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メイドカフェってなに?
最近メイドカフェが大流行だそうだ。つい先日も大阪難波にヤマダ電機が進出してきて、そのすぐ隣の日本橋電器街が大打撃だろうと思ったら、秋葉原をまねてオタク系で生き残るのだそうだ。そのテレビニュースがあり、メイドカフェに進入取材していた。

カメラが店に入ると、メイド風のファッションの女の子が出迎えてくれて

「いらっしゃいませ、ご主人さま~」

とのたまう。やりきれない。そしてこのメイドファッションに萌えるのだそうだ。つくづくやりきれない。何に萌えるかは趣味の問題だとして、こっちにその趣味がないだけで、特別問題ではない、のだろう、おそらく。とりあえず萌える萌えないの問題はおいておくことにする。もっとも僕の年代でメイドファッションに萌える奴はまさかいないと思う。僕も最近かなり不気味な奴だとだんだんばれてきたが、そこまで不気味ではない。(一応言っとかないと)

一番やりきれないのは「ご主人さま~」の挨拶である。これがわからない。なぜ「いらっしゃいませ」のあとに「ご主人さま~」と付けるのか、なぜ「いらっしゃいませ」だけではだめなのか、全くわからない。ファッションも含めてわからないことだらけなので、とりあえず検索して、ある経験者のブログを覗いてみた。(参照)
この男性(ハンドルネーム:なりぃ)はおそらく東京の社会学専攻の学生で、研究ついでにゼミの女の子二人を連れて初めてメイドカフェ(池袋)に来たらしいのだ。一部抜粋する。


お店は雑居ビルの2階にありました。扉を開けるとあの有名な言葉が。
「おかりなさいませご主人さま、お嬢さま(*´▽`*)~♪」
フリフリスカートのメイドさんが、屈託のない笑顔で迎えてくれました。
その笑顔とほわわ~んとしたテンションを見てると、
こっちまではれほれひれはれ~(*´∀`*)って気分になってきます。
なりぃは「ご主人さま」、ふたりは「お嬢さま」です。
 「 ご 主 人 さ ま ・・・。」いい響きです(笑)

このセリフによって、非日常空間へ入ったことが認識され、
メイドとご主人さまという役割を演じることが了解されるわけです。
これにより、公的空間では異質なふるまい(メイドさん、プライベートでプリプリできませんしね。)は許容され、
それに「萌える」行為も自然な態度として受け入れられます。

メイドカフェってどんなものかと思って入ってみましたけど、
メイドさんみんなかわいい~んですよ(*´∀`*)
飲み物を持ってきてくれるときは、ひざまづいて下から見上げてくれるんです。その瞳に悩殺です。


要するにここではメイドさんに萌えるという態度が一つの挨拶のようなものらしいのだ。要するに萌える側と萌えられる側の役割分担なのか。なんだか判ったような気になったがやっぱりわからん。この学生さんが社会学的分析を行っている。以下一部抜粋する。

メイドカフェに通いつめる男性について考えてみました。
おそらく女性に対して強い倫理観を求めているのかなって。
メイドカフェって、誤解を恐れずにいえば形を変えたキャバクラとも見ることができます。
お金払って女の子とおしゃべりして…。でも有って然るべきいやらしさはないですよね、メイドカフェには。
セックス的なものは隠蔽されてはいるけど、方向としては軽い風俗だと思います。
でも、キャバクラでも風俗でも、彼らには「倫理的」はNGなんです、たぶん。
そういう女の子では、逆に満足できないんじゃないかと思うんです。
彼らが求めていることは、あくまでも「清純」さなんですよね、男性が求める「清純」。
だからセックスのにおいは絶対しちゃいけません。なぁ~んにも知らない乙女のほうがいいんです。

いままで、どんどん女性が開放的になってきて、そして強くなってきました。
それに反比例して、彼らの求める「清純」な女の子がいなくなっちゃったわけです。
女性が「自立的」になっていくことは、そういった「清純」願望を抑圧する結果となってしまった…。
メイドカフェはその受け皿なのかな。ちょっといろいろと想いを廻らせました。


まず軽い風俗だという意見、これは鋭い。なるほどと思った。心理的な風俗なのだ。からだを接触させない風俗なのである。
しかしあとは僕からすればかなり異様である。まずお金を払って女の子と喋るということ、しかもそういったことを平気でやる女の子と喋るということ、こんなつまらないことがこの世にあるだろうか。こんないやらしいことがあるだろうか。どこを指して「強い倫理観」と言っているのか理解に苦しむ。お互い意気投合してしゃべるから楽しいのだし気持ちいいのだ。これは相手が男であれ女であれ関係ない。なんで知らない女性としゃべらなきゃいけないのか。僕なら金もらってでもごめんである。あと一番異様だったのは最後の「清純」の規定である。要するにこういった世界の住人にとっての女性の「清純」とは、男性に対する絶対服従なのだろうか。そしてヴァーチャルにそれを実現したのがメイドカフェなのだろうか。それとメイドコスチュームそのものが服従の象徴なのかな。メイドファッションで「ご主人さま~」と言うことで二重に服従していて、それに男共はある種の快感を覚えるのだろうか。日ごろよっぽど社会からバカにされているのか、とも思いたくなる。
僕個人は自立した目標を持った女性の方が断然萌えるけどなぁ。単に金持ちと結婚して、楽な生活をして一生面白おかしく過ごしたい、なんて女は掃き溜めにでも捨てられるなら捨ててしまいたいものだ。誰にも媚びない自立した女性の方がずっと「清純」なのではないだろうか。
今の社会、お金にあるいは社会にバカにされていると感じる男共が多くなったのだろうか。でもそれはおそらく相対的なことに過ぎないのではないか。今は兄弟が少なく、親に大切にちやほや育てられて、社会に出たら、なんだか厳しいし、バカにされる。結局以前に比べて、家庭と社会の落差が激し過ぎるのではないだろうか。つまり言い古されたことだが、やはり甘やかし過ぎだということだ。社会は前から厳しかったはずだろうし、社会は前から新米をバカにしてきたはずだ。
その厳しさを癒してくれるのがメイド服という服従の印を着け、「ご主人さま~」とさらに服従を確証してくれるメイドカフェなのだろうか。

とりあえずメイドカフェがどんなものかだいたい掴めてきたので、本論に戻したい。
「ご主人さま~」とひざまずいて下から見上げるとのことだ。「ご主人さま~」はともかくとして、この下から見上げる接待の仕方は最近よく出会う。飲み屋などがそうだ。テーブル席の場合、店員はひざまずいて注文を聞く。これは何年か前、白木屋が始めて、全国に広まったのだろう。おそらく今はどこの飲み屋もやっている。先日驚いたのは、家電量販店のヨドバシカメラでテーブルに座っている客にやはりひざまずいて話しかけている店員がいたことだ。ついにここまできたか、と暗澹たる気持ちになった。

もう15年か20年前ぐらいになるだろうか、テレビのクイズ番組で直に金額を言って競わせるクイズ番組が登場した。それまでは金額を点数に換算して視聴者に「お金」という概念をぼやけさして競わせていた。それが直に金額を言うようになった。それとおそらく同時期だったと記憶している。急にガソリンスタンドの店員のお辞儀する角度が45度から90度の直角になったのだ。僕はびっくりした。と同時に少し暗い気持ちになった。「お金」にお辞儀しているのである。しかしそのあともっと驚いたことが起こった。数年ぐらいしてからだろうか、あるガソリンスタンドで、お辞儀の角度が45度ぐらいだったのである。なんだかここは失礼な店だな、と思ったのだ。そしてそう思った自分に驚愕したのだ。と同時に相当暗い気持ちになった。要するに人間は何でも慣れてしまうのだ。今まで当たり前だった45度でも、90度に慣れてしまうと、失礼だと感じるのである。これがわかったときには相当参ったものだ。

結局90度に慣れてしまった客に対して他の店より失礼のないよう、どうすればよいかと思案した挙句、白木屋はひざまずく、ということを思いついたのだろう。お客様の目線より上になってはいけない、ということだ。しかしそれにも慣れてしまったのだろうか。僕は全く慣れていないが。今でも飲みに行ってひざまずかれると相当嫌な気持ちになる。「お金」にそこまでひざまずくなよ、と無意識に感じるのだ。それともう、こういったことに慣れるのが嫌なのである。

しかし世間は止まってくれない。このひざまずくことにも世間は慣れたのだろうか、今度はひざまずいて「ご主人さま~」と言われるといい気持ちになるのだそうだ。結局これも「お金」に対して「ご主人さま~」と言っているに過ぎない。
このとどまらない「お金」に対してへつらう態度と服従の印であるメイドファッションが見事に結びついたのだろうか。メイドカフェは今、大当たりだそうだ。

拝金主義はもちろんホリエモンが起こしたのではない。彼はその風潮にうまく乗っかっただけである。いや乗っかりすぎたとでも言おうか。彼が逮捕されようがこの世から消え去ろうが、拝金主義がとどまることはないだろう。我々は好むと好まざるとに関わらず、この「お金」にへつらう一種の〈文化〉にこれからも巻き込まれていくに違いない。

ただ祈りたい。この「ご主人さま~」と言ってひざまずく接待方法が一般化しないことを。一般の喫茶店のウェイトレスがメイド服を着ないことを。

最近行かないけれど前によく行った「にしむら珈琲」のウェイトレスはなんだかメイド風だったような、違ったっけ。
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日本はアジアなのか
トリノ五輪が終わった。フィギュアスケートに最初から何の興味も無かった者にとって、個人的に興味深かったのは、カーリングが面白かったことと、皆川が百分の3秒差で惜しくもメダルを逃したことぐらいで、メディアでの何が何でもメダル報道にはほとほとうんざりしていたのだが、そんな僕でも、荒川の金メダルにはさすがにホッとした。あのイナバウアー、身をそりくりかえすのがそうかと思っていたら、全く違っていて、後ろの足を伸ばしてつま先を外側に向け、前の足は曲げてやはりつま先を外側に向けるという無理な体勢で、前を向いたまま横にツー、と滑るというだけの技で、それを身をそりくりかえしながらこのイナバウアーをやるのは荒川だけらしい。旧西ドイツのイナ・バウアーという女子フィギュア選手が最初にやったのでこの名前がついただけで、日本のイナバさんとは何の関係もないし、ましてやイナバ物置とは全く関係ないのに、なぜかイナバ物置が急に売れ出したということだ。相変わらずわけのわからない国民である。

さて、この荒川の金メダル、世界でもかなり大きく報道されているらしい。と言ってもそれは日本に入ってきた情報としてなので、実際にどれぐらい大きい報道なのかは正直見当つかないのだが。でも意外だったのは中国の新華社通信の報道である。時事通信社のニュースをそのまま引用する。

2006年2月24日 10:57
 【北京24日時事】中国国営新華社通信は24日、荒川静香の金メダル獲得を「冬季五輪フィギュアスケートでアジアが初の金メダル」と速報した。
 新華社電は、フリースタイル男子エアリアルの韓暁鵬が中国にスキー競技初の金メダルをもたらしたことと併せ、「中日の選手が歴史をつくる」「すべてのアジア人が興奮した日」と、両国選手の大活躍を手放しでたたえた。
 荒川について「完ぺきに近い演技で、ロシアのフィギュア金メダル独占の夢を打ち破った」と高く評価。村主章枝も4位になったことに言及し、選手層の厚さと荒川らスター選手の活躍が、日本の女子フィギュアに隆盛をもたらしたと分析した。


どういう意図がいったい背後にあるのかと、どうしても勘繰りたくなる。2年後の北京五輪を意識してのことなのか、何か外交上のことで企んでいるのか、単なる日本向けのプロパガンダに過ぎないのかもしれないし、この擦り寄り方は何か気色悪くもあるが、だが悪い気はしない。もっとも中国の一般国民がどう思っているのかは全くわからない。ただ言えることは新華社電の背後にある国家圧力が新華社電にこう書かせたのであろう。ただそれだけかもしれない。いや、ただそれだけだろうか。少なくとも日本のメディアで、フリースタイル男子エアリアルが中国にスキー競技初の金メダルをもたらしたことを大々的に報じたところはもちろん無いだろう。僕が見た新聞2誌は2誌とも隅っこのほうに小さな写真入りで、共同通信の記事をそのまま何の感想も加えずに載せていただけである。ページを捲れば見開き2ページ全部に荒川の写真が大きくいくつも踊っている。このアジアの天才競技者二人が金メダルを取ったのは同じ日だったのだ。それを多くの日本人は知らないままだが、多くの中国人は一応知っているはずだ。中国スキー競技に初めての金メダルをもたらした日とフィギュアスケートでアジアに初めての金メダルをもたらした日が同じだったということ。これがアジアのスポーツ界にとってきわめて画期的な記念すべき日なのだということを。もちろん女子フィギュアが圧倒的にメジャーな競技で冬季五輪の最も花形な競技であることと、フリースタイルスキー・エアリアルという競技がなにそれ?と言いたくなるほど圧倒的にマイナーな競技であることを加味してこのことを考えないとだめではあるが。それに中国初とアジア初はもちろん価値が全く違う。そしてもちろん新華社電は国営なので民意をほとんど反映していないだろう。しかし日本のほうでもう少しこのフリースタイル男子エアリアルの金メダルを大きく報道してもいいようにどうしても思ってしまう。同じ東アジアの国として。
もしこれが逆で、日本のスキー競技に今まで金メダルは無く、エアリアルで始めて日本に金メダルをもたらし、それと同じ日にアジアで初のフィギュアの金メダルを中国の選手が取ったのなら、いったい日本のメディアはどう報じただろう。おそらく中国のフィギュア選手は小さく隅のほうにどこかの通信社の記事を丸写しで報じ、日本のエアリアルの選手はやはり見開き2ページでその功績を称えたに違いない。日本のメディアが国営でないことを差っぴいても、この二つを同等に扱うという発想は信じられないことだろう。

何故報道にこんなに落差が生じるのか。それは一つに中国は常にどんなジャンルでも日本をライバル視していることが考えられる。追いつき追い越せといつも思っているのだろう。だからいつも日本に注目しているのだ。それに対して日本は、中国をライバル視する概念すらないのではないか。もちろん昨今の反日運動にうんざりしているのも背景にはあるだろう。僕もこれには相当うんざりしたし、正直中国が嫌いになった。しかしそれ以外にもあるように思う。それはもともと日本にとって「アジア」は価値が低いのである。平たく言えばアジアを馬鹿にしているのだ。日本にとって「アジアで一番」とか「東洋一」とかいうのは実際何の価値もなさない。日本一からすぐに次は世界一である。だから日本以外のアジアの競技者がオリンピックでどんな活躍をしようがどうでもいいのである。

もうずいぶんと前だったがどこかで読んだコラムにこんなのがあった。
ミュンヘン市民にあなたはなに人か、という質問をしたら、まず自分は「ミュンヘンっ子」と返ってきたということだ。次に自分は「バイエルン地方」の人間だと。そして次にはやはり「ドイツ人」という答えが当然返ってきて、そして次である。自分は「ヨーロッパ人」であることを誇りに思っている、と。そして次は仕方ない、という感じで、人類皆兄弟、あなたも私も兄弟だよ、と言って手を振って去って行ったとのことだ。これはもちろん当然のことで当たり前のことなのだが、日本ではさてどうだろう。
たとえば僕は大阪なので大阪の人にこれを聞いたと仮定しよう。まず自分は「大阪人」だと言うだろう。次に「関西人」である。そして次は当然自分は「日本人」となる。問題は次である。それはおそらく十中八九「人類」あるいは「地球人」と答えるだろう。これも日本人としては至極当然のことである。何の不思議も無い。ここで「東洋人」と答えるのはおそらく人類学者ぐらいのものかもしれない。つまり東洋やアジアが完全に抜け落ちているのである。

考えたらこれはなんとも不思議なことだろう。おそらくアフリカの人が自国で一番になったら次はアフリカで一番を目指すだろうし、中南米の人は自国一の次は中南米で一番を狙うだろう。中国やインドの人は自国で一番になったら次は東洋一かアジア一だろう。おそらく日本だけである。日本一の次に東洋一もアジア一も眼中になく、いきなり、次は世界だっ!とか言って盛り上がるのは。

ヨーロッパは確かにアジアやアフリカを蔑視するかもしれない。しかし、たとえあの誇り高きイギリス人でも自身が所属するヨーロッパには一目置くだろう。イギリスで一番になったら次は当然ヨーロッパである。いきなり世界を見たりしないはずだ。つまりヨーロッパに一目置いているからこそ、ヨーロッパで一番になることの価値があるわけだ。たぶん日本だけである。自分が所属する地域を蔑視するのは。そしてその地域で一番になることに何の価値も見出せないのは。

日本人は人類学的にはモンゴロイドである。つまり平たく言えば東洋人だ。そして文化的にも当然漢字文化圏であり、東アジア文化圏である。あらゆる民族はその民族が所属する地域があって初めて存在できるはずだ。それを抜きに自国の文化も歴史も何も語れないし、その民族のアイデンティティがどこに回帰するのかを語ることも出来ない。

日本が靖国へと回帰しようとするのは、ひょっとしたら東洋やアジアと一緒にされたくないという、単なる足掻きなのかもしれない。一緒にされることによって、民族のアイデンティティの重要な部分が一つ欠落するのだろうか。あるいは民族のアイデンティティを東アジアに回帰させたくないのだろうか。およそそれは我慢ならないことなのだろう。そうであればなんとも悲しい民族だ。

考えようによっては日本人は世界一奇矯な民族なのかもしれない。そして可哀想な民族なのである。
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