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靖国とアルカイダ
 8月16日の続きである。

 靖国というシステムが、明治初期の富国強兵のために興ったことは、もうこれは明らかなことになっている。それ以前は影も形もなかった。1869年(明治2年)に東京招魂社の創設から始まり、10年後に「靖国神社」と社号を変えたわけだが、日本の領土拡大、つまり当時の欧米列強の仲間入りをするべく、遅れてやってきた日本が講じた苦肉の策だったわけである。神の国であるこの日本のために死ねば、英霊として永遠に天子様のおそばに居ることができ、これは大変幸福なことであり名誉なことでもある、と当時、東京に全国戦死者の遺族を国費で招待して、明治天皇自らが祭主となり戦死者の功績を褒め讃え、その魂を顕彰する勅語を下すことから始まった。それ以後も戦死者とその遺族に最大の栄誉を与え、戦死することを幸福と感じさせることに成功し続けたのである。戦死者を出した遺族の悲しみの感情を喜びの感情に変えてしまう「感情の錬金術」、これこそが靖国信仰を成立させていたのだ。そしていくらでも国のために喜んで死んでいく若者を生産できたのである。それによって遅れてきたこの日本が欧米列強に引けをとらなくなったわけで、このことは歴史を紐解けば一目瞭然である。
 その中で欧米から異様に恐れられた「特攻隊」という戦術も、靖国信仰に洗脳された我々日本人は当時苦もなく受け入れたわけである。逆にそういう死に方をすることこそ他の何よりも最大の栄誉であり、最大の幸福と感じられたのではないだろうか。
 ここで当たり前のことを言う。特攻隊は自爆テロである。このことは誰もがすでに気づいていたはずだ。アルカイダがリードする「イスラム原理主義」のなかに必ずこの靖国信仰に似た「感情の錬金術」があるはずである。神のために死ねばあの世でそれは最上の待遇が待っているのだろう。遺族にも特別な計らいが何かあるはずだ。それがあるため彼らは喜んで自らを爆弾と化して飛び込んでいくのである。特攻隊と全く同一である。そしてイスラム原理主義と靖国信仰はこの点においてこれも全く同一である。ここに論理の飛躍は一切ない。在るのは論理の転換だけである。多くの健全なイスラム教徒はイスラム原理主義をもちろん擁護しない。彼らを狂人扱いするだけだ。一緒にしないでくれ、と迷惑そうに言うだけだ。
 翻って日本ではどうだろう。天皇制を奉じる普通の健全な日本人が靖国も奉じるのである。それは普通のイスラム教徒がアルカイダに同調するのとなんら変わりはない。だが我々は靖国の原理を否定しようともしない。それどころか二度と過ちを起こすまい、と誓って靖国に参る。だが靖国こそがその過ちの張本人である。こんな矛盾があるだろうか。靖国は戦争のための装置である。その靖国で不戦の誓いをたてることに矛盾を感じないことがいったい何を意味しているのか、いい加減気づくべきだろう。明治の富国強兵の一環であり、当時の情勢から植民地政策をせざるを得なかったとはいえ、もういいのではないか、靖国は。過去のものとして、当時それを信じた不幸な遺族のためだけに存続していくだけで。僕自身は彼らには心から同情する。それこそ深い哀悼の念を禁じえない、戦没者にもその遺族の方たちにも。

 アルカイダの自爆テロを異教徒の信じられない蛮行として我々は捉えるが、靖国を信じる人ならおそらく深く理解できるはずである。しかも相手は同じアメリカなのだ。理解できないと言うのならそれは靖国の本質を何も理解せずに、靖国を信奉しているからにすぎない。まず靖国を理解することだ。そしてそこからしか今もう日本人は始まらないだろう。天皇制を肯定するのも否定するのももちろん個人の自由だが、それらはすべてそれからあとである。
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