リアリズムの存在理由
加藤治郎さんのTwitterより

事物の描写に尽くす。それは、自分の思いが身勝手なものではなく、普遍的に世界に存在することを確かにするためである。


ああ、そうなんだ、と思い知らされた。
文学においてリアリティがなぜ大事なのかは、「自分の思いが身勝手なものではなく、普遍的に世界に存在することを確かにするためである。」だからだ。
リアリティの基盤が無ければ文学は無意味なのだ。
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短歌を通じた他者との交流
昨日の毎日新聞だったか、吉川宏志氏がいいことを言ってた。
酒井佐忠氏の文章から、以下に全文掲載する。

毎日新聞2016年2月29日
詩歌の森へ/短歌批評と「他者」=酒井佐忠(文芸ジャーナリスト)

短歌の批評について、世代間での価値観の違いや、小さな自己の思いや感覚にこだわるために、閉そく感におおわれていると指摘されて久しい。そんな中で、ていねいな作品の読みから、柔軟に他者へのまなざしを注ぐことの重要性を説く、吉川宏志の『読みと他者・短歌時評集二〇〇九−二〇一四年』(いりの舎)は、新たな短歌批評を提示する貴重な一巻だ。

 もともと批評とは、作品と「他者」の関係を問うものではないか。共同通信配信の時評「短歌はいま」を中心に、さまざまな論が展開されるのだが、著者が作品を通していかに「他者」に寄り添うか、その姿勢を強く求めているのは、一貫している。この間、短歌は、東日本大震災や原発事故、さらに戦後七十年という大きな社会問題を抱え込んだ。短歌は、あるべき言葉と批評を求めて大きな波に揺られ、もがいた。

 吉川は書く。「外側にあると思っていた他なるものを、自己の内側で体感し直すこと。違和感から共感への移り変わり。そのほんのわずかな時間の変位の中に、生命感のある読みが現れてくるのではないか。それが、自己と他者のあわいに新しいものを創り出すということなのである」。実に示唆に富んだ指摘である。新しいものを創出するためには「柔軟な自己」が必要という。これはいま、短歌批評に限ったことだけでないのはもちろんだ。



短歌を通じた他者との交流のことだ。歌会に出席しててよく思うことがあるが、他者の短歌を読んで批評することと、他者の批評をちゃんと聞くこと、この二つを通じて、他者との交流が図れる。他者と通じ合うことの難しくなったこの現代社会において、これは素晴らしいことなのだと。
だから歌会では自分の歌はさておき、他者の歌に寄り添い、他者の批評に寄り添う。寄り添って自分の中に取り込み、吟味して、また批評として出す。この繰り返しの果に、他者との交流という至難をやってのけているのだ、我々歌人は。なんとすごい。
短歌をやってて本当によかったな、と思う。句会ならこうはいかない。句会では批評よりもどちらかというと作品を披露する場だからだ。自分の作品に何点はいるか、どう評価されるかに力点が置かれる。ある程度閉じてしまう。短歌は他者に開かれているなとつくづく思った。

吉川氏の言う「外側にあると思っていた他なるものを、自己の内側で体感し直すこと。違和感から共感への移り変わり。そのほんのわずかな時間の変位の中に、生命感のある読みが現れてくるのではないか。それが、自己と他者のあわいに新しいものを創り出すということなのである」は至言である。そしてそうやって形成された「柔軟な自己」こそが今の世界に最も欠けているものなのだと。如何に他者により添えるかで、その人の真価はある程度決まる。そう思いたい。

短歌というのはたった31文字と短いので、そのままでは未完成なのだ。他者に批評されて初めて完成する。そのことを歌人はだれよりも知っているものと、僕は信じている。
塚本邦雄再読
塚本邦雄を再読している。読み落としていた歌がかなりあった。

藺を刈りて遺髪のごとく炎天に並べをり 国歌なき日本      『日本人霊歌』 
かまきりの卵の膠かわきつつ冬、不信もてつながるわれら    『日本人霊歌』 

昭和30年代と時代状況は違うのになぜか一致する言説。なぜだろう。
論ステーション : 戦争は遠いけれど 野樹かずみさん/柴崎友香さん
今朝、毎日新聞をぱらぱらめくってたら、いきなり、「野樹かずみさん」という見出しと野樹さんの写真が飛び込んできたので、びっくり。知ってる人が何気なく新聞の中にいると驚く。

論ステーション:戦争は遠いけれど 野樹かずみさん/柴崎友香さん
毎日新聞 2013年08月09日 大阪朝刊



テーマは戦争体験の継承に関すること。作歌の柴崎友香さんと共に写真入り一面を占めている。

学生時代に在日韓国人被爆者の聞き書きに携わったことを中心に被爆体験の継承について。

「被爆体験の継承と言っても、「私」のことでないと普遍的にならないと思います。スローガンになるだけで、人が変わったり、物事を動かしたりしていくことにはならない。短歌が面白いのは、個人的なことが普遍的であるという点。歌人の竹山広さんは長崎で被爆し、歌を残しています。

 人に語ることならねども混葬(こんそう)の火中(ほなか)にひらきゆきしてのひら(竹山広)

 この歌は被爆状況をそのまま伝えて、被爆経験のない人にまで見たような気にさせる。しかし、私に竹山さんのような短歌を詠めと言われても無理ですし、嫌です。私は私の場所を生きていく。」

と、この広島で自分の子供にも、そして短歌ででも、できる限り被爆体験を継承していくんだ、という願いを語る。

一方、作歌の柴崎友香さんは歌人とは全く違う視点だ。

「最近考えているのは、文学とは何か間接的なものではないかということです。直接自分の思いを語るというのではなく、小説の作者が媒介者となって、死者の思いや自分ではない誰かの体験を伝えていくということではないか。
 個人の体験が小説という形で普遍化し、いろんな人に共有化されていく。小説を読んでいる間は、その小説の中の世界と、小説の中を生きている人と自分も一緒に生きることができます。絶対に会うことがない、何の接点もない、話すことが不可能な人の言葉を聞き、自分の記憶のように共有することができます。それが小説の一つの意味ではないでしょうか。戦後30年たってから生まれた世代として、何か伝えられることがあるのではないかと今も模索しています。何らかの形で、また戦争のことを書きたいと思っています。」

私性にこだわるしかない短歌と、私性にこだわる必要のない小説との対比が鮮やかで興味深い。

そして柴崎友香さんは最後に

「常に戦後であり、戦前であって、いつ何が起こるか誰にも分かりません。過去を考えることは、同じだけ現在や未来のことを考えるということではないでしょうか。」

と締めくくる。確かにだからこそ、同じことを繰り返さないように、戦争体験をどんな形ででも継承していかないといけないのだろう。

数マイクロシーベルトほどの愛
若い人の短歌を読まなきゃいけない、と痛切に思った。
未来短歌会に所属する者にとって、一つの有効な窓口は野口あや子の時評である。今、未来誌一年分の主だった文章を読み直しているが、彼女の時評がなかなか面白い。

2012年『未来7月号』の時評より

あなたから全人類に配られる数マイクロシーベルトほどの愛  藪内亮輔「愛について」


ウェブサイト『詩客』の「愛について」一連の批評が『早稲田短歌』にあってそれへの批評らしいが、話がややこしいのでそこらへんは割愛させていただく。

要するに僕個人はこの短歌が痛烈に面白かったわけだけど、この一連の他の短歌、たとえば

子が親に似るといふこと原子炉が人類に肖(に)てゐるといふこと      藪内亮輔
シーベルトのなかに広大な海がある。其処のひとつに触れてゐたのさ      〃
被曝限界量をしづかに上げるとき身体のどこか雪の降りゐる          〃
われらは原子炉の灯をともし黄色(わうしょく)の花さかさまに咲かすひまはり 〃


にもあるように、藪内亮輔は原発事故というもの放射能汚染というものを一つの自然現象として、あるいは、全人類で循環する〈愛〉として受け入れようという痛切な諦念を我々に提示してきている。

だが一筋縄ではいかない。〈数マイクロシーベルト〉というのは実は無害なのだ。これが〈数ミリシーベルト〉なら有害なので、解釈が全く変わってくる。無害だからこそ、いちいちマイクロシーベルト単位でやいやい言う無責任な連中をここで痛烈に揶揄できている。『早稲田短歌』の吉田隼人と同様、ぼくもやられた、と思った。僕が書きたかった短歌だと。おそらく日本人の99%はミリシーべルトとマイクロシーベルトとの区別が付いていない。なんでもシーベルトとくると、目くじらを立てる。これがもう歯がゆいやら情けないやら腹が立つやら、もう今まで散々いろんな人に言ってきてて顰蹙を買っていたので、溜飲が下がりました。薮内さんありがとう。でもだれもこの短歌を読んでもこんなことわからないんだろうけど。

〈原子炉が人類に肖てゐるといふこと〉からわかるように、ここでの〈あなた〉は〈原子炉〉でありその原子炉を作った〈人類〉なのだろう。つまり今度の福島原発事故での放射能は人類から人類へ配られた〈愛〉の具体的な形なのだ。それが〈数マイクロシーベルトほどの愛〉なのである。結局は無害なのだが、具体的に数値があり、それを〈愛〉として受け入れましょう、という。それぐらいいいでしょう、ということ。我々みんなが許容していた原発から発生したのだから。それは我々自身から我々自身へと向けられた〈愛〉なのだと。僕のように我々自身の〈責任〉なんて野暮なことは決して言わない。〈愛〉なのだと。なかなかにやさしく、厳しい。

野口あや子はこの〈あなた〉を総合人格としてとらえているが、まあそれでもいいのだろうけど、それだけでは少し説明不足だと思った。

あと細かいことを言うようだけど気になったので。

放射線量は距離の二乗に反比例する。おそらく、愛も。
致死量の愛、其れはすなはち一〇ベクレル、もちろんわれも死に至るなり  藪内亮輔


詞書での〈距離の二乗に反比例〉は〈距離の三乗に反比例〉のはずなんだけど。放射性物質の強さは電磁波でもそうだけど、空間へ放射するので、基本は距離の三乗に反比例する。ただ、地面は突き抜けずに反射するので、正確に三乗ではないけど二乗ではない。2.5~3乗ぐらいでしょうか。まあこの場合科学じゃなく文学なんだから三乗にしとけば問題ないんだけど。

ああ、とにかく若い人の短歌をもっと読まなきゃ、と思った。中にものすごく面白いのが潜んでいる。それは間違いないんだけど、それがどこにあるか全く分からない。とにかく野口あや子さん頼りだ。頼りにしてますよ、野口あや子さん。今後も数年は時評お願いしますね。
鈴木博太「ハッピーアイランド」
今年の短歌研究新人賞受賞作、鈴木博太さんの「ハッピーアイランド」30首を読んだ。

以前からタイトルは知っていたので期待はしていたけど、全く予想以上だった。
30首があっという間で、読み終わった時、まだあると思ってもう1ページ捲り、別の人だったので、ああもう終わりなのか、もうこれ以上はないのかと、なんと残念だったことか。あと100首ぐらいはこの調子で読みたいと切に思った。今まで20首、30首の連作は何度も読んだことがあるけど、ここまで思ったのは初めてだ。どんなに優れた一連でもここまでは思わない。

選考委員5人のうち、一位が3人、二位が一人、3位が一人、とぶっちぎりである。今回受賞を狙っていた人は相手が悪かったと思って観念するしかない。

以下、30首から8首のみ抜いた。

鳥籠の後ろの正面惨後憂き上は大水下は大火事
ゆでたまごをれんじにかけるとおくからおもしろそうなハイぼくのこえ
歳ガ素の人がオトずれ「フッキュウにヒト尽き」「ここハマッタンでして」
とりあえず窓を閉め切り出来るだけ出ないおもてに奔と卯のそら
Dieコンノへ んナカタちがテント ウニナラびはじメタハチがツショじゅん
フクスィマにいきたくない使徒フクスィマでいきたく死と うえのえきなう
ふりかえるトきがあるナラみなでまたやヨイとおカヲやろうじゃないか
ふるさとはハッピーアイランドよどみなくイエルダろうか アカイナ マリデ
「短歌研究9月号より」


鈴木博太さんは福島県いわき市在住。それも福島第一原発から40キロの距離。避難しなくていいのだが、避難しなくていいだけに最も過酷なところだったのかもしれない。

表記が特殊だ。選考委員の一人、加藤治郎氏の批評が非常にわかりやすかった。
つまり、平仮名、片仮名、漢字交じりの表記でまるで誤変換のように文節をズタズタに破壊してゆく。その破壊された文節が日常の比喩になってて、だからこれは表記的な喩、というわけ。それは福島の人にとって体に直接的な痛みがあるわけでなく、でも放射能は危険だと言われて現実が歪んでいるようにしか見えない。その歪みがこの表記に表れているという。

なるほど見事な表記的な喩です。ため息が出るぐらい。

ということで、あえて上の8首をここでは解読しない。なぜなら、読み解く楽しみを奪いたくないからだ。読み解けた一瞬、読み解けたという快感に襲われ、その次の一瞬、福島の人の苦悩がせり上がってきてそれと同化してしまう。快感と重い傷みがほとんど一緒に胸にズンと来る。この不思議な感覚は他では絶対に味わえない。他人に解読してもらったところで、感動は半減する。だからネタばれ厳禁なのだ。

そして同化することで、フクシマを悼むことになるだろう。我々はまだフクシマを悼んではいない。それどころか責任の所在の追求ばかりに熱心で、フクシマそのものからは逃げてしまっていないだろうか。我々一人一人がフクシマを悼むことから始めないと、フクシマをのりこえてゆくことはできないだろう。フクシマをのりこえずに未来はない。

もちろん表記的な喩を駆使した歌ばかりではなく、普通の表記の歌の方が多く、全体にバランスが取れてて、一連として読んで初めて感動できるのかもしれない。ぜひ30首全部読んでいただきたい。

ふりかえるトきがあるナラみなでまたやヨイとおカヲやろうじゃないか


何度読んでも泣きそうになる歌だ。我々はフクシマについて一度泣くべきなのだと思う。怒るばかりではなくて。博太さんはそれを教えてくれた。ありがとう、博太さん。本当に大変だったんですね。そのことがこの30首を読んでよくわかりました。

この震災や原発事故を扱った文学作品は多々あるのだけど、これがその白眉ではないかと思うのだが、どうなんだろう。
被害者と加害者
今頃、去年の『未来』を読んでいる。

ちぎられた羽根が散乱する部屋で僕たちはみな被害者である    北原亜紗未
ここに血が流れなくとも残虐な僕たちはみな加害者である         〃
(『未来』2011年10月号彗星集より)


人間なんてのは誰でも被害者意識を持ちたがるが、加害者意識は絶対に持ちたがらない、と事あるごとにあちこちで僕は言っているが(で嫌われているが)、やっぱりみんな、被害者であり加害者なのだ、とこの二首を読んで納得した。

フクシマにおいては、日本人はみんな被害者面するんだけど、僕からすれば、深刻な被害を受けた福島人のみが被害者であり、それ以外の日本人はみんな電気を使う側にしか過ぎないのだから、れっきとした加害者である、とこれもあちこちで僕は言ったが(その度に嫌われたが)この2首を読んで考えが変わった。

言いなおすと、福島人はやはり被害者でしかない。これは当たり前だ。しかしそれ以外の日本人は皆、被害者でもあり加害者でもあるのだ。これが感情的ではない、そしてイデオロギー的でもない正確な言い方だろう。少しは僕も丸くなったか。これで嫌われなくなるか。いや、やっぱり福島人以外の日本人は皆、自分は被害者でしかない、とやはり思っているのなら、これっぽっちも加害者と思っていないのなら、やっぱり僕はこれを言うと嫌われるだろう。

でもどんなに嫌われてもやっぱり言うしかない。一人一人が加害者意識も持たないと、社会が円滑にまとまることは絶対にないのだから。何が起こっても全部お上ばかりのせいにするのはもううんざりである。政府や東電ばかりに責任があるのではない。電気を垂れ流し的に使い続けた我々一人一人の方にこそ責任があるのだから。政府や東電のせいにしたいのは責任を自身から転嫁したいだけなのだろう。

上の2首は別にフクシマのことを言ったわけではなくて、もっと素朴な感情だろうと思う。それだけに純化されていると思った。女性なのに〈僕たち〉と言うところがまたいいのかも。これが男性の作品ならどう感じただろうか。おそらく、男性が〈僕たち〉と言うと男性のことのみ言ってるようなニュアンスがどこか残るのだけど、女性が〈僕たち〉と言うと男女を越えて完全な一人称複数として作用するのではないだろうか。短歌実作者としては女性の方が得してるような気もするけど、おっと、これが被害者意識か。あぶない、あぶない。
第55回短歌研究新人賞
いやー、めでたい。
僕と同じ未来短歌会彗星集所属(加藤治郎選歌欄)の鈴木博太さんが第55回短歌研究新人賞を受賞されました。
おめでとうございます。

こんなにめでたい受賞は今までちょっとなかったかもしれません。同じ所属だからではなく、だって彗星集でこの賞を受賞している人はいったい何人いるんだ、わからん、という状況なので別に珍しくもないし。またか、という感じだし。でも、あ、そうか、受賞者はすべて受賞してから彗星集に入ってきてないか?彗星集所属で受賞したのはひょっとして初めて?

ま、それはいいとして、なぜそれほどめでたいか、というと、鈴木博太さんは福島県いわき市在住で、あの震災で津波、原発、両方ともに被災され、何とか踏ん張ってこれまでがんばって来られたのを我々彗星集の面々は知っているからなのです。

いやー、めでたい。本当におめでとうございます、鈴木博太さん。

これは歌壇のニュースで終わらないね。一般のニュースになりそう。博太さん、ひょっとしたらテレビに出なきゃいけないよ。

はやく受賞作を読みたいです。
文学バー「リズール」
昨日はよく喋り、よく飲み、よく議論し、よく笑った。そして少し怒った。(これは反省)

まず、sora歌会。場所は天満橋。13人と大盛況。
最近は新人さんが多い。ありがたいことだ。こっちも刺激を受ける。
去年から、まだ学生さんで詩の勉強をしているM上さんが熱心に毎回来てもらってる。スジがいいので今後が楽しみ。

昨日は、プロのジャズミュージシャンのK松さん。文学の会は生まれて初めて、ということだったが、会の半ばにはもう慣れてしまっていた。さすがだ。この人も今後が楽しみ。

sora歌会は短歌の会だが、短歌以外の人がすごく多い。ますます多士済々になった。

いつもの炉端で懇親会。K松さんの歓迎会のはずが、気がついたら、隣に座ったN口さんと原発談義。物理の先生なので、前からこの人と原発の話をしたかったのだ。一時間ぐらい話し込んだだろうか。結局平行線で終わったが、次回リベンジしたい。

そこから地下鉄を乗り継いで、心斎橋の文学バー「リズール」へ。着いたのは8時ぐらいだったか。ここは小説家の玄月さんがプロデュースしたということで大阪ではニュースになっていて、以前から行きたかったのだ。半ば強制的に皆さんをお連れしてしまった。僕を入れて7人。


文学バー「リズール」

地下一階の細長い店内。壁にはびっしりと文学関係の書物が。といってもほとんど小説ばかり。そりゃ小説家だから仕方ないけど。詩の関係も少しはあった。金時鐘の詩集や尹東柱の本があったのはさすが。僕が読みたかったのは韓国の短編小説集。つい最近、ヤン・イクチュンやキム・ギドクの映画にびっくりしたので、韓国の小説家が書く物語にはどうしても期待してしまう。でも酔ってたので、読むことはなかった。見ただけだったけど。短歌や俳句は全く無かったと思う。やはり第二芸術なのかな。少なくとも小説家から見れば。

盛り上がったのは、ここのオリジナルカクテル。「杜子春」や「雪国」「星の王子様」など古典的名作のタイトルがカクテルの名前になっている。中でもやっぱり「人間失格」。

H坂さんがこれを注文していて、店員さんが運んでくると

「人間失格の方は?」

と聞く。H坂さんが

「はい私です。」

と答える。ここで爆笑。でもこの時僕はその場にいなかった。トイレか、本棚をさまよってたらしい。残念。あとで聞いて一人爆笑していた。

こういうのもっと増やせばいいと思う。「罪と罰」「白痴」とか「イワンのばか」とか、「異邦人」。そうそう「ロリータ」も。あと調べたら出てく出てくる。「危険な関係」「肉体の悪魔」「愛人」「破戒」「裸の王様」「坊ちゃん」。自虐的なのとか、怪しげなのとか、うけると思う。

「白痴の方は?」「はい僕です。」
「愛人の方は?」「はい私です。」

いいなぁ。
また行こうっと。

玄月さんいたよ。カッコよかった。
開催か中止かで悩む
こんなときに歌会や句会をしていいものなのか、ずいぶんと悩みました。
それで相談した結果、21日のsora歌会は中止にしました。もうメンバーのみなさんにはメールで行ってます。

やってもいいかな、とか思うんだけど。しかし、被災地では物資が圧倒的に不足し、首都圏でも計画停電、ということでやっぱり自粛しよう、と思います。しかもそれに輪をかけて、福島原発の目を覆うばかりの惨状。不安でなりませんし。俳句や短歌どころではない気持ちです。

はやく福島原発が解決して、被災地が復興に向けて明るい状況が見えてくることを祈ってやみません。

しかし、使用済み核燃料プールがこれほど深刻だったとは。自分の無知を恥じます。

プールの使用済み核燃料もメルトダウンの可能性