詩人度
文月悠光|洗礼ダイアリー発売開始✿

うなぎ少女CMや辛萌動画、観ると不快な気持ちになるんだけど、正直日常生活でもこの手の気持ち悪さには心当たりがあって、言葉がない……。
昨日、仕事相手の男性にチラッと話したら「嫌な気持ちになるものは観ないようにしてる」って返されて、寂しい反面、まあそうなるよなあ、と。


同時代の社会状況にどれぐらい不愉快になるかでその詩人の詩人度が試されるんだけど詩人度が高い詩人ほど不愉快の度合いも高くなって結果耐えられなくなるがそこから逃げない詩人こそ詩人度の高い詩人なんだという矛盾を積極的に受け止めて社会に言葉でがんがんに攻めていけるのが真の詩人なんだということをこの詩人はわかっているのか。
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寺岡良信さんのお通夜でした
日本語と朝鮮語はかなり似た言語なので、短歌に値するそれが朝鮮にもあるんじゃないか、と以前から思っていたのだけど、やっぱりあった。時調(シジョ)というものが。
今日、在日朝鮮人詩人、金里博さんに出会ってから帰って調べたら偶然出てきた。

里博さんとの出会いも時調の発見も寺岡良信さんが作ってくれたのだと思う。
今日、お通夜で明日告別式です。明日は仕事なので行けませんが。
最果タヒ詩集『死んでしまう系のぼくらに』
詩人がこの世で最も正直ないきものかもしれない。歌人はある程度取り繕ってものを言う。あるいは取り繕うのが嫌いなら、取り繕う必要のない日常の些事ばかりを歌にする。些事にこそ、そのティテールにこそ真理が宿ると信じて。

ぼくらの星のてんさいたちは、全員生まれてくるのをやめて空の上で料理を作っている。生きる前からしんでいるかれらはそのうち分解されて酸素になるんだろう。70億人ふえたって、だれとも肩すらふれあわないから、大勢が死んだニュースに涙すらこぼれない。
「きえて」


今の僕らは大惨事の洪水の中で暮らしてて、大惨事に飽きてしまったのだ、きっと。そりゃあ、世界70億人もいれば大惨事が日常的に起こっても不思議はない。明日は我が身だとしても。
メランジュ~安川奈緒氏を囲んで~
昨日、神戸三宮のスペイン料理店「カルメン」で、毎月開催されている詩の合評会「メランジュ」に初めて参加した。そこになんと安川奈緒さんが来られた。内容は安川さんの試論を聴く、というものだ。総勢15名ぐらいだろうか、いつものメランジュよりははるかににぎわっていたとのこと。主催はこの店のオーナーで詩人の大橋愛由等さん、司会取りまとめは高谷和幸さんである。

今の若い詩人が上の世代にある程度嫌われていることへの反論、というか弁解というか、そういったことを主に彼女は取り上げていた。以下彼女のレジュメから。

確かに、言語の質は80年代以降のそれである。だが、現在の若い人たちによって書かれている詩の言語の接続方法は、異なっているように思う。(中略)たしかに何かが違っている。この違いを、80年代の幾人かの詩人は、嫌悪しているのだと思う。言語の質が同質でありながら、接続が異様であるそのことにおいて、嫌悪しているのだと思う。これがおそらく吉本隆明の評価、修辞的現在としての80年代と無としての2000年代、という評価の仕方ともかかわっている。


僕自身はいわゆる戦後詩以降の現代詩がすっぽり抜け落ちていて、そのあと直接今の若い詩人の影響を受けた。谷川俊太郎から安川奈緒に直接つながっているのである。だからここでのことは全くピンとこない。しかしとりあえず読んでみようと思う。平出隆や荒川洋治を。もう一つレジュメから。

詩はいま、文脈を逸脱させたり、断片化させることによって書かれているのではなく、もともと完全に粉砕されてしまった、粉々にされてしまった者たちが(確かに粉砕王が通り過ぎて?)、もう一度輪郭を取り戻そうと、必死の形相で、言葉をつないでいるのではないか。おそらく順序が逆なのだ。


もともとちゃんとあるものを壊そうとしているのではなく、もともと壊れていたものをつなごうとしているだけだ、今の若い詩人の詩は。というわけだが、確かにうんうんとうなづいてしまう。安川さんは中尾太一や藤原安紀子を主に想定しているとのことだったが、僕はまだ中尾太一はほとんど読んでいない、詩の好き嫌いが激しいもので、これは苦手だ、と思ったからまだ詩集を取り寄せてもいない。だが藤原安紀子は一冊詩集を読んでその壊れた言語世界を堪能させてもらった。正直結構ファンである。だがあれは藤原が壊したのではなく、もともと壊れていた藤原が必死で自身を再構築しているのだということだ。だとすればまた読み方が変わってくるかも。

あと印象に残ったことがもう一つ。これはレジュメにはなく、なんとメモもしていない!しまった。全力でもって彼女の言葉を思い出したが、それはもう安川奈緒の言葉ではなく、僕の言葉に言いなおされている。ごめんなさい。


「詩人が詩を書くときの「主体」は、散文家が散文を書く時のような一方通行的な高邁な思想とは無縁で、それどころか詩人以外の一般的「主体」より一段低いところに身を置き、この世界の受容体とならなければいけない。そして世界中から受容したことを言葉へと変換させ叙述する。それが真の詩人なのだ。」


このことはもちろん世代に関係なくである。つまり詩に屁理屈は思想は邪魔なのだ。納得したが、でも詩にはいろんな詩があるだろうとも思う。

今の若い詩人は、壊れゆく世界、いやもう壊れてしまったかもしれない世界の中に自然に身を沈め、あらゆるものを正邪の判別をせずただ受容していき、言葉へと再構築する。彼らの詩を感受できない人はこの世界が壊れてしまったとは思ってない人だろう。あるいは彼らの詩を感受しようとしない人はこの世界が壊れてしまったことを認めたくないだけだろう。

僕も含めて40~60代のおっちゃん、おばちゃんを前に、まだあどけなさの残る27歳ぐらいの若い女流詩人が先生役で明晰に説明していく様は、はたから見れば滑稽だったかもしれない。しかしこちらは勉強になった。得難い機会だった。

9月からパリに留学する安川さんは前半だけで帰っていって、後半は詩の合評会だ。僕は時間を間違えたのと(1時間早く来てしまっていた)、なんだかへとへとになっておなかがペコペコだったのと、安川さんに興奮してしまって、いやもとい、安川さんの言葉に興奮してしまって、批評会では少し攻撃的になっていて、初参加にもかかわらず非礼なコメントをしたことを大変後悔している。あと懇親会でも目の前の人に少しきつい口調で言ってしまっていた。申し訳ありませんでした。駄目だ駄目だ、自覚しないと。
短歌の会だと落ち着いているのに、詩の会はなんだか興奮します。

高谷和幸さんの詩がぼくにはフィットする印象だった。詩における自分の文体が全くない状況で、この詩人の詩は大変参考になりそうだ。短歌は自分の文体があると確信してたんだけど。というか何を書くにせよ、自分の文体はあって当たり前だと思っていたのだけど、いやなかなか詩を書くということは難しいです。
正義のひとみ
川上未映子の詩集を読んでいたら、自分の短歌まで大阪弁になってしまったので、中断。首が痛い。いや、のどが痛い。別にインフルエンザでもないのに。インフルエンザではないのでやっぱり赤ワインをがぶがぶ飲む。それで結局反省しない。反省できない。わたしこそが正義のひとみだ、というひとみがあちこち多すぎて、こっちも反省する気になれない。なれないじゃないか。だから日産ディーラーに入り浸るな、と言っただろう。日産ディーラーに入り浸ると、はやってないので、お茶が出るわコーヒーは出るわジュースは出るわ、見積りはしてくれるわ、はては全国のラーメンを5袋もくれるわで、居心地なんかちっともよくない。

西淀川も最近は空気がきれいで、ユリカモメなんかももうすぐ来る。淀川の西だからね。西。挨拶もなしにセグロカモメなんかも来て、にぎわう。大阪市西淀川区。大阪なんだから大阪弁で喋ればいいのに、短歌が大阪弁になって困る。んであえて標準語。標準語はいい。標準語は心情を正直に吐露しなくてすむ。大阪弁だとおそろしいほど心情が心情が心情が、ああ、みんな大阪弁になったら恐ろしい世の中だ。みんな泣きながら心情というものを吐露しまくるぞ。きっと世界中が正義のひとみであふれる。
叛乱
ショスタコーヴィチを聴くほどまでにはどうやら精神が回復してきた。それで調子こいて安川奈緒の詩集を読み、世界の反対側に行こうとして、今聴いているのは交響曲「革命」だ。革命は世界が上昇気流のとき起こるのであって、下降気流のときは単に叛乱である。単なるルサンチマンの謀反である。

世界の反対側に行くのは簡単だ。簡単だけど、すぐに疲れる。疲れて結局世界のこっち側でバッハばかり聴いている。ホームセンターでアングル止水栓を買おうと思ったけど、自信が無くてあきらめた。水道のことは水道屋に任せないと。叛乱はルサンチマンに任せないと。

ウォシュレットを取り外すのは意外に難しくて、難儀してわからなくて、結局やめた。押入れシートの防虫作用はいつまで効くのだろうか。窓枠に20年間こびりついた汚れを拭き落とすのはかなり恐ろしかった。「革命」は今、第3楽章で静かだ。

窓が取り外された窓枠から詩が落ちてくる。人々の詩篇が落ちてくる。人々の屎尿も落ちてくる。食器棚は完璧に収まった。こうもうまくいくとは思わなかった。おかげで今夜はいらぬ祝杯だ。ビールにポテトチップ、そのあと隠れて焼酎の健康茶割りを飲む。

そのあと世界の反対側に行き、また焼酎の健康茶割りを飲む。そして窓が取り外された窓枠から僕の詩篇を落とす。僕の屎尿も落とす。今、「革命」は最終楽章。叛乱だ!世界中の窓枠から窓を取り外せ!
誠実な痛み
またまた人の文の引用である。最近は自分の文がない。

また野樹かずみさんのブログ「空ゆく雲の」より、孫引き。

27歳で異国の福岡で獄死した朝鮮の国民的詩人、尹東柱(ユンドンジュ)の「たやすく書かれた詩」から

人生は生きるのが難しいというのに
詩がこんなにもたやすく書かれるのは
恥ずかしいことだ。


詩をおとしめているようで、ここでは人生と詩が対等に存在している。

それと宋友恵(ソンウヘ)著の評伝「空と風と星の詩人 尹東柱評伝」の序文。

ほんとうに誠実な痛みは、それ自体でそのまま治癒剤ともなる


うーん、これにはうならされた。昔はぼくにもこの「誠実な痛み」なるものがあったなぁ、と思ったが、今はどこを探しても無い。今はただ粗野な痛みだけがある。ひょっとして真の不幸とはこの「誠実な痛み」が無いことなのでは、とさえ思えてくる。

ああ、でもこの「誠実な痛み」が無い、という痛みだけはかろうじて誠実だろうか。

らぶりぃだが、みにくい
今「イケテル言葉」っていうのは、きっと従来の詩や短歌の「詩語」から如何に外れるか、にかかっているのかもしれない。だから短歌では「修辞の武装解除」なるものが起こったのか、どうなのかは知らないが。

とりあえず、渡辺玄英はイケテル。詩集『火曜日になったら戦争に行く』を読んでて、「イケテル言葉」に出会えてホッとした。最近短歌ばかり読んでいて、気分が晴れなかったのが、玄英のはずれっぷりには大いに元気づけられた。ただこの詩人は、外れっぷりは非常に愉快なのだけど、結局最後、予定調和的なものに帰ってくる。そこに少しがっかりさせられる。その点、安川奈緒のほうが納得できる。ただはずれっぷりの愉快さは玄英が図抜けている。わかりやすいし。

だがこういった詩は

らぶりぃだが、みにくい


のだろう、おそらく。しかしそれは、この世界も

らぶりぃだが、みにくい


からだろうし、そういった世界を正直に詩で表現すればそれは必ず

らぶりぃだが、みにくい


ことになるわけで。玄英はだれよりも世界に正直な詩人なのだ。
田中庸介氏の書評について②
昨日の続きである。
現代詩手帖4月号の詩書合評欄で、野樹かずみさんと河津聖恵さんのコラボ集『christmas mountain わたしたちの路地』が、田中庸介氏によって取りあげられていて、それに対して野樹さんと河津さん共々ご自身のブログで反論されている。

河津聖恵さんが参加するブログ「詩のテラス」
野樹かずみさんのブログ「空ゆく雲の」①
野樹かずみさんのブログ「空ゆく雲の」②
野樹かずみさんのブログ「空ゆく雲の」③

作者ご自身なのでなかなか熱烈な反論だが、僕は第三者としてできる限り冷静に対応しようと思う。(冷静になっていられるかどうか自信はあまりないですが)

まずその問題の田中庸介氏の文章から人格批判ともとれる部分をそのまま引用する。昨日の田中氏の引用の最後の部分からつながる。

これは詩の不自由ではないか。そして、詩作品に「ファクチュアル」なフレーバーを加えるために現実の社会問題が利用されている印象さえもがある。このテキストの論理のなかでは、ゴミ山や同和は、この特定の作者らに「詩のことば」を書かせるために、この世界に存在していたかのような扱いであるが、詩人は「詩のことば」を書くことに、そんな文化的特権性を付与してはいけない。
また、詩だから何を書いてもよいということもなかろう。「すりきれて穴もあいてるてらてらの黄色い毛布でねむれねむれ」という野樹さんの歌があるが、毛布や孤児の描写が通りいっぺんで粗く、処理が軽いと思う。それは、あまりに悲惨なものを目にして、適応不全のため判断停止に陥っているせいかもしれないが、どうも世界の事物に十分な愛を注いでいるようには見えなくなっている。裏返して考えれば、愛が必要なのは孤児ではなく、かわいそうな作者のほうかもしれないのだ。作者らの自我の場所は、フィリピンによっても、中上によっても、ほとんど移動していない。誰かに用意してもらった絶対安全地帯からセカイを眺望、観覧して、それが自分自身の『癒し』であることに錯覚させられていることに気がつかなければならない。


確かにこれは二人の作者に対する人格批判とも思われる。お二人が熱烈なる反論をされるのも無理はない。しかしここは第三者としてできる限り冷静で客観的な意見を言わなければいけない。

で、最初のほうの「ゴミ山や同和は、この特定の作者らに「詩のことば」を書かせるために、この世界に存在していたかのような扱いであるが、詩人は「詩のことば」を書くことに、そんな文化的特権性を付与してはいけない。」であるが、僕がこの『christmas mountain わたしたちの路地』を読んだ限り、そんなふうには全く思えなかった。作者はゴミ山の体験を追想して、できる限りこの状況、我々が謳歌している資本主義のこの影の部分を言葉にして伝えなければ、と悪戦苦闘したに違いないのだ。田中氏の意見だと、社会問題を詩歌にする権利は誰にもないような、そんなふうに読み取れる。何なんだろう、この人は。僕の読み違いだろうか。これは熱くならざるを得ない。我々はこの社会のなかに生きている、と言えるが、この社会と対峙して存在している、とも言える。そんな状況でだれもがこの社会に接し、社会詠なるものが自然と出来上がる。野樹かずみさんの短歌は悲惨な状況に対峙して目を背けず活写した、アララギ的社会詠の一つの極みだろう。これがわからない人に短歌を批評する権利はない、と言いたくなるぐらいだ。

最初のほうの文章に「救恤とかセツルメントというような古い言葉が思い浮かぶが、野樹さんはフィリピンのごみ山スラムに出向いて社会活動をしているらしい。」とあるように、田中氏の中に、社会奉仕などの活動を行う人に対する一種の嫌悪感のようなものがどうしても垣間見えてしまう。それは自分がそうしないことによる罪悪感が根底にあるのではと思ってしまう。そういった感情がこの本を読むに当たってのベースになっているのかもしれない。「こういうの好きな人いるんだよな、まるで正義の味方気取りで、まぁ、勝手にやってくれたらいいんだけど、一般の我々に関係のないところでやっといほしいよ、ったく。」てなぐあいだ。

かつて高遠菜穂子さんが「自己責任」だと日本中からバッシングされたのも、こういった社会奉仕に対する罪悪感から来る嫌悪感がベースになっていたのだろう。彼女たちは確かにやりたいことをやっているわけで、それは自己責任でやらなければいけないわけだけど、そんなことは十分にわかってやっているわけで、しかしその奉仕活動を批判することはなかろう、とうんざりするほど思った。詩人にもこんな人がいたのか、と思うとげんなりだ。(どうも冷静にはなっていられないようだ)大体もし彼らのような存在がいなければ、この世界はもつだろうか。彼らが献身的に努力していることにより、この世界は世界として最低限もっているのでは、と思い至らされる。この世界は経済と幾許かのヒューマニズムと(良質な意味での)個人主義とだけで成り立っているのではない。もっと突っ込んだ徹底したヒューマニズムを実際に実践する少数の人がいるからこそ、この世界は世界として成り立っているのではないか。世界を根底のところで切り結んでいるのではないだろうか。それはおそらく人間という存在がヒューマニズムを礎にして初めて存在できるからだろう。

僕の親戚の女性にもインドネシアでジャイカの一員として、児童労働の研究、国境なき医師団の通訳などの活動を行っている人(亀山恵理子さん)がいるが、これだけ回りにこういう人がいると、彼女たちを突き動かすのは何だろう、と考えざるを得ない。しかしここでその考えを披露すると田中氏と同じような決め付けになるだけなので、言わないほうがいいが、あえて少し言わしてもらうと、世界を知りたい、という単純な気持ちと、女性の場合、母性本能、がやはり関係しているのでは、と少し思う。でも決め付けるのは全く良くない。それは人それぞれにそれぞれの理由があるからだ。その理由が個性であり、その個性を理解することこそが人を理解するということだからだ。ひとは決して十把一絡げには扱えない。人を十把一絡げで考えること、つまり人をカテゴライズすることこそ、その人に対する最大の侮辱になるだろうから。

また、「裏返して考えれば、愛が必要なのは孤児ではなく、かわいそうな作者のほうかもしれないのだ。」とあるが、わざわざ言うことだろうか。だから何がいけないのだろう。お互いに愛を必要としているわけで、相思相愛ではないか。作者サイドもブログでこの部分を激烈に非難されていたが、その気持ちは痛いほどわかるけど、これはすばらしいことで、うらやましいことでもある、と僕なんかは思うが。ただ田中氏の書き方がむかつく、のはものすごくわかるのだけど。なんせ嫌悪感がみえみえなもんだから。
作者らの自我の場所は、フィリピンによっても、中上によっても、ほとんど移動していない。誰かに用意してもらった絶対安全地帯からセカイを眺望、観覧して、それが自分自身の『癒し』であることに錯覚させられていることに気がつかなければならない。」これも確かに言うとおりだと思う。どこまで行っても日本に帰れる以上そこは日本人として絶対安全地帯であるからだ。だから何がいけないのだろう。いったい田中氏は何を批判しているのだろう。そこが絶対安全地帯だとわかっているからこそ、自分たちは所詮安全だという罪悪感があるからこそ、必死で子どもたちのために行動するのだろう。彼女たちもそれは十分自覚してやっているわけで、それを自分のための幾許かの『癒し』だと十分わかってやっているわけで、どこまでやっても満足は得られないのだろう。こんなことで満足しているのは、それこそこれを生業とする芸能人のような正真正銘の偽善者のみである。満足しないからこそ、詩歌として伝えたいのではないだろうか。徹底したヒューマニズムを実践する理由は何であれ、その実践は尊いはずだ。それを小馬鹿にするような似非知識人が、本来最も尊敬されるべき詩人としてこの世に生きているとは信じたくない。偽善者扱いされて彼女たちが怒るのも当然である。

こういった批判の仕方をする田中氏こそ、社会奉仕活動に対する罪悪感から来る嫌悪感を無意識のうちに持っている人なのではと、一般によくいる日本の利益が第一だと考えている厚顔無恥な輩だと、十把一絡げで考えてしまう。ああ、この決め付けはよくないんでしたね。ともかく政治家や一般の人ならともかく、詩人がこういうこと言うもんだから、我々は怒っているのである。だから決め付けてしまうのだ、一緒じゃないかと。

この4月の末に、京都で『christmas mountain わたしたちの路地』のささやかな批評会を作者のお二人を招いて行います。十把一絡げで考えてほしくなければ、遠いでしょうけど、参戦されてはと思うのですが。田中さん、いかがでしょう。
田中庸介氏の書評について①
現代詩手帖4月号の詩書合評欄で、野樹かずみさんと河津聖恵さんのコラボ集『christmas mountain わたしたちの路地』が、田中庸介氏によって取りあげられていて、波紋を投げかけているが、詩の素人ながらぼくも間に少し割って入ろうと思う。短歌のことでもあるし。同意もあるけど、もちろん反論もあることだし。

まず出だしの部分。

文化は真剣な遊びでいいんじゃないかと思う。「真剣」というのは、タマシイを賭けるということである。それによって自我が変容する、メタモルフォーゼする、といことである。そして「遊び」というのは、深刻にならないようにする、ということである。文学を第一義的に自己実現の道具にしようとすると、下手な大工が作ったふすまの敷居のように、遊びがなくなって、緊張でしゃっちょこばって不自由になってよくない。「真剣」と「遊び」。この二点を大切にするだけで、詩は間違いなく面白くなるだろう。


ここで言う「遊び」には二通りの意味が同時に書かれてあって、読み手としてはどっちを取るべきなのか迷う。

まず一つ目の意味は、深刻になるな、真剣に遊べ、という意味である。この意味なら即座に反論するだろう。深刻になって何が悪い、しかもこんなに社会が深刻な状況のときに、詩も当然深刻にならざるを得ない。ふざけるなっ、と一喝したい気持ちになる。

一方、二つ目の意味は、ふすまの敷居にある「遊び」のように、詩にもなかに少し余裕を持たしたほうが、詩が面白くなるのでは、という意味。この意味なら僕としては同意できる。やはりきちきちに余裕の無い詩は読んでて窮屈だ。

しかし、「深刻になるな」と「余裕を持て」は結局のところ同じところに行き着くのかもしれないが。

そして河津聖恵批判が始まる。

そもそも自動記述とは、言葉の意味から言葉の美しさへと向かうベクトルであったろう。自動記述においては、書く瞬間には言葉にしっかりした意味があるのに、その意味がぞろっと落ちてことばの美しさに遊ぶ瞬間に感動があった。しかし本作においては、そのような「うまくいった自動記述」へと一足飛びに作品を成立させようとしてあせるがために、意味がぞろっと落ちるのではなく、最初から意味が成立することを回避しているように見えてしまう。これは詩の不自由ではないか。


これは何か違うな、という印象を持った。河津さんの詩は、「最初から意味が成立することを回避しているように」は見えないからだ。逆にどこを読んでもどの言葉も同じ方向を向いていて、意味がきちきちに詰まっているように思える。もっともこれは僕が詩を知らないせいで持った印象かもしれないが。

一方で河津さんのブログの文章を読んだ。北爪満喜さんとの議論の中から結論のようなものが出てきたのだ。

詩のテラスより

先日私は「ひとは一つの詩とともに生まれてくる」という一行を書いたのですが、そのとき「ひと」「一つ」「詩」「生まれてくる」がそれぞれにまなざそうとするものが一致したのではないか、と。言葉がまなざす・・・それは、言葉が何か言いたげな顔をしている、ということのようです。この一行で中心は「ひと」あるいは「詩」だったと思うのですが、それがそれぞれ他の三つの言葉に「ほら見てごらん」と誘ったのだと考えることができます。もちろん、あとで読めば、何もみえていないかもしれませんが、そのときは言葉たちが一瞬そろって何かを見た、あるいは見ようと誘い合ったから、私はこのように書いたのではないか、と。


いっせいに言葉が同じ方向をまなざす、このとき詩が生まれるのでは、という素敵な詩論である。何かうっとりとしていまう。しかし僕は以下のように反論めいたことをコメント欄に書いた。しかも少しずれているような気もするのだけど。

僕個人の詩の好みから言うと、すべての言葉が一つの方向に向くとかえってわかりすぎてしらけてしまい、たとえば五つか十に一つぐらい全く違う方向を向いているほうが詩としては面白いのかも、と勝手なことを考えています。詩にハプニング性が出てきて、逆に言葉が生き生きとしてくるような気がするのですが。


そのあとの河津さんのコメントにあるように「真剣な一つのまなざしも詩のいいところ」はもちろんなのだが、ここに言う「ハプニング性」とはまさしく田中氏の言う「遊び」、つまり余裕、という意味での「遊び」なのか、とはたと気がついた。

しかし、そういった「ハプニング性」や「遊び」を詩に持ち込むことは、今の社会状況を詩に反映させるためには、やはり邪道であり卑怯なのかもしれない、とか思ったりする。結果として田中氏の言う二つの「遊び」の意味は同じ意味なのかもしれない。詩は深刻になったらだめになる、という意味において。しかし深刻な社会状況に「遊び」を持ち込むこともまた難しいようなのだ。

今の詩の状況で、今の社会状況を描ききることは無理なのか。詩の一端しかまだ知らないものとして、やはりもう少し詩に踏み込んでみようと思う。その価値は、その面白さは間違いなくあるのだし。

しかし田中氏や僕のようなこういった大雑把な意見は、所詮、河津さんの言われる「詩の内実には踏み込まない、詩の愛好家的批評」に過ぎないのかもしれないのだけど。

明日に続きます。