攻殻機動隊
アニメは子供の時見て以来、ほとんど見てはいなかった。大人になってから見たのは、せいぜい宮崎駿の「ナウシカ」や「トトロ」ぐらいだ。それが、NHK特集、立花隆の「最前線報告・サイボーグ技術が人類を変える」(参照)を見て変わった。ここでは実際に義手の人工神経と生きた脳神経を肩の接続部でつないで、自分の意思で義手の指を動かし、ぎこちないながらもビールを注ぐことがもうできていた。また義眼にカメラがついていて、そこからの視覚情報を脳の後部の視覚野につなぐことにより、全盲の人がおぼろげながらも目の前に何があるか、ある程度はわかるようになっていた。ようするにサイボーグ技術がもう本格化しているのだ。知らなかったのでこれは大変な驚愕だった。また自ら被検体となり、腕の神経を外部に露出さしてコンピューターとつなぎ、自分の意思でコンピューターを操ることにある程度成功している学者がいた。これは自分の脳とコンピューターを直結させるのである。立花隆も簡単な手術を受けこれを実際に試していた。その経験を彼は「言葉にならない」と何度も言って大変驚いていた。そりゃそうだろう。自分の意識がコンピューターと直結するのである。想像を絶する。そんな人間が今まで経験してこなかった世界に言葉などあるはずがない。言葉というものは、人間が経験を積み重ねた上にはじめて生じてくるものだ。このことが言語学の範疇なのかどうかは知らないが、意外にこんな博識な人にも知らないことはあるのだ、となんだか不思議にホッとしていた。立花隆とて人間なのである。神様でも化け物でもない。

この番組でその立花隆が押井守にインタビューしていたのだ。押井の出世作、映画版『攻殻機動隊』のことと関連して、サイボーグ技術の将来を聞いていた。前から押井の名前は聞いていたのだが、なにしろアニメクリエイターである。こちらは40歳をとうに越え、今さらアニメなんか見れるか、というところがあったので、避けていたのだが、これは見なきゃいけないと思いDVDを借りてきて早速見たのだ。正直嵌まった。確かに物語はきわめてフィジカルである。情緒的なところがほとんどない。ましてや文学性などまるきりないだろう。物語に奥深さがない。しかしその電脳を持つサイボーグが当たり前の近未来社会、そこでは人々は脳みそを電脳化し、自分の脳みそから自分の意思で無線を介してネットに直接アクセスする。ネットにもぐれるのだ。身体は義手義足はおろか全身を義体化したサイボーグもいて、つまり不死身である。死なないから、人口問題はどうなるのだ、という疑問はあるが、ここではそれには触れていない。でもある程度目をつぶれば、このアニメからはかなりのリアリティを感じることができると思う。
まさに立花隆が報告し予言していた近未来社会である。立花隆の番組を予め見ていたからすんなりと嵌まったのかな、とも思ったが。
しかしもちろんキャラクターもなかなかである。この攻殻機動隊の隊長で少佐と呼ばれる草薙素子という全身義体化、電脳化というスーパーウーマンはアニメとはいえ、天晴れだ。そしておそらくターミネイターのシュワルツネッガーをモデルにしたであろう義眼の巨漢バトゥ。そして彼らツワモノどもを取り仕切る稀代の切れ者で、この攻殻機動隊の本当の名前である公安9課の課長、荒巻などなど。
それとストーリーがかなり凝っていて、ストーリーにのめり込んでしまう。アメリカでは大変に高い評価を受けたらしい。大ヒット映画『マトリックス』はこのアニメに多大な影響を受けて作られたのはあまりにも有名。

また続編の『イノセンス』では、少佐とバトゥが究極の純愛を見せてくれる。これも見ものだ。
今日は話がとりとめないが、この『イノセンス』で押井守が引用を多用していた。映画を見ながらではほとんどわからなかったが、後でテキスト(参照)で見て納得がいった。わりと面白いので、その引用をここにいくつか引用してみようと思う。

・春の日やあの世この世と馬車を駆り(中村苑子)
・理解なんてものは概ね願望に基づくものだ(出典:不明)
・シーザーを理解するためにシーザーである必要はない(マックス・ウェーバー「理解社会学のカテゴリー」解釈学)
・人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだ。(ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」)
・孤独に歩め…悪をなさず 求めるところは少なく…林の中の象のように(仏陀『ブッダの感興のことば』第十四章「憎しみ」)
・個体が造りあげたものもまた、その個体同様に遺伝子の表現型である。(リチャード・ドーキンス「延長された表現型―自然淘汰の単位としての遺伝子」)
・その思念の数はいかに多きかな。我これを数えんとすれどもその数は沙よりも多し。(旧約聖書『詩編』139節)
・鳥の血に悲しめど、魚の血に悲しまず。声あるものは幸いなり。(斎藤緑雨)

セリフが延々引用だったりする。聞くだけではわからないことが多い。だから言うわけじゃないが、引用を多用したからと言って物語に奥行きがでるわけではない。せいぜい扁平な物語の一番上の皮が厚くなるだけに過ぎないだろう。言葉を機能させたいなら絶対に自分の言葉だけでやるべきだ。しかし全般にこれら引用に限らず言葉を機能させようという並々ならぬ意欲がうかがえる。その意味でも大変面白いアニメだ。こういうところも『マトリックス』に影響を与えたのだろう。
あと中に特に面白い引用があって、中村苑子の俳句があるのは、俳句をそれも前衛俳句をやっていたものにとっては驚くやら嬉しいやらだが、なんといっても唸ったのは、

理解なんてものは概ね願望に基づくものだ

である。確かにそうだもんね。これはいったい誰が言ったのだろう。気になるところである。これこそ押井自身なのかな。

今日は本当にとりとめがありませんでした。あとTV版『攻殻機動隊』のことも言いたかったのですが、もっととりとめがなくなるので次回にします。
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金儲けして何が悪い!
なかなか過激なタイトルである。筆者の人格が間違いなく疑われる。
でもひるまず書き進む。

昨日、村上世彰氏が逮捕される前の記者会見、なかなかの演技者振りを見せ付けていたが、一連の発言で一番気になったのは今日、タイトルにした、

 金儲けして何が悪い!

である。これに対して今日の報道番組で識者らしき人が、またもや誰もが言うだろうことを言ってた。

 金儲け自体は別に悪くないですが、ルールを破っちゃだめですよね。

違うよねこれは、決定的に何かが違う。
僕も金儲けが悪いとは全く思わない。問題はその金儲けの内容である。単に「ルールを破ったらだめ」なんて子供みたいなことは言わないでほしい、識者たるもの。それは「ルールさえ守れば何をやってもいい」ことの裏返しに過ぎない。まさにホリエモン的やり口を肯定することになる。なぜそのルールがあるのか少しは考えないと。それが社会参加だろう、それがシチズンシップだろうと思うのだ。
以前に何度か書いたが(参照)(参照)、もう一度似たようなことを書く。

人の職業は大きく分けて三種類に分けることができるだろう。製造業、流通関係、それとサービス業である。

製造業―農林水産業、工業、システムエンジニア、芸術家、作家、出版など
流通関係―卸売り業、小売業、運送関連など
サービス業―行政(つまり公務員)、教職(これも公務員が多い)、医者、弁護士、金融関係、インターネット関連など

ざっとこんな具合に分類できる。つまりこれらがぐるぐると回ってこの社会が成り立っているのである。社会に貢献するとはこの循環に身を置くことである。
あとたとえば主婦もサービス業である。たとえ対価はなくても、それで喜ぶ人がいるのなら、それは立派に職業だ。仕事とは必ずしも金銭の授受を基におかない。ボランティアもサービス業である。また一方、プロ野球選手もサービス業である。
つまり物を作るのが製造業、その作った物を世の中に流通させるのが流通関係、物以外のサービスを提供するのがサービス業、と分類した。出版は微妙だがあえて製造業に分類した。物とは何も目に見える物だけではない。だからソフトウェアを作るシステムエンジニアも音楽を作る作曲家などもこれは製造業だろう。

話が逸れだしたので元に戻す。
人は一般にこんなふうにだれもが社会に貢献してその対価として金銭を譲り受ける。これを一般に「金儲けをする」というわけだ。だが村上ファンドらは一体どんな社会貢献をしているだろう。確かに証券関係は立派にサービス業に違いない。資本主義システムが円滑に動くため、企業に運営資金を滑らかに回すのが彼らの役目だ。そのために投資信託もあってかまわないだろう。一般の人がそれに参加しても一向に構わないはずだ。だが、彼ら村上ファンドは、単にその企業の企業価値とは関係なく、噂の流布や株主発言などでその企業の株価を一過的に不当に吊り上げ、売り抜けているだけだ。これのどこに社会貢献があるだろう。これのどこが「金儲け」と言えるだろう。投資家からあっという間に金を巻き上げてゆくという、やっていることは手が込んでいるだけで、法律には触れにくいだけの、盗人と全く同じである。
だから「金儲けして何が悪い」と言うことによって、この男は自分が盗人であると言うことを隠しているだけにすぎない。それもまた自分でわかっているのである。またあるところでは、「日本では金儲けは悪いことのように言われる。企業家や投資家が住むところではないと思った。」とか「出る杭は打たれる」とか言っているのも、それは単に自分が盗人であることを隠すための安っぽい詭弁に過ぎない。だまされてはいけない。
シンガポールに逃げたが、アジアは証券市場のルールが日本よりまだゆるいらしいのだ。だからここならまた盗人稼業に専念できるというわけである。せいぜい日本人の汚名を流布しないでもらいたいものだ。

昨年4月東京地検の大鶴基成特捜部長が就任記者会見で

額に汗して働く人、リストラされ働けない人、違反すればもうかると分かっていても法律を遵守している企業の人たちが、憤慨するような事案を万難を排しても摘発したい。


と言っていた。確かに今思えば、ライブドア、村上ファンドを睨んでのことだったに違いない。これはこれで頼もしいが、言い方がまた僕には少しずれる。別に無理に額に汗して働くことはないわけで、楽したってかまわないし、デスクワークだけで、何百億儲けてもかまわないだろう。それが立派に社会貢献していれば何の問題もないはずだ。それでクレームがついたときはじめて「金儲けして何が悪い」と言えるのだし。
額に汗する、とはおそらくその人がその能力をフルに活用していることを比喩的に言っているのだろう。もちろん100%発揮して仕事をしているさまは間違いなく尊い。でもその人の能力の50%ぐらいで仕事を楽してやったって別にかまわないだろう。それで立派に社会貢献できているのであれば。何も皆が皆、一生懸命になって働かなければいけないわけではないはずだ。だがもちろんそういう人はあんまり尊敬はされないだろうし、こんなこと言っている僕自身もそういう人をあまり尊敬できるものではないが。

要するに今回地検が何故動いたか、である。「額に汗して」とか言って正義の味方を装いながら、実際には動く金額なのだ。数十億程度なら、彼らが何をやろうが国家経済に影響は与えない。それが数千億単位になってくると話が全く違ってくる。ほっておけば兆の単位にすぐ乗るわけで、そうなると国家経済や大衆心理に与える影響で大変なことになってくるだろう。つまり拝金主義がますます行き渡り、国民の活動の健全性が損なわれ、国が今よりもっと病弊する。兆を越える金額が一握りのなんら社会貢献しない人たちによって簡単に動かされ、国家経済も多大な影響を受けるわけである。だから今回はそれらを防ぐため、公安として動いたようなものだ。もし本当に地検が社会正義を標榜するなら、構造偽装問題の肝心要である国交省の役人にこそメスを入れるべきだろう。今度の経済スキャンダルはいずれ起こるべきものだったが、あの構造偽装問題は絶対にあってはならないことだったからだ。
ニュースの価値について
昨日から今日にかけて大きな事件が4つもあった。それぞれが重要な事件だと思うのだが、こういくつもあるとそうでもないような気になってくる。

おそらく村上ファンドの件は戦後有数の経済スキャンダルだろうし、秋田の男児死体遺棄事件はかつての和歌山毒入りカレー事件にも匹敵しうるだろうし、美術界の盗作事件はこの間の考古学の捏造事件以来の絶対にありえないはずの文化面でのスキャンダルだろうし、エレベーターにはさまって高校生の男子が死んだ事故は、エレベーターが閉まらずに動いたという前代未聞のありえないことだし、共同住宅の高層化が進むなか、しかも公営住宅で起こったということも含めて、これこそ日本中が注目するべき事故のはずだ。
つまりどれもが大変なニュースのはずだし、そのどれもがそれぞれ根が深いところにあり解決までに長くかかり、それこそ識者の出番のはずで、TVや報道でもいろいろとやるだろう。

しかしこれだけいっぺんに起こると、ニュースの価値とはいったいなんだろうと考えざるをえない。

ニュースの価値とは情報論的に言えば常に相対的なものでしかない(参照)。その起こる確率が低い事象が起こったとき、つまりめったに起こらない事が起こった時ニュース価値は高い。その逆に起こる確率が高い事象が起こったとき、つまりいつでも起こっているような事はニュース価値が低くなるのだ、たとえそれがどんなに重要なことでも。たとえば交通事故。一つ一つの交通事故は本来大変重要な事故のはずだ。実際、自動車が普及し始めた頃、交通事故などめったに起こらなかった頃は、全国のどこで起ころうが、トップニュースに近い扱いだったはずで、それが日増しに増えていき、現代のように毎日起こるようになってからはそのニュース価値を完全に失ってしまった。それがよほどの大事故か、有名人でも起こさない限り、つまり何らかの付加価値がない限りそのニュース価値はゼロと言っていい。つまりその事象の重要性とニュース価値とはなんら関係ないと言ってもいいのだ。
またたとえば世界のどこかで戦争が行われていて、それが一箇所ならその戦争そのものに大きなニュース価値があるのだが、世界中のあちこちで戦争が行われていれば、またどこかで戦争がおっぱじまろうが終わろうが、そんなにニュース価値はないだろう。

戦争が(どの戦争が?)終つたら紫陽花を見にゆくつもりです     荻原裕幸

想うにあの太平洋戦争の最中、毎日が戦争だったわけで、戦争をやるのが当たり前の日常だったわけで、戦争のニュースはその一つ一つの戦争がどんなに重要であれ、もう聞き飽きるほど聞いていたわけでほとんどニュース価値なんかなかったかもしれなくて、そしてどんなに戦局が悪化しようが、だれも戦争が終わるなんてことは想像だにできなかったときに、唐突に戦争は終わったのである、あの昭和20年8月15日に。あの「終戦」というニュースにどれほどのニュース価値があったのか、戦争を知らない今の我々にはただただ想像を絶するとしか言いようがない。

ひるがえってこの現代、いや今、なんだかニュースそのものに麻痺していくような気がする。重要なニュースがいくつも起こっているはずなのだが、多すぎて一つ一つがそれほど重要には思えなくなってきている。そんな気がするのは僕だけだろうか。