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数の数え方
ちょっと前、石原都知事が「フランス語は数が勘定できない」と言って、日本のフランス語教師等に訴えられる、というまたなんとも無様な事件があった。フランス語は10進法を基準に一部20進法を使うので10進法に慣れている国からすれば少し数の勘定がしにくく、数の勘定の仕方が日本とは少し違うというだけのことで、なにも「数が勘定できない」わけではない。それをこんな言い方をすれば、自国の文化のみが絶対であってそれ以外の文化の多様性は基本的には認めたくない、というウルトラナショナリズム的な偏狭な物の考え方が露呈することになるだろう。このことはさんざん弾劾され、フランス語に対する誤解も解けているだろうから、ここではこれに関連して別のことを言おうと思う。

まず何故我々は10進法で数を勘定するのかだ。もちろんそれは数を勘定するときに使う手の指が全部で10本だからに他ならない。もし手の指が8本なら8進法だっただろうし12本だったら間違いなく12進法になっていただろう。フランス語に影響を与えたという、ケルト語は20進法らしいが、おそらく足の指も使ったのだろう。ヨーロッパでは他に12進法が以前は主流だった。英語には今でもそれが残っていて、11、12はeleven, twelve、と英語の習い始めは誰でも少し覚えにくかったはずだ。1ダースは12個だし、ついこの間まで1ポンドは12シリングだった。半日は世界共通で12時間である。12進法というのも根強い。また日本でも江戸時代は4分銀というのがあって、銀製の硬貨4枚で一両である。これは4進法だ。このように世界様々な数の勘定の仕方がある。これはそれぞれがその国の文化である。まだまだ他にあるだろうと思う。こういうことは個人的には興味があるのでどなたかご存知なら教えていただきたい。またコンピューターは基本的に16進法である。こっちの方が10進法より合理的である。1が出るまで2で割り切れるからだ。12進法も合理的で2,3,4,6で割り切れる。ヨーロッパで根強かったのはこれが原因かもしれない。その点10進法は実は不便な数の勘定の仕方ではないだろうか。2で割ると5であり、そのあともうどうしようもない。なのに生き残ってきたのは最初に言ったように手の指が10本だからに他ならない。つまり10進法は以外に人間的なのだ。我々人類はこの不便な勘定の仕方でずーっとやってきたのである。
思うに人間は数を勘定する必要があるから、便利なようにどこかで桁を変えるという何進法とかが自然と編み出されたわけで、数を勘定するのは我々人間だけである。10進法が絶対だとどうしても思ってしまうが、切り株の年輪がまさか10年ごとに太かったりしない。だからあの2000年だったかミレニアムとかいって世界中が盛り上がったが、僕はバカらしくて仕方がなかったものだ。文学仲間でこのことが話題になったことはあったが、それはキリストの生誕から2000年というのが我々日本人にとってどんな意味があるのか、という次元に過ぎなかった。それも確かにあるが、2000という数字そのものに何の意味もないだろうと思ったのだ。16進法で数えれば2000は7D0(たぶん(^-^;)である。何の意味もない。10進法でのみ単にきりのいい数字というだけのことである。そしてこれも当たり前のことだが、世紀が変わったからといって時代がヒュンと変わるわけではない。これも数の勘定の仕方で、歴史家は100年ごとに時代を区切ったほうが歴史を俯瞰するときに便利だと思っただけにすぎない。だから今、何世紀か、というのは全くのナンセンスなのだ。何世紀かというのは後になって考えることなのである。
こんなふうに数を勘定するという行為そのものには何の意味も無い。数を勘定する必要があって、どこかで区切りどこかで桁を変えないと数を数えたり伝えたりができなくなるからだ。そしてそれぞれの国にそれぞれの勘定の仕方があってかまわないわけだし、それがその国の文化である。相手の文化を尊重しないその国の文化は醜いほど偏狭だ。しかしグローバル化したこの現代において何か共通の標準が必要になってくる。それが10進法というだけのことに過ぎない。
元に戻って石原都知事だが、「フランス語はケルト語の影響で一部20進法が交っており10進法が世界共通の数の勘定の仕方になってしまったこの現代においては、世界共通の言語として考える場合いささか不適合ではないだろうか」と言えば何の問題もなかったのだし、むしろ誰をも納得させれただろう。これでフランス人が怒ったのならフランス人が偏狭なのである。なのに「フランス語は数が勘定できない」なんていう言い方は、昨今日本ではやりだした偏狭なナショナリズムを助長することが最初から目的だととられても仕方がない。全く誤解を招くだけの言い方だし、むしろ誤解を招くのを待っているのではないか、と取られても仕方がないだろう。とにかく自国以外の文化はみんな半端で低俗なんだ、という醜いウルトラナショナリズムがこの男から透けて見えてきて、本当にいやな思いにさせられる。
何故こんな偏狭なウルトラナショナリストを東京都民は知事にしたのか、と憤懣やるかたないが、こんな人が国政に復帰したらそれこそ日本は大変なことになるだろうから、東京都知事として一生飼い殺すのも一案かもしれない。ここはむしろ東京都民に我慢してもらったほうがいいのかも。
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癒しの構造
スピッツの「涙がキラリ☆」という曲がここ2、3日頭から離れない。それであらためてCDで聴いてみた。

 目覚めてすぐのコウモリが 飛びはじめる夕暮れに
 バレないように連れ出すから カギはあけておいてよ
 君の記憶の片隅に居座ることを 今決めたから
 弱気なままのまなざしで 夜が明けるまで見つめているよ
 同じ涙がキラリ 俺が天使だったなら
 星を待っている二人 せつなさにキュッとなる
 心と心をつないでいる かすかな光

5行目「俺が天使だったなら」が頭の中ではずっと「君が天使だったなら」と鳴っていた。「俺」ならいいのである。「君が天使だったなら」とはまた情けない男の歌だなぁ、と辟易していたのだ。

いつぐらいからだろうか、〈天使〉という言葉あるいは概念が溢れるように流布しだしたのは。映画『ベルリン天使の詩』からだろうか。〈天使〉とは本来キリスト教に出てくるもので、無宗教の日本人には全く関係がない。〈クリスマス〉も一緒で、関係がなくても口当たりのいいもの、なんだか安易にキレイなものは日本人の間では急激に普及するらしい。これも我らが民族性である。
では日本人にとって〈天使〉とは何なのか。それは結局〈癒し〉ではないだろうか。〈癒し〉という概念をこの〈天使〉一語で象徴してしまっている。とにかく癒してほしいわけである。日本人はいつの頃からか他から癒してほしくて仕方がなくなったのだろう。川柳作家の石田柊馬さんが以前、川柳誌『コン・ティキ』に〈癒しは卑しいことだ〉というふうなことを書いていた。この時日本中が〈癒し〉の大ブームだったように記憶している。〈癒し〉とは他から慰めを乞うことである。確かに卑しい。それは誰でもどんなに強い人間でもある程度の〈癒し〉は必要だろう。しかし常に癒されていないと落ち着かないようなこの現代をどう考えればいいのか。たとえば旅行など部屋が汚れていたりとか、接客態度に問題があったとか、で予定通り癒されないことがあったときに客が憤慨してひょっとしたら損害賠償にまで発展しかねない。〈癒し〉に少しでもヒビが入るともうだめなのだ。〈癒し〉が溢れすぎて、まるで女王様のように君臨するのがこの現代なのだろうか。

石田柊馬さんはまた自身の川柳でもこの問題を違った角度から攻めている。

 釘打って天使をぶらさげておく   石田柊馬

 杉並区の杉へ天使降りなさい     〃

1句目はこの〈癒し〉の象徴である〈天使〉に相当悪意を込め、時代を宙ぶらりんに吊るしたままにしている。2句目は難解だが、〈杉並区の杉〉と言うことで〈杉並区〉という地名を無化し同時に〈天使〉も無化することに成功している。これも天使的な概念を葬り去ろうとする悪意であり、同時に〈癒し〉の洪水に溺れかかっているこの現代に対する痛烈な侮蔑でもある。

 いや死だよぼくたちの手に渡されたものはたしかに癒しではなく  中澤系

この短歌はおそらく中澤系27歳、1997年の時の作品である。もうすでに〈癒し〉が何者かを見抜いている。もちろん〈いや死〉と〈癒し〉は駄洒落だが、これほどシリアスで引き締まった駄洒落をいまだかつて僕は知らない。この駄洒落は決して安易ではなく、かえってこの短歌の韻律をシャープで且つヘヴィなものに仕上げることに成功している。これを歌人の才能と呼ぶのだろう。自分の詩性を短歌という定型に押し込めることによって溢れるほどの才能を制御しているのだ。そういう場合にのみ韻律というものは引き締まるのだろう。〈癒し〉を〈死〉と提示することで世界が反転する。その反転した世界で僕らはいま息をしている。そして1997年と違って2005年の今、もう誰もがこの世界は反転したほうの世界だとうすうすは感づいているはずだ。

「俺が天使だったなら」と聴く女性はうっとりと癒され、男は、そうだ自分が癒すんだと気づき、気づくことで癒される。人を癒すことによってまた自分が癒されるのだ。癒されることと癒すこと、この需要と供給のバランスが崩れてしまうことが僕は恐ろしい。それはもう始まっているのかもしれないが。


セレクション人(2) 石田柊馬集 [邑書林]
中澤系第一歌集「uta0001.txt」[雁書館]
ブログ開始
mixiを抜け出してきた。

mixiには書けないことが多いからだ。

ではここで何を書くのか?

人の悲哀か、植物の慈愛か、それとも揚羽蝶の蔑みか、

いや、もちろん

それは

________________________________ナガスクジラの見る夢である。



ナガスクジラの夢でしかない僕らは でも 海の闇さを知らない
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