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少年法と殺人
 今年2月大阪の寝屋川で起こった、17歳の少年による教職員殺傷事件の初公判が今日あった。この公判で少年自身が「僕の目的は殺すことではなく、あくまで刺すことだった。殺害目的があったと言えるかどうか分からない」と述べている。
 僕は人を刺したことがもちろんないし、刺そうと思ったことすらないので、刺す人の気持ちというのはわからないが、刺すことそのことに殺意が当然あってのことなのではないかと思ってしまう。それなら拳銃で相手を撃ち殺しても「殺すつもりはなかった、相手に拳銃の弾丸を撃ち込みたかっただけだ」ということと全く等価だからだ。これは通用しないだろう。
 それと今回少年は「広汎性発達障害」という病気ということで、これは「自閉症とアスペルガー症候群など自閉症に近い特徴をもつ発達障害の総称で、対人関係の障害やことばなどのコミュニケーションの障害、こだわりあるいは想像力の障害などの特徴がみられる」とあり、こういう人たちは思い込みが激しく、相手の気持ちがわからなかったり、人にだまされやすかったりする、らしい。いわゆる一般に自閉症と呼ばれる障害だと思えばいいのだろうか。(でもこの自閉症という言葉は誤解を招くので改めないとだめらしいが。そしてこういう障害がニュースになるたびに彼ら普通の障害者が差別されたりするのだ、世の中単純な人が多いからね)
 そして被告は少年法の定めるところの「少年」である。

 「殺すためではなく刺すため」「広汎性発達障害」「少年」と弁護側は立て続けに3つも持ってきた。判決がどうなるのか素人の僕にはわからないが、僕なりの意見を言わしてもらう、こういった事件での一般論としてだが。
 まず僕は人を殺せばもうその人は人間ではないと思う。なぜなら殺人者を受け入れるだけの器が我々人間社会の側にないからだ。我々人間はそこまで大きな器ではないし、またそんな大きな器を持つ必要もないだろう。どんな理由であれ人を殺すということは多くの普通の人間にとって考えられない行為だし耐えられない行為だ。想像できないわけであるし想像する必要もない。だからそれをやってしまった人を受け入れることはできない。他のどんなことを受け入れることができてもこれだけはできない。つまり殺人者を人間として扱えないし扱う必要もないわけである。だから僕は殺人に限り少年法は適用する必要はないと思う。どんなに凶悪でも傷害で終っているのなら、少年法を適用するべきだが。逆にどんな心身喪失状態であれどんな障害であれ、またたとえ男女の痴情のもつれでも、どんなに積年の恨みがあろうが、その他どんなに同情を誘う状況であろうが殺してしまったら終わりである。それはもう人間ではないし人間として扱えないのである。たとえその殺人者が10歳であれ5歳であれである。つまりあらゆる人権を剥奪していいのである。だからどんどん名前や顔をオープンにしてかまわないと思うのだ。それは決して犯罪抑止という理由からではない。さらし者にするべきだ、という低次元の理由からでもない。もう人間として扱えないからである。人間として扱う必要のない者に人間の法律を適用するのはナンセンスだろう。このけじめをつけることこそ、犯罪抑止につながるのではないだろうか。人を殺せばもう人間ではない、と教えることこそ。

 我々は多くの事象を許容しなければいけない。これからも我々はこの方面でも進歩するだろうし進歩しないといけない。だが殺人者だけは許容できないし許容する必要もないはずだ。これからもずっと。
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品性とは(その2)
 昨日の話の続きである。といっても昨日とはかなり外れるかもしれない。少なくとも経済とは関係ない。が一応、品性の話である。
 ブログを始めてから最近気がついたことだが、なんだか自分の首ばかり絞めているような気がする。それは一般的なことばかり書くからで、じゃぁおまえはどうなんだ、と自分にすぐはね返ってくるからだろう。昨日の品性の話なんか特にそうだ。そこで今日は赤の他人の一個人のことを言おうと思う。そうすれば自分とは全く関係ないので、気が楽だ。だからと言って中傷なんかは絶対に僕はしない。むしろ逆である。

 薬師丸ひろ子さんという女優がいる。もちろん直接お会いしたことはないが、僕はこの人を敬愛して止まない。なぜなら見ていてとても気持ちがいいからだ。昨今少なくなった女優らしい凛とした佇まいが感じられる。
 映画のメイキング映像などを見ていても、彼女はスタッフのだれかれ関係なくよくぺこぺことお辞儀をしている。スタッフあっての映画であると、よくインタビューで語っていたがこのことなのだろう。個人的に聞いた話でも、とにかくだれに対しても頭が低く相手のことを親身に考える人なつっこい人らしい。これは彼女と親しい人から直接聞いたのでかなり信憑性はあると思う。一度頂点を極めた人がである。そうでなくても女優なんてのはツンとしてふんぞり返っているものとばかり思っていたがこの人に関してはまったく逆である。
 それと彼女は誰にも何にも媚びたりすることがない(と思う)。会ったこともないくせになぜそうも断定できるのか、と言われそうだが、これは僕の直感である。そしてこの直感を信じる。笑いたい人は笑えばいい。たとえば彼女はCMにほとんどでない。ああいった芸能人の一番おいしい仕事はCMである。ちょっと自分を露出させるだけで何千万というお金がぽんと入ってくるのだ。もう落ち目だからオファーがないだけじゃないの、と言う人はいるだろう。でもあのキャラと知名度でないわけがない。しかもお母さん役をやらすと好感度抜群である。キッチン関係だけでも相当オファーがあるはずだ。それをしないということはお金に対して媚びたりしないわけである。少なくともお金より自分を露出させないほうを選んでいる。
 それとメディアに媚びない。よく彼女の同世代の女優がバラエティなどに出て、バカな天然ボケをやって見せたりしてメデイアに媚びてまで自分の顔を売ろうと懸命だが、それは女優としての質を下げるだけである。しかしそれをある程度しないと芸能記者への心象は悪くなる。実際彼女のことをよく言う芸能記者にとんとお目にかかったことがない。それは結局メデイアに対して愛想が悪いからである。だがそのほうがかえって凛としていて清々しい。今、芸能人の価値を決めるのは彼ら芸能記者であるといってもいいぐらいで、芸能記者がやりたい放題のさばっている。芸能記者への対処は芸能人にとって死活問題だったりするのだが、彼女には縁のない話だろう。
 またファンに対しても媚びない。つまりファンサービスが悪いと言っていい。大ファンだからといって彼女に会える人はきっと奇特な人である。だがそれが女優だろうと思う。もし彼女のファンサービスが良ければかえってがっかりしていたかもしれない。女優というものはいい意味で超然としていてもらいたいものなのだ。
 こんなふうに誰にも何にも媚びない女性だが、素顔は普通の人なつっこいおばさんらしいし、さっきも言ったように誰に対しても頭が低いのだ。これこそ品性だろうと思う。最高の品性かもしれない。言い換えれば(やっと昨日の話しの続きになるが)少し損をしているのを承知していて別に意に介さない、余裕のようなものだろうか。やはりこういったものが品性だろうと思うのだ。
 彼女はただただ、女優業に邁進しているだけだ。演技という自己表現に全身全霊を捧げているのだろう。元アイドルとしてかつては大ブレイクしたが、今は日本映画界に絶対に欠かせない、かなり癖の強い役を演じる、個性派演技派女優である。演技での彼女の間のとり方呼吸の入れ方にはいつも溜息が出る。集中力の賜物だろう。
 これからもこんなふうにマイペースで女優業を続けていっていただければと願う。


 やっぱり赤の他人を褒めるって楽だわ。
品性とは
 一昨日sora歌会のあとの2次会で、俳人の野口裕さん、駒木根ギイさんと3人で11時過ぎまでなんと3時間も飲んでいた。でもそういう理由とは関係ない。予定だったのである。野口裕さんのホームページにある「需要と供給」という文章をネタに話を展開するのは。

 野口さんはここで寺田寅彦のエッセーや俵万智の短歌を引き合いに出して、需要と供給のバランスのことを独自の視点で考察している。

初歩の経済学の教えるところでは、需要と供給のバランスの取れたところで価格が決定され、価格が安定するはずであった。しかし、そうはならない。価格は激しく変動する。その端的な例が、今日の円やドルなどの外国為替レートの変動に現れる。(中略) 需要が多ければただちにその国の通貨は上昇し、供給が多ければ下落する。需要と供給のアンバランスはただちに価格に反映される。その結果として、需要と供給のバランスはよく取れている。しかし価格(為替レート)が安定せず、ちょっとしたことで大きく変動することは周知の事実である。
 では、価格が安定する場合はどんな場合だろう。初歩の経済学の予定では、需要と供給の完全に一致したところがそのような場合であった。しかし、実際に価格の安定するところは、需要と供給のバランスから少しずれたところ、わずかに需要の多い地点か、わずかに供給の多い地点のどちらかになる。


そして、需要者側か供給者側のどちらかが少し損をすれば価格は安定するのではないか、という結論に達する。つまりどちらも損をしてたまるか、という強い信念があるとどちらもせめぎあい、価格は安定せずいつも乱高下するだけなのである。ここまでわかったとき、バブルが崩壊した時のことを思い出した。当時「ニュース・ステーション」という報道番組でキャスターだった久米宏の一言だ。久米は論説委員の方を見ながら、

「なんかこう、もうちょっと品の良い資本主義というものはないんでしょうかねぇ」

と溜息をつくようにつぶやいたのだ。僕も本当に同感だったので、今でもこの一言ははっきりと覚えている。価格が激しく乱高下した当時の経済状態に誰もがうんざりしたあの状況で、「もうちょっと品の良い資本主義」というのは憧れと言っても決して大げさではないようなウットリとしてしまうある種のユートピアだったのだ。でもそれはいったいどんな経済なのか当時具体的なものは何一つ浮かばなかった。
だが野口さんの文章を読んで、それがほんの少しだが具体化したように思った。需要者側と供給者側のどちらかが或いは両方ともがほんの少し損をすることを了解している状態。言い換えれば損得にそんなに敏感にならない状態。この状態は野口さんも言っているように、小規模の商店が並ぶ昔ながらの商店街での人情味のある経済、これなら実際「品の良い資本主義」はありえるが、昨今の大規模な供給者側でのコンピューターを導入した秒単位での損得勘定では絶対にあり得ないだろうということだ。そしてこう締めている。

需要と供給のある種の理想郷がどちらの側も少しずつ損をするところにあるとすると、「サラダ記念日」の次の歌はその理想郷にかなり近いのではないだろうか。 「オクサンと吾を呼ぶ屋台のおばちゃんを前にしばらくオクサンとなる」
 さて、大規模供給者はどうすれば少し損する事を納得するだろうか。もっとも、それができれば為替レートの激しい変動など起きるはずはないのだが。


 今後も資本主義というのはどうにもならないせめぎあいの中で展開されていくのだろうか。でもそれは経済を動かす人間自身がもう少し品がよければ経済も変わらないだろうか、という思いにどうしても思い至る。
 たとえば人間関係もどちらかが或いは両方ともがほんの少しなら損をしてもかまわないよ、という余裕があれば品の良い関係になるだろう。これがどちらも損をしてたまるか、というギスギスしたものなら、品の良い関係は到底築けまい。(もちろんここで言っている損得はお金に関するものではなく、一般的な人間関係におけることである。)
 また人間一人一人を考えても、少しぐらい損をしたっていいじゃないか、と余裕をかましている人にはやはり品性が感じられないだろうか。なにもクラシック音楽を聴いて高い教養を身につけている人が、品が良いわけでは決してないことは誰もが先刻承知だ。
 品性とは、損をすることを承知でそれに対してそんなに敏感にならない、という余裕のようなものからしか生じてこないのではないだろうか。それを教えてくれた野口さんは炯眼だと思った。

 さて日本経済は長く続いたバブル崩壊後の低迷を抜け、踊り場を脱して上昇気流に今まさに乗ろうとしている。もう17年前のあんな下品な経済の乱高下はごめんである。日本民族が実は如何に品のない民族であったかということを世界中に知らしめたようなものだ。もちろん人間の品位と経済の品位はあまり関係性がないかもしれない。だが何らかの関係性が在ることをこちらは祈りたいのだ。そして民意も進歩する、はずだ。そう思って、これからの好景気が抑制の効いた品の良いものになることを切に期待したい。
またまた自己責任(その2)
 昨日の続きである。昨日の作者不詳の川柳だが、どうも文学というのは誤解されやすいところがあるような気がしてならない。

貧しさは貧しい奴の自己責任

短詩系文学に日ごろ接しておられる方はなんでもないだろうが、そうでない方にはどうも誤解を招きそうな気がして不安になった。この句には反語的表現がちょうど半分含まれている。意味としては字義通り「この自由競争社会において、その人の貧しさは、その人の自己責任であって、社会に責任は無い」という意味になる。これは一面真理である。だから後の半分はこの真理にある。そしてこの強烈な真理を読み手に提示して、もう半分で「これでいいのか」とぐいぐい読み手に迫ってくるのだ。読み手は、本当にそうなのか、そうじゃないのか、考えざるを得ない。本当にそうならどうすればいいのか、ここまで考えさせれ力をこの句に感じる。それは真理と反語がちょうど半分づつだからだ。ちょうど半分づつでお互いが引き合う緊張感が持続し、その緊張感が正に今の時勢にみごとにシンクロしてくるのだ。僕がこの句を傑作だと言ったのはこの点にある。おそらくこの句は無名の人のサラリーマン川柳だろうが、プロの現代川柳作家にも全く引けをとらない、或いはそれを凌駕すらしている気がする。

 もう一度、昨日の僕の文章から引用する。

被災地の救援対応を担当する米連邦緊急事態管理局(FEMA)のマイケル・ブラウン長官は、「避難命令は出したんだから、(自分の意思で)残った住民は自己責任を自覚すべきだ」とCNNテレビで発言した、ということだ。


つまり貧しさゆえにどうやっても逃げられなかった人たちは、その貧しさがその人の自己責任だということにどうしてもなってくる。この発言を実際にそういう人たちが聞いたらどう思うだろうか。今度また避難勧告が出たら、車を持っている人をぶっ殺してでも、車を奪い逃げようと思うだろう。そしてこの行為は今回のこの長官の発言によって正当化されるのである。こうなれば社会は完全に崩壊したも同然だ。個人と社会の関係が全く成り立たなくなる。もちろんこの長官はクビになったが、この発言は彼独自の考えでは決してなく、「貧しさは貧しい奴の自己責任」が大前提のアメリカという国家が思わず彼に言わせただけに過ぎない。謂わばこれがアメリカの本音なのだ。

 民主社会以前の階級社会ならいざ知らず、民主主義をくぐり抜けてきたこの現代において、国家が国民をその経済状態で区別するようになったら、それはもう民主主義の終焉と言ってもいいだろう。或いはそれは民主主義の発展途上に必ず待ち受けている大きな壁に過ぎないのだろうか。そうならば我々はその壁をどうやって乗り越えるのだろうか。
 郵政民営化を掲げた小泉自民党を圧倒的に支持した我々日本も、その壁に向かって突き進んでいることはどうも間違いないようだ。
またまた自己責任
 ハリケーンの被害がまだまだ治まりそうにない。あらゆるアメリカの病巣がこれで抉り出されている感がある。そのなかで去年の日本を思い出したものがあった。またぞろ「自己責任」騒ぎでなのである。
 被災地の救援対応を担当する米連邦緊急事態管理局(FEMA)のマイケル・ブラウン長官は、「避難命令は出したんだから、(自分の意思で)残った住民は自己責任を自覚すべきだ」とCNNテレビで発言した、ということだ。
 今まで聞いた「自己責任」でおそらく一番ひどいものだろう。耳を疑う。議論にもならない次元の低さだ。でも無理やり議論に持っていく。
 すべての人に自分の命を守る「自己責任」は当然あるわけで、それを放棄することは確かに自殺行為である。だがこの場合逃げようにも逃げれなかった人が大多数だろう。その場合にも自己責任を押し付けるのは

貧しさは貧しい奴の自己責任

という路上日記@天六さんのブログに載っていた作者不明のこの傑作川柳の世界になる。(ちなみにこの川柳は反語がちょうど半分混ざっているという点で傑作だと思うのだ)
たとえ搾取することが正当化された社会(たとえばアメリカのような)においても、寅さんじゃないが「これを言っちゃあ終しめぇ」である。おのおのがスーパーマンであるはずもなく、自己責任の枠の中でできることとできないことが誰しもある。それはそれぞれの人で様々に違っていよう。それは一人一人が能力、個性が違うからだ。その自己責任でできないことがあるから社会が必要なのである。その社会の側が「自己責任」を伝家の宝刀のように使っていたのでは、その社会の信用に関わってくるだろう。確かに市民の側も社会に頼ってばかりではいけない。なんでも政府のせいにする人々がいるが、まず自分でできることがあるだろう、と僕はいつも思うのだ。こういう人たちにはこの社会の構成要員が自分たち一人一人だという意識がない。まずお上が在って、自分たちは守ってもらわないと、と常に思っている節がある。お上とは実は自分たちなのである。
 理想的な社会とはおそらく、市民一人一人が自己責任を自覚し、また社会の側は個々の自己責任を把握して、何かこちらにできることはないか、と常に見守るような社会ではないだろうか。お互いがお互いを信頼し合える社会。こんな社会ではおそらく「自己責任」という言葉すらないだろう。こういう言葉が出てくる社会こそ、個人と社会の関係がうまくいっていない社会に違いないはずだ。
ハリケーンと台風
 ハリケーン「カトリーナ」の被害が凄まじい。様々な意味で、このことは、我々日本人にとって他人事ではないわけで、いろいろなことを思った。

 「カトリーナ」の上陸時の勢力は約910ヘクトパスカル、瞬間最大風速70m~80mということで、台風慣れした我々日本人でもこれはあまりに猛烈である。昨今の台風は上陸時おそらく930ヘクトパスカルぐらいがせいぜいだったと思うのだ。それではハリケーンは台風より一段大きな現象なのだろうか。言葉が違うし、語感からなんとなくハリケーンのほうが強烈なイメージがあるが、もちろん両者は同じものだ。東アジアに近づくのが台風で、北米大陸に近づくのがハリケーンである。(そしてこれらを総称して気象用語でトロピカルサイクロンと言うらしい)何を今さら当たり前のことを、とお思いだろうが、考えていくといくつか違う点があるようだ。まず太平洋のほうがカリブ海やメキシコ湾より大きいので、潜在エネルギーも大きく台風のほうが大きくなりやすい、ということが考えられる。じゃぁなぜ?15年ほど前も、たしか900ヘクトパスカルを割る凄まじいハリケーン「アンドリュー」があったし、この考え方はおかしいかもしれない。逆にカリブ海、メキシコ湾のほうが北緯10度から30度の熱帯、亜熱帯気候という熱い地域で閉じているので、寒流が入り込みにくく海水温が上がりやすいのじゃないか。そのせいでハリケーンのほうが大きくなりやすいという考え方もある。どっちかは僕にはわからないのだが、間違いなく違うのは上陸時の緯度だ。今回「カトリーナ」が上陸したニューオーリンズは北緯30度、日本でいうと屋久島の少し南方、いつもハリケーンに悩まされるフロリダ半島は北緯25度、台湾と同じだ。上陸する緯度が北緯25度~30度で、つまりハリケーンの場合は被害をもたらす上陸時に勢力があまり衰えていない。それに対して台風の場合、日本列島の太平洋側は北緯31~35度だからあれでハリケーンに比べるとかなり勢力が衰えて本土上陸となるのである。まずこの理由で、被害はハリケーンのほうが大きくなるのではないだろうか。日本はここら辺が少しまだ救われているように思える。もちろん奄美、沖縄、石垣島、台湾の人は大変である。温暖化で年々台風が大きくなってきているので、政府も本土ばかりではなく南西諸島のことを本腰で考えないと今に大変なことになると思うのだ。 
 もちろんハリケーンや台風は昔からあったが、さっきも言ったように、地球全体の温暖化で、年々勢力が大きくなってきているのは間違いない。温暖化で海水面の温度が必ず上昇する。こういったトロピカルサイクロンは海水面からエネルギーを吸収して成長する。だから海水面温度がこれからも上がれば台風などの勢力は間違いなく増すだろう。熱エネルギーが運動エネルギーに変わる、いわゆるエネルギー保存則という奴である。

 フィジカルなことは以上です。あとはソシアルなこと。

 この地球全体の温暖化にもっとも貢献しているのはもちろんアメリカである。世界人口のたった5%の人口で、この地球で消費されている内の40%の天然資源を消費し尽す。京都議定書も全く意に介さない現世界の最大の勝者であり、最大の消費者だ。地球に優しいものを消費することが特に環境にいいわけではない。それは少しいいだけで、一番いいのは消費そのものをしないことだ。環境大国ドイツなどではここまで自身を追い詰めているが、アメリカでは、どう消費を変えたら環境に対する負荷が少なくなるか、なんてことすら考えようともしない。ただ考えていることは大統領以下、どうやったらもっと効率よくこの世界から搾取できるか、そしてたくさん消費してもっと経済を伸ばせるか、ただそのことだけである。今でも実に大らかに消費を謳歌する国民性だ。まるで大らかであることが人間にとっての最大の美徳であるかのように。確かに今度の「カトリーナ」は甚大な被害をアメリカにもたらした。多くの人が亡くなるだろう。だからこういう言い方が不謹慎であることは十分わかっている。でもあえて言いたい。今度のハリケーン被害は自業自得だと。或いは因果応報とでも言おうか。少なくともアメリカはそう考えるべきだ。そして温暖化が進めば、さらにハリケーンは威力を増すのである。世界経済に対する影響も全く計り知れない。アメリカ一国だけの話ではない。

 さて日本は世界第2位の経済大国である。ただアメリカと違って、ものを粗末にすることを嫌う国民性が今でも残っているはずだ。そう信じたい。だが環境に対する負荷もやはり世界第2位だろう。もし因果応報があり得るのなら、もちろん次は間違いなく日本である。
言葉という缶詰
 何年か前、「第1回詩のボクシング」というのがNHKでやっていて、見たことがある。僕は途中から偶然チャンネルを合わせただけで、そのとき若林真理子という女の子がリングに立ちマイクに向かって何か朗読するふうに喋っていた。たんたんと発せられる言葉に思わずぐいぐいと引き込まれていった。何だろうと思ったら、詩の朗読だったのだ。完全に彼女の言葉に魅了されてしまい、それで結局最後まで見てしまった。当時彼女は17歳で高校3年生ということだった。もちろんこの時優勝したのは彼女だ。しかもぶっちぎりである。そのあと図書館に行って何かないかと探した本の中にこの大会のことがあり、この時の彼女の詩の一節がそのままあったので、ここに引用してみる。引用する時は、書名著者名などを明記しないといけないのだろうけれど、コピーしたものを今やっと取り出してきただけなので、一切不明である。かまわず引用する。

わたしの家のちかくに
ちいさな林がある
わか葉をたいたような
みどりのけむりがたちこめる
木立のなかで
たいようはとおい

わたしはまいごになるために
ここへくる

自然のなかは孤独である
自然はわたしの知りえない言葉で語り合う

ちいさいころ
わたしが知りたかったのは
あの小さな猫とはなす方法
木の葉のささやきを
じぶんの知っている言葉におきかえることだった

わたしの知りえない言葉で自然は語り合う
かぜとはっぱ
はっぱとき
きとつち
つちとみず
みずとすいてき
すいてきとくものす
くものすと青い羽
青い羽とかぜ

世界の言葉は
ちょうどちいさなほほえみをかわしあうように
そうやってくるりとつながっている



 確かに17歳の女の子が書くような内容ではある。大の大人がこんなことは絶対に言わない。だが今読んでみても実にみずみずしい。一つ一つの言葉が粒だっている。しかも彼女は事前に書いてきた詩を朗読するのではなく、いくつかの言葉をメモしてくるだけで、あとは全部本番一発の即興なのだ。それを聞いたとき腰が砕けそうなほど驚いたのを覚えている。少なくともテレビに出るのである。それだけでも普通は事前に綿密にいろいろと準備してくるものだ。そしてがんがんに緊張してしまって、とちったりするのが普通である。
 こういうのを詩人と言うのだろうと思った。むかし漱石だったか鷗外だったか、だれかが言ったように、詩人とは生まれてくるものなのだ。あとで苦学して成れるものではないのである。このことをまず思い知らされた。

 この番組の途中に彼女へのインタビューがあり、そこで彼女は大変興味深いことを言っていた。
 言葉は缶詰みたいなもので、中身が詰まっていたり、少ししかなかったり、空っぽだったりして、自分は友達と会話するときこの空っぽの缶詰を相手に渡してしまって大変後悔することがあるんだそうだ。
 そんなことで後悔するならオジサンなどは年がら年中後悔のしっぱなしである。とても身が持たない。だいたい今書いている文章で相当後悔することになるはずだ。止めてくれ、人の文章のアラなど探すのは。
 要するに彼女が言いたいのは、一つ一つの言葉にぎっしりと中身が詰まっていないと納得できない、ということなのである。缶詰の中身というのはもちろん、その言葉の意味だけではない。言葉とはまず音と意味の融合体である。そして諸々の概念の存在の投影であり、なにより自分が所属する現象としてのこの世界と、つながっていなければいけない。つながって初めてその言葉に中身が生じてくるはずだ。つながらなければいくら修辞を駆使しても空っぽのままだろう。(なかなか自分で耳が痛いぞ)
 僕はこのとき俳句をやっていて、句会などに出入りしたりして仲間の句を読んだりするとき、まさにこの空っぽの缶詰に思い当たることがよくあり、鼻白んだことが何度もあった。自分の俳句はもちろん棚にあげてである。たった17文字なのにもかかわらず、俳人や川柳人は安易に言葉を投げ出すことが多いものだった(僕も実はそうなのだが)。その度に僕は苦言を呈するのをじっと我慢して、でも時々は何か言っていたように思う。空っぽの缶詰ばかりで17音詩を作るというその安易な姿勢がとてもいやだったのを覚えている。実際、言葉と言葉を如何につなげるかで、その言葉が生きてくることがあるのだ。たとえばさっきの若林真理子の詩の一節から

かぜとはっぱ
はっぱとき
きとつち
つちとみず
みずとすいてき
すいてきとくものす
くものすと青い羽
青い羽とかぜ



一つ一つの言葉はなんでもない誰もが良く使う普通の言葉だ。実際彼女の詩を最後まで聞いたが、彼女自身は特別な言葉は全く使わなかったように思える。まだ17歳ということもあってか彼女のボキャブラリーは貧困のように思った。本当の詩人とはきっとボキャヒンなのだろう。
 しかしそれがこんなふうにつながると、すべての言葉に命が吹き込まれ、若林真理子ふうに言うと一つ一つの言葉が「びっしりと中身が詰まった缶詰」になり、言葉がぴちぴちと潤う。そして

たぶんゆめのレプリカだから水滴のいっぱいついた刺草を抱く

加藤治郎「マイロマンサー」


状態になってしまう。いずれにせよ言葉とはぴちぴちとするものなのである。これは才能なのだろうか、それともその人の生き方なのだろうか。才能以前に生き方の問題があるような気がしてならない。
 川柳はまた違うようで、僕は川柳のことはわからないので言わないが、こと俳句においては、缶詰の中身が詰まっているかいないかはかなり致命的なことのように思える。

 でもどうも短歌は違うようだ。空っぽの缶詰ばかりをつなげるというのも、それも一つの戦略足りえるのだろうか。
 もっとも僕のほうが短歌をやっているようで短歌とは別のものをやっているのかもしれないし、それでこれから徐々に短歌に近づいていくのかもしれない。またずっと短歌とは平行線のままなのかもしれない。だから短歌がわからないのかも。それでもとにかく回りに惑わされないことだ。自分の感じるままに行くしかないのだから。そのために文芸なるものをやっているのである。

 とにかく、言葉を缶詰にたとえる、という概念は僕にとって一番勉強になったようだ。僕自身にとっての自戒となった。時として17歳が先生となるのだ。(う~ん、でも紺のハイソックスはちょっと萌えたなぁ)
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