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遍在化する意識存在
また前回の話の続きになる。

ニュートラルと中立は同じだろう、と言う人は多いはずだ。
ニュートラルは大辞泉では「いずれにも片寄らないさま。中立的。中間的。」とあり、大辞林にも「対立する二つのいずれにも属さない・こと(さま)。中立。中間。」とある。とにかくどっちつかずの中途半端な立場じゃないか、となる。

そして英語の【neutral】も
━━ a. 中立(国)の; 公平な; どっちつかずの; (色が)くすんだ; (ギアが)ニュートラルの; 【生物】無性の; 【電気・化】中性の; 【楽】(舌の位置が)中間の.
━━ n. 中立者[国]; 中間色; 【機】(ギアの)ニュートラル(の位置).
(三省堂EXCEED 英和辞典より)

とある。なんだかあやふやで中途半端そのものだ、はっきりせい!と言いたくなるような意味だ。確かに意味はそうだろうが。ニュアンスは違う。英語のneutralではなく、少なくとも日本語になったニュートラルは。もっと普遍的な、どこにも属さない、誰にも染まらない、自分の意思を変えない、といったニュアンスを感じる。仕方なくニュートラルになったのではなく、もっと積極的にニュートラルとなり、そして世界を見てやる、という意思だ。

これは黒瀬珂瀾氏の中澤系歌集『uta 0001.txt』(雁書館、2004)書評「遍在化への誘惑」(「未来」7月号、未来短歌会) における「世界に遍在した意識存在」に通じる。

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって  中澤系

ここでこの作品に関して黒瀬は

「理解できない人」は世界中の人間だとして、この一首の発話者はいったい誰なのだろう。作者自身だろうか?(中略)ネット空間では連日多数の情報が発信される。それはユビキタス(遍在的)であり、匿名性が強い。最終的に人間の意識はネットとの伴走をもってそのパラダイムを変換させていくだろう。情報の遍在化は人間意識のネットへのシンクロニシティを喚起する。俗に言う「ネット短歌」にも、それによる「私の流動化」や「私の遍在化」の傾向が伺えるが、中澤系はその黎明期にあって最もラディカルな形で深淵に臨んだ歌人なのだ。従って、冒頭の引用歌の発話者は「世界に遍在した意識存在」と言うことも出来るのではないだろうか。そこには近代的な「私」への激しいまでの懐疑が存在する。それを経て初めて短歌は現代の「意識」の支持体となりうる。



と雄弁に語る。確かに〈世界に遍在した意識存在〉は〈近代的な「私」への激しいまでの懐疑〉であろう。だがこの意識がインターネットという場を通じて出てきたとは僕には思えない。というか時代に関係なく〈世界に遍在した意識存在〉というのはあるのではないだろうか、たとえば『徒然草』のときから。
それに現代においてもインターネットと関係ないところで、たとえば俳人の和田悟朗氏の言う、〈四人称〉がある。これはアラスカの原住民エスキモーの文法における人称である。つまり一人称、二人称、三人称、普通はここまでだが、さらに四人称の概念が彼らにはあると言うのだ。和田悟朗曰く、それは〈神〉の概念だそうだ。

  寒暁や神の一撃もて明くる  和田悟朗

阪神大震災のときの句である。当時神戸の岡本にお住まいで、地震に遭われたときの句だが、この句を見て神戸市民は「何故我々が神の崇りに会わなければいけないのか」と真剣に怒ったそうだ。和田悟朗は科学者であり、できるだけ科学的に〈神〉を規定する。この宇宙でこの世界を規定しているそういう神のような存在が必ずあるはずだ、それは物理の法則のようなことかもしれない、その存在は意思を持つとか持たないとか、今の人類の科学で把握できるようなそんな次元にはいない。だから「祟る」という人間的なモーションを我々にかけるわけがない。それは人間中心にこの世界を考えるから「祟り」などという概念が出てくるわけである。ただその〈神〉という概念がなければこの世界も存在しないだろうということだ。たとえば宇宙からこの世界を俯瞰する存在、それが〈神〉である。だからといって、我々に何をするわけではない。むしろ我々人類のことは全く眼中にはないだろう。あの地震はそういった意味での〈神〉の一撃だったわけだ。何百万年もの人類史もこの〈神〉から見れば、一瞬空中に浮かんでは消える塵のようなものにすぎない。フッサールの現象論とは対極にある。和田悟朗はロゴスを科学的に説明したかっただけかもしれない。しかしこの〈神の一撃〉というものは、あの地震の最初の一撃を神戸で(大阪や京都ではなく神戸で)体験したものにしかわからないのだろう。僕は大阪でこの一撃を受けたし、かなりのショックだったが、ここまでは思わなかった。
エスキモーの四人称も似たようなところがあるという。我々つまり一人称、二人称、三人称、を見ている存在それが四番目の人称ということだ。むしろ〈神〉の概念よりも〈世界に遍在した意識存在〉に近い気はする。が実際に彼らがどんなふうに思って生活しているのか調べたわけではないのでこれ以上ここでは言わない。
〈神〉の概念もエスキモーにおける〈四人称〉の概念も結局それは〈世界に遍在した意識存在〉と限りなく相似だ。一点に集中するか、満遍なく遍在しているか、の違いに過ぎない。しかし、満遍なく遍在していると思うことによって、あるいは満遍なく遍在することで〈神〉という概念が具現化すると思うことによって、世界へのアプローチの仕方は一変する。それをはじめて実践して見せたのが中澤系である。いや黒瀬珂瀾と言うべきか。
つまり〈理解できない人は下がって〉を考えることによって、我々は一気に〈世界に遍在した意識存在〉を意識する。それが中澤系の上述した歌における衝撃の原因なのだろう。これを看破した黒瀬珂瀾の慧眼には感服するしかない。ただしかしここでけちをつけるつもりは毛頭ないが、ネットに関する記述は僕の中ではやはりずれる。言い出したので最後まで言ってしまいたい。
つまりネットはむしろ極私的な想いを増幅させる装置だと思うのだ。情報が蛇口をひねればいくらでも出てくるが、自分が必要としない情報には眼もくれず、自分がほしい情報だけをいくらでも摂取する。そこに閉じた極私的空間が出来上がり、どんどん増幅していく、実に危ない空間ではないだろうか。僕自身もそんな空間でこんなものを書いていて、実際興味のないことには眼もくれない。危ない状況に今いるのかもしれないが、自覚症状は全くない。それどころか誰よりも自分は真っ当だと思っている、のだから始末に終えない。
つまり〈ネット短歌〉には〈私の流動化〉の傾向は伺えるが〈私の遍在化〉の傾向は伺えない。むしろあるのは〈私の偏在化〉だ。
(ここで話は逸れるが、日本語は時々ものすごくややこしい。遍(あまね)く在る、と、偏(かたよ)って在る、この全く逆の意味が同じ発音なのである。これは全くもって信じられない話だ。)
ネット環境では、ゲームオタクはますますゲームオタクになり、文学オタクもますます文学オタクになる。そしてあらゆるイデオロギーがお互いに関係を持たずにますます先鋭化するだけだろう。だから中澤系の上述した短歌はネットとは全く関係はない。関係しているのは彼本来の資質のみなのだ。

ここまで書いてきて、とにかくニュートラルでありたい、と願うこの僕がこうやってネットに潜ることによって、これからもニュートラルでいられるのか自信が持てなくなってきた。これをきっと「ミイラ取りがミイラになる」と言うのだろう。
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