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人口減のスピードを緩めるための少子化対策
毎日新聞:社説 歴史の転機 人口減少 深刻な危機が国を襲う

世界的には人口爆発で大問題なのに先進国だけ少子化対策することは自分勝手な話だとずっと前から思っていたが、これを読んで考え方が少し変わった。

人口減は「地球にやさしく経済成長を目標としない社会の到来を歓迎する意見もあるが、問題なのは減少のスピードといびつな年齢構成である。100年間で3分の1にまでなる急激なしぼみ方は社会に深刻な影響をもたらすだろう。」
そして特に社会保障制度に深刻な影響をもたらすらしい。

要は、減少のスピードが問題なのであって人口減自体はやはり歓迎すべきことなのだ。現象のスピードを緩めるための少子化対策は必要なのだと思い到った。

でも個人的にはこんな無理な世の中に自分の子供を送り出すことには罪の意識すら感じる。たとえ今自分が若くても子供は産まないだろうな、と卑怯かもしれないが心底思ってしまう。
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新たな選別の時代
西日本新聞:【「自己責任」論】平野啓一郎さん

僕と同じことを感じている人が一人いた。
僕が危惧していたように、津久井やまゆり園での障害者殺戮事件や、長谷川某の自堕落な患者は医療費全額自己負担、といったような、福祉や医療費をめぐる人の選別がやはり始まっているのかもしれない。
次は高齢者だろうか。長生きしすぎた人の医療費は全額自己負担ですよ、とか。ぞっとする。

以前のファシズムの時代の選別は民族とかによるものだった。つまり普通に考えたら理不尽な選別だ。民族が変わっても同じ人間なのだから、当たり前のことだ。だからこういう理不尽な選別は一笑に伏すことができる。だが昨今の選別は、たとえば自堕落な生活の人の医療費をなぜ国が負担しなければならないのか、と問われれば、なかなか反論しにくい。反論しにくいだけにとても厄介な選別だ。

新しいヘイトの対象が生まれたのか。民族差別は差別したいから差別する、というばかげたものだが、この選別は選別したいからというより、真剣に財政を考えてのことだったりするから、いっそう厄介なのだ。

医療費だけでその人の全人格を否定する短絡的な思想になりかねない。多様性あっての世界であり人間だ。あらゆる生物がその多様性によって成り立っている。生物学的にも倫理的にも。多様性を尊重するということをもっと我々は学ばなければならないのだが、その前にこのおぞましい選別の時代が来るのだろうか。
ポケモンGOは何故つまらないのか
ポケモンGOがひどくつまらないと、やくみつる氏が吠えたらしいが、僕も同感だけど、なぜつまらないのかを全く説明せずに、「心の底から侮蔑します」とかいっただけでそれなら単なる罵倒でしかない。やっぱりなぜつまらないのかを説明しないと。説明しなかったから結果反撃を食ったのだろう。
だからここで代わりに僕が説明しようと思う。

まず基本的にあらゆるゲームがそうだが、人間が作ったデータベース上を動くだけなのだ。そこがつまらない、というかその範囲内でしか動けないことに興醒めしてしまうわけで。
たとえば、それと同じで、ディズニーランドやUSJやハウステンボスなどは人間が作った街や施設をうろうろするだけである。観光や遊戯用に人間が作ったものをその範囲内でうろうろすることになんの面白みがあるのか。子供なら楽しいだろうけど、いい大人がなんで、と思う。僕も6歳の時に今は廃園になった奈良のドリームランドに行ったけど、大感激した。子供にはちょうどいいのだろう。

それなら実際に街として機能している街をうろうろする方がよほど面白い。それは観光用に全く整備されていない街のほうがいいが。僕が行った中で面白かったのは、和歌山県御坊市の旧市街、奈良県大宇陀、滋賀県高島市、京都府綾部市、舞鶴市、等など。ほかにもたくさんある。
逆に期待しててがっかりさせられたのは、滋賀県彦根市と兵庫県城崎温泉街。昔の街並みをきれいに現代の建築で再現してたのだ、観光用として。相当興醒めした。だけど大繁盛だったけど。

じゃあポケモンGOはどうかというと、実際にある街をうろうろしてデータベース化されたポケモンを探すのだ。確かに実際にある街をうろうろするだけに微妙そうだ。微妙だけど、ポケモン自体は人間が作ってデータベース化したものにすぎない、それがどんなに複雑であれ。なら結局、ポケモンなんかせずに単に街をうろうろする方がよほど面白いだろう。ポケモン自体が邪魔なだけだ。
街は観光用でも遊戯用でもなく、実際に街として機能しているのだから。それは歴史的にも機能してたし現在も機能している。様々な人がデータベース化されることなく暮らしてきたし今も暮らしている。そして様々な建物がデータベース化されることなく存在してきたし今も存在している。こんな素敵なことが他にあるだろうか。もうそれだけで世界は十分なような気がする。

ただし、もしこれからAIが進化して、データベース化することなく、あるいはAIがデータベース化してても、情報量の厖大化でデータベース化されていると意識されないゲームが将来出てきたらこの僕とてわからない。いいおっさんがゲームに夢中になっているかもしれないが。そうならないことをただ祈りたい。
政治的分断とテロリズム
コラム:2016年後半、さらに悪いことが起きるのか

たしかに今年に入ってからロクなことがない。
特に最近は、参院選の結果、相模原事件、都知事選の結果と最悪のことが続いている。この分だとどうもトランプが勝ちそうだ。

ほぼあらゆる国において、とても気がかりな政治的傾向が見られる。ISのような武装勢力が意図的に行った組織的攻撃でないとしても、常軌を逸した個人が政治的に急進的になり、時に壊滅的な攻撃を行うという懸念すべき傾向があるように見える。
ニースの事件から、米国で多発する銃乱射事件、6月に英国で起きたEU残留派のジョー・コックス議員殺害に至るまで、これらは1つの線でつながっているようだ。


相模原の事件もこのラインではないのか。障害者問題は政治問題でもある。ニースと同様、単なる殺人鬼が政治的動機を無意識に利用しただけだと思う。

多くの国で中道派が劇的に勢力を失っているため、このような政治的分断は危うさをある程度増している。


日本も、戦前回帰派とSEALDsのような幼稚で単純なリベラルとに分断され、冷静なる中道が意見を言う機会が失われているように思える。

こういった分断が本来の政治的活力を奪い、経済的危機が到来するのだろう。
ここ数年を何とか乗り切らないと。
社会とは ― 相模原の事件をめぐって
相模原の施設の事件をめぐって 7月28日

障碍者に言わせてはだめだ。我々が言わないと。
社会に役に立つとはどういうことなのかがもう、この近代が終わった世界ではわからなくなってしまっている。
だいたいあのポケモンGOを遊ぶことに何の意味があるのか。引きこもっている人を外に出すこと以外に。それに限らず、この社会に役に立つことをするのは誰だってむつかしいものだ。僕だって自分の仕事がこの社会の役に立ってるかどうかなんて考えてたら、やってられない。自分と家族が暮らしていくために仕事をしているんだから。だれだって社会の役に立ちたいけど難しいから、ボランティアなんかでお茶を濁すのだ。
社会の役に立たないから生きている意味がない、とか言われたら、僕だって意味がない。

結局は人と人とのつながりだろうと思う。その細かな人同志のつながりがいくつもつながって大きな社会になっているのだと思う。それは他人とのつながりでもいいし家族とのつながりでもいいだろう。家族も立派な共同体だからだ。ネットでのつながりでもかまわないし。もちろん仕事でのつながりも大切だ。

障碍者も必ず誰かとつながっている。そして周囲に感動を与えたりもする。それで十分なのではないか。いや、十分すぎるだろう。
だから障碍者の存在を否定するということは、巡り巡って自分たちの存在を否定することにつながってくる。特になんの感動も与えていない自分たちは障碍者の価値の半分かもしれないのだから。

人間とは国益だけで測れる単純な生き物では決してない。当たり前のことだ。そんな単純な生き物なら人間なんて今すぐにでもやめるしかない。
障害者問題の深遠にあるもの
相模原殺傷・尊厳否定「二重の殺人」全盲・全ろう東大教授(福島智・東京大先端科学技術研究センター教授)

一つは、人間の肉体的生命を奪う「生物学的殺人」。もう一つは、人間の尊厳や生存の意味そのものを、優生思想によって否定する「実存的殺人」である。
 前者は被害者の肉体を物理的に破壊する殺人だが、後者は被害者にとどまらず、人々の思想・価値観・意識に浸透し、むしばみ、社会に広く波及するという意味で、「人の魂にとってのコンピューターウイルス」のような危険をはらむ「大量殺人」だと思う。
(中略)
しかし、これは障害者に対してだけのことではないだろう。生産性や労働能力に基づく人間の価値の序列化、人の存在意義を軽視・否定する論理・メカニズムは、徐々に拡大し、最終的には大多数の人を覆い尽くすに違いない。つまり、ごく一握りの「勝者」「強者」だけが報われる社会だ。すでに、日本も世界も事実上その傾向にあるのではないか。
 障害者の生存を軽視・否定する思想とは、すなわち障害の有無にかかわらず、すべての人の生存を軽視・否定する思想なのである。私たちの社会の底流に、こうした思想を生み出す要因はないか、真剣に考えたい。


極めてバランスのとれた意見だ。障害者の存在を否定するということはすべての人の存在も否定するということにつながる。ここを突き詰めていかないといけない。単なる人権の問題ではなく。
僕の思ってたことを理路整然と言ってくれた。とても頭のいい人だ。
障害者施設襲撃事件に思うこと
相模原の事件は悲惨極まりないヘイトクライムだったが、容疑者の「社会になんの役にも立たず迷惑だけをかけてる障害者などはいなくなればいいのに。」というような趣旨の発言にだまっていてはいけない。

障害者を殺していいのなら、普通の人間である我々も殺していいことになる。なぜなら障害者の存在も我々普通の人間の存在も価値は全く等価だからだ。当たり前のことだ。この当たり前のことに立ち返らなければいけない事件が起きたことに最も悲しまなければいけない。

この社会は、利潤のみを追求する会社と同じではない。もし有用な人間のみを生き残らせるナチス等の優生学的な社会を肯定してしまうと、それはもう人間らしい生活ができる社会ではなくなる。極論すればもうそこにいるのは人間ではないからだ。いや、極論なんかしなくてもそれは人間ではないだろう。人間ではない存在がいくら良いと思って社会を構築しても良い人間社会には絶対にならないし、そんな社会はただただおぞましいばかりだ。

しかし、僕のような部外者がこんなことを言うのは簡単だ。当事者の方たちはそれはもう大変なのだろう。せめて介護職員の給料をあげるとか待遇改善が至急に望まれる。僕のような部外者はこれぐらいしか書けない。
デマが勝つ時代
「デマ」時代の民主主義 (鈴木一人)

現代は民主主義、とりわけ国民投票やアメリカ大統領選のような直接民主主義に近い仕組みにおいて、「デマ」が勝つ時代であり、その「デマ」を意図的に利用する政治家が存在する限り、政治が混乱する、という時代なのだ、という自覚を持つことがまずは大事だと考える。


そういう時代なのだ。デマが勝ってしまう、ということを自覚することから政治を始めないといけないというややこしい時代になってしまった。でもデマを飛ばすのは大抵の場合ポピュリストであり、極端なポピュリストはすぐわかるもんだろうに。トランプとか橋本徹とか。
メディアがポピュリストの烙印をはっきりと押すこともまたデマ抑止になると思うけど。でもここに書いてある通り、

「デマ」を否定する人たちは、そうした合理的で理性的で冷静な分析をしたのだろうが、そうした冷静さそのものが忌避感をもって受け入れられているということは事実だろう。日々の生活にムカついている人たちにとって、「上から目線」であれこれ言われることほどムカつくことはない。その意味で、「デマ」をデマであると否定すればするほど、「デマ」が力を持つという循環が生まれてしまっている。


という時代なので、そいつがポピュリストだと言えば言うほど、逆効果だったりするらしい。「そうした冷静さそのものが忌避感をもって受け入れられている」時代なのだ。
そういう反知性主義の時代。
とにかく民主主義の欠点を突こうと躍起になってる連中ばかりが目立つ時代になってしまった。
これから民主主義はいったいどこへ行くのだろう。
大阪市住民投票
最後まで息をのむデッドヒートだった。
これで大阪市は存続し個人的にはホッとしているが、橋下市長の投げかけた問題提議は大きかったと思う。都構想は今始まったのではないかと思うのだ。世界の大都市としてこれからも大阪が機能していくためには都構想があるいは新たな府市連携が必要なのではないか、と改めて思った。

だが、僕個人はこの橋下市長という人が信用できない。
市長はこれがラストチャンスだと今日も市民を脅していたが、市民に切迫感を植え付けたいだけで、そんなわけはなく、これからこの問題をじっくりと考えていけばいいわけでしょう。それをラストチャンスだと言って市民を脅すのだ。やり方が卑劣だし、嘘つきだ。なぜ自分の任期中にやってしまわなければならないのか、何故バトンを次代に渡せないのか、それが全く判らないから信用できないのだ。

それに、嘘をついてまであるいは手段を選ばずにというのは時に政治家にとって必要なことだろうが、それが非常時ではなく、日常的なのがこの市長のやり方だ。そういう政治手法を府知事時代から僕はずっと見てきた。むかむかしながら
だからこんな市長のもとで都構想が実現されるのは絶対に嫌だな、と拒絶反応があり、今日の結果にもホッとしている。

しかし市民の半分は賛成だったということは重く受け止めて、これから新たに仕切り直しをして都構想に向けてあるいは府市連携に向けてまた考えていくべきだろう。

この選挙で税金をかなり使ったということで、これに対し批判もあるらしいが、僕は無駄ではなかったと思う。今の日本で大阪市民ぐらい地方行政を考えた人たちはおそらくいないだろうから。これが大阪市民にとって一つの財産におそらくなったのではないだろうか。

今は、橋下市長に、お疲れさまでした、と言いたい。言いたいのはただそれだけである。それ以外には何も言おうとは思わない。
反対票の書き方
「反対反対反対反対反対反対反対反対反対反対反対反対反対反対反対反対反対反対反対反対」って20ぐらい枠の中に「反対」て書いたらあかんの?20人分の反対票になれへん?

なるか、そんなもん。下手したら無効やで。

そしたら投票用紙いっぱいに「反対」て書いたら?

はみ出したら無効やろ。普通に書け普通に「反対」て。

妻は大阪市分割に目いっぱい反対だということを表現したいだけなんだが、どうか普通に書いてほしい。
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