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私の男
映画『私の男』はどんなに評価されようが見るつもりなはい。気色悪いもの。タブーを打ち破るなら別のタブーを打ち破ってほしかった。従軍慰安婦問題を日本人が映画化するとか。近親相姦は一番くだらなくて古典的な、ただ気色悪いだけのタブーだ。

一方で父親から性的虐待を小さい時に受けた女性がこの映画のことをどう思うだろう、とどうしても思ってしまう。こんなのが世界で一流だと評価されたら、自分の存在を否定されたような気持ちにならないだろうか。
表現にはこういったことはいつも付きもので仕方ない面もあるけど。
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映画「息もできない」
韓国映画を見たのは「八月のクリスマス」以来二度目だと思う。
両方とも風景がとても不思議で、一昔前の日本の風景を想わせる。「八月のクリスマス」は街中の、「息もできない」は都市周辺の打ち捨てられたような風景だ。いや、今でも大阪ならこんな殺伐とした風景はありそうかな。見てると妙に懐かしくなる。

ただ延々と暴力シーンばかり見せられる。たぶん半分以上はだれかがだれかを殴っている。暴力だけをよりどころとし借金取り立てを生業とする破滅的なチンピラ、サンフン。サンフンに殴られても対等にふてぶてしく近づこうとする女子高生ヨニ。二人の共通点は子供時代の家庭内暴力だ。その地獄のようなお互いの事情を全く知らずに心を通わせ始める。双方とも言葉を知らないので暴力的な言葉しか使わず、お互いを「このチンピラ」「このクソアマ」としか呼ばないのだが、暴力シーンの合間にある二人の会話には心がなごむ。

純愛よりも切ない二人の魂の求めあい、ラブストーリーのようでラブストーリーではないラブストーリー。

最後は悲劇だが、おそらく最後まで見終わって、人を殴ろうを思う人は絶対にいないと思う。もし思ってても殴るのをやめるだろう。暴力シーンをふんだんに描きながら、暴力抑止になっているのはすごいことだと思った。

製作・監督・脚本・編集・主演、5役をこなしたという、ヤン・イクチュン。ヨニ役のキム・コッピ。この二人が非常に印象的だったけど、他の役者も子役に至るまで負けないぐらい印象深かった。韓国映画の奥は深い。何しろ映像がいい。殺伐とした風景になぜか不思議とほっとさせられる。久しぶりに本当にいい映画を見た、という感慨に浸れた。

今なら無料です。ただし、R-15指定なので、Yahoo!にログインしないとだめらしいけど。
GyaO!映画「息もできない」
約束
『バブルへGO!!』という映画が今年あったが、僕は見なかった。でも最近はネットで検索すれば大概の映画は見れたりするので、これもつい見てしまった。
見事にB級映画のノリだった。だが思わせぶりなセリフがあったので記しておこうと思う。


バブル崩壊を止めるべく、阿部寛演じる財務省の役人に請われて、バブル崩壊直前の17年前に、タイムマシンで送り込まれた広末涼子は、先に自らを送り込み行方不明になった母(薬師丸ひろ子)を探すべく大蔵省内をうろついていると、若き日の阿部寛(このとき大蔵省官僚)とその女秘書を見かける。

省内でいきなり女秘書のほうからのキスシーン。
女秘書「昨日うちでお酒飲むって約束したのに。」
阿部寛「約束はしたが、守るとは言ってない。」
女秘書「・・・・・・」
女秘書去る。


いかにもB級いやC級ぐらいのひどいノリだが、どこかで聞いたぞこれ、そうそう、つい先日、年金問題で福田首相が
「“解決する”と言ったかな。それは取り方にもよるが…」
とすっとぼけたことと同じじゃないか。いっそこのとき首相はこの映画の阿部寛と同じように
「約束はしたが、守るとは言ってない。」
と言えばわかりやすかったのに、ねぇ。
これである程度信用していた福田首相への僕の信頼は見事に崩壊した。国民とて一緒だろう。次の総選挙で自民党は絶対に負ける。首相自らこんな大きな墓穴を掘ったことはかつてなかったかもしれない。今あわてて謝ってるらしいけどもう遅い。


さて、女秘書が去るとき阿部寛は無言で見送るが、以下の独白を追加したい。

阿部寛の独白「バカな女だ。約束なんてのは単にするものであって、守るものでないのは、わかりきったことじゃないか。」
寅さんと渥美清
僕は何をかくそう寅さんのファンである。ファンと言っても、『男はつらいよ』シリーズは全部で10話ぐらい見ただろうか、さすがに飽きてしまってもう見ない。その程度ではあるが。

その渥美清の特番が昨日NHKで放映されていた。
それで一番興味深かったのは、渥美清がある脚本家に「もう寅さんやるの飽きちゃったよ」とボソッと言ったことだ。そりゃあれだけもやれば飽きるのは当たり前だが、我々としては、渥美清=寅さん、なのである。二人は一心同体なのである。その渥美清が寅さんに飽きたというのにはとても不思議に感じられる。それは同体だと思っていたものが乖離する不思議さだろうか。しかしその途端、寅さんから切り離された役者渥美清が浮かび上がってくる。
当時人気絶頂でどんな役でもこなせて印象度の強いこの役者には様々なところから映画の主役のオファーがあったということだ。しかし、松竹のドル箱だったこの『男はつらいよ』シリーズのおかげで、松竹は、寅さん=渥美清のイメージを守るため、すべての主役のオファーを断っていたらしい。断らなかったのは端役だけである。つまり友情出演とかいう。

それでその脚本家に渥美清のほうからドラマの提案があったということだ。「俳人の尾崎放哉をやりたい」と。渥美清は俳句を嗜む。その脚本家は、じゃ、NHKでやろうと。それで二人は取材やら脚本やらをやりながら着々と準備を進めていったのだが、その間にNHKで尾崎放哉のドラマが放映されたのだ。二人の目論見は見事にパーである。テレビでは寅さんではない50代ぐらいの渥美のモノクロ写真が映っていて、それがとてもシリアスな印象があり、あの飲んだくれでどうしようもなく孤独で一人で庵にこもり続けた孤高の俳人尾崎放哉、それが寅さんとはまさに対極に位置する役柄でありながら、とても似合ったんじゃないか、とつくづく残念な気にさせられたのである。この役者はとことん喜劇的な役ととことん悲劇的な役の両方がこなせる役者なのだろう。だからこそ寅さんという喜劇的な役をやっても奥が深いのではないだろうか。そんなことを思えば思うほど残念で仕方がなかった。
それでその脚本家は、じゃ、種田山頭火をやろう、と言い出し、また着々と準備を進めていったのだが、土壇場になって、渥美の方から降りた、ということらしい。いわゆるドタキャンである。松竹の手前もあっただろうが、やはり山頭火にはあまり乗り気ではなかったのでは、と僕は思う。だって、似合わないもの。放哉なら相当似合ったと思うのだが。

渥美清という人は、様々な面があり、その人生も波乱万丈である。幼少のときは病弱でなかなか学校へは行けなかったらしい。大学にも進学したが中退して喜劇役者になっている。一方で、若いときは不良で鳴らし警察には何度もお世話になっているとのことだ。結核に罹り、片方の肺を摘出している。だから結核で「咳をしてもひとり」という句を残した放哉をやりたかったのかしれないが。おそらくドラマでは結核を経験した者にしかできない咳をしただろう。
その実像もまた興味深い。病気で酒たばこをやめたせいか、飲み会へは絶対に顔を出さない。映画の打ち上げでさえである。日頃はほとんど人には会わず、一人で本ばかり読み、人付き合いが極めて悪い。でも俳句が趣味で句会には時々顔を出し、小難しい句を出す奴がいると、「よ、インテリの兄ちゃん」と寅さんみたいに本当に言ったということだ。自身がインテリかもしれないくせにだ。これらすべてが支離滅裂のようで、僕にはなんとなくわかるなぁ、という気がする。こんなことを考えてると、余計、放哉の役がなかったのが残念でならない。

結局、渥美清という役者は、自身の役者生命を、寅さんに捧げたのだろう。そして他のすべてのやれたかもしれない役を犠牲にしたのである。このことが役者にとって幸せなのかどうかは僕などにはもちろんわかるはずもないが。でも映画界全体からすればはっきり損失だろうと思うのだ。数多い傑作がお蔵入りになっているかもしれないわけで。

今の映画界で、とことん悲劇的な役ととことん喜劇的な役の両方をこなせる役者が一体どれほどいるだろうか。この両方をやることによって、より深みのある演技が出来るのではと思うからだ。
たとえば、高倉健や吉永小百合は悲劇的な役はいくらでも出来ても、喜劇的な役はまず出来ないだろう。それは佐藤浩市も浅野忠信もである。中途半端にはいくらでも出来るだろうが、とことんは無理だろう。このことは才能というよりはもって生まれたキャラなのだから。役所広司、尾美としのり、がいい線行ってそうだが、やはり薬師丸ひろ子にとどめを刺すのではないか。宮藤官九郎脚本のTVドラマ『木更津キャッツアイ』でそのコメディエンヌの才が公になったが、僕は以前からこんな人だと思っていたので、今さら遅いな、という気がしたぐらいだ。青山真治監督の『レイクサイドマーダーケース』ではとことんシリアスな役を見事にこなしていたが、やはり両方やれるということでシリアスな役でもより深みが増すのではないだろうか。尾美としのりも最近は平凡なお父さんの役が多いように、薬師丸も平凡なお母さん役が多い。二人ともまだまだ老け込む歳ではないだけに、なんとも歯がゆいばかりだ。大げさでなく日本映画界の損失だと思ってしまう。
最後は話が少しずれてしまった。しかしずれてしまったのはほんの少しである。(笑
品性とは(その2)
 昨日の話の続きである。といっても昨日とはかなり外れるかもしれない。少なくとも経済とは関係ない。が一応、品性の話である。
 ブログを始めてから最近気がついたことだが、なんだか自分の首ばかり絞めているような気がする。それは一般的なことばかり書くからで、じゃぁおまえはどうなんだ、と自分にすぐはね返ってくるからだろう。昨日の品性の話なんか特にそうだ。そこで今日は赤の他人の一個人のことを言おうと思う。そうすれば自分とは全く関係ないので、気が楽だ。だからと言って中傷なんかは絶対に僕はしない。むしろ逆である。

 薬師丸ひろ子さんという女優がいる。もちろん直接お会いしたことはないが、僕はこの人を敬愛して止まない。なぜなら見ていてとても気持ちがいいからだ。昨今少なくなった女優らしい凛とした佇まいが感じられる。
 映画のメイキング映像などを見ていても、彼女はスタッフのだれかれ関係なくよくぺこぺことお辞儀をしている。スタッフあっての映画であると、よくインタビューで語っていたがこのことなのだろう。個人的に聞いた話でも、とにかくだれに対しても頭が低く相手のことを親身に考える人なつっこい人らしい。これは彼女と親しい人から直接聞いたのでかなり信憑性はあると思う。一度頂点を極めた人がである。そうでなくても女優なんてのはツンとしてふんぞり返っているものとばかり思っていたがこの人に関してはまったく逆である。
 それと彼女は誰にも何にも媚びたりすることがない(と思う)。会ったこともないくせになぜそうも断定できるのか、と言われそうだが、これは僕の直感である。そしてこの直感を信じる。笑いたい人は笑えばいい。たとえば彼女はCMにほとんどでない。ああいった芸能人の一番おいしい仕事はCMである。ちょっと自分を露出させるだけで何千万というお金がぽんと入ってくるのだ。もう落ち目だからオファーがないだけじゃないの、と言う人はいるだろう。でもあのキャラと知名度でないわけがない。しかもお母さん役をやらすと好感度抜群である。キッチン関係だけでも相当オファーがあるはずだ。それをしないということはお金に対して媚びたりしないわけである。少なくともお金より自分を露出させないほうを選んでいる。
 それとメディアに媚びない。よく彼女の同世代の女優がバラエティなどに出て、バカな天然ボケをやって見せたりしてメデイアに媚びてまで自分の顔を売ろうと懸命だが、それは女優としての質を下げるだけである。しかしそれをある程度しないと芸能記者への心象は悪くなる。実際彼女のことをよく言う芸能記者にとんとお目にかかったことがない。それは結局メデイアに対して愛想が悪いからである。だがそのほうがかえって凛としていて清々しい。今、芸能人の価値を決めるのは彼ら芸能記者であるといってもいいぐらいで、芸能記者がやりたい放題のさばっている。芸能記者への対処は芸能人にとって死活問題だったりするのだが、彼女には縁のない話だろう。
 またファンに対しても媚びない。つまりファンサービスが悪いと言っていい。大ファンだからといって彼女に会える人はきっと奇特な人である。だがそれが女優だろうと思う。もし彼女のファンサービスが良ければかえってがっかりしていたかもしれない。女優というものはいい意味で超然としていてもらいたいものなのだ。
 こんなふうに誰にも何にも媚びない女性だが、素顔は普通の人なつっこいおばさんらしいし、さっきも言ったように誰に対しても頭が低いのだ。これこそ品性だろうと思う。最高の品性かもしれない。言い換えれば(やっと昨日の話しの続きになるが)少し損をしているのを承知していて別に意に介さない、余裕のようなものだろうか。やはりこういったものが品性だろうと思うのだ。
 彼女はただただ、女優業に邁進しているだけだ。演技という自己表現に全身全霊を捧げているのだろう。元アイドルとしてかつては大ブレイクしたが、今は日本映画界に絶対に欠かせない、かなり癖の強い役を演じる、個性派演技派女優である。演技での彼女の間のとり方呼吸の入れ方にはいつも溜息が出る。集中力の賜物だろう。
 これからもこんなふうにマイペースで女優業を続けていっていただければと願う。


 やっぱり赤の他人を褒めるって楽だわ。
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