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キモイ
若い人と話す機会、というのがなかなかないせいか、今日20代の歌人たちと飲んでて、びっくりしたことがあった。

ある男性がその女性のことをとてもよくわかる、と言って、その女性はその男性のことを、「それってキモイのね」と言ったもんだから、その男性のことを嫌ってるんだ、と思ったら、違った。彼女が言うには「キモイ」というのは愛情表現なのだと、愛情があるから言えるわけで、なんかこいつキモイ、となるんだそうだ。これにはびっくりした。天を仰いだ。若者言葉というのは知らない間にいくらでも変化する。「ヤバイ」というのが褒め言葉なのと、同列だろうか。「ヤバイ」にもいい意味と悪い意味の二種類があるように、「キモイ」にも本来の悪い意味もあるそうだ。わかるような気はしたけど。

別れ際に彼女は「細見さんてキモイ」と言って握手を求めてきた。あ、僕に好感があるんだ、と思って気持ちよく握手したけど。。。

一人になって、なんかだまされたような気がしたぞ。(笑)
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画一化されてゆく地名
平成の大合併とかでその度に新しい市の名前が出来るのだが、どうもその地名に納得いかないことが多い。何しろ地名である。地名はそこの住民にとって大変重要なことだろうと思うのだ。小さいときからその名前に慣れ親しんでいかなければならないのだ。変な名前は誰だって嫌だろう。

とりあえず愛知県の南セントレア市は廃案になったのでやれやれだったが、「南アルプス市」というのがいつの間にか山梨県に出来ていたのには少し驚いた。調べてみると2003年にもう出来ていたということだ。全く知らなかった。元来「アルプス」というのはもちろんヨーロッパの山脈の名前である。それで明治初頭、あるヨーロッパ人が飛騨山脈を調査したときヨーロッパのアルプス山脈を彷彿とするすばらしい風景だということで「日本アルプス」と紹介したのが発端らしい。後に日本側がこれを受けて、飛騨山脈を北アルプス、木曽山脈を中央アルプス、赤石山脈を南アルプス、とニックネームのようにしたということだ。こんなふうに飛騨山脈など歴史あるちゃんとした本来の名前があるのである。日本人というのはもう明治期から欧米文化に弱かったのだな、ということがここでもわかる。
で、「南アルプス市」である。地元住民からはかなり反対もあったらしいのだが、自治体側が結局住民投票をすることもなくごり押ししたらしい。まぁ、どの自治体も台所事情は苦しいのだろう。この名前の方がそれは確かに観光客の入りはいいに違いないからだ。しかし地名というものはまず歴史的に関連のある名前を重視するべきだろう。このあたり一帯は巨摩郡で、まず「巨摩市」あるいは有力候補だった「巨摩野市」あたりが常套だろうと思うのだが。そんな難しそうな名前より、どうも大衆に媚びた形に落ち着いたようだ。
あと長野県駒ヶ根市あたりに「中央アルプス市」というのが危うく出来るところだったらしいが、合併そのものが取りやめになって、これもやれやれである。ちょっと目を放した隙にどんな名前が出来るかわかったものではない。どうしても自治体の台所事情が優先してしまうだろうから。

大阪市でも十何年前だったか、中心部で町名の大刷新があった。たとえば心斎橋筋の付近は、その東側にあった、鰻谷中之町、大宝寺町中之丁、東清水町、千年町、玉屋町、笠屋町、畳屋町、を一括して「東心斎橋」に。西側にあった、鰻谷西之町、大宝寺町西之丁、西清水町、周防町、八幡町、三津寺町、久左衛門町、北炭屋町、南炭屋町を一括して「西心斎橋」に改めた。ただ東心斎橋のすぐ南側の宗右衛門町はそのままである。またその南側を流れている有名な川であるあの道頓堀川の南側にあった、東櫓町、西櫓町、九郎右衛門町、は一括して「道頓堀」になった。道頓堀という川は昔からあったが、道頓堀という町はなかったのにだ。勝手に作ったのだ。東とか西を無視すると、江戸時代からあった歴史ある15ほど地名が結局「心斎橋」「宗右衛門町」のみになり、「道頓堀」が新たに誕生した。これは全国的に知名度のある地名は残す、というより最大限利用するが、後はどんなに歴史があろうが、廃名にする、ということか。地名の画一化というか、グローバル化というかこういったことは文化に対する半ば暴力であり、近辺に住む一市民として、当時非常に腹立たしかったのを覚えている。改名理由は確か「市政の効率化」だったか。あまりごちゃごちゃとあると道案内も難しいし、すっきりと整理したかったらしいが、文化は整理するもんじゃないだろう。京都の街はもっと複雑だが慣れればなんともないわけだし。

平成の大合併に戻るが、四国愛媛県に「四国中央市」というのがある。愛媛県の東端にあり、川之江市、伊予三島市、宇摩郡などが合併して2004年に誕生した。ここは製紙関係の会社が多く、仕事の上で個人的に関係しているので、早くからこの改名は知っていたが、これも最初は閉口した。川之江、伊予三島など歴史ある地名をばっさり切り捨ててである。特に伊予三島の「三島」は日本の歴史のおそらく古墳時代かそれ以前からだろうか、三島水軍という中国南部からの渡来系の海洋民族の支配下にあり、この地名は日本のあちこちにある。静岡県の三島市ももちろんその一つだ。だからなおさらでしかも「四国中央市」である、なんか他にあるだろう、とその安易な命名姿勢にあきれたが、調べてみると、将来の道州制をにらんでのことで、四国州の州都にすることを目指して命名したということらしい。まぁそれなら仕方ないかな、ととりあえずこれは譲ることにしたが、Wikipediaを巡っているとなんと山梨県に「中央市」というのがあるということを発見した。なにそれ?最初は位置的に日本の中央ということかな、と思ったがそうでもないらしい。Wikipediaによると、

沿革
2006年2月20日、中巨摩郡玉穂町・田富町と東八代郡豊富村が対等合併して誕生。山梨県および甲府盆地の中央に位置することから「中央市」と命名された。

とある。県の中央だから盆地の中央だから「中央市」。固有名詞が全くないじゃないか。これはありえない、と思った。何考えてるんだろう。住民からの反対運動は起こらなかったのだろうか。確かに「中央区」というのは多い。大阪市にもある。おそらく全国のどの政令指定都市にもあるだろう。それとは話が違う。「札幌市中央区」と「山梨県中央市」とでは。区は都市の名前が必ず前につくが、市は前に県の名前をつけなくてもよい。「中央市」だけでは何がなにやらわからないだろう。何でもいいから固有名詞をつけろ固有名詞を。アルプスでも山梨でもかまわないから。せめて「山梨中央市」だろう。
確かに「中央」という名前にはなにか先進的な響きがある。そこが中心でそこから行政、産業、情報、文化が発信されてそうな、高層ビルが林立してそうな、若い人が闊歩してそうな、そんな響きだ。

高山れおなの俳句にこんなのがある。

十階で滝の音する中央区    高山れおな『ウルトラ』

作者は東京の人で、この句以外にも板橋区、千代田区など東京23区にちなんだ俳句があるからこの中央区は東京の中央区のことに違いない。しかし大阪人の僕はわかっててあえてそうは読まなかった。さっきも書いたように「中央区」は全国の政令指定都市ならどこにでもあるだろう。そしてそれは必ずその都市の中央にあり、紛れもなくその都市の中枢部をにない、高層ビルが林立し、行政、情報、産業などがそこから発信されているはずだ。だからこれは俳句の場合、固有名詞ではなく、そういった意味での普通名詞になりえると思う。
十階で聴こえた滝の音はコンピューターのサーッとした音だったのかもしれない。だがおそらくそれは実際の音としてではなく、大都市の中央にすべてが集約され、集約されることによって、何かが無機的に変質して、その変質するときに生じる幻聴のような音なのではないだろうか。そんな大都市の中枢部のみが持つ風土のようなものを「滝の音」で象徴させたこれは秀句だと思った。東京都中央区だけでなく、全国の中央区ととったほうがより句にふくらみが出るし、普遍性も出てくると思う。

で、「中央市」である。「中央市」に普遍性も一般性もいらない。そんなものあったらややこしくてたまらない。今からでも遅くはないから「山梨中央市」と改めましょう。どうしても「中央」というこの上もなく安易な言葉にこだわりたいのなら。

「中央市」という荒唐無稽な地名の出現で話が少し逸れてしまったようだが、ここで言いたかったことは、地名というのはそれそのものが文化であり、それを改名するときはやはり歴史的な関連性の中でやっていただきたいということだ。それを考えもせず改名することは半ば暴力だろう。地名のことだけでなくすべての面において、自治体が台所事情や効率ばかりを優先すれば、他でも文化の質を下げることになるだろう。
また全国に知れ渡った名前のみが生き残ることは文化の多様性を損なうばかりでなく、少数派が排除されるようなそんな風潮にもつながりかねない、何かいやーな気分である。


・追記
甘かった。調べたらぞろぞろ出てきた。南セントレア市や中央市に勝るとも劣らない荒唐無稽な名前が。

以下本当に決まった地名。
北斗市、みどり市、つくばみらい市、など、これはありえない!
筑波市のほうには未来はないのか!と言いたくなる。
あと、つがる市、おいらせ町、かすみがうら市、さいたま市、あわら市、南あわじ市、たつの市、さぬき市、南さつま市、など、頼むから漢字で書こうよ。市会議員じゃないんだから、全部の人が読めなくったってかまわないでしょう。なんでひらがななの。わからん。それと漢字とひらがなを混ぜないでほしい。
(おそらく読める読めないの問題ではなくて、地名のひらがな表記が流行なのだろうか)

あと決まりかけて廃案になった地名で南セントレ市もびっくりの名前。ぞろぞろ出てきた。
あっぷる市、太平洋市、黒潮市、湯陶里市。
笑えない。ぜんぜんわらえない。
これは僕が思っていたよりもずっと事態は深刻みたいだ。

本当はまだまだあるんだけど、めんどくさくて書けないです、これ以上は。
自分の言葉で
テレビとか見てて、ぺらぺらぺらーとよどみなく喋る人がいてて聞き終わったら、なんだこいつ当たり前のことばっかり言ってるだけじゃないか、と思うことが時々ある。つまりそれは注意深く聞いているとわかるが、自分の言葉で喋らないのである。そういう人は自分の言葉がおそらくないのだろう。自分の言葉がない人に自分の論はない。だから自分の論がない人はおそらく自分の言葉もないのではと勘繰る。
たとえば先日、長島一茂というプロ野球関係の人が、これからのプロ野球について自説を披露していたのだが、とにかくよく喋る。ボキャブラリーも豊富だ。横文字を多用して、一人でまくしたてていたが、こちとら野球の専門家でもなんでもないのに、全部知ってることばかりだった。とにかく怖ろしいほど自分の言葉がない。あれだけ早口で英語を交ぜて器用に雄弁に話しているにもかかわらず、その口から発せられる言葉は全部借り物の他人の言葉なのである。この人のお父さんは突拍子もない言い方を時々する人だったが、息子に比べたらずっと自分の言葉だったように覚えている。

これは句会や歌会でもたまにあることだが、切れ者という感じで、極めて論理的にわかりやすく目から鼻へ抜けるように滑らかに話す人がいて、最初はほぉーっと感心しながら聞いているのだが、しばらくして、自分の理論ではなく他人の論の引用が多かったり、そうではなくても別に当たり前の意見だったりするのだ。なんだかなー、である。こういう人はおそらくあまり自分の言葉がないのだろう。もちろんそれは長島一茂とはまた違う次元だが。
一方、句会や歌会でなかなか批評が出来ない人がいて、批評したとしてもたどたどしくて、ギクシャクとしか喋れない人がいるが、こういった人はおそらく自分の言葉を出そうと、うんうんと苦労されてるのではと思うのだ。ぺらぺらとよく喋る人よりこういった人の方が信用できたりする。もちろんこれは僕もよく経験があるのだが、あてられて緊張で頭の中が真っ白になり、自分の言葉も他人の言葉も何も浮かんでこない状態になって、いわばフリーズ状態になるわけだけど。そういうこともあるが、一生懸命自分の言葉を出そうと苦労されてる人も結構いる。

で、今話題の原稿棒読み総理大臣である。
この安倍首相は1年ぐらい前からだったか、よくテレビに顔を出すようになって、よどみなく喋るんだけど、まあなんと自分の言葉で喋んない人だなぁ、と感心しきりだったことを覚えている。言ってる内容はそれなりのいいことを言ったりもするのだが、なぜかこっちは感づくのだ。おそらくその時から優秀なブレインがたくさんいて、いろいろとこの人の頭に詰め込んでいたのだろう。考えて理解はしているのだが、自分の言葉に翻訳できてないのである。それでこっちにはわかってしまうのだ。優秀なブレインがたくさんいるから、政策面においては結構やるだろうとじつは期待している。でも外交などで、相手国の首脳と会談するときはどうなんだろうなぁ。なんだかとっても心配である。大丈夫なんだろうか、こんな人を日本の首相にして。もうすぐ日中首脳会談である。
反語表現について少し
ひょっとしたらSugarcubes(シュガーキューブス)がすべての始まりだったのかもしれない。少なくとも僕にとっては。

1988年、Björk(ビョーク)(参照)(参照)率いるアイスランド出身の6人組ロックバンドSugarcubesがその先鋭的で退廃的な音楽でイギリス中を席巻した。シングル「Birthday」(参照)がイギリスのチャートで1位。アルバム『Life's Too Good』も1位。アメリカや日本では余り売れなかったが、さすが当時ロックミュージックの最先端に居たイギリスである。この逸材を見逃さなかった。
Björkは12歳のときからアイスランドで歌手としてデビューし、国民的スターになっていたとのこと。14歳から20歳の間、次々とバンドを結成しては解散させ、21歳のとき当時のアイスランドの新進の詩人を招聘してこのSugarcubesを結成した。たぶんその詩人が歌詞を書いたのだろう、ある曲に当時ぼくは完全に嵌まっていた。それはアルバム『Life's Too Good』に収められた「Delicious demon」(参照)という曲である。

以下にその原文と、英語が苦手な僕が訳詩(訳:Kuni Takeuti)を参考にして僕なりに改めて訳した対訳を載せる。対訳は意味を解釈する上での参考程度で、肝心なのは原文である。
Björk(女性)とEinar(男性)の掛け合いのラップのような音楽である。
He how!はおそらく掛け声とか合いの手のようなものだと思い、訳していない。

Sugarcubes
Life's Too Good (1988)
Delicious demon

原文                  対訳
Björk
Heeeeeeee how!             ヒィーーーーーィハウ!
He how! He how!             ヒィハウ!ヒィハウ!

Einar
One person calls someone         一人が誰かを呼んで
To pour the water,             水を注ぐ
Because it takes two to pour the water, 水を注ぐには二人の人間が必要だから

Björk
To plough takes two as well,        土を耕すのにも二人必要だわ
But only one to hold up the sky.     でも空を持ち上げるには一人で充分

Einar
To plough takes two as well,        土を耕すのにも二人必要さ
But only one to hold up the sky.     でも空を持ち上げるには一人で充分

Einar
One plays the harp,           一人がハープを弾き
beats a rock with a stick,        スティックでロックのビートを刻む

Björk
One plays the harp,           一人がハープを弾き
beats a rock with a stick,        スティックでロックのビートを刻む
Becomes a priest at least,        そして少なくとも司祭か
a delicious demon.           ステキな悪魔になるのよ
Hee how!, hee how!, hee how!      ヒィハウ!、ヒィハウ!、ヒィハウ!

Einar
Least, a delicious demon.        そうさ少なくともステキな悪魔に

Björk
Delicious demon, delicious demon,    ステキな悪魔に、ステキな悪魔に
Delicious demon, delicious demon    ステキな悪魔に、ステキな悪魔に

Björk
Two men need one money        二人の男が一つのお金を必要としても
But one money needs no man,     一つのお金は誰も必要としないわ
One is on ones knees,          一人はひざまずいて
loses ones head,            首を斬られるのよ
Except maybe a delicious demon,    たぶんステキな悪魔のほかはね
hee how!                ヒィハウ!

Einar
Two men need one money        二人の男が一つのお金を必要としても
But one money needs no man,     一つのお金は誰も必要としない

Einar
Two men need no money        二人の男が一つのお金を必要としても
But one money needs no man      一つのお金は誰も必要としないわ
One is on ones knees           一人はひざまずいて
Looses one head             首を斬られるのよ
Except maybe a Delicious demon     たぶんステキな悪魔のほかはね

Björk
Then one is no longer           もう一人はどこにもいないわ
Then one is no longer           影も形もないわ
Then one is no longer           消えてなくなったわ
No longer!               もう!

Björk & Einar
Delicious demon             ステキな悪魔は
Delicious demon             ステキなあいつは
Delicious, oh here he comes again waouh! また戻ってくるくる
Delicious demon             ステキな悪魔
Delicious demon!             ああ、ステキな悪魔!
So Delicious!               なんてステキなの!


〈Delicious demon〉を〈ステキな悪魔〉と訳したが、ほかに訳しようがないのでそうしたまでで、この場合〈Delicious〉という音がとても大事でここはもう〈Delicious demon〉とそのまま原文どおり把握してもらうより他にない。つまり〈Deliciousな悪魔〉なのだと。
読んでわかるとおり、この曲はお金が中心で動くこの世界そのものへの痛烈な批判である。それが〈Delicious demon〉という強烈な反語でもって表現されている。この場合の〈Delicious demon〉がなんなのかというのは我々日本人には実は難しい。アイスランド人の宗教はアニミズムのようなところがあるらしく、別の曲「Deus」(参照)にもそれがうかがえるが、具体的に誰かを指すのではなく、超常的な存在として扱われているような気がする。つまり巷に遍在するのである。だからここの歌詞に匂わせてあるような音楽家のことではないだろう。
水を注ぐのにも土を耕すのにも、二人要るが、お金は誰も必要としないか、せいぜい必要とするのは一人である。そして他の一人は首を斬られる。
近代から現代の社会の縮図を神話的に表現し、〈Delicious demon〉を決して罪悪としてではなく、遍在する真理として強烈な反語で締め上げた。〈Delicious demon〉という言葉でもって、この世界の不条理から逃げずに正面切って対峙することに成功している。おそらく反語表現が表現として成功する必須条件は不条理から逃げないことだろう。安易な平和主義や左翼思想に流れずに、不条理と如何にメンチを切れるか、にかかっていると思う。そしてそのためには言葉だけではなくて、音楽がそしてBjörkの声が必要だったのだ。

アイスランドはノルマン系の民族なのだが、時に人類学的に謎とされている現象が起きるらしい。それはなぜか稀に東洋系が生まれるということだ。その一人がBjörkらしい。ライヴ映像を見てもらえばわかるが、大きなノルマン系の男共を従えて、小柄な東洋系の少女が暴れながら歌っているのがわかる。少女といってもそう見えるだけでこの時おそらく25歳ぐらいである。すでに子供もいた。そのBjörkの声は実に独特で、甘ったるい少女のような声の中に、日本の演歌、たとえば都はるみあるいは元ちとせのような、こぶし、とでも言えばいいのだろうか、そんな節回しをするときがある。喉が絶妙に鳴るのだ。それが音楽全体にある迫力を持たせ、〈Delicious demon〉をくりかえし絶叫する姿態はまるでさながら巫女のようだ。この音楽のもつ反語世界は激しく盛り上がり最後の〈So Delicious!〉というBjörkの絶叫と共に頂点に達し、そして終わる。ここらへんのニュアンスはライヴ映像ではあまりわからないかもしれない。やはりCDで聴くしかないのだが、要はやはり〈Delicious〉という言葉と音である。これは日本語には全くない。日本語でも「おいしい生活」とかいうのがあったが、確かにそれは「ステキな生活」のことで、同じニュアンスではある。しかし〈おいしい〉と〈Delicious〉では音が全く違う。これは決定的だ。〈Delicious〉といういかにもおいしそうな音がこの〈Delicious demon〉の持つ反語性を相当高めているのは間違いない。それにBjörkの声質が大きく寄与しているだろう。おそらく彼らが思った以上に効果をあげたに違いない。これは僕にとっては奇跡だった。この曲でぼくはこれほどの反語表現ができるのだ、ということを思い知らされたのである。
このあと5年ほどして俳句に行き、その後短歌に行ったが、その間ずっと無意識にこの曲のことが頭にあったのかもしれない。

しかし短歌に行って、いきなり思い知らされたのは次の作品である。

紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき      大辻隆弘『デプス』

一般の人には多少の説明が要るだろう。〈紐育〉はニューヨークと読む。最初からルビは振っていない。もうこれでわかるかもしれないが、〈紐育空爆の図〉はだから2001年9月11日のあのニューヨーク同時多発テロの映像のことだ。あの高層ビルにジェット機が突っ込んだ衝撃的な映像、それが壮快だというのだ。そしてそれを我らは長くながく待っていたのだと。さすがに最初これを読んだときは少し引いてしまった。が、すぐにこれが反語だとわかった。そして溜息とともに深く感動せざるを得なかった。これこそ現代社会の持つ不条理と、正面切って対峙した結果なのだ。作者に正面切って対峙するだけの勇気と度量と、そして最終的に歌人としての才量があってはじめてこういう形になれるのだろう。まるで世界中でこの作者だけがこの事件と正面切ってメンチ切っているような、そんな感じにさせられる謂わば孤高の短歌である。目を逸らしてはだめなのだ。この作品はそれを読む者に強烈に強いるだろう。長い間搾取してきた我々資本主義の勝ち組がこうむる単なるこれが起点に過ぎない、これが世界なのだ、これが自然なのだ、と。
この大辻さんの歌集『デプス』が発表された当時、ぼくはまだ短歌に行ってなかったので、詳しいことはわからないが、どうもこの作品に対しては批判的な人が多かったようだ。ネットをさまよってみると、全く通じていない人が結構いて、もうこんな冷血漢とは会っても絶対に挨拶すらしない、とか言ってる人もいた。少し考えれば反語だとわかるだろうに。このときニューヨークで亡くなった人よりもはるかに多くの人々がすでに我々資本主義側のせいで犠牲になっているのである。経済格差は時にじわじわと大量殺戮を生む。この事件に言及するにはそれを避けて通ることは絶対にできないし、そしてそれを何かの形で表現するとすれば、ここまで追い詰められた反語でしか表現できないのである。それを理解できずにこの短歌を批判するということは、救いようのない偽善者でしかない。

Björkの「So Delicious!」という絶叫と大辻隆弘の「われらかく長くながく待ちゐき」という絶唱は、結局のところ我々にこの世界はもう出口がないんだ、ということを教えるに過ぎない。だが出口がないのだ、ということをまず了解しないと、何も前には進めないだろう。
罵倒語について少し
前から罵倒語に関しては少し気にはなっていたのだが、あのジダンの頭突き以来、大いに気になるようになった。ジダンが一体何を言われてカッとなったのかはかなり微妙なとこで、イタリア語がわからない以上詮索しても仕方ないのだが、どうも聞いた話、ラテン系の民族はわりと性的な罵倒語を日常的に使うらしい。それもかなりきついのを。そこが日本人とは感覚がずいぶんと違うだろう。
日本語で罵倒語といえば、「クソッ」「畜生!」「バカ野郎」「ふざけんな」「なめんなよ」「殺すぞこの野郎」とかで、性的なものもあるだろうがあまり聞かない。それが英語になると「motherfucker」なので、日本人としてはこれだけで引いてしまう。いちいち相手を罵倒する時に「てめえおふくろさんとやっただろう」と普通言うかあ?という気持ちに誰もがなるに違いない。だが罵倒語というのは実際その意味をきちんと把握して言ってない場合が多いはずだ。はずだがここら辺が実に微妙なところではある。

「クソッ」「畜生!」を字義通りに捉えて怒る人はいるまい。字義通りに捉えたらこれはもう大変な侮辱であり、名誉毀損に発展するかもしれない。
たとえばこれは罵倒語というよりじゃれあい語だろうが、中高校生の時など男子は級友と冗談を言いながら、きつい冗談を言われたときなど「殺すぞこの野郎」とかよく言ったものだ。僕もよく言った記憶があるし言われた記憶もある。この場合の「殺す」はもちろん言葉の本来の意味とはかけ離れていて、むしろ相手の冗談のきつさを褒め称えるニュアンスがあるぐらいだ。だから別れ際にはちゃんとこう挨拶して別れないといけない。「いっぺんおまえだけは殺したるからな、覚えとけよ!」とニヤニヤ笑いながら言われればこちらも「おう、やれるもんならやってみい」とやはりニヤニヤしながら、手を振って別れるのである。これがかつての男子中高校生の礼儀だ。今は知らないが。

英語で「Oh my god!」と言えば、日本語に訳すとすれば「何てことだ」ぐらいだろう。映画の吹き替えで「おお神様!」と直訳したのにはまず出会わないが、例外もある。『マトリックス・リローデッド』ではじめてスミスが自分のコピーを作る場面で、相手の腹に自分の手を入れた瞬間相手は「Oh God!」と唸る。これを吹き替えは「おお、神様!」とちゃんと訳していた。次の瞬間スミスが「いいやスミスで結構だ」と返すからである。「神様」と訳さないとこの気のきいたスミスのセリフが理解できない。だからあえて「おお、神様!」と訳したのだろうが、この場合意味としては「何てことだ」でいいと思う。だがちゃんと「神様」という意味が英語でもこの場合通っているのはいるのである。実に微妙だろうが。ここが日本語の「畜生」とは違うのかな、と思った。「畜生」は意味が完全に消滅してしまっているが、これと同じ意味の「ケダモノ」という罵倒語は意味がはっきりと今でも生きている。とまぁこんなふうに、罵倒語の意味は実に微妙である。当事者しかわからない微妙なニュアンスがあることが多いのだろう。

東浩紀的に言えば、上記の男子中高校生の場合、「殺すぞ」という言葉が仲間内で、字義通りつまりコンスタティヴに受け取られることは絶対にない。完全にじゃれあっている場合ただただ、修辞としてつまりパフォーマティヴにのみ受け取られるのである。だから安心して彼らは「殺すぞ」と言うわけだ。これは信頼関係があってはじめて通用する。
しかしこの場合は罵倒語ではなくじゃれあい語だからそうなのだが、罵倒語の場合、その中間を意図的に狙うこともあるだろう。おれはパフォーマティヴに言ってんだぜ、だからそう受け止めろよ、と。だが実は裏でコンスタティヴに受け取られることを狙ってはいるのだ。
ジダンがマテロッティに何を言われたか我々にはわからない。ましてやイタリア語だからわかろうはずがないのだが。最初に書いたとおり、ラテン系は性的な罵倒語が相当きついらしい。日本語に訳したら「おまえの母ちゃんでべそ」になっても、それは日本語にはない罵倒語だからそう訳すより他にないわけで、言われた本人はそうは受け取れないこともあるだろう。ましてジダンはフランス人である。イタリアのセリエAに在籍していてイタリア語がいくら堪能でも、罵倒語の持つ微妙なニュアンスまで理解できたかどうかはかなり怪しいと思う。マテロッティはそこまでわかってておそらく狙ったのかもしれない。俺はパフォーマティヴに言ってんだから、そう受け取れよなぁ、と、だが実際はコンスタティヴな意味も最初から通すつもりだったのではないか。

つい最近、二十代の兄弟で殺人事件があったが、日頃何もしない兄に対して片付けるようにと弟が忠告したら、兄は「殺したろうか」と言ったという事だ。兄はおそらくコンスタティヴとパフォーマティヴの中間を狙ったのではないだろうか。それを弟はコンスタティヴにのみ受け取って兄を殺したというのだ。弟はそう言っているが、兄弟なのだから、弟の方もパフォーマティヴにも受け取っていたに違いない。だがいい加減兄に我慢ならなかったのだろう。兄の言う「殺したろうか」の中に、コンスタティヴなニュアンスを微妙に嗅ぎ取っただけでもう切れてしまったのかもしれない。

世の中がすさんでくればくるほど、言葉がパフォーマティヴに通じることはなかなか難しくなるのかもしれない。実際今、男子中高校生は「殺すぞ」という言い方をするのだろうか。使ってはいるとは思うのだが、今度高校の先生に会ったら忘れずに聞いてみようと思う。
差別用語について少し
以前から差別用語に関して気にはなっていたのだが、つまりなんであれは使えてこれは使えないんだろう、という具合に。それで『きっこのブログ』を読んだら、差別用語について結構考証していた(参照)。でも結構的外れなことも書いていた。それでちょっと突っ込みたくなったのだ。それで少しだが差別用語について考えてみた。

『きっこのブログ』では「アイノコ」という言い方がなぜ差別用語で放送コードに引っかかり、「ハーフ」なら良いのかわからない、と吼えていた。こういう疑問は確かに僕にもあり誰にもあるが、この場合の答えは簡単である。「アイノコ」という言葉はそれが使われていた当時、はっきり差別用語として使われていたから、「アイノコ」という言葉は差別的な雰囲気を纏ってしまっているのだ。そして今この言葉を使う人はまずいないので、差別的な雰囲気を纏った言葉としてのみ生き残っている。だから逆にこれは極めてわかりやすい差別用語なのだ。きっこという人は若い人なので、きっとこの言葉が纏っている差別的雰囲気がピンと来ないのだろうと思われる。それに対して「ハーフ」という言葉は差別的に使われたことがないので、差別用語にはならないだけである。それだけのことだ。

こういったはっきりとした差別用語ならわかりやすいのだが、困るのはたとえば「支那」である。学術用語的に言って中国のことを「支那」と呼ばないことはないだろう、と思うし、実際に中国のもう一つの名前だ。だが戦時中あるいは終戦直後は明らかに中国に対する蔑称であった。どうも今もそれを引きずっていて、ましてや昨今の反日ナショナリズムに対して、「支那」と呼ぶのはかなりまずい。このように言葉というものはそれが使われていた時代の雰囲気を嫌でも纏うのである。でも中国と言い換えれば済むので、まぁ困らない。逆に言い換えずに「支那」と読んでいる人は明らかに蔑称として使っているのは間違いない。石原慎太郎が以前このことをに言及していて、「支那」と呼びたがっていたが、明らかに蔑称として使いたいのだ。なぜなら、きっこの言うとおり、その言葉を言われた方が差別だと感じるのが明らかな場合、その言葉は差別用語になる。「支那」や「支那人」と呼ばれて差別を感じる在日中国人はたくさんいるのは間違いないだろうからだ。

とにかく「支那」の場合は言い換えればいいので問題は全くない。本当に困るのは「朝鮮」という言葉である。この言葉も「支那」と同じように戦時中戦後にかけて、明らかな差別用語として使われてきた。だからどうしてもその雰囲気を纏って現代に来ている。しかし「支那」と違って言い換えが非常に難しい。ぼくもはっきりリベラルな文学屋が集まっている集いなら逆にあえて「朝鮮」あるいは「朝鮮人」と使わなくはない。おそらく真意が通じるだろうと思うからだが、それ以外では間違いなく禁句だろう。はっきり差別用語になってしまう。ならどうすればよいか。一応方法はある。その民族を指す場合「朝鮮民族」と言い換えればいいかな、と思うのだが、かなり苦しい。通じるときもあれば通じないときもある。その地域を指す場合はとりあえず南北に分かれているので、南を指すときは「韓国」と言えば済む。しかし朝鮮全体を指す言葉としては困る。なぜなら「朝鮮」という言葉は歴史もあり、極めて客観的にその地域を指す言葉に他ならないからだ。完全な学術用語でもある。つまり言い換えられても言い換えたくない衝動がある。しかし言い換えなければならない。ここで苦し紛れにみんなが使うのはやはり「コレア」だろう。それがどうも今風なのだ。きっこは「ハーフ」と英語ならいいのか、と安易な風潮を凶弾していた。僕もそれは思うが、時代には逆らえない。ひょっとしたら韓国や中国では「日本」と言えば差別的で「ジャパン」と言えばかっこいいのかもしれないし。

とにかく英語は最近になって使われだしたので、まず昔のような差別的雰囲気は纏ってないわけで、便利な言語なのだと思うより他にない、今日この頃なのだ。
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