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野口裕句集『のほほんと』
やっと野口裕さんの句集『のほほんと』が届いた。
僕が帯の10句選をしていたのでずっと気になってはいたのだけど、それをしていたのが去年の夏だったものだからほぼ忘れていた。
その10句選、1年半ぶりに読んで、なぜ選んだのか最初全く思いだせず、これでよかったのか少し不安になったが、予備選の30句ほどをPCで見て、ようやく思い出した。これでよかったのだと、今では確信している。
野口裕さんは高校の物理の教師、帯の解説を書いている北村虻曳さんは数学者。そして僕は電気工学科卒と理系で固めたつもりなのだろうか。他のお二人はバリバリに理系の仕事されているが、僕は大学を出ただけである。実家の印刷関係の事業を継いだだけだ。だから理系で固めたとなると面映ゆい。
野口裕さんは俳句、短歌、詩となんでもござれの器用な人だ。sora歌会のメンバーでもある。北村さんもsora歌会。3人とも俳句と短歌を両方やるというのも共通点か。でもそれも僕だけが俳句は過去形なので、これもやっぱり面映ゆい。

僕は今、俳句の世界に明るくはないが、この句集は大変佳い句集だと思っている。俳壇の内外で批評が盛り上がることを願っている。句集批評会というのがあれば行きたいですね。

表紙絵は野口さんの御子息の野口毅氏。これが素晴らしい。句集の内容とものすごくマッチしている。

その10句を紹介する。4句目の〈まくなぎ〉は顔に纏わりついてくる羽虫の群のことで夏の季語。8句目の〈ずつないわ〉は兵庫の方言で、食べ過ぎておなかが苦しい、という意味。

野口裕句集『のほほんと』より十句選
重機また人の末裔黄砂降る
鳥帰る何かの予行だとしても
顔文字のω見つめる冬籠
擦れ違うダンプまくなぎ連れ去りぬ
街とても風は季を呼ぶ花水木
自転車にもたれてどてら鳩にパン
子は母の髑髏に残る百合根噛む
ずつないわ冷や素麺を食いすぎた
雀蜂金気水舐め翔ちたゆたう
さえずりのひとつとなりぬ人の声

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鈴木六林男句碑
古びた赤い消火栓収納庫の横に「鈴木六林男句碑」と書かれた貼紙があった。山々に囲まれた高見川沿いの村道を車でゆっくりと進んできてやっと見つけたのだ。
その貼紙には斜め上を向いた矢印がある。つまりここを登れと。矢印の方向を見ると人が一人やっと通れるぐらいの細い道が川にへばりついたような小さな集落の中を登っていく。人の敷地内を勝手にお邪魔するようで気が退けたが仕方ない。登っていくしかない。かなり急勾配の坂道でじきに人家に突き当たりそこを右へ折れて左に折れ、これまた細い道を登っていくと、車が5台ぐらい止まれそうな平地に出た。周囲に人家は10軒ぐらいあるだろうか。しかしまだ句碑らしきものはありそうもない。急に不安になった。本当にここで間違いないのか。誰もいない。おばあさんが出てきて、何か用かのう、とか言ってもよさそうなんだけど、そんな気配すらない。しんとしている。
で、どこを行けばいいんだ?きょろきょろとしたが案内板もない。こっちだろう、とほぼ当てずっぽうで右方向へ向かう細い道を、絶対にこれは誰かの敷地内だと確信しながら、急いで行くと、左上方に薬師堂が見えた。ああ、きっとここだ。階段を登り、薬師堂敷地内に入ると、あった、鈴木六林男の句碑が。

月の出の木にもどりたき柱達      鈴木六林男


う~ん、六林男らしい句だ。〈月の出の〉は〈柱達〉にかかるのだろう。何本もの柱が月の出と共に元の自然の樹木に戻りたいと願っている。〈柱かな〉では全然だめで、〈柱達〉と複数形にすることにより、意味的にも強化され、句も引き締まる。〈達〉は漢字の方が句がまた引き締まる。〈柱たち〉ではゆるい。そして複数形だからこそ、人間の作った建築物がそのまま森を夢見ることになる。自然物をどんどん使う人間の文明に対する淡い批判を物言わぬ〈柱達〉に託したのだ。前衛性と社会性を混交させたじつに六林男らしい句だ。そして林業を主に営むのだろう、この東吉野村の句碑にふさわしい。この村はじつに樹木で溢れているのだから。
二枚舌だからどこでも舐めてあげる   江里昭彦
LITERA : 慰安婦日韓合意でネトウヨが「安倍、死ね」の大合唱! でも安倍の謝罪は二枚舌、歴史修正主義はさらに進行する


・ 二枚舌だからどこでも舐めてあげる     江里昭彦 

口語による前衛俳句の数少ない成功例だと思う。
まさに今の安倍首相の意志を見事に言い表しているだろう。
この俳句はこの時のためにあったんじゃないか、とさえ思ってしまう。


和田悟朗さん逝去
2月23日に俳人で化学者の和田悟朗さんが亡くなった。91歳。
僕が訃報を知ったのは昨日の深夜。全く知らなかったので驚いてしまった。

朝日新聞:俳人・和田悟朗さんが死去 07年に現代俳句大賞

Wikipedia:和田悟朗

20年ほど前、僕が俳句を始めたころに最初に参加した「もとの会」でお会いしたのが最初だった。それ以来5~6年ほどだっただろうか、白燕句会でもずいぶんお世話になった。科学者俳人ということで、当時まだ理系を引きずって俳句を始めた僕にとってちょうどよいお手本であり先生だった。聞けば何でも答えてくれた。それもこっちの想像を必ず裏切る答えだったのだ。いつも僕の何歩も先を歩いていた気がする。

蛇の眼に草の惑星昏れはじむ  和田悟朗

蛇が人間の暗喩だと気がついたのは和田先生と直接お話ししたからだ。人間はすべて知っていると単に思いこんでいるだけで、じつは何にも知らないのだよ、と。だから草叢しか知らない蛇がそこを草の惑星だと思っているのと同様に我々人間もこの世界を思っているのだ。そう思うしかないのである。我々人間はごく狭い範囲しか知らないのだ。

いつもニコニコされている穏やかな物腰と辛辣なジョークを合わせ持つもう二度と現れない偉大な人だった。

エッセイも卓抜で大変面白く、科学者俳人で言えば、寺田虎彦と双璧なのでは、と僕は思っている。もっとエッセイは読まれてよいと思うのだ。

心よりご冥福をお祈りします。
反戦句の扱われ方
埼玉の公民館が「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」の句の掲載を拒絶した一件、これはやはり、お役所特有のことなかれ主義でしょうね。詳しい経緯が載っていました。

東京新聞:梅雨空に「九条守れ」の女性デモ さいたまの70代俳句 月報掲載拒否

月一回の定例句会で20人が集まり一人二句出句で40句の中から一位になったのが当該句。その一位の句のみを翌月の月報に載せる慣例になっていたのだけど、今回のみ公民館側がその欄全部を削除した。公民館側の言い分は「世論が大きく二つに分かれる問題で、一方の意見だけ載せられない」「この句が市の考えだと誤解を招いてはいけない。」ということで、体制側に迎合したことなかれ主義。公的機関は今後もこういったことがありそう。今までも少しありましたが。

短歌は大丈夫なのだろうか。何かあったら言ってほしいです。プロの歌人の方は何か圧力を受けてませんでしょうかね。NHKとかから。
無季俳句はアンチ巨人軍か
もう僕は俳句にはかかわってないので批評する立場にないかもしれないが、気になったので、むかついたので書く。

「現代詩手帖」9月号の特集「詩型の越境―新しい時代の詩のために」の巻頭シンポジウムで奥坂まやさんの発言があまりに断言しすぎだろうと思った。

〈俳句は季語にたいする「お供物」〉
ま、そういう俳句もあるだろうけど、そういう俳句で傑作もあるだろうけど、有季であろうが、季語によりかからない俳句はいくらでもあるし、後で言う無季俳句ももちろん。だいたい季語そのものがもう相当怪しい代物で、旧暦新暦に関係なく季節感が相当ずれてきているし、だいたい夏が長すぎるしね。そういった怪しげな季語によりかからずに有季俳句、無季俳句を作ることに今俳句の意義があると思うのだけど、やめた人間にあまり言う権利はないが、ああ確かにないけど。

〈形而上的な部分は季語がひきうけてくれる〉
そこまで季語に頼って俳句を作っていると、ろくな俳句にならないよ。他の言葉にも頼って全然構わないでしょう。というか言葉云々ではなくて一句全体で形而上に行けることもいくらでもあるし。だいたい奥坂さんは季語だけじゃなく、言葉そのものを信じ切っているような。言葉そのものに疑問を持つことからすべての詩歌は始まるのだと思う。

〈無季の俳句はアンチ巨人軍のようなもの〉
僕は無季俳句をやってたのでこれに一番カチンときた。ええ、確かに僕はアンチ巨人でした。でも熱心な阪神ファンで、巨人が勝とうが負けようが阪神が勝つとうれしかったのです。(←実際にもそうだけど)
でもよく考えたら、俳句の世界って、短歌と違って2リーグ制なのかも。季語によりかかる「伝統俳句」と季語によりかからない「前衛俳句」と。ぼくは前衛俳句の側にいたから、伝統俳句がセ・リーグだとしたらパ・リーグにいたことになる。阪神ファンじゃなくて、なんだ、えーとオリックスファンか。今になってパ・リーグファンの気持ちもわかろうというもの。

つまり、無季俳句はなにも有季俳句に関係なく、成り立っているということ。俳句には最初からルールがあるわけじゃなく、俳句という韻律があるところから俳句の可能性をいろいろと模索しているうちに、自ずと俳句の領域みたいなものが見えてくる。その模索を否定して最初からルールがあるとするのがだいたい伝統派の言い分。奥坂さんのは結局典型的な狭い範囲の伝統俳句派のいつもの言い分でしかない。

〈盗作は取り消せる〉
これは初めて聞いた。確かに取り消せるのも多いと思うけど、ものすごくオリジナリティの高い俳句に関しては、取り消して済む問題ではない。この人はだいたい俳句のオリジナリィを否定している。橋下徹や麻生太郎の失言が取り消せないのと似たような盗作まがいのも今まであったし。そこまで気楽な文芸ではないでしょう。

〈連作には反対〉
いや、だから反対してどうするの。やればいいじゃない。

もっとセパ両リーグに通じた俳人を連れてきてほしい。いくらでもいるんだから。前のゼロ年代特集の時もそうだったけど、「現代詩手帖」は俳人の人選をいつも誤る。歌人の人選は間違いないのだけど。伝統俳句しか俳句じゃないと思ってるのかな、思潮社の人は。
俳人の阿部完市さん逝去
また突然の訃報です。
俳人の阿部完市さんが逝去されました。死因は心不全。81歳でした。
僕が俳句時代最も影響を受けた人の一人で、文体や韻律の影響をかなり受けました。明るさとシリアスさが完全に溶け合ったその韻文世界に何度うっとりしたことか。

絵本もやしてどんどんこちら明るくする
栃木にいろいろ雨のたましいもいたり
木にのぼりあざやかあざやかアフリカなど
淡路島と色彩学とはるかなり
きらきらしきらきらしきさらぎの碁打ち


ご冥福をお祈りします。

夢に永田耕衣が
昨晩、ホスピスの病室で、母の付き添いとして、ソファーをベッドにして寝た。いつも妹がやっていてたまにはこちらが代わらないと大変だろうということで。
夜中に母が、胃がむかついたり、いらいらしたりで、なかなか寝てくれないのでこちらも気になって寝られない。2回ナースコールをしてそれぞれ薬を投与してもらった。それでも明け方、少し寝た、その時、変な夢を見た。二本立てで。一本目は前の実家のことなので、ここでは飛ばすとして、二本目である。

どこかの殺風景な部屋で、何人かとなにかの用事をしていて、そこに大きな丸い棺桶のようなものがあり、誰かが、これ永田耕衣がいるんだよ、と言う。まだ火葬してなかったのか、と訝っているうちに、それが開いて、中に、丸い顔した大きな死んだ赤ん坊のようなのが眼をつむってじっとしていた。皺の多い赤ん坊だ。これが永田耕衣か、と驚くうちに、目を開け、ギョロギョロ、と周囲を見る。

おい!生きてるよ、永田耕衣が!

僕もみんなも仰天し、騒ぎになり、それで部屋を出てって、またしばらくして戻ってきたら、今度は永田耕衣が10歳ぐらいの、額の広いとても聡明そうな少年の姿で机にきちんと座り、今まさになにかをやろうとしていた。これは紛れもなく永田耕衣だ、とまるで神でも見たかのように興奮していたら、眼が覚めた。

ふー、変な夢を見る。母はあと一週間ほどかな、という感じだ。やはりどこかに、生まれかわってほしい、という願望があるのかな。なにか別の形ででも。そういうものなんだろうか。

少年や六十年後の春の如し    永田耕衣

耕衣の代名詞のようなこの句は、やはり自分が死んで60年後に少年として生き返る、というふうに読めてしまう。もちろん、別の目の前の少年が60年後には今の自分になっている、という二つの逆の意味が一句で交錯してしまっている脅威がこの句の醍醐味だろうか。そして一句で世界のすべてを言い切ろうとした耕衣俳句のこれは一つの達成だろう。


永田耕衣【ながた こうい】(参照)
1900年―1997年。俳人。兵庫県高砂市生まれ。俳誌「琴座」主宰。東洋的無の精神を主張し、観念・諧謔・卑俗の融合した、自在の境地に立った句を作った。
赤尾兜子の兄
宇和島のところが読みたくて、司馬遼太郎の「街道をゆく(14)南伊予・西土佐の道」を読み進めていたら、大洲のところで赤尾兜子の兄が出てきてびっくりした。司馬遼太郎と赤尾兜子は同じ大阪外大で友人だったというのはよく知っていたが、その兄がいるとは全く知らなかった。俳句時代、赤尾兜子の周辺をうろうろしていたのにである。

この文章によると、赤尾兜子の実兄、赤尾竜治は今の姫路市網干の出身で、代々材木業を営み不動産業にも手を伸ばしていたそうだ。

竜治は中学を卒業してすぐ事業に入ったそうだが、その事業の傍ら、同じ網干の出身の江戸期の禅僧、盤珪禅師の研究を続け、その全集を編むために50歳を過ぎてから受験勉強して大学に進学してまで研究に没頭して、ついに昭和51年「盤珪禅師全集」を著したそうだ。誠にあっぱれである。さすが赤尾兜子の兄というべきか。弟と違って名声に関係なく全く市井の人としてその研究を完遂したというところがすがすがしい。

盤珪禅師は江戸初期、大洲藩主に請われて播州からこの大洲に招かれ如法寺を開いたそうだ。その如法寺に盤珪禅師の史料がたくさんあり、赤尾竜治があしげく通ったそうだ。それでこの「街道をゆく」に赤尾竜治のことが出てきたのである。

人にはいろんな一生があるんだなぁ、と気持ちのよい感慨にふけることができた。
俳句韻律の可能性
僕は俳句時代、永田耕衣が主宰する『琴座』(りらざ、と読む)に二年いて、それが終刊になったあと、同じく『琴座』だった花森こまさんの『逸』に参加し、そのあと、攝津幸彦の同人誌『豈』の関西支部句会に堀本吟さんを頼って参加した。この句会が川柳作家を巻き込んで『北の句会』として新たに立ち上がり、第1回から参加させてもらったわけだが、短歌に転向してからはもう俳句の会はどこにも出ていない、というか俳句を全く作らなくなった。

で、永田耕衣、攝津幸彦など、僕に言わせば、どろどろ系に僕は居たわけだが、実際は何を隠そう外見に反して、長谷川櫂、阿部完市、四ッ谷龍などのさわやか系が好きだったのだ。周りに同志が少なかったのであまり声を大にして言わなかったが。もっとも永田耕衣、攝津幸彦は僕の好みなど軽がると超えてくる。それぐらいの圧倒的な魅力ではあった。でも実際のところ抒情の質から言うとそんなに好きではなかったのだ。なにも俳句仲間には隠していたわけではないですが、あまり言う機会がなかっただけだと思う。なんせ攝津幸彦は僕の周りでは絶対だった。まさに神のような存在だったのだから。僕も最初に俳句をやりだしたきっかけはやはり攝津だった。これはどうしようもない魔力のようなものだろう。

と、まぁ、俳句のことを書き出すとなんぼでもあって長くなるが、『未来』から俳句に関する文章を書いてください、という依頼があり、以下の文章を書かせてもらった。
俳句の韻律の可能性みたいなことについてである。が、別に可能性についてはなんにも論じてはいない。要は阿部完市、四ッ谷龍が最高、ということを、今まで声を大にして言えなかったことを書いただけである。だからちょっとスッとしました。


俳句韻律の可能性   細見晴一    (『未来』11月号より)

三十代後半の頃、様々な現代俳句を読み、そして自分でも少し俳句を作った。永田耕衣、攝津幸彦、金子兜太、高柳重信、長谷川櫂、夏石番矢などの主に前衛俳句に夢中になり、いわゆる俳句フリークだったと言える。しかしなかでも、その抒情の質の点において、そして韻律面において、最も僕を虜にしたのは阿部完市と四ッ谷龍の二人だった。

    ・阿部完市
    絵本もやしてどんどんこちら明るくする
    栃木にいろいろ雨のたましいもいたり
    木にのぼりあざやかあざやかアフリカなど
    淡路島と色彩学とはるかなり
    君よぼかんぼかんと牡丹大花こわす君
    きらきらしきらきらしきさらぎの碁打ち
    みてやれば水素記号のようなり舟の子
    たすけてほしいのです洋梨くるりくるり
    綿畑わたはなすらすらととどけられたる

社会性思想性を帯びた難渋な前衛俳句を通り抜けてきたあとの、開放感のある乾いた明るい抒情。俳句の世界では「あべかん」の俳句は難解すぎるとよく非難されたが、意味を解そうとするから難解なのであって、僕は言葉を素材とした音楽として楽しんでいた。つまり俳句という名の音楽なのだ。五七五定型から微妙に絶妙にはずされたこれら韻律に、ほとんど記号と化した言葉がリズム良く乗り、記号と俳句韻律による音楽が奏でられる。聴く側(読む側)はそれにうっとりと身を任せるだけでよい。

    ・四ッ谷龍
    シーツみたいな海だな鳥たちは死んでしまった
    明るい三角の部屋で君の背中がパリ
    むこうがわに人間もいてものものしきブギウギ
    菩薩を感じつつだぶだぶのズボンで走る
    土俵の直径についてバラを見ながら言う
    ゆがんだ頭のような山ありビデオに撮る

四ッ谷龍はその俳句のほとんどを五七五定型で作るのだが、主に若い時の句にこういった自由律の句が多く見られる。有季定型俳句の高浜虚子と袂を分かった河東碧梧桐の弟子、中塚一碧楼の影響を強く受けたらしい。このように口語自由律俳句が細々とではあるが、現代の口語を反映したスピード感のある韻律で受け継がれているのである。
昭和三十三年生まれの四ッ谷は、現代的なモチーフで現代的な俳句韻律をものにした稀有の俳人ではないだろうか。短歌においては、この四ッ谷と同年代の加藤治郎と、僕の中ではだぶってくる部分が多い。
僕は俳句時代、この四ッ谷の影響を強く受け、自分でも口語自由律俳句を作っていたのだが、それがどうにもしんどかった。俳句と短歌のちょうど間ぐらいの長さで韻律が落ち着かないのだ。それで苦し紛れに短歌に行き、韻律が落ち着いて開放されたわけである。だが破調や自由律の面白さが病みつきになっているので、短歌に行ってもしばらくはこの方向を止めないだろうと思う。

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