野口毅展
もうあれから2年経ったのですね。早いものです。
毅君も19歳です。どんなふうに変わったのだろう。
少し見た感じでは暖色系が多くなったような気がするのですが。年齢的にはそのほうがいいんでしょうね。
(画像ページ)



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「色と遊ぶ 野口毅」展

 2008年8月5日(火)~10日(日)
 AM11:00~PM7:00(最終日PM5:00)
           (あわせて、野口毅画集Ⅱ発刊)

ギャラリーミウラ(神戸市中央区中山手通1-8-19)
(地図)

  TEL 078-391-2665(会場)
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野口毅がすごい!
今日は仕事が疲れたので、批評会の文章はお休みします。

それで久しぶりに野口家のホームページを覗いてみたら、野口毅が大変なことになっていた。
作品.100から急に洗練されたものになっていた。順番に見ていって、(作品.101作品103)あれっあれっ、すごいすごい、と思っているうちに、作品.105で、あっと奈落に落とされたようなショックを受けた。

なんなのこれ!

中央にある赤と白の帯はなんなのだろう。布だろうか、石膏だろうか、はたまた何かに開かれた窓なんだろうか。まるで前衛俳句を見ているような不思議な感情を覚える。

一体この17歳の自閉症の少年は何者なんだろうか。将来いったいどんな絵を描くのだろうか。楽しみでもあり、怖いような気すらする。
とにかく彼も今の時代を峻烈に生きているのは間違いないようだ。
立派な芸術家とは
「ちゃんとした手続きを踏んでいる。息子でありながら、立派な芸術家ですよ。その人間の人格を踏まえて仕事をしてもらっている」

立派な芸術家かどうかは実のところ、よほど評価されている人を除いて客観的判断はきわめて難しい。まぁある意味言ったもん勝ちの世界ではある。

石原都知事の四男で画家の延啓氏(40)が、都の芸術振興事業に関連して、突然、外部委員に委嘱され、公費でヨーロッパに出張していたとする調査結果が発表された。旅費約55万円は都の補助金から支給された。が都は「適切」としている。
また、04年1月、石原都知事がスイス・ダボスでの「世界経済フォーラム年次総会」(ダボス会議)に出席した際、現地で開いた知事主催のパーティーでの大鼓演奏の舞台背景制作者としてこの四男の延啓氏が同行していたことが5日、分かった。事前調査と合わせ、2回分の旅費約120万円は公費から支出されていた。都側は「演奏者の意向で四男が舞台背景を担当することになった。都が四男を選んだわけではない」と支出に問題はないとしている。

「違法性があるんですか!」と石原都知事はマスコミにかみついている。違法性があるかどうかがおそらくここでは問題ではないだろう。

都の芸術振興事業の外部委員に委嘱されたのも、もちろん石原都知事が言うとおり人選に絡んでいないだろうし、また演奏者の意向で四男が舞台背景を担当することになったわけで、これも石原都知事が人選で絡んでいるわけではおそらくないだろう。だから違法性はないと言っていいと思う。だが選ぶ側に、絶対的な権力者である石原都知事の親族を選べば喜んでもらえるだろう、というバイアスが人選の際になかったとは否定できない。というか、あったと解釈されても仕方がないだろう。想像するにこのご子息はこういった人選にパスしてもなんらおかしくない実力の持ち主に違いない。つまり立派な芸術家であるわけだ。だから選んでもかまわない、と人選する側は思い、他の人もいたけどこの人にしといた方が何かと後々いいんじゃない、と思ったかもしれないし、思わなかったかもしれない。が、たとえ思ったとしても違法性は全くないだろう。しかしだからといって、権力者の親族がこういった主観が支配する芸術の分野で選ばれるということがどういうことを意味するのか、を当の権力者は常に分別していないとだめなのもまた道理だ。それが国会議員や自治体の長たるものの、最低限のエチケットだろう。また単なる知事ではなく有名人の親族なのだからなおさらだ。

この国の有名税が時折思いのほか高くつく、ということを、この都知事はどうもいまだに理解していないようだ。違法性は無くとも名誉が著しく傷がつくことは有名人ほどあるわけで、そしてこの名誉毀損は誰にも訴えることは出来ないのである。
野口毅展に寄せて
8月12日、神戸三宮、ギャラリーミウラでの第3回野口毅展「色と遊ぶ」に行ってきた。
2年前の個展も見たのだが、今回明らかに洗練され進化していた。

野口毅くんは17歳の高校生。小さい頃より自閉症と診断され現在に至っている。お父さんの話によると、小さい頃より記憶力は抜群で色にとりわけ敏感だったが、言葉がどうもうまく扱えない、ということだ。ここまで読んだ方は、「なんだ自閉症の画家か」とお思いだろうが、僕も2年前は大なり小なりそんな感じで、俳句短歌の仲間であるお父さんの野口裕さんとの付き合い上仕方なしに行ったところが少しはあった。それと自閉症に関する個人的な興味と。だが作品.37 を見たときから、これはなんだか違う、尋常じゃないものを感じたのだ。あとこのときの作品.55作品.61作品.66 などの絵の色彩感覚とその色彩感覚の奥に込められた奥深い詩性にこのときもうすでに圧倒されていた。これが本当に13~4歳の子供が書いた絵だろうか、と。とても信じられなかった。色彩の奥にとても子供のものとは思えない明晰な頭脳と研ぎ澄まされた抒情を感じずにはいられなかったのだ。

この画家をより理解するためには自閉症についてもっと理解する必要があるのかもしれない、と思い至る。
野口毅くんは声の大きな大変元気の良い少年である。挨拶もとても元気がいいし人懐っこい感じだ。でも実際はどんな少年なのかは他人のぼくが知る由もないし、そもそも自閉症とはどういうものなのか、僕もだいぶ研究したがわからない。それでお父さんの野口裕さんが書いた、個展のための案内文があるので、勝手に拝借してここに全文引用する。第1回から第3回までの3篇の詩である。これで少しはわかるかもしれない。野口裕さんは高校の物理の先生だが詩がお好きで、俳句や短歌だけでなく時々詩も書かれるとのことだ。

1回目の個展

色と遊ぶ――自閉症の少年が発見した世界      野口裕

 あたりは一面真っ白の世界。何ひとつなく、どこまでも果てしなく白い世界。そこをわたしが歩いている。そしてわたしのまわりにだけは、明るいパステルカラーの丸がそこら中にいくつも浮かんで、色とりどりにきらめいている。そのきらめきの中を通ってゆく。うれしくて、声を上げて笑いたくなるような夢だった。――ドナ・ウィリアムズ「自閉症だったわたしへ」(河野万里子訳)より

 自閉症。英語圏ではIとYOUの区別のつかない症例として有名だと言う。自他の区別のない世界とは超越者のいる世界ではなかろうか。あなたのすることも私のすることも同じ。私がしなければならないことも、あなたがしなければならないこともすべて同じ。野口毅君はよく私に向かって、「お父さん、日曜日にお父さんと毅君は映画に行きます。」と呼びかける。決して、「映画に連れていって下さい。」とは言わない。超越者のいる世界からの声はなんと力強いことだろう。ついふらふらと約束をしてしまうのだ。「はい、お父さんと毅君は映画に行きます。」と。
 遠近法とは無縁の野口毅君の絵には豊かな色が満ちあふれている。ひとつひとつの色が野口毅君であり、絵を見ている私たちなのだ。その絵を見ていると私たちもひとつひとつの色それ自身になってゆく。そこに嘆きはない。朗らかな笑いが取り囲んで、私たちを元気づける。野口毅君が自他のない世界から発見したものだ。
 打算のない世界。嘘のつかない世界から来た色とりどりの夢。それは私の世界であり、あなたの世界なのだ。「あなたと私は色と遊びます。」


私とあなたの区別がつかない世界。そこでは「ひとつひとつの色が野口毅君であり、絵を見ている私たちなのだ。その絵を見ていると私たちもひとつひとつの色それ自身になってゆく。そこに嘆きはない。朗らかな笑いが取り囲んで、私たちを元気づける。野口毅君が自他のない世界から発見したものだ。」これを本当に理解するには大変難しいはずだが、彼の絵を見ているとわかったような気になるから不思議だ。本当にこんな鑑賞の仕方が出来れば、その人は大変幸福になれるだろう。

2回目の個展

忘れもの             野口裕

言葉が邪魔になるときはないだろうか?
いつもは大切な言葉
呼びかけたり 答えたり 知らんぷりしたり
計量カップのように気持ちの水かさを知らせてくれる言葉

だけど
あまりにもさわやかに風が吹いて日が落ちる頃や
緑の樹々がなにもかも光にしてくれるお昼時や
ざあざあとたっぷりの水が落ちてくる夜明けなどに
ふっと言葉を置き忘れていて
何かを思っているのだが
言葉にすると何かが違ってきてしまう
そんなことはないだろうか?

人は多くの言葉を知ってしまっていて
夕日の赤と黒のダンスや
緑の葉っぱのくすくす声や
白い光を練り込んだ雨の朝の前に
つい何かしゃべり始めてしまう

言葉を忘れたまま何か考え続けても
何も出てこないと決めてしまって


野口毅君は言葉が少々不自由です
いつも言葉を脇に置いて 色と遊びながら
ものを考えています

彼の絵の
水や夕日や樹々の鳥たち 土や人の顔
すべて色となり
遊び友達を求めて
光となって画面の外へ飛び出して行きます
そんな光を思う存分浴びてしまったら
忘れていたものを思い出せそうな気がしてきます

野口毅君とともに
色と遊びながら
忘れものを取りに行きましょう


注目すべきは「野口毅君は言葉が少々不自由です/いつも言葉を脇に置いて 色と遊びながら/ものを考えています」だろう。言葉を脇に置く、ということ、これは我々にはなかなか理解できることではない。なぜなら言葉から物を考えたり感じたりする癖が身についてしまっているからだ。言葉を脇に置けばたちまち我々は不安になるだろう。何をどう考えていいのか何をどう感じればいいのかわからなくなる。だから絶対にそんなことはしない。だが彼は言葉を脇に置いて、想う、様々なことを。それらを色に託すのだろう。普通のあらゆる画家も言葉を脇に置くということはしない。だから彼らが描く絵はすべてに理屈がある。言葉によって構築された理屈が充満している。それはたとえピカソの「アヴィニョンの娘たち」でも他のどんな抽象画でさえもそうだ。やはり理屈が勝ってしまっている。それは仕方のないことだ。というか、野口毅の絵を見るとそれがわかるのだ。どんな天才であれ、それが言葉を脇に置けない画家の宿命であり限界であるということが。ところが野口毅くんは生まれながらにして、軽々とその限界を越えてしまって向こうの世界にいる。彼は向こうの世界で一人で色と戯れているのだ。それが彼の思索であり、表現なのだろうか。今回の個展の絵でもその色が、喜びや悲しみや不安になったり、様々な推し量れない感情になったりし、見るものを感動させたり、不思議な気持ちにさせたりする。
作品.72作品.78作品.79作品.80作品.88作品.90作品.91作品.92作品.94
言葉を脇に置いて表現されたその作品群は、言葉をどうしたって脇には置けない我々にはあまりに鮮烈で未知の世界に溢れている。彼は言葉を脇に置いて、きっと色でもって自身の詩を表現するのに違いない。

画集の序詩(3回目の個展)

野口毅画集に寄せて            野口裕

誰の心の中にも
いくすじかの時間が流れている

明日は早起きしなければ行けないとか
嫌な人と会わねばならないとか
そろそろ冷蔵庫を整理せねばなど 未来に関すること
雨が降っているから傘を持っていこうとか
中庭の雑草にも花が咲いたとか
腹が減ってきたなとか 今日に関すること
あいつとはしばらく会ってないなあとか
亡くなった父がよくやっていた仕草とか
こどもの頃の遊びとか 過去に関すること

時間の本流は言葉と結びついて
計画され 行動され 記憶されている

だが 心の奥底でどうしても言葉とむすびつかず
かすかに残されている伏流がある
たとえば 棲んだことのない洞窟に感じる親近感
たとえば 天にひろがる星屑と自分しかいないように感じてしまう夜
不思議とそれらは 生前の世界にも 死後の世界のようにも思え
遠い昔と遥かな未来は一気につながってしまう
自分のいる今の両側が一足飛びにやって来るのだ

いつもはそんなことに気付かない
いつも気付くと本流の時間が停滞してしまう
だが たまに気付けば本流もよどまない
だから たまには伏流に遊ぼう

仕事はもともと遊びなのかもしれないが
あんまりたくさんの人が仕事をしているので
仕事は仕事にしかならなかった

ところで
野口毅の仕事は
仕事をはみ出た仕事として 絵を描くこと
ここに彼の画集が完成した
たまたま彼は言葉が不自由なせいか
時間の本流が伏流と直結し
彼のかたわらに太古があり 未来がある
絵の中に
時間の本流の表現たる遠近法は遠ざかり
伏流から湧き出た色だけが遊んでいる

画集を開くと
湧き出た色は光となってあたりを満たし
そこここに
いつもとは違う時間が流れ始めるだろう

さあ、遊ぼう!


野口裕さんの詩も回を重ねるごとに洗練されていくのが感じられる。今までにも好きなフレーズはたくさんあったが、「仕事はもともと遊びなのかもしれないが/あんまりたくさんの人が仕事をしているので/仕事は仕事にしかならなかった」は特に僕の好きなフレーズだ。ああこういうのは詩でしか表現できないな、と感じ入ってしまう。だがここでは毅くんの絵のことを書きたいので、詩そのものに関しての感想は控える。話がぶれてしまうので。

毅くんを理解するにおいて興味深いフレーズがまたある。「たまたま彼は言葉が不自由なせいか/時間の本流が伏流と直結し/彼のかたわらに太古があり 未来がある/絵の中に/時間の本流の表現たる遠近法は遠ざかり/伏流から湧き出た色だけが遊んでいる」
生まれたときから彼を見つめてきたお父さんだから言えることなのだろう。僕にはなかなか理解しがたいがわかるような気がする。確かにいまだに彼の絵には遠近法がないのである。なぜないのか、それはこちらには到底理解しようがないのだが、おそらく言葉を脇に置く、という事からだろうか。言葉を脇に置くことにより「時間の本流の表現たる遠近法は遠ざかり/伏流から湧き出た色だけが遊んでいる」ことになるのだろうか。

個展を見終えてなぜか写真家のダイアン・アーバスのことを思い出した。この不出生の天才写真家は常に、特殊な人にこそ人間のひいてはこの世界の普遍性がひそんでいるのだ、ということを写真哲学として、双子、知的障害者、サーカス団、ヌーディストキャンプ、など普通でない人々を被写体として追い続けた。(参照)確かにその写真には眼を剥くような人間の普遍性が白日に曝されている。これらの写真は紛れもなく奇跡だ。特殊なケースにこそ普遍性がひそむのである。言われてみれば確かに普通のケースにそれを発見するのはなかなか難しいかもしれない。このパラドックスが真理だということは彼女の写真群を見ればわかるはずだ。ならば野口毅くんの場合はどうだろう。彼自身が特殊なケースだと言えば失礼だろうか。でもやはり言葉を脇に置く、ということはもうこれだけで特殊だと言わざるをえない。ダイアン・アーバスは特殊な人を写真にすることによって我々に普遍性を提示してみせた。野口毅くんの場合は自身を特殊なケースとして、自身を通して、我々にこの世界の普遍性を突きつけるのである。この世界の普遍性を具現化した特殊なケースを一旦写真家という表現者を通すのか、この世界を直接特殊なケースを通すのか、の違いだが、考えようによっては、直接特殊なケースを通すほうがより高い普遍性に届くような気がする。見る我々が直接世界の普遍性に触れることができるからではないだろうか。ひょっとしたら彼の絵に感動するのはここが原因かもしれない。

僕は偉そうなことばかり言っているが絵のことなど実は何にもわからないのだ。だが実際に画廊で彼の絵を目の当たりにして、実物の持つ訴求力に圧倒されていた。特に「雪を眺めつつ」という雪の絵の色彩にはただただ圧倒された。ネット上に絵がないのでお見せ出来ないのが残念だが、雪がこうも様々な色を見せるだろうか、と感嘆しながらいつまでも眺めるより他なかった。その様々な色彩があるためよりいっそう雪の白が華やかになるのだろうか。とにかく強烈な白だった。この絵の白色は紛れもなく僕がはじめて見る白色だったのだ。この絵は僕だけでなく同行した何人かの僕の文学仲間も感心していた。僕は1時間ほど画廊にいたが、その間一般客も多く入ってきていて、そのいずれもが申し合わせたようにその絵の前で立ち止まるのだ。それは本当に面白いほどである。中には10分ほども身動きせずに厳しい顔で凝視する男性もいた。

きっと毅くんの画才はフラワーデザイナーのお母様、宗代子さんの血だろう、と勝手に思う。それに裕さんの詩人の血が交ったのだろうか。この豊かな色彩と詩の祭典がこれからもっと大変なことになっていくのをどうしても期待してしまう。こんなにわくわくさせる少年は今絶対にいない。彼自身が表現の可能性だけでなく、人間そのものの可能性を押し広げているような気がしてならない。


野口家のホームページ
画集に関するお問合せ

野口毅展「色と遊ぶ」
僕が日ごろ文学でお世話になっている野口裕さんのご子息、毅くんの個展、今日からである。2年ぶりで、前回彼は14歳。そのピュアな色彩感覚に圧倒されたのがついこの間のようだ。それが間違いなく進化してやってきた。もうすでに何点か絵(参照)(参照)(参照)を見ているが、前回より間違いなくパワーアップしている。これは見るべし。だまされたと思って、行ける方はぜひお越しください。必ず感動しますよ。これに感じない人はもう人間じゃないですね。僕ももちろん行きます。海外でもすでに評価が高いとのことです。

参照ページ →(asahi.com 兵庫欄)(野口家のホームページ)

色と遊ぶ 野口毅展 少年(16歳)が発見した世界
8月8日~8月13日 AM11:00~PM7:00(最終日はPM5:00まで)
ギャラリーミウラ
神戸市中央区中山手通1-8-19 三浦ビル1階
ホリエモン
連日、歯が浮くようなまじめな話で、疲れました。申し訳ないけど、だいたい僕は日本という国がそんなに好きじゃないと思う、たぶん、みなさんと同じように。なんだか勢いで言ってしまいましたが。

ちょっと今日は息抜きにトリヴィアな話を。

今日、女房が「ホリエンモンに声をかけられた」と興奮して事の顛末を話すのです。
午後、梅田阪神の地下一階のケーキ屋のあるほうの入り口付近で知らないおばさんと話し込んでいたところ、急に後ろから「あのーすいません」と声をかけられ、通るのを邪魔しているんだと思いふりかえり「いーえどうも」と挨拶したら目の前にあのホリエモンのニコッと笑った笑顔がバン!とあり仰天したそうだ。一瞬テレビを見ているのかと錯覚したとのこと。ホリエモン氏はそのまま笑顔を仕舞い込み、早足でJRの方へ一瞬のうちに人ごみの中に消えてしまったとか。そりゃービックリするわな、あのデカイ顔が目の前にあったら。彼はスーツ姿だったとのこと。Tシャツ姿はあれはパフォーマンスらしいとのこと。「声をかけられた」というからなんだと思えば、ようするに通るのに邪魔だっただけ。人が人なら「おばはん、どかんかい!」である。でも一瞬見たホリエモンの笑顔がなんともステキだったらしくファンになってしまったとか。おいおいヨンさまじゃないんだから。それにあんな顔はタイプじゃないとか言ってなかったっけ。

と話はここまでだが、ここ「ナガスクジラの夢」では話をトリヴィアなままでは終らせない。
(でも本当は終らせたいのです、だって疲れるよ、あー本当に疲れる奴だこいつは)

彼女が「一瞬テレビを見ているのかと思った」というこの驚愕である。これはいったいなんだろう。何千万人もの人が認知している有名性とせいぜい多くて数百人ぐらいしか認知されていない無名性、この差は人という社会的動物にとってどんな意味があるのか。この差をできる限り客観的に考えたいのだが難しい。ただ思い出すのはアメリカの写真家シンディ・シャーマンが20代の時に撮った「Untitled film still」という一連の写真群である。シンディはここで大道具小道具を駆使して、自分自身映画のヒロイン(マリリン・モンローやヘップバーンなど)に衣装もそっくりになりすまし、あたかも映画の1シーンのごとくシャッターを切らせているのだ。様々な違う映画の1シーン、すべて中央で写っているのはすべて撮影者自身なのである。すべて同じ顔が並ぶのである。眼を見張らざるを得ない。有名性と無名性の間を何かぶっ壊したような爽快感があった。そこに写っているのは紛れもなく普通の女の子であり、撮影者自身であり、我々無名性の象徴なのだろう。森村泰昌が似たようなことをやっていたが、あれは絵画である。絵画に自分を潜り込ませるのだ。あれはあれでまた別の衝撃があるだろうが、ここでは話が違う。
でも本当のところこの写真群は僕にはわからないのだ。ただ得も言われぬ衝撃だけがある種の快感となって今も残っているだけである。だからわかる人がいたら正直教えてほしいのです。

(お疲れ様でした)