崔実(チェシル)「ジニのパズル」
在日コリアンの少女ジニの物語。
北朝鮮の金父子の肖像がある朝鮮学校に違和感を感じつつ、日本人からは差別されるという複雑なパズルをどう解くか、その答えを探しつつ、そこからハワイの学校、オレゴン州の学校へと彷徨う。日本語と朝鮮語と英語の三つの言語と文化のはざまで答えを見つけようとする、非常に熱のある物語だ。その熱が空回りせず、しっかりと言葉に置き換えられ、希有な物語へと昇華した。

特に核となるのは中学一年の時の、テポドンが打ち上げられた日の池袋のゲームセンターで受けたヘイトクライム。圧巻だった。手に汗握って読んだ。傷害事件であり、はっきり強制猥褻と言っていいと思う。それをたった中学一年の少女が差別的な言説と共に受けるのだから。こんな卑劣なレイシストがこの世にいるんだ、という絶望感だけが立ち上がってくる。

どうせ国境なんかだれかの落書きだろう。

ジニはこう吐き捨てるように言う。これは名言。

これ以上ネタバレは書かないが、もうちょっとで芥川賞だったらしい。どうせなら受賞すればよかったのだが。そうなれば多くの日本人がこの小説を読むことになっただろうし、今でもぜひ読んでもらいたいと思う。

地べたをしっかりと這いずりまわった、地に足のついたリアルな、そして、民族問題にとどまらない普遍的な文学性をもつ、これは青春文学なのだろう。ぜひ映像化してほしい。
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村上春樹『羊をめぐる冒険』読了

「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさやつらさも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや・・・・・」
村上春樹『羊をめぐる冒険』より


〈羊〉を〈悪〉のメタファーとしてこの小説を読むことはあまり好きじゃない。羊は羊だからだ。
その〈悪〉あるいは〈強さ〉の真逆としての〈弱さ〉を作者は愛おしみたかったのだろう。人間のもつどうしようもない〈弱さ〉を限りなく愛おしみたかったのだろうと思った。
中村文則の短編「A」と「B」
中村文則の短編集『A』にある「A」「B」を読んだ。

両篇とも戦争小説で、「A」は日中戦争での見習士官からの視点。支那人の首を切り下ろさないと上官として認めてもらえない立場での熾烈な刺殺行為を描く。朝鮮人の従軍慰安婦問題も混ぜながら。
「B」は新米従軍慰安婦の性病検査をする軍医の視点から、ずばり従軍慰安婦問題。

両篇とも当時のリアルな状景と視点に現代の批評的な視点を交えて書かれてある。共に歴史修正主義に対する痛烈な批判精神が感じられる。

ほとんどの日本人が目をそむけて見ようとしない歴史問題に、己の内面から裏切るキャラクターを主人公にして、鋭く切り込んでいる。これは短編だが、この調子だとこういった戦争小説の長編も期待できそうだ。

シールズを擁護するようなありきたりの左翼的な無責任な思想ではなく、バランス感覚のある批判精神は大変好もしい。信頼できるに足る数少ない文人だ。

彼は今年やっと39歳。まだまだこれから大きく飛躍しそうで大いに期待したい。
評論家
歳をいってもいかなくても僕らは何かに感じるようになったりあるいはそれを感じなくなったりを繰り返す。感じるようになった時、それを面白い、と褒める。逆に感じなくなった時、それを面白くない、と文句を言ったりする。そしてこれらのことを尤もらしく文章にするのが評論家だ。この世に真に客観的な評論家が存在しない所以だ。(村上春樹風に)
安部公房語録
高校2年のとき「闖入者」を読んで以来、安部公房の大ファンだ。小説はほとんど読んだはずだけど、エッセーや評論は読んでないのが多いみたい。

この人ほどクールな人を僕は知らない。その言説に幾度しびれたものか。

ぼくよりももっと安部公房の大ファンの人が安部公房語録のようなものをTwitterを使ってアップしていた。
kaigarasou

理性と感性の秤は、バランスをとりながら、たえずゆれ動いている。その振幅がある範囲内にたもたれていることを、日常性と名付けるのだ。 —安部公房『第四間氷期』

忍耐そのものは、べつに敗北ではないのだ……むしろ、忍耐を敗北だと感じたときが、真の敗北の始まりなのだろう。 —安部公房『砂の女』

空には七月の太陽が、融けた水銀のように輝いていた。 —安部公房『第四間氷期』

観察の秘訣は先入観との闘いなのである。1985.4.28 『第五回PLAYBOYドキュメント・ファイル大賞選評』


やっぱりやっぱり安部公房をもう一度読まないといけない。
村上春樹の風力発電
なぜそんな辺鄙なところに発電所があるのだろう、と読み進めていくと、大地に穴が開いていて、そこから風が吹き上げてきていて、そこに巨大な円筒が建ててあり、その中に扇風機の巨大なものが設置されていて、大地から吹き上げる風で羽根が回ることにより、発電する、とある。これは風力発電じゃないか。大地から風が吹き上げてくることは、まぁ、ないだろうけど。

1985年刊行の村上春樹の小説「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」にある一節だ。1985年はまだ環境問題が全く言われていなかったし、風力発電は1980年代にアメリカで始まったとあるので、おそらく村上春樹はエコ発電のことを全く知らずに、無意識にエコ発電を小説内で描いているのだろう。
まだ小説は3分の2ぐらいしか読んでいないが、妙に共感する。この作者独特の嫌味ったらしいキザっぽさを差し引いても充分にあまるぐらいの共感だ。それは、僕自身もこの小説の主人公同様、影を失ったのかもしれないからだろうか。影は必要なのだ。つくづく思った。取り返さなければいけない。しかしそれはプライベートの難事がすべて終わったあとだ。来年だろうな。
再び池澤夏樹
池澤夏樹の小説『スティル・ライフ』より

 この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない 。
 世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
 きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
 でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
 大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
 たとえば、星を見るとかして。

                    
僕が20代に読んだ書物のなかで、最も感銘を与えられた文章かもしれない。『スティル・ライフ』の冒頭部分である。小説というより一篇の詩だ。

人はこの世界に頼ってはいけない、という当たり前のことにはじめて気付かされた。人は世界の中にいるのではなく、世界と並び立っているのだと。これは20代のとき、驚愕だった。てっきりこの世界の中に人はいるのだと思い込んでいたからだ。あの鬼塚ちひろの「月光」の歌詞のごとく。世界は自分を守る義務があるのだと、無意識に思い込んでいた。ドストエフスキーをそんなふうに読んでいたのだ、恥ずかしながら。

そしてその外の世界と、自分の内部の世界に連絡をつけること、これが一等大事なのだと、ここでは言っている。そのためには外側の世界を出来る限り正確に認識しないといけない。そして自分の内部の世界も同様に正確に認識する。これらを僕自身は一生やっていくのだろうな、と思う。主に文学を通じて。あるいは自然科学、社会学など。その他個人的な経験が一番重要だろうけど。

おそらく文学というものはそのためにこそ存在意義があるのではないだろうか。逆に言えば、これら認識のために役に立たない文学はその人にとっては存在意義が無い。これは間違いないだろう。

つまり文学にとって重要なのは、その役に立つ文学がまた人それぞれ違うことにある。それは人それぞれが世界に対する認識を異にするからで、自分に対する認識も人それぞれ違うからだ。これが文学の最も面白いところであり、最も厄介なところでもある。数学は一つの問題に対し答えは必ず一つだ。解き方は幾通りあろうが、最終的に向かう答えは必ず一つである。しかし文学の場合、答えは人の数だけある。だから人は自分の文学を傍からなんと言われようがやり抜くしかない。それこそが文学だからだ。人のいうとおりにすることはそれがどんなに優秀なことであれそれは全く文学ではない。答えは人の数だけある。それこそが文学だからだ。だから自分だけの答えを出す方向に向かわなければいけない。文学は数学や物理とは全く違う次元にある。文学そのものを否定する風潮が最近目立つけど、それこそ最も悲観すべきことかもしれない。人それぞれ、ということが通じない世界なのかもしれないからだ。逆に文学の世界で、人それぞれであるという概念、が通じない杓子定規な問答も、また最も悲観すべきことかもしれない。そういった杓子定規なことがもしその文学の世界で簡単に通じてしまい、王道にすらなるのなら、その文学ジャンルそのものの衰退を感じないわけにはいかないだろう。
阿弥陀堂だより
南木佳士の小説を初めて読んだ。
「阿弥陀堂だより」は売れない小説家の夫と、有能な女医の妻、その妻がパニック障害になり、夫の故郷、信州へと赴く、心に染み入る小説だ。阿弥陀堂の堂守の96歳の老婆の生活と言説を軸に話は進む。作者自身、医者が本業で、小説では自身を夫婦に分裂させている。

どうも母のこと以来、涙腺がゆるくなってしまったのか、何度も涙ぐみながら読み進める羽目となった。とにかく書かれている内容が安心できるのが何よりいい。

映画があるらしいので調べると、寺尾聰と樋口可南子の主演だった。どうも僕のイメージとはかけ離れていて、見る気がしない。僕の中では小説だけで完結しているので、別に誰にやってほしいと言うのはないが、あえてあげるなら、香川照之と薬師丸ひろ子だろうか。

南木佳士の小説はまだまだあるらしいので、これからじっくり読んでいこうと思う。
なあ、雪穂
今頃になって、2年前のドラマ「白夜行」を見た。最近は下手な小説や映画よりTVドラマのほうが面白かったりする。これはその際たるものかもしれない。今まで見たドラマで一番面白かった。原作は東野圭吾だが、原作とはずいぶんと違うらしい。どうも脚本家とぼくの好みが一致したようだ。

このドラマは究極の純愛である。どうも最近はこの純愛に弱い体質だということに気がついてしまった。もうけどこれ以上の純愛はないだろうな、おそらく。
11歳のときにお互いの親を殺してしまった男女が、その罪を隠すためお互いのために嘘に嘘を重ね、悪事に悪事を重ねていく人生。売春、強姦、死体損壊、カード詐欺、そしてさらなる殺人。太陽の下を歩けない人生。でもお互いがお互いの太陽であろうとした。深い絆で結ばれた究極の純愛。白夜行。

主演の山田孝之のファンになった。さびしそうに笑うところがたまらない。その彼の雪穂(綾瀬はるか)へ語りかけるモノローグがとても印象的だった。
(なぜか台本のようなものがある)
以下ここからの抜粋コピペ。

「11歳の時、俺たちは出会った。俺は雪穂を守るため、父親を殺した。その俺を庇うため、雪穂は母親を殺した。俺たちは、その罪を隠すため、他人でいることを約束し、別れた。だけど、7年後、俺たちは再会し、いつの日かもう一度、二人で太陽の下を歩くことを約束した。それは、罪に罪を重ねて、生きていく方法しかなかったんだ。」

「なぁ、雪穂。月の裏側には、一筋の光もなかったよ。ひとかけらの優しさも、ぬくもりも、美しさもなかった。だけど、なぁ、雪穂。俺を傷つけて去ることが、あなたのやり方だったこと、いつの日も変わらない、あなたの優しさだったこと、あのむちゃくちゃなわがままだって、一度でいいから幸せな子供のように甘やかされたかっただけなんだって、今なら・・・ちゃんとわかるんだけどな・・・。」

「なぁ、雪穂。白夜ってさ、奪われた夜なのかな。与えられた昼なのかな。夜を昼だと見せかける太陽は、悪意なのか、善意なのか。そんなことを考えた。いずれにしろ・・・俺はもう嫌気がついていたんだ。昼とも夜ともつかない世界を歩き続けることに。」

「あなたは俺の太陽だった。白夜に浮かぶ太陽だった。俺の・・・たった一つの救いだった。」

「なあ、雪穂。俺たちは醜かった。誰もが目をそむけるほど醜かった。だからこそ、誰もが突き放すその醜さを、お互いに抱きしめようと決めたんだ。」


なあ、雪穂。
セカチュー
今頃になってセカチューを見た。というか読んだというか。

宇和島出身の野樹かずみさんから、宇和島がたくさん出てくるよ、と言われ、宇和島出身の片山恭一の原作『世界の中心で愛をさけぶ』を読み出した。確かに出てくる。市立図書館、天赦園、竜華山等覚寺、宇和島東高。あと神社が出てくるんだけど、市立図書館から近いのは宇和津彦神社のはずなんだけど、描写は違うみたい。野樹さんが言ってた、三島神社だろうか。ほとんど地名は出てこないんだけど、宇和島を知っている人だけには、ああ、あそこだ、とわかるところが嬉しい。最後に出てくる中学は城東中かな。

最初は宇和島に関することで面白く読めたのだが、気がつけばしっかりセカチューの世界に嵌まってしまっていた。あんなベタな恋愛ドラマを今さら見れるかい、とか思ってたけど、しっかりTVドラマまで見てしまったのだ。

緒方直人がナチュラルで良かったが、なんと言ってもよかったのは、三浦友和。とにかくセリフがかっこいい。だめな父親を演じつつ、とってもクール。

第6話で娘のアキが白血病だと発覚したあと、アキの恋人サクに対して「なぜアキがあんな目にあわなきゃいけない?俺のせいか?あや子のせいか?君のせいじゃないな。だからこそ君を憎むことでしか俺は立ってられないんだ。」とサクを理不尽に責め拒絶する。

極めつけは最終話。17年後、アキをやっと弔えるようになったサク(緒方直人)に対して、「よくがんばったなぁ、サク。。。。辛かっただろう。。。。もう、十分だ。。。。ありがとう。」

ここでさすがにほろっと来た。亡くなった恋人の父親に赦してもらうことがどういうことなのか、痛いほど伝わってくる。
原作でも今の僕にとってほろっとくる場面はなかったが、ドラマではふんだんにあった。その極め付けがこのシーンである。正直、原作者には申し訳ないが、TVドラマのほうが盛り上がってしまった。

映画版も勢いに任せて見たのだが、完全にしらけてしまった。長澤まさみは嵌まり役だったはずなんだけど、脚本が最低。唐突に好きになったり、唐突に病気になったり、で物語りに入れずじまいだった。

TVドラマ版のロケ地は伊豆。映画版は香川県。両方とも宇和島ではない。ここがだいぶ不満である。
TVドラマ版もぼくとしては綾瀬はるかがちょっと不満なので、今度は今一押しの多部未華子主演で、全篇宇和島ロケでやってもらいたいです、ぜひ。