薙素子の会話で、一連の「笑い男事件」のことを草薙は〈Stand Alone Complex〉だと説明する。つまりそれぞれの事件は全く別人が個別に起こしていたにもかかわらず、全体が連なった一つに事件のようになっていた、ということだ。(このことはこのアニメを見た人にしかわからないだろうけど。)

次にこのアニメから離れて見てみる。
〈Stand Alone〉というのはその〈個〉だけで完全に独立して機能している、という意味合いだろう。それが複合体となって、別に機能するわけだ。そういったことは世の中たくさんある。多義性というよりは普遍性が高いと言うべきか。

卑近なところではW杯サッカー。欧州や南米の強豪国を見ていると。まず〈Stand Alone〉の能力が極めて高いことが誰にでも見てとれる。それでいて監督コーチを含めて、どれだけ質の高い〈Complex〉を作り上げることができるか。その両方にかかっている。日本はまず〈Stand Alone〉の能力が低い。これは仕方がない。欧州や南米はもうおそらく100年ぐらいはサッカーばかりやってきたのである。一方、日本の子供たちの遊びの定番が野球からサッカーに変わったのはここ最近10年ぐらいだろうか。全く歴史が違う。何か日本人は勘違いしてたのではないか。日韓W杯で決勝トーナメントに進出したがあれはもちろん地の利である。メジャーリーグでイチローなどが大活躍するのは、もちろん日本における野球の伝統がなせる業だ。もう野球は本場アメリカのベースボールにまったく引けをとらない時間と労力を充分にかけ、日本のほとんど国技とすら言えるまでになっている。サッカーと一緒にはならない。あらゆるスポーツで日本が世界のトップレベルに今すぐなれるわけではない。ほとんどアウェーと言っていい状況で欧州の準強豪国クロアチアと引き分けたのは快挙と呼ぶべきだ。サッカー後進国の日本からすればこれはもう画期的なことなのである。
W杯サッカーこそ〈スタンドプレーから生じるチームワーク〉つまり〈Stand Alone Complex〉の最高の結実かもしれない。他のスポーツよりもそれを感じる。だからこそ多くの人を魅了するのだろう。だからこそ高いレベルの〈Stand Alone〉と質の高い〈Complex〉が何よりも要求される。日本はまだそれに取り掛かったばかりだ。

あと、これは個人的なことだが、俳句、短歌の、句会や歌会も、どこにも依存しない〈Stand Alone〉の集合体が最も盛り上がるかもしれない。確かにそうだ。だがあんまり〈Stand Alone〉が深いとバラバラになり会が成立しないだろう。ある程度似た方向の人が集まってた方がいいし、何らかの方向性は示されるべきだろうとは思う。しかしやっぱりある程度はバラバラな方がいいのだ。何事もバランスである。句会や歌会もまたべつの意味合いで〈Stand Alone Complex〉なのだろう。

見方を変えて、日常にもこの〈Stand Alone Complex〉はあるだろう。
たとえば家族。家族もまた一つの〈Stand Alone Complex〉である。だが近代、たとえば昭和30年代の家族と今の家族を比べた場合、その〈Stand Alone〉の質が変化しているのがわかる。それは情報が溢れかえったこの現代においては、一人一人はそれぞれの小さな物語に閉じこもり充足してしまい、その充足した〈Stand Alone〉が寄り添って〈Complex〉を形成できるだろうか。家族内で郵便的不安があまり激しく起これば、家族はもう成立しないのではないか、という危惧に襲われる。
またこの社会も一つの〈Stand Alone Complex〉である。その社会にも同じことが言える。一人一人が自分の小さな物語に閉じこもり、充足してしまうと、それを覆うべき大きな物語(たとえば政治)に興味を持てなくなるのではないか。だから今の政治家はやりたい放題なのかもしれないし。またこの社会という大きな物語に参加する(つまり働く)ということ、にすら興味を持てなくなるのではないか、とか、働く意味が見出せなくなるのではないか、とかいろいろある。今のニートや引きこもりに様々な要因があるだろうが、ひとつは真面目過ぎて、働く意味が見出せないまま、家にこもっている人もいるだろう、おそらく。
たとえば夫婦もまた一つの〈Stand Alone Complex〉である。海老坂武の著書に「恋愛は自由である。しかし、結婚は一時的な錯乱である。」とあるらしい。確かに返す言葉も無い。この人はシングルライフを強く押しすすめるが、その〈Stand Alone〉の果てにあるのはなんだろう。このアニメで笑い男が最後に言ったようにそれは絶望ではないかと思えてならない。個人がばらばらではたして夫婦が家族が社会が成立するだろうか。だが情報が溢れれば溢れるほど、〈Stand Alone〉はより深くなる。より〈個〉が自立することになる。〈Stand Alone Complex〉はより複雑な様相を呈してくる。
〈complex〉にはもう一つ、心理学用語で〈抑圧によって潜在化した複雑な感情〉という意味がある。たとえば〈mother complex〉は母親に対するねじれた複雑な感情である。〈inferiority complex〉もこの意味から略して〈劣等感〉という意味になる。〈Stand Alone Complex〉についてここまで考えてくると、その意味で考えることもできなくはない。つまり〈独立した個に対する潜在化した複雑な感情〉、とでも訳せようか。これはまさに東浩紀の言う〈郵便的不安〉のことではないだろうか。東浩紀は、個人の〈孤〉がより深まれば深まるほど意思の伝達が難しくなることを言っていたが、そういった焦燥感のようなものを〈Stand Alone Complex〉と言えなくもない。

別のあるサイトにこのアニメに対してのこんな説明があった。前掲と少しダブるのはどっちかが引用をしているのだろう。

■作品世界
西暦2030年、日本。情報ネットワーク化が進み、大戦が終局を迎えた政治的混乱の中、犯罪の芽を探し出し、これを除去する攻性の組織…内務省直属の独立部隊、公安9課、通称「攻殻機動隊」が設立された。
 公安9課の役割は、深刻な電脳犯罪への対処、要人警護、暗殺、政治家の汚職摘発から、凶悪殺人の捜査にまで、多岐に渡っている。
 世界規模で縦横無尽に情報網が張り巡らされた結果、情報操作、ゴーストハック、不正アクセスが加速度的に進展し、そうした状況に対する素朴な反動として、スタンドアローン状態=ネットワークから意図的に離脱している人々が出現。
 その反面、電脳化された人々は、外界の情報から隔離されスタンドアローン状態でいつづけることに焦燥感を持ち、そうした心理状態を“Stand Alone Complex”と名づけた。
 電脳によるハッキングでもなければ、宗教でもなく、ましてや洗脳でもない。ゆるやかに一つの複合体“Complex”を構成するようになった彼らは、皮肉なことに、不在であるが故に求心力を発揮する、電脳世界におけるある種のネットカリスマになっていった。
 やがて、そのネットカリスマを取り巻く事件はやがて思わぬ方向へと発展を見せることになり、一連の事件はもはや事件ではなく、現象へと変換されていくことになる…。そうした現象を目の当たりにした際に、公安9課はどう対応するのだろうか?

〈外界の情報から隔離されスタンドアローン状態でいつづけることに焦燥感を持ち、そうした心理状態を“Stand Alone Complex”と名づけた。〉ここだけとると〈郵便的不安〉という概念に近い。それ以下に書いてあることは一連の〈笑い男事件〉のことだろう。だがその彼らが〈ゆるやかに一つの複合体〉を形成することになるのはもう確かにこの現代でも何らかの兆候があるのかもしれない。それぐらいこのネット社会は表の現実の社会とは別に独立して機能するべく、この今も増殖しているだろう。

ここまで考えてみて、〈Stand Alone Complex〉には二つの意味があるのがわかる。〈独立した個の複合体〉と〈独立した個としての焦燥感〉と。

いずれにせよ、人間社会がスタンドアロンの複合体である限り、スタンドアロンであることの焦燥感がなくなることはない。
攻殻機動隊
アニメは子供の時見て以来、ほとんど見てはいなかった。大人になってから見たのは、せいぜい宮崎駿の「ナウシカ」や「トトロ」ぐらいだ。それが、NHK特集、立花隆の「最前線報告・サイボーグ技術が人類を変える」(参照)を見て変わった。ここでは実際に義手の人工神経と生きた脳神経を肩の接続部でつないで、自分の意思で義手の指を動かし、ぎこちないながらもビールを注ぐことがもうできていた。また義眼にカメラがついていて、そこからの視覚情報を脳の後部の視覚野につなぐことにより、全盲の人がおぼろげながらも目の前に何があるか、ある程度はわかるようになっていた。ようするにサイボーグ技術がもう本格化しているのだ。知らなかったのでこれは大変な驚愕だった。また自ら被検体となり、腕の神経を外部に露出さしてコンピューターとつなぎ、自分の意思でコンピューターを操ることにある程度成功している学者がいた。これは自分の脳とコンピューターを直結させるのである。立花隆も簡単な手術を受けこれを実際に試していた。その経験を彼は「言葉にならない」と何度も言って大変驚いていた。そりゃそうだろう。自分の意識がコンピューターと直結するのである。想像を絶する。そんな人間が今まで経験してこなかった世界に言葉などあるはずがない。言葉というものは、人間が経験を積み重ねた上にはじめて生じてくるものだ。このことが言語学の範疇なのかどうかは知らないが、意外にこんな博識な人にも知らないことはあるのだ、となんだか不思議にホッとしていた。立花隆とて人間なのである。神様でも化け物でもない。

この番組でその立花隆が押井守にインタビューしていたのだ。押井の出世作、映画版『攻殻機動隊』のことと関連して、サイボーグ技術の将来を聞いていた。前から押井の名前は聞いていたのだが、なにしろアニメクリエイターである。こちらは40歳をとうに越え、今さらアニメなんか見れるか、というところがあったので、避けていたのだが、これは見なきゃいけないと思いDVDを借りてきて早速見たのだ。正直嵌まった。確かに物語はきわめてフィジカルである。情緒的なところがほとんどない。ましてや文学性などまるきりないだろう。物語に奥深さがない。しかしその電脳を持つサイボーグが当たり前の近未来社会、そこでは人々は脳みそを電脳化し、自分の脳みそから自分の意思で無線を介してネットに直接アクセスする。ネットにもぐれるのだ。身体は義手義足はおろか全身を義体化したサイボーグもいて、つまり不死身である。死なないから、人口問題はどうなるのだ、という疑問はあるが、ここではそれには触れていない。でもある程度目をつぶれば、このアニメからはかなりのリアリティを感じることができると思う。
まさに立花隆が報告し予言していた近未来社会である。立花隆の番組を予め見ていたからすんなりと嵌まったのかな、とも思ったが。
しかしもちろんキャラクターもなかなかである。この攻殻機動隊の隊長で少佐と呼ばれる草薙素子という全身義体化、電脳化というスーパーウーマンはアニメとはいえ、天晴れだ。そしておそらくターミネイターのシュワルツネッガーをモデルにしたであろう義眼の巨漢バトゥ。そして彼らツワモノどもを取り仕切る稀代の切れ者で、この攻殻機動隊の本当の名前である公安9課の課長、荒巻などなど。
それとストーリーがかなり凝っていて、ストーリーにのめり込んでしまう。アメリカでは大変に高い評価を受けたらしい。大ヒット映画『マトリックス』はこのアニメに多大な影響を受けて作られたのはあまりにも有名。

また続編の『イノセンス』では、少佐とバトゥが究極の純愛を見せてくれる。これも見ものだ。
今日は話がとりとめないが、この『イノセンス』で押井守が引用を多用していた。映画を見ながらではほとんどわからなかったが、後でテキスト(参照)で見て納得がいった。わりと面白いので、その引用をここにいくつか引用してみようと思う。

・春の日やあの世この世と馬車を駆り(中村苑子)
・理解なんてものは概ね願望に基づくものだ(出典:不明)
・シーザーを理解するためにシーザーである必要はない(マックス・ウェーバー「理解社会学のカテゴリー」解釈学)
・人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだ。(ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」)
・孤独に歩め…悪をなさず 求めるところは少なく…林の中の象のように(仏陀『ブッダの感興のことば』第十四章「憎しみ」)
・個体が造りあげたものもまた、その個体同様に遺伝子の表現型である。(リチャード・ドーキンス「延長された表現型―自然淘汰の単位としての遺伝子」)
・その思念の数はいかに多きかな。我これを数えんとすれどもその数は沙よりも多し。(旧約聖書『詩編』139節)
・鳥の血に悲しめど、魚の血に悲しまず。声あるものは幸いなり。(斎藤緑雨)

セリフが延々引用だったりする。聞くだけではわからないことが多い。だから言うわけじゃないが、引用を多用したからと言って物語に奥行きがでるわけではない。せいぜい扁平な物語の一番上の皮が厚くなるだけに過ぎないだろう。言葉を機能させたいなら絶対に自分の言葉だけでやるべきだ。しかし全般にこれら引用に限らず言葉を機能させようという並々ならぬ意欲がうかがえる。その意味でも大変面白いアニメだ。こういうところも『マトリックス』に影響を与えたのだろう。
あと中に特に面白い引用があって、中村苑子の俳句があるのは、俳句をそれも前衛俳句をやっていたものにとっては驚くやら嬉しいやらだが、なんといっても唸ったのは、

理解なんてものは概ね願望に基づくものだ

である。確かにそうだもんね。これはいったい誰が言ったのだろう。気になるところである。これこそ押井自身なのかな。

今日は本当にとりとめがありませんでした。あとTV版『攻殻機動隊』のことも言いたかったのですが、もっととりとめがなくなるので次回にします。