保守とリベラル
毎日新聞:リベラルマインドを教えた保守思想家 西部邁さんを悼む=中島岳志

西部邁氏のことは恥ずかしながら名前ぐらいしか知らなかった。知っていたとしても、保守の言論人ということで右翼か、と思い避けていたかもしれない。ところが全く違った。

西部はリベラルな精神を保守思想の文脈に位置づけ、両者を相互補完的な存在と見なしていた。保守は人間に対する懐疑的見方をとる。左派的な近代主義者が、人間の理性によって理想社会を構築できるという進歩主義をとるのに対して、保守は人間の理性の不完全性を前提に、歴史的に継承されてきた集団的な経験知や良識を重視する。人間は間違いやすく、誤認をくり返す。誰も正しさを所有できない。もちろん、自分もその例外ではない。懐疑主義的人間観は、自己にも向けられる。


僕が日頃感じていることをはっきり言葉にしてくれている。
保守とリベラルを結びつけないと、と思っていた。
僕自身もリベラルな思想でもって人間を信じたい。ここが基本だけど、そうもなかなかいかないのが現実。現実を直視すれば、多少は保守的な考え方もせざるを得ない。お互いに欠点を補完し合って、要はバランスだろうと思うのだ。
この人はひょっとしたら最もバランスの取れた人だったのかもしれない。
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陰謀論の拡散
普天間第二小学校への米軍ヘリの窓落下事故で、「やらせだ」など根拠のない誹謗中傷の抗議があったとのこと。無茶苦茶な話だが、在ったことを無かったことにする、この陰謀論的な傾向はよく考えたら、今までにもよくあった。

ホロコーストは無かった。被害者であることを強調したいユダヤの陰謀。(ネオナチ等が言っている)
アポロ月面着陸はNASAの自作自演。(主に反米勢力が言っているのだろう)
9.11はイスラムを潰したいためのCIAの自作自演。(反米勢力が言っている)
3.11はアメリカが起こした人工地震。(これはどういう人が言うんだろう?)
そして南京大虐殺は無かった。中国と反日勢力の捏造。(日本のネトウヨが言っている)
従軍慰安婦はいなかった。韓国と反日勢力の捏造。(日本のネトウヨが言っている)
果ては、広島にも長崎にも原爆は落ちていない。加害側である日本が被害者面したいために捏造している。(これはアメリカのナショナリストが言っている)
とまだまだあると思う。
右翼左翼にかかわらず、こういう荒唐無稽な在ったことを無かったことにする陰謀論が大好きな人はたくさんいるみたいだ。自分が加害側にはどうしてもなりたくないのだろう。
最近では、北朝鮮危機は高価な武器を売るために安倍とトランプと金正恩が結託して自作支援しているのだという陰謀論。この陰謀論をある吉本の芸人が真顔で言ってたからこれは笑ってられない。今まではこんな陰謀論などバカバカしくて無視してきたが、今度の米軍ヘリの窓落下事故での抗議で看過できなくなった。実際にこういう勢力が社会に影響を与え始めたらしいのだ。

きっと社会はこれからもこういう陰謀論との戦いになるのかもしれない。今よりもずっと。人類の叡智はこういう陰謀論を否定することにこれからもっと躍起にならなければならないのかもしれない。こんな低次元なことにかかわるよりもっとやらなければならないことがたくさんあるはずなのに、そこに叡智が注がれないという損失に誰も気がつかないのだ。
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薬師丸ひろ子さんへのインタビュー
毎日新聞:映画「8年越しの花嫁」で母親役、薬師丸ひろ子さん 伝えたい、信じることの大切さ

「最近最も関心を持っていることは?」と聞かれて
「うーん、そうですねえ。いろいろありますけど、日本という国がどうなっていくのか。どこに向かって、どんな価値観を大事にしていくのか。ちょっと大きすぎますけどね」
と答える。何が正義かとか人が国がどうあるべきかとか、固定観念を持たない上で、素直に危機感を感じている。今の一般的な日本人の感覚だろうとは思うが、リベラルと自称し「戦争反対」さえ唱えてたらそれで済むと思っている、自分が正義だと確信してやまない、そんな暑苦しい他の芸能人とは全然違ってやはりこの人は今でも清楚だ。
そして「なぜこの国で満足に食べられない子がいるのか。介護に疲れ切っている人がいるのはなぜか。」と続き、「役作りのために世界で起きていることに関心を持ち、CBSやBBCなど海外のニュースもチェックしている」「(でも)私はただの『あまちゃん』です。外野からの発言ですから」と相変わらず謙虚だ。

世の中こんな人ばかりなら、多様性の話も歴史認識の話もどんな話も通じるだろうに。
宇野常寛の爽やか一刀両断


「自分の総理の椅子を守りたいから、ミサイルが飛んでくる時に選挙するバカと、そして総理になりたいからといって烏合の衆を適当に集めて、都政を放り出すバカ。この二択ですよね。」
「本当に小池百合子とかどうしようもないやつだと思いますよ。頭の中身なんてネット右翼とあんまり変わんないし、安倍晋三とどっちがタカ派かわかんない。」


ずばりこの通りだ。宇野常寛、最後なので飛ばしている。これだけのシャープな正論をこれだけ面白く言える人はそうはいない。時々突っ込みすぎるきらいはあるが、僕は概ねこの人の意見に賛同しているし、いつも健やかに笑わしてくれる。この人の意見を聞いているときわめて健やかになれるのだ。
日本テレビはこれでクビになったが、TBSかテレ朝からオファーが無いようでは、日本のマスコミは今度こそ本当に終わりかもしれない。
人口減のスピードを緩めるための少子化対策
毎日新聞:社説 歴史の転機 人口減少 深刻な危機が国を襲う

世界的には人口爆発で大問題なのに先進国だけ少子化対策することは自分勝手な話だとずっと前から思っていたが、これを読んで考え方が少し変わった。

人口減は「地球にやさしく経済成長を目標としない社会の到来を歓迎する意見もあるが、問題なのは減少のスピードといびつな年齢構成である。100年間で3分の1にまでなる急激なしぼみ方は社会に深刻な影響をもたらすだろう。」
そして特に社会保障制度に深刻な影響をもたらすらしい。

要は、減少のスピードが問題なのであって人口減自体はやはり歓迎すべきことなのだ。現象のスピードを緩めるための少子化対策は必要なのだと思い到った。

でも個人的にはこんな無理な世の中に自分の子供を送り出すことには罪の意識すら感じる。たとえ今自分が若くても子供は産まないだろうな、と卑怯かもしれないが心底思ってしまう。
新たな選別の時代
西日本新聞:【「自己責任」論】平野啓一郎さん

僕と同じことを感じている人が一人いた。
僕が危惧していたように、津久井やまゆり園での障害者殺戮事件や、長谷川某の自堕落な患者は医療費全額自己負担、といったような、福祉や医療費をめぐる人の選別がやはり始まっているのかもしれない。
次は高齢者だろうか。長生きしすぎた人の医療費は全額自己負担ですよ、とか。ぞっとする。

以前のファシズムの時代の選別は民族とかによるものだった。つまり普通に考えたら理不尽な選別だ。民族が変わっても同じ人間なのだから、当たり前のことだ。だからこういう理不尽な選別は一笑に伏すことができる。だが昨今の選別は、たとえば自堕落な生活の人の医療費をなぜ国が負担しなければならないのか、と問われれば、なかなか反論しにくい。反論しにくいだけにとても厄介な選別だ。

新しいヘイトの対象が生まれたのか。民族差別は差別したいから差別する、というばかげたものだが、この選別は選別したいからというより、真剣に財政を考えてのことだったりするから、いっそう厄介なのだ。

医療費だけでその人の全人格を否定する短絡的な思想になりかねない。多様性あっての世界であり人間だ。あらゆる生物がその多様性によって成り立っている。生物学的にも倫理的にも。多様性を尊重するということをもっと我々は学ばなければならないのだが、その前にこのおぞましい選別の時代が来るのだろうか。
ポケモンGOは何故つまらないのか
ポケモンGOがひどくつまらないと、やくみつる氏が吠えたらしいが、僕も同感だけど、なぜつまらないのかを全く説明せずに、「心の底から侮蔑します」とかいっただけでそれなら単なる罵倒でしかない。やっぱりなぜつまらないのかを説明しないと。説明しなかったから結果反撃を食ったのだろう。
だからここで代わりに僕が説明しようと思う。

まず基本的にあらゆるゲームがそうだが、人間が作ったデータベース上を動くだけなのだ。そこがつまらない、というかその範囲内でしか動けないことに興醒めしてしまうわけで。
たとえば、それと同じで、ディズニーランドやUSJやハウステンボスなどは人間が作った街や施設をうろうろするだけである。観光や遊戯用に人間が作ったものをその範囲内でうろうろすることになんの面白みがあるのか。子供なら楽しいだろうけど、いい大人がなんで、と思う。僕も6歳の時に今は廃園になった奈良のドリームランドに行ったけど、大感激した。子供にはちょうどいいのだろう。

それなら実際に街として機能している街をうろうろする方がよほど面白い。それは観光用に全く整備されていない街のほうがいいが。僕が行った中で面白かったのは、和歌山県御坊市の旧市街、奈良県大宇陀、滋賀県高島市、京都府綾部市、舞鶴市、等など。ほかにもたくさんある。
逆に期待しててがっかりさせられたのは、滋賀県彦根市と兵庫県城崎温泉街。昔の街並みをきれいに現代の建築で再現してたのだ、観光用として。相当興醒めした。だけど大繁盛だったけど。

じゃあポケモンGOはどうかというと、実際にある街をうろうろしてデータベース化されたポケモンを探すのだ。確かに実際にある街をうろうろするだけに微妙そうだ。微妙だけど、ポケモン自体は人間が作ってデータベース化したものにすぎない、それがどんなに複雑であれ。なら結局、ポケモンなんかせずに単に街をうろうろする方がよほど面白いだろう。ポケモン自体が邪魔なだけだ。
街は観光用でも遊戯用でもなく、実際に街として機能しているのだから。それは歴史的にも機能してたし現在も機能している。様々な人がデータベース化されることなく暮らしてきたし今も暮らしている。そして様々な建物がデータベース化されることなく存在してきたし今も存在している。こんな素敵なことが他にあるだろうか。もうそれだけで世界は十分なような気がする。

ただし、もしこれからAIが進化して、データベース化することなく、あるいはAIがデータベース化してても、情報量の厖大化でデータベース化されていると意識されないゲームが将来出てきたらこの僕とてわからない。いいおっさんがゲームに夢中になっているかもしれないが。そうならないことをただ祈りたい。
政治的分断とテロリズム
コラム:2016年後半、さらに悪いことが起きるのか

たしかに今年に入ってからロクなことがない。
特に最近は、参院選の結果、相模原事件、都知事選の結果と最悪のことが続いている。この分だとどうもトランプが勝ちそうだ。

ほぼあらゆる国において、とても気がかりな政治的傾向が見られる。ISのような武装勢力が意図的に行った組織的攻撃でないとしても、常軌を逸した個人が政治的に急進的になり、時に壊滅的な攻撃を行うという懸念すべき傾向があるように見える。
ニースの事件から、米国で多発する銃乱射事件、6月に英国で起きたEU残留派のジョー・コックス議員殺害に至るまで、これらは1つの線でつながっているようだ。


相模原の事件もこのラインではないのか。障害者問題は政治問題でもある。ニースと同様、単なる殺人鬼が政治的動機を無意識に利用しただけだと思う。

多くの国で中道派が劇的に勢力を失っているため、このような政治的分断は危うさをある程度増している。


日本も、戦前回帰派とSEALDsのような幼稚で単純なリベラルとに分断され、冷静なる中道が意見を言う機会が失われているように思える。

こういった分断が本来の政治的活力を奪い、経済的危機が到来するのだろう。
ここ数年を何とか乗り切らないと。
社会とは ― 相模原の事件をめぐって
相模原の施設の事件をめぐって 7月28日

障碍者に言わせてはだめだ。我々が言わないと。
社会に役に立つとはどういうことなのかがもう、この近代が終わった世界ではわからなくなってしまっている。
だいたいあのポケモンGOを遊ぶことに何の意味があるのか。引きこもっている人を外に出すこと以外に。それに限らず、この社会に役に立つことをするのは誰だってむつかしいものだ。僕だって自分の仕事がこの社会の役に立ってるかどうかなんて考えてたら、やってられない。自分と家族が暮らしていくために仕事をしているんだから。だれだって社会の役に立ちたいけど難しいから、ボランティアなんかでお茶を濁すのだ。
社会の役に立たないから生きている意味がない、とか言われたら、僕だって意味がない。

結局は人と人とのつながりだろうと思う。その細かな人同志のつながりがいくつもつながって大きな社会になっているのだと思う。それは他人とのつながりでもいいし家族とのつながりでもいいだろう。家族も立派な共同体だからだ。ネットでのつながりでもかまわないし。もちろん仕事でのつながりも大切だ。

障碍者も必ず誰かとつながっている。そして周囲に感動を与えたりもする。それで十分なのではないか。いや、十分すぎるだろう。
だから障碍者の存在を否定するということは、巡り巡って自分たちの存在を否定することにつながってくる。特になんの感動も与えていない自分たちは障碍者の価値の半分かもしれないのだから。

人間とは国益だけで測れる単純な生き物では決してない。当たり前のことだ。そんな単純な生き物なら人間なんて今すぐにでもやめるしかない。
障害者問題の深遠にあるもの
相模原殺傷・尊厳否定「二重の殺人」全盲・全ろう東大教授(福島智・東京大先端科学技術研究センター教授)

一つは、人間の肉体的生命を奪う「生物学的殺人」。もう一つは、人間の尊厳や生存の意味そのものを、優生思想によって否定する「実存的殺人」である。
 前者は被害者の肉体を物理的に破壊する殺人だが、後者は被害者にとどまらず、人々の思想・価値観・意識に浸透し、むしばみ、社会に広く波及するという意味で、「人の魂にとってのコンピューターウイルス」のような危険をはらむ「大量殺人」だと思う。
(中略)
しかし、これは障害者に対してだけのことではないだろう。生産性や労働能力に基づく人間の価値の序列化、人の存在意義を軽視・否定する論理・メカニズムは、徐々に拡大し、最終的には大多数の人を覆い尽くすに違いない。つまり、ごく一握りの「勝者」「強者」だけが報われる社会だ。すでに、日本も世界も事実上その傾向にあるのではないか。
 障害者の生存を軽視・否定する思想とは、すなわち障害の有無にかかわらず、すべての人の生存を軽視・否定する思想なのである。私たちの社会の底流に、こうした思想を生み出す要因はないか、真剣に考えたい。


極めてバランスのとれた意見だ。障害者の存在を否定するということはすべての人の存在も否定するということにつながる。ここを突き詰めていかないといけない。単なる人権の問題ではなく。
僕の思ってたことを理路整然と言ってくれた。とても頭のいい人だ。