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人を査定する資格
TVドラマ「カルテット」第8話より

カルテットの他の3人との交際を辞めさせて兄・別府司にまともな職に就いてもらおうと弟が乗り込んでくる。カルテットが住みついている軽井沢の別荘に。そこは弟が管理していて、それを売るために不動産鑑定士に査定させた後、兄弟の会話。

別府司の弟「無職とかゴミ出ししないとか、全然だめでしょ。ダメ人間じゃん。」
別府司(松田龍平)「人を査定しに来たの?どういう資格で?」


人を査定する資格を持っている人はこの世にだれ一人いない。人は不動産ではないのだから。
という当たり前のことにいまさら気づかされるほど、我々は無意識に人を査定していないだろうか。津久井やまゆり園の殺人犯や長谷川豊のような極端なケースじゃなくても。
そしてその査定基準は大抵の場合その人の収入である。無意識にお金を世界の中心に置いてしまっている。そこから逃れるためにも文学や芸術は必要なのかもしれない。全ての人に。
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メディアのセカンドレイプ
livedoor NEWS:坂上忍 高畑裕太容疑者の事件をめぐる江川紹子氏の意見を批判

息子の不祥事で謝罪会見をした女優高畑淳子のことが話題になってるけど、単に芸能界の話として終われない様々なことを考えさせられた。

成人した22歳の男性の性犯罪を母親が謝罪しなけらばならないこの国の不条理な義理感情をまず不思議に思ったが、もちろんこれは芸能界だからだろうとは思う。でも一般人でも片親なら母親が被害者には謝罪するんだろうな、とは思った。普通に考えたら男性の性犯罪に女性である母親が出てくること自体が極めて奇異だろう。それにあまりに母親が痛々しすぎる。親として謝罪したい気持ちはわかるんだけどね。

それはそれとして、テレビで討論をやってて、「バイキング」という番組で江川詔子が被害者の気持ちをまず考えるべきで、一連の事件にあたっては「被害者を第一に」という考えを尊重しているとのことで、世間での大々的な報道に疑問を感じていると語り、「被害者の方からしたら、こうして大きく扱われたり、イベントがあったりすること自体が実はつらいんじゃないか」とメディアによるセカンドレイプについて述べた。まさにそうだが、この番組自体を当番組の中で批判したきたのだ。この意見に対して当番組のMCである坂上忍が噛みついてきた。

ここにいる全員がですよ、江川さんが言ってることを心のどこかで持ちながら生放送が始まってる」といい、江川氏だけでなく出演者全員が複雑な思いをもって本番に望んでいると指摘。続けて「それを言うんであれば出るべきじゃない」「『矛盾してる』って一言で片付けてほしくないわ。そんなのみんな思ってるよ!」と、険しい表情で江川氏を批判していた。


これに対して江川詔子はなにも反論しなかったんだけど、僕に言わせれば、こんな事にも反論できないんなら、それこそこの番組に「出るべきじゃない」だろう。
明らかに反論できるからだ。
まず、「バイキング」という番組は生放送での激論がウリで、誰が何を言い出すかわからないスリルが面白いのであって、MCとして「それを言っちゃあおしまいよ」という気持ちはわかるのだけど、せっかくのウリを打ち消すような言い方はしない方がいいのではないかと思った。空気読めない奴、みたいな発言はやめてほしい。それがとても残念だ。
それに何より、テレビメディアの理不尽さについてはネットや雑誌じゃなくて、テレビで言ってこそ訴求力があるからで、そういった矛盾に抗いながら、勇気を持って発言した江川詔子にはやっぱり拍手したい。よくぞ言ったと。ただやっぱりちゃんと反論してほしかった。おそらく江川さんの性格からして、何か言うだろうということは事前に察しが付くわけで、スタッフの方から、もし反論されたらだまっててください、とか言われてたのかもしれない。それなら仕方ないんだけど、それならこの番組自体にがっかりだわ。

まあ結局全部シナリオがあるのかもしれないけどね。生激論だと言っときながら。
『わたしを離さないで』 第9話より(ネタバレ注意)
レイシズムの知られざる本質のその一端が垣間見えた気がした。

クローンとして生まれ、患者への臓器提供のみを使命としてその短い一生を終える「提供者」というシステム。そのシステムが平気で作動している理不尽な世界のその社会心理がやっと明かされた。

「提供者」を子供時代から教育していた学苑のかつての校長である恵美子先生が、成人した「提供者」である二人の主人公に打ち明ける。

恵美子先生 
「人間というのは、あるはずの物がない世界には戻れない生き物なんですよ。
クローンの存在で病魔の苦しみから解放された。
そんな役に立つものを誰が手放しますか。誰も治らない世界なんかに戻りたくないんです。
だったらどうしますか?
簡単です。認めなければいいんです。
あくまで同じ人間だと認めなければいいんです。
だから、みんなあなた達には心がないものと思い込もうとする。
違うと声高に言っても無理です。潰されるだけです。」


まるで中国と戦争をしていた時の日本人の心理と瓜二つだ。
中国人をある程度殺さないと、中国を支配できない。中国を支配しないと豊かな暮らしが保障されない。だったらどう考えればいいか。簡単である。中国人には心がないと思えばいい。心がなければ人間ではない。犬や獣と一緒だ。それなら殺したって全然構わない。だから平気で大量殺戮したし、だから731部隊まであった。まず満州から攻め、そして中国大陸全体へと手を伸ばし、後へは引けなくなった。豊かな暮らしを夢見て、もう元の世界へは絶対に戻れなかったのだ。

あとは最終回のみ。ディストピアの最後はもちろんディストピアだろうけど。なんらかの救いを期待したい。
『わたしを離さないで』第7話より
TVドラマを見てると、時に、突然何の予告もなく深いセリフに出会ったりする。それを逃さずこうやってメモするのが僕の趣味だったりして。

『わたしを離さないで』第7話より

美和 「ハナってさ、ちょっと恭子に似てるよね雰囲気とか」
恭子 「女だし同い年だし、そりゃ似てるよ。私時々さ、似てない人なんていないんじゃないかって思う事があるの。というより、私たちはほとんど何もかも同じなのよ。だからちょっと違うところを見つけたとき驚いたり戸惑ったり、憎んだり羨んだりする。でも逆に違うからこそ、ほしいと思ったり憧れたり、目標になったり好きなったりもする。そう思わない?」
美和 「は~~ぁ、相変わらず賢いね、恭子は。でもまぁ、それだけなのかも、私たちの一生なんて、そんなことにウロウロしているうちにあっという間に終わりの日が来るのかもしれない。」


このドラマでの「提供者」という特殊に短い人生だからなのだが、普通の人生だって、たとえ100歳まで生きても、〈私たちの一生なんて、そんなことにウロウロしているうちにあっという間に終わりの日が来るのかもしれない。〉
だと思う。自分はみんなとは違うんだ、ということにこだわるのではなく、逆に一緒なのだということにこだわれば、もっと価値観が広がるだろうし、趣味とかだけに閉じなくなるだろう。

文学屋や芸術屋というのは、自分は他人とは違うんだ、というその一点にのみ徹底的に己の存在価値を見出そうとする、厄介で利己的な生きものだ。
僕もまあ結局その類いだろうから厄介な人生なのだろうと思う。
アルジャーノンに花束を
野島伸司はついにバッハを使いだした。「アルジャーノンに花束を・2015年版」第一話、見終わる。栗山千明は思ったほど悪くはなかった。もちろん菅野美穂とは比較にならないが。問題は山P。おそらく手術後のビジュアル効果が見物なのだろう。今は演技がひどくて見ていられない。

ユースケ・サンタマリアとはえらい違い。彼の演じる知的障害者はナチュラルだった。今のところ僕の中では、2002年版のドラマ>ダニエル・キースの原作>2015年版のドラマ>1968年版の米映画。映画は全くひどかった。見る価値なし。後は上位三つの順番がどう変わるか。期待はしていない。

ちなみに音楽は2002年版、寺嶋民哉作曲のテーマ音楽が圧倒的によかった。変にバッハなんか使うよりはるかに。



ドラマを見ればすぐわかるが、この「アルジャーノンに花束を」の物語はドストエフスキーの「白痴」を下敷きにしてるようだ。パクッたと言ってもよい。知的障害者の知能が良くなり、いろんなことが起こり、最終的に元の白痴に戻る。ここは全く一緒。

あとどれぐらい似ているか、今「白痴」を読みだしたところ。学生の時に読んだきりなので、内容はあまり覚えていないが、原作を読んだ限り、チャーリーのキャラはあまり関係なさそうな気がした。むしろ、2002年版のドラマの主人公の方がムィシキン公爵に似せているような気がした。
ごちそうさん
今度のNHKの朝ドラ「ごちそうさん」は、前作「あまちゃん」に比べるとありふれたキャラとストーリーで、ひどくつまらなくて、飽き飽きしつつもまあまあ楽しんで見てはいたんだけど、今日になって、これは全く違うぞ、と思うはめになった。

それは女学校を卒業するに際して宮本先生が生徒たちに贈った言葉にある。

宮本) 「これからあなたたちは、様々な道を歩いて行かれることと思います。いろいろな人と出会うことでしょう。温かい人も、冷たい人も、幸せな人も、寂しい人も、どうしてもウマが合わないということもあるかもしれません。ですが、そんな時にはどうか思い出して頂きたいんです。食べなければ、人は生きてはいけないんです。あなたと私が、どこがどれほど違っていようと、そこだけは同じです。同じなんです。」

そうなのだ。あの人とその人がどんなに違っていようと、食べることにおいては同じなのだ。当たり前すぎて意外に気がつかない、これには。

人は、特に我々表現者は、人との差異を重視する。自分と他者とがどれほど違うか、ということを他の何よりも重要なこととして、自身のかけがえのないアイデンティティとして後生大事にして生きていくのだ。それをあざ笑うかのような宮本先生の贈る言葉だった。

人と人とが違う、ということに価値を置くのではなくて、人と人とが同じなのだ、ということに価値を置く。価値観の多様化が当たり前すぎて蔓延してしまったこの現代においては、意外にこれは新しい価値観なのかもしれない。

最後の汽車で見送る場面での父、大五と、め以子の婿、悠太郎とのやり取りも深いものに思えてくる。

悠太郎) 絶対に、お嬢さんを幸せにしますから。
大五) まあ、その何だ。食うだけは、たらふく食わせてやってくれよ。それでほとんど大丈夫だからよ。
め以子) もうちょっと、いいこと言ってよ。
大五) 言ったじゃねえかよ。一番大事なことをよ。

そうなのだ、一番大事なことなのである、たらふく食べると言うことは。

何話か前の、納豆の夢がこれからの大阪の生活の暗喩になっていて、この脚本家は、あれ、ちょっと違うかな、とか思っていたけど、なかなかの曲者なのかもしれない。クドカンのドラマのようにセリフやストーリーを少しずつずらしいく、ということはしない、ストレートだ。だから一つ一つのセリフが全然面白くないし、ストーリーも普通なのだけど、何か重要なことがところどころに隠されているのかもしれない。これからの展開に全く目が離せなくなった。
世界フィギュア
日本中の女性が待ちに待った一大イヴェントが今日から始まった。
世界フィギュアだ。これがオリンピックに匹敵する大事な大会らしいのだ。

女子はあのキム・ヨナが久しぶりに登場。男子は4回転の鬼、パトリック・チャンがもちろん登場。日本勢も負けず劣らずの粒ぞろい、世界中から強豪が集まる、ということで、うちの女房殿は昨日からもう大騒ぎ。会場はカナダ。夕刊は結果が書いてあるので、絶対に見ないと断言。夕方のニュースも見ない。ネット・ニュースももちろん見ない。結果がわかったら面白くないからだ。高橋はショートで4位だったよ、と危うく口が滑るとこだった。もしそんなこと言ったら無茶苦茶おこられるぞ。

いったいフィギュアスケートのどこがそんなに面白いのか。中途半端にスポーツだし、中途半端に芸術だし、ねぇ。

いっかいてーんにかいてーんさんかいてーんといいながら半回転をつづけるむすめ  
堀合昇平 (未来2012年10月号)





「アタック25」の後任は?
児玉清さんがついに亡くなった。最近テレビで見かけたとき激痩せだったので、おそらく癌だろうと思ってたら、やっぱり。

児玉清さんといえば、最近では「鹿男あをによし」の謎めいた校長先生役が印象的だけど、やっぱりなんと言っても「アタック25」の司会。子供の時も成人してからも結構見てた。歳とともにこちらの正解率がだんだん悪くなってはいたけど。

さて後任をどうしよう、ということで朝日放送は頭を抱えているはずだ。しばらくは同局の浦川アナでいくらしいけど。同じ知性派俳優の辰巳琢郎あたりが候補に挙がっているらしい。でもねぇ、同じ路線は無理でしょ。この番組は児玉清の個性があって成り立ったのだし。同じ路線じゃ、印象の弱いものにしかならない。全く別の個性でもいいから、個性の強い人でいかないと。

ぼくは宇治原史規を押します。全く違ったものになるだろうけど、そうじゃないと続かないと思う。パネルから何から女子アナから全部リニューアルして全く違った雰囲気でもって、宇治原で行きましょう。

あ、今思いついた、同じロザンの菅広文と二人で司会をやるほうがもっといいかも。
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