二流民族としてのナショナリズム
あの太平洋戦争での圧倒的な敗戦のあと、日本人は自分が日本人であることに、心のどこかで恥じてきた一面があった。勢い、知識人や感受性の強い人たちの間では

日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係も 
塚本邦雄「日本人霊歌」
(昭和33年)

のような気持ちがあったとしても、あながち大げさなものではなかっただろう。そんな無理やり押さえつけられていた日本人としてのナショナリズムがここ数年だろうか、特に今年に入ってからのあの中国での激しい反日運動をただ呆然と眺めるよりほかなかった我々のなかに、沸々と首をもたげてきたような気配を感じずにはいられない。今度の小泉首相の私人としての靖国参拝に対して、賛成が過半数を超えたような状況は、かつてからは考えられず、如実にそのことを物語っているような気がする。ブログを眺め渡してみても、私的参拝なら仕方ないんじゃないか、と憲法の信教の自由を楯にとって言っているように思える人が多数占めるがその内実は、あの国旗を焼く人たちの非人間的な眼を思いやるにつけ、自分の内にナショナリズムへのはっきりとした傾斜があるのは否めないだろう。ナショナリズムとナショナリズムの鬩(せめ)ぎ合いが始まったのだ。

日独伊三国同盟を締結させたあとあのヒトラーは、東洋人というのは二流民族だと、吐きすてるように言ったとのことだ。ゲルマン民族に過剰な誇りを持っていた彼ならではの差別的な言動だろうが、かつてナショナリズムとナショナリズムの鬩ぎ合いを嫌というほど経験してきたヨーロッパ人にとってみれば、そこまでの経験のない我々東洋人はある意味確かに民族としては二流だったかもしれない。儒教精神が行き渡った東アジアでは、寄らば大樹の蔭的な風潮がどの民族にもあっただろうから、それぞれの民族の自立精神がヨーロッパに比べて薄いのは仕方がなく、あの秦の始皇帝が広大で複雑な戦国時代を統一できたのも、その精神のおかげと言っても決して言い過ぎではないはずだ。民族の自立心の強いヨーロッパ人なら、どんなに強大でも一つの民族がヨーロッパ全土を統一するというのはありえない話である。また未だにチェチェン問題などの民族問題で揺れるロシアを尻目に、中国は自国内の民族問題をかなり卑劣にだが、的確に片付けてきている。これも寄らば大樹の蔭だろうと僕は思うのだ。その中で地理的に微妙に離れているとは言え、中国に吸収されそうでされなかった朝鮮民族はこれは立派だと心底思う。日本は別である。地理的に十分に離れているから大丈夫だっただけだ。

今やっとこのナショナリズムの鬩ぎ合いが始まった東アジアは、ヨーロッパで言うならさしずめ中世だろうか。これから長い道のりを経て、EUというヨーロッパ経済共同体なるものが出来上がるのである。EUは一朝一夕に出来たのでは決してない。熾烈極まる複雑なナショナリズムの鬩ぎ合いの果てにやっと今日成り立ったのだ。ナショナリズムの鬩ぎ合いがあったからこそ、お互いが相手の民族の痛みも誇りも理解できたのである。東アジア共同体なるものを作ろうなんていう人がいるが、こんな寝ぼけたことが何故言えるのか僕には到底理解できない。
これから東アジアはこのナショナリズムの鬩ぎ合いを始めるのだろう。役者は主に三つの民族。二つに分かれたとはいえ、すでにこの鬩ぎ合いを隣国中国との間でさんざん繰り広げてきた経験豊富な朝鮮民族。そして得体の知れない大国、中国。もう一つはもちろんこういったことにはほとんど経験の無い、トッチャン坊や、我らが日本である。

日本はとにかくまず靖国という不利なカードを捨てることだ。でないと最初から相当なハンディを背負ってこの鬩ぎ合いに参加することになるだけだろう。特に日本は四方を海に囲まれ、ナショナリズムとしては過保護に育てられてきただけに、そうでなくてもハンディはあるのだ。言っておくが世界中の国々と外交を重ねることと、隣国や周辺の国々とナショナリズムの鬩ぎ合いをするのとでは全く意味が違う。また周辺の国を支配的に治めていただけではナショナリズムの鬩ぎ合いは経験できない。つまりこの鬩ぎ合いの経験がほとんどないまま、日本はあの太平洋戦争で突然世界デビューしたわけである。これはかなり特殊な民族じゃないだろうか。他の国は、この隣国とのナショナリズムの鬩ぎ合いというステージを経てそれから世界各国との外交というステージに到っているはずだからだ。民族の歴史にはそれぞれステージがあるはずなのだ。日本は何か重要なステージをすっ飛ばしているような気がしてならない。

とにかくまず靖国を捨てることだ。
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靖国問題
 世界中が注視する中、小泉首相が靖国参拝を敢行した。首相は「今ある日本の平和は我々だけで作ったのはでない。彼ら戦没者の尊い犠牲の元にこの今の平和があることを忘れてはならない。二度と戦争が起こらないよう祈るために参っただけだ。何が悪いのだ。日本人として当然のことをしたまでだ。」と述べた。また石原都知事もこのことに意見を求められて、「大変いいことをされた。日本人なら当然やるべきことである。」と述べた。
 はたして本当に日本人として当然のことなのだろうか。ここでもう一度、靖国について(参考)(参考)振り返ってみたい。明治に入って富国強兵の一環として、兵士の士気を高めるため、当時の日本政府が新たに作った東京招魂社が明治12年に靖国神社と名を改めて現在に至っている。もっぱら日本のために戦死した兵士の英霊を祀ることを延々と行っている。そしてかの太平洋戦争時、この靖国というシステムが最大限威力を発揮したのは記憶に新しい。お国のために戦死すればこの靖国に英霊として祀られるのである。それがどれだけすばらしいことかを日本政府が執拗に説いてまわった。内容だけとれば誰もがおかしいと認める、あの怪しい新興宗教となんら変わりない。しかしこの靖国問題の一番肝心な点は、この靖国というシステムを通じて、当時の日本が近隣諸国を蹂躙し殺戮を行ったことにある。靖国というシステムがかの蛮行を容認していたのだ。靖国があったからこそ何をやっても赦されたのである。つまり逆に言えばあの大戦時の蛮行の責任を靖国だけに押し付けることが実は可能なのだ。そこに今回、日本の首相は参拝したのだ。日本人として当然のこと、では決してなく、逆に絶対これだけはやってはいけないことをやってしまったと言っていい。不戦の誓いをするだけなら他にいくらでも方法はあるだろう。
 また、今回公人としてではなく、私人として参拝したとことさら強調しているが、以前石原都知事が靖国参拝をしたときに記者に「公人としてですか、私人としてですか」と質問されて、「そんな馬鹿なこと聞くな!」とあの不気味な笑顔で一喝したのを思い出した。確かに石原さんの言うとおりである。そんな馬鹿なこと聞くもんじゃない。公人私人なんて関係ないのだ。石原慎太郎という一人の人間が靖国に参拝したのだ。そうとればいい。そしてその人間が東京都知事をしているのである。今回も小泉純一郎という一人の人間が靖国に参拝したのだ。そしてその人間が日本の国家主席である首相をしているのである。それですべてである。しかも我々日本人が今回の選挙で靖国に平気で行く人を選んだのだ。いや郵政民営化の勢いに騙されて選ばされた、と言ってもいいだろう。でも後の祭りである。もし小泉さんがどうしても靖国参拝をしたいのなら、首相を辞めてからにするべきだ。辞めてからならいくらでも参拝すればいい。それこそ毎日でも。
 もう少し言うと、今回の小泉首相の靖国参拝が信教の自由、つまり小泉純一郎氏の基本的人権にかかわってくるとすれば、それは小泉さんが真の靖国信者である場合のみである。もし靖国信者でないなら、何しに行ったのか、ということになるだろうし(本当に何しに行ったの?)このことに関して信教の自由を主張する権利はない。信者ではないんだから。
 信者であるから信教の自由を主張する権利があるわけで、だとすると、靖国の歴史を振り返れば、靖国信者であるというだけで、日本の国家元首の資格を失っていると言っていい。つまり公人としても私人としても日本の首相が靖国に参拝する権利はないのである。他の宗教施設なら私人としていくらでも行く権利はある。だが靖国だけは断じて参拝する権利はない。

 今度のことで近隣諸国から日本人全体が靖国を容認しているととられてもしかたあるまい。選挙の直後だけに余計にその意を強くする。我々が小泉を選んだのだから。それも圧倒的多数で。
 もっと我々が靖国のことを逃げずに突っ込んで考えないといけないだろう。ドイツでは首相が元ナチスのA級戦犯の墓に参ったら逮捕されるということだ。ドイツはナチスを完全に過去のものとして封じ込めることに成功した。もちろん厳密に言えば靖国とナチスを一緒にはできない。それはナチスは突然歴史に関係なく降って湧いてきたわけだが、靖国は日本古来の神道と巧妙につなげられているからだ。しかし近隣諸国への赦されるべきでないあの蛮行を赦した点において、ナチスと全く同一と言っていい。

 我々日本人は靖国を絶対に赦してはならない。それは過去の蛮行を赦すことと同一になるからだ。
村上ファンド(その2)
 今の社会、村上ファンドと阪神電鉄、楽天とTBS、あるいはちょっと前のホリエモンとニッポン放送との話も含めて、こういった話が喧しいが、みんな一緒くたになっていて、金で何でも買い占めるのか、という話になりがちだ。だが一応区別しておかなければならないことがある。
 楽天とライブドアは一応実業である。IT産業は虚業じゃないか、とおっしゃる向きもあるだろうが、インターネットという今や社会に完全に認知された業界で、ただあっという間にのし上がったというだけのことで、彼らが起こし彼らが整備したこの産業はしっかりとこの社会に根付いてしまっている。今やこのインターネット抜きにこの社会は存在できないほどに浸透してしまっている。だから彼らは純粋に業務提携を呼びかける。それは一応その企業を長く持ちたいからに他ならないだろう。もちろん吸収していしまいたい野望は間違いなくあるが。しかしそれもその企業を長く持つ、ということに他ならない。
 一方、村上ファンドのような投資会社はどうだろう。かなり成長著しいが、本当にこの社会が必要としている業界だろうか。彼らは資金を調達して、他人のお金を株などに投資し、利ざやを稼いで投資者に還元する。それが仕事だ。ただ一般のトレーダーや投資会社と違って、狙いを定めてその会社の株を買い占め、発言権を勝ち得て、自分が買い占めた株にもっと価値が付くようにその会社に対していろいろと業務改善なりを進言して言うとおりにさせ、高値で売りぬく、というこういった業種としては先進的でハイレベルなことをやっているのだろう。だが本来はそんなことをしなくても社会は成り立つし成り立たなければいけない。いわばこの社会のハイエナである。自分で獲物は仕留めない。つまり何も生産しないしサービスもしない。他人の仕事の成果の余剰部分をちゃっかり拝借する。それも村上ファンドに到っては、他人の仕事のやり方にいちゃもんまで付け、もっと成果が上がるように命令して、もっと自分の取り分である余剰部分を増やそうとしている。アグレッシブなハイエナである。謂わばハイエナがライオンに獲物の仕留め方を指導しているようなものだ。だがどこまで行ってもハイエナはハイエナでしかない。もちろんその会社を長くもつつもりも毛頭ない。つまり彼らファンド会社は虚業以外の何者でもない、と言い切っても誰も依存はないだろう。
 だが資本主義はグローバル化している。これからもどんどんグローバル化するだろう。そんな中で、日本の中でだけでのほほんと日本式資本主義を謳歌していても、いつまでも持たないのはもう目に見えてきている。阪神タイガースを自分の温室の中だけでじっくりと育てて大きくするということも、もうこれからはできないのかもしれない。外気に当てて強く成長させ、来るべき外資系のファンド会社、ひょっとしたらもっとたちが悪くしかももっと大きなハイエナどもの来襲に備えさせようと、村上氏は今、この日本社会に食らい付いたのかもしれない。いいように解釈すればそういうことで、もし彼らファンド会社の存在意義があるとすれば、そこだけである。それ以外には全くない。言い切れる。

 これからの資本主義社会はこういったハイエナどもから如何に身を守るか、ということに相当神経を注がないと、この社会そのものがハイエナどもに食い尽くされてしまうのかもしれない。この当たり前と思っている今の資本主義社会は全くもって不完全で、隙間だらけに違いないからだ。
村上ファンド
 どうも自分のブログのトップページがいつまでも「少年法と殺人」では僕自身がサツバツとしてしまって、気分が滅入る。更新をすればいいんだけど、ネタはいくらでもあるんだけれど、モチベーションが上がらなくて、こんなこと書いて更新しようとしているわけだけれど、今気になっているのは、やっぱり村上ファンド。こっちのほうがまだサツバツとしない。気分はやっぱり滅入るけど。

 タイガースファンとしては、何するんじゃい、というのが正直なところ。
 ファンに株を公開してもっとタイガースを盛り上げよう、一企業の球団ではなくみんなのタイガースにしよう、とか言っているが、そうやって阪神球団の株価が上がりきったところで売り抜けるだけだろう。ファンド会社だから株の売買で利益を上げることが至上命令だろうから。それと今が旬の阪神タイガースに食いつくことによって、メディアの目をこちらに向けさせ、村上ファンド自体のブランド力も上げることが目的に違いない。案外こっちが主力か。そうすることによって、資金の調達力がアップするのは間違いないからだ。阪神ファンらしいが、そういうことはあんまり関係ないだろう。
 一番嫌悪を感じるところは、とにかくすべての価値がお金で決まると思い込んでいるところ。阪神タイガースの価値が株価で数値化されるという、そのことがどういう意味を持つのかおそらく考えたこともないはずだ。野球の勝ち負けがそのままお金に直結してくるわけで、ファンの夢が踏みにじられるだろう。夢というものはお金と関係ないところにのみ存在するということを、この村上という人は絶対に知らない。お金と関係ないからこそ応援できるのである。熱くなれるのである。

 いつの世からこんなに拝金主義者が幅をきかすようになったのか。クイズ番組で実際の金額を昔は出さなかったと思う。点数を獲得する競争で、一点がたとえば1万円とかだったはずだ。それがいつの頃からか、100万円、とか直に言うようになった。その頃からではないだろうか。そのころから急にお辞儀の角度が鋭角になったような気がする。ある日突然、ガソリンスタンドの店員に直角にお辞儀をされてびっくりしたのを今でも覚えている。炉端等で飲んでいて店員がひざまずいて注文を聞くのは最近か。お客様の視線より上から聞くのは失礼だということらしい。彼らは皆、人にお辞儀しているわけではない。お金にお辞儀しているのだ。お金にひざまずいているのだ。これを拝金主義という。歯医者などで「お痛みは」などと聞きなれない敬語を聞いてぎょっとすることがある。彼らもお金に敬語を使っているだけだ。人にではない。でもなぜ「痛みはありませんか」でだめなんだろう。この方がずっと自然だと思うけど。ほんとに気味の悪い。

 ホンダやトヨタや松下の創業者は皆、何もお金儲けだけを考えていたのではないはずだ。如何に良い物を作るか、まずその一点だっただろう。良い物を作ればまず社会貢献になる、そしてお金が儲かるのだ。この順番だったはずだ。しかし今は直接お金をもうけに来る。ホリエモンにしろ村上にしろ、なんら社会貢献はしていないはずだ。唯一あるとすれば彼ら法律ぎりぎりのところで挑んでくるというところから、外資系の買収に対する備えを各企業が講じるようになったということぐらいか。

 寒々とした拝金主義社会だ、どこもかしこも。

 やはりサツバツとしてしまった。