インドネシア
インドネシアで地震が頻発しているが、ここは日本以上に地震や火山が多いところ。
江戸時代、天明初期にはクラカトワ火山が大爆発を起こし、その後の低温化で、地球規模の大飢饉を5年以上もたらした。日本では天明の大飢饉が有名。このときニューヨーク近郊では6月に凍傷で死者が出たとかいう話もあった。
またスマトラ島のトバ火山は7万年前に発生した生物史上最大の大噴火で、地球環境を激変させ氷河期を導いたと考えられている。このとき、人類は数千人程度まで激減し、人類の進化にまで影響を与えたということだ。
二つとも大量の火山灰が空を何年も覆い続け、地球表面の温度を下げる。

近年、地球温暖化が叫ばれているが、ここらで一発大噴火を、なんて言うのはなんとも不謹慎なことになるだろうね。そりゃ、地球温暖化よりずっと百万倍も大変なことになるだろうから。

でも地球温暖化も長期的に考えれば大変なことになるわけで、だって我々はみんな子孫のことなんてなんにも考えずに無責任に日々を過ごすから。近代以降の人間には通時性の観念がまるでないので。あるのは100パーセント共時性のみ。
ゴミはできるだけ出さないでおこう。できるのはそれぐらい。
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類句騒動
昨日のsora歌会の懇親会、気がつけば歌会なのに俳句に関係ある人ばかりが残った。(ぼくも元俳人)
それで話題になったのが、俳句の類句問題。

三島忌の帽子の中のうどんかな   攝津幸彦『鳥屋』(昭和61年刊)
三島忌の帽子の中の虚空かな    角川春樹「河」(平成18年4月号)

似ているなんてもんじゃない。はっきり盗作と言っていいだろう、という人が多かった。もちろんたった17文字なのだから、こういうことはあるでしょう、あってもかまわないんじゃない、という意見もあった。これはおそらく摂津の句をわかる人とわからない人とで意見が分かれただけだろう。参考のために言わせてもらえば、この句は攝津ファンなら知らない人は絶対にいないと言っていいほどの高名な句である。

ここで思い出されたのが、3年ほど前に俳壇をにぎわした、類句騒動である。

いきいきと死んでゐるなり水中花    櫂未知子
いきいきと死んでをるなり兜虫      奥坂まや

これで類想論争が起こってしまって、結局、奥坂まやが類似句と認め、自分の句を取り下げ一件落着となったということだ。でも「いきいきと死ぬ」なんて表現はだれでもやる表現だろうし、別に櫂未知子の専売特許とは思えない。レトリックとしては初歩だと思う。だから別にだれでもやっていいはずだ。水中花が〈いきいきと死んでゐる〉のは当たり前で、生きた花をそのままガラス瓶に封じ込めたものが水中花である。その水中花を情事のあとの自分にたとえたらしい。確かに美しい句に仕上がっている。〈いきいきと死んでゐる〉という表現が見事に生きている。だからと言ってこれを使ってはいけないわけではないだろう。ただ使うにはかなり勇気はいるだろうけど。

それに対して〈三島忌〉はどうだろうか。
攝津の句は〈うどんかな〉で見事な諧謔になっているはずだ。このうどんを三島由紀夫の死んだ脳みそに喩えた人がいて、それはそれで大変面白いのだが、なんだか解釈しすぎのような気がする。これは単に帽子を裏返して見せて、「どう、うどんだよ」と言い、「今日は三島忌でね」とにんまりする、ただそれだけだ。それだけで見事な諧謔味が出てはいまいか。つまりこの句は〈うどんかな〉まで行ってはじめて句として成立する。つまりそこまで行ってはじめて〈三島忌の帽子の中の〉が生きてくるわけである。これを真似するとはなぁ、とただただあきれるより他にない。水中花の一件とはまた次元を異にすると思うのだ。つまり〈三島忌の帽子の中の〉というフレーズは摂津だけのオリジナリティだからだ。俳句における剽窃かそうでないかは結局そういうことではないだろうか。どこまでがその作者のオリジナリティか、に尽きると思うのだ。〈いきいきと死んでゐるなり〉にそこまでのオリジナリティはないと思う。もっと言えば、〈三島忌〉と〈帽子の中のうどん〉が結びついているわけで、〈三島忌〉と〈帽子の中〉が結びついているわけでは絶対ないだろう。だからこの文脈の中で〈うどん〉を他の言葉と置き換えることはできないはずなのだ。

攝津は確かに天才俳人だったが、角川春樹も俳人として俳壇から非常に高い評価を受けている人だ。むしろ今の俳壇の評価では角川春樹の方が上だろう。

向日葵や信長の首斬り落とす      角川春樹
瞑(めつむ)れば紅梅墨を滴らす        〃
亡き妹の現(あ)れて羽子板市なるや    〃
いにしへの花の奈落の中に座す      〃
三たりより四人がさぶし花の客       〃    

骨太で魅惑的な印象の句が多い。この程度の傑作がまだまだいくらでもある。ファンも多い。僕が俳句を始めた頃、影響を受けた俳人の一人である。俳句を知らない人からすれば、有名人だから、単に俳句が趣味なだけだろう、と思われがちだが、たとえば中曽根元首相が俳句をやるとか、女優のだれそれが俳句がうまいとか、という次元とは全く次元を異にする。単なる俳句愛好家ではなく、かつて大企業の経営者でありながら、日本の俳句史に残るかもしれないほどの俳句作品をたくさん残している。その角川春樹が何故?とどうしても思ってしまう。
確かに昔コカインで逮捕された。服役もした。だからと言ってその人の芸術はだめだ、ということには決してならないだろう。罪とその人の芸術性にはなんら関係があってはならない。コカインが罪としてはたいしたことがない、とかそういうことでもない。自分ひとりが何を服用しようと勝手じゃないか、だれに迷惑をかけるわけでもないし、という意見もあろう。では何故コカインが犯罪で、お酒は別に問題がないのか。それはコカインの方は、社会に蔓延するとその社会が崩壊してしまうからだ。だから当然これは重罪なのである。お酒ならそこまでにはならない。それでコカインは社会的には罪になる。だから社会的に罰せられた。人間としての罪は別に無いだろう。その自負が角川春樹に無かったのだろうか。「俺は人間としては罪を犯していない、ただ、社会的にはまずかっただけだ。」そう思って堂々と芸術活動をしてもらって別にかまわないわけだ。

これは熱烈なる攝津ファンだから、思うのかもしれないが、攝津幸彦の傑作を侮辱しないでほしいと痛切に思う。もう死んだから、何も言わないだろうからではなく、表現者としての倫理を見せてほしい。もしパロディならそれがパロディだということを明記してほしい。何も明記せずただポーンと載せるだけでは、だれが見てもパロディには見えない。明記したところでこれはパロディにはなっていないが。
おそらくこの攝津の句を以前読んでいて、忘れていて、自分の言い回しのように思ってしまい、発表しただけだとは思う。そういったことは結構誰もが知らずにやってしまうことだし、それはそれで仕方ないのだから、フォローがほしいのである。

生前の攝津幸彦をよく知るある女流俳人が昨日の懇親会で仰っていた。

攝津が生きていても、こんなことで文句を言う人じゃないから何も言わなかっただろうけど、でもこうは言ったわねきっと。「春樹さん、盗むんなら、もうちょっと上手に盗んでよ」ってね。

僕は一度も攝津に会えなかったが、そんな心の大きな人だったとは聞いていた。
ああ、攝津に会いたかったなぁ。
ウォーホルのように
そうか、ウォーホルだったのだ。

先日の歌会で、加藤治郎さんの次の短歌作品が批評の対象となった。

まさこさままさこさままさこさままさこさままさこさままさこさままさこさま
加藤治郎、『未来』2006年5月号

〈まさこさま〉を単に7回続けているだけの、短歌とは言えるかどうかも怪しい作品に、ぼくは軽い衝撃を受けた。そして次のように解釈した。
つまり皇室報道に対する批判だと。僕自身、皇室にはなんの興味もなく、日頃の皇室報道がわずらわしくて仕方なかった。だがこの作品を見て、我々は皇室を皇室報道でしか知らないことに、はじめて思い至らされたのだ。雅子さま報道に見られるように、この家族ほどプライバシーの守られていない家族はおそらくいないだろう。哀れな一家なのだ。〈まさこさま〉で塗りつぶされることによって、加熱する皇室報道が皇室そのものを蔽い尽くしていることに気づかされたわけである。真の皇室がそれで見えなくなっているのでは、と問いかけているような、そんな気にさせる作品である、と。
ぼくの批評はここまでで、歌会当日、作者に直接聞いてみた。

「これは短歌研究3月号の30首「ファクトリー」(参照)の没作品でウォーホルの関連で、ほら、モンローがいくつも並んでるやつ、あれですよ。」

と、涼しく答える。そうか、ウォーホルだったのだ。ウォーホルに関連した最新の問題作「ファクトリー」を一応読んでいるにも関わらず、ウォーホルをあまり知らないので、気がつかなかったのだ。
そう、あのモンローがいくつも並んでいる絵(参照)。ぼくのような美術音痴でもこの作品には見覚えがある。
マリリン・モンローという当時のアメリカの象徴をいくつも並べることによって、アメリカの資本主義、大衆性、大量消費社会、を揶揄しているように思える。そしてアメリカそのものがそういう大量消費社会の上にのみ成り立った〈空疎〉な存在であると同時に、その〈空疎〉なことがアメリカの〈絶対〉であるということか。マリリン・モンローを並べることによってその両方が言いえているのだろう。
そうならばこの短歌作品も同様に解釈できなくはない。
皇室報道の向こうに隠れた真の皇室とは、それはおそらく無色透明で質量さえない〈空疎〉な〈絶対〉なのではないか。かまびすしい皇室報道に隠れてしまいそれが見えなくなっているのかもしれない。彼ら一家はそういった静かな存在になれるしまたなろうとしているのではないか。報道などほどほどにして、そっとしておいてもらいたいものだと思えてならない。

だがウォーホルは自身の作品について「僕を知りたければ作品の表面だけを見てください。裏側には何もありません」と答えている。そう今言ったような他意はウォーホル自身は最初から何も込めていないのである。だからこそ普遍性を勝ち得たのだろう。鑑賞する我々はきっとウォーホルに踊らされているだけなのだ。

歌会で加藤治郎さん自身にも同じ事を聞いてみた。案の定、この作品に「全く他意はない」とはっきり言い切っておられた。何のことはない。ぼくが踊らされていただけなのだ。
議論の際のマナー
よみうりTVの「たかじんのそこまで言って委員会」が面白いのでよく見る。昨日も見た。久しぶりにフルメンバーだったのでこれは血を見るかな、と思ったらやっぱり見てしまった。

テーマは「教育上の体罰には賛成ですか?反対ですか?」で、議論は真っ二つに割れた。賛成派が多かったが、徹底した非暴力主義の田嶋陽子さんはもちろん一切の体罰は反対だった。親の暴力があるから子供も暴力的になるのでしょう、暴力の連鎖は断ち切らなければいけません、と。それに対して橋下徹弁護士等は、言ってわかる子供とわからない子供がいる以上、何を言ってもわからない子供には体罰しかないでしょう、痛い目をさせてわからせるしかないでしょう、親としては、とのたまう。テーマは一応学校での体罰のはずで、それが家庭での体罰にいつの間にか移ってしまったとは言え、これで充分議論になっている。ところが橋下弁護士が田嶋教授に食ってかかってしまった。

「ちょっとは子供を産んで育てた人の言うことも尊重してくださいよ、あなたは子供を育てたことがないのだからわからないことがあるでしょう。」

なるほど確かにそうだ。僕もうすうす思っていた。
それに対して田嶋教授は

「子供を育てたことがない者は、何も言う権利がないわけ?セクハラじゃないの?子供を育てたことがないからこそ客観的に見れることもあるでしょう?」

う~ん、なんだかヤバイ。立ち入ってはいけないところへ行こうとしている。

橋下弁護士「いやだからちょっとは経験者の言うことを尊重してください、と言っているだけですよ。」
と譲らない。すると他からいらぬ横槍が入る。

「結婚したこともない人に結婚のことはわからないでしょう。」

これは言わなくてもいいだろう。これも視聴率稼ぎのためだろうか。言うまでもなく田嶋教授は「ギャー、セクハラ!セクハラ!」と紛糾してしまった。そこへホワイトナイト原口一博議員が、

「相手ができないことをネタにして議論するのはマナー違反ですけど。」

と言っているのだが、橋下弁護士には聞こえないのか、「経験者の言うことを尊重してください」の一点張りだった。最後まで彼は折れなかった。結局紛糾したまま終わってしまった。紛糾するのがこの番組の最大の売りかもしれないのでこれでいいのだろうが、橋下弁護士にはあきれるより他にない。
確かに田嶋教授はいつも極端な物言いをする人で僕も辟易することが多い。僕ももちろん反戦派だが、この人の反戦論は典型的な能無し左翼の内容で、今は時代が違うだろう、といつも思っていた。だから橋下弁護士もうっぷんが溜まっていてぶちきれたのだろうが、行き過ぎである。今回この弁護士の言っていることははっきり筋が通っていたとは言え、品性がやはり問われるだろう。

そこで教訓。
まず原口議員の言うとおり、相手ができないことをネタにして議論することは、議論の際のマナー違反である。相手が女性であれ男性であれ、確かにそれはもう議論というより、単なるハラスメント以外の何物でもないだろう。このことが一番その人の品性に関わってくるのではないか。人には誰でもできることとできないことがあるのだから。

もう一つ教訓。
やはり最後はレディファーストだろう。これしかない。日本人の男は欧米人と違って、レディファーストという習慣がほとんど無い。ぼくも正直レディファーストがそんなにいいとは思わないし、何より逆に女性に対して失礼なのではないか、訝ったりする。田嶋教授もレディファーストと言われたら、男女同権、と言い返すに違いない。しかし、ここまでもつれたら、最後はレディファーストしかないだろう。ことはそれで一応収まるだろうし、何より相手が女性なのだから、ちょうどいいのである。レディファーストが女性に対して失礼なのは、最初から相手が女性ということで議論をしないことである。つまり何を言われても「もちろん貴女の言うとおりですよ」と聞く耳を持たないことである。だから議論の際レディファーストが使えるのは、こんなふうにもつれて収拾がつかなくなった場合のみだろう。だから橋下弁護士もこの場合「はいはいわかりました。田嶋先生の仰るとおりです。次行ってください。」と充分ふてくされて言ってかまわないのである。相手が女性なら、最後は引いても男は下がらないのだし。

でも結局視聴率稼ぎなんだろうな。田嶋教授も了解してやってんだろうね。