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加藤治郎歌集『環状線のモンスター』を読む
加藤治郎さんの第六歌集『環状線のモンスター』がこの7月に刊行された。(参照)
加藤治郎さん(参照)(参照)は20代のときからずっと歌壇の先頭を突っ走ってきた。彼の足跡をみんな附いて行ったのである。そうすれば間違いなかったからだ。楽だし。そして今46歳、そろそろ選者人生を去年あたりから始められただろうか。若手育成のため自分は一歩引いて、という感覚があったかどうかは知らないが、この歌集を読んでまず思ったことは、いまだに現歌壇の先導者だということだ。やはり気がつけば先頭を走っているのは加藤治郎なのである。そろそろ20代~30代で追い越していく歌人がいないといけないわけだけど、いまだに彼の後をぞろぞろと附いて行くしかない。そういうことをこの歌集は読む者に思い知らせる。

この歌人に関しては様々な面があり、とてもそのすべてを論じることはできないのだが、わかる範囲でなんとか書いていきたい。

今までの歌集を読んでみて、そしてこの歌集を読んでみて、一番強く思ったことは、この歌人はそれがどんな時代であれ、その時代に正確に言葉をチューニングしてくることだ。

春立つとニッポンチャチャチャ野に山にニッポンチャチャチャ鶯の鳴く
日曜の路上のガムをごりごりと削るあなたは誰なんですか誰なんですか
しみとおる苺シロップばかやあいばかやいだれも少年でなく
りーりーうっびりーりーうっびと鳥に似た鳴き声で目覚めるぼくたち
人形のお腹を裂けば(おにいちゃんったら)地下鉄の路線図みたい


これら言葉遊びにも似た現代諷詠のなかにすら、確実に現代が書きとめられている。ここにあるのは間違いなく80年代でも90年代でもないこの現代の言葉であり、この現代の言い回しだ。

しかし加藤治郎はもっとシャープに今の時代に切り込む。

環状線出口はなくてとりどりの小さな鏡に目が映っている
スプーンで抉る眼球つめたくてなぜ生きたまま死んでいるのか
真夜中に剥がれる皮のなめらかに環状線を離れて迷う
フリーザーの濁った氷がゆるやかに降りてくる街、いや、俺の頭に
ここにいるのもそこにいるのも俺じゃないドアチェーンいっぱいに開(あ)くドア


2001年のニューヨーク同時多発テロ以降、何でもありになったこの時代に、おそらくは誰もが抱く、不安、あきらめ、出口のない絶望が、この歌人の持つ言葉への嗅覚とその言葉の滑らかな質感によって、遺憾なく描かれている。
環状線とは、日常の同じところをぐるぐる回ることなのだろう。つまりそこには普通の人が棲んでいるのである。タイトルの『環状線のモンスター』とは、その普通の人が環状線の中でモンスターと化している、ということだろうか。そのモンスターは出口が見つからずいつまでも環状線の中でぐるぐる回っている。でも真夜中にはその皮だけが剥がれて環状線を離れてさまようのだろう。欲望と不安が極限まで肥大化したこの現代で、欲望も不安も抑えきれないモンスターが環状線の中でただじっとしている。それが現代なのだ、と。
ここにあるのは怖ろしいまでにシャープな現代詠である。

たとえばこの歌人が得意とする性愛短歌、あるいはそれを匂わせる短歌においても、この、言葉の同時代性を感受することができる。

ふたり人口臓器のように繫がって頬が破れるまで愛したい
更生のように続けるくちづけの続くわけないせせらぎだから
クーラーの水のこぼれるろろろろと少女の舌はようしゃなかった
やらせてる体がひどくこわばったところでぼくは切り刻む、ザム


この歌人が80年代に一世を風靡した第一歌集『サニー・サイド・アップ』の性愛短歌を真似したような若い歌人の性愛短歌を最近よく目にするが、それは詩歌として全く意味のないことだろう。80年代の明るい不安のない滑らかな時代の言葉でもってあの時代の性愛短歌は成立したし、それを先導したのが加藤治郎だった。確かに印象度は抜群で似た経験をすると真似したくなるのはわかるが、今の時代には今の時代の言葉があり、性愛があるはずだ、少なくとも短歌においては。いや、恋愛、性愛においては今も昔もない、極めて普遍的なものだと、いつの時代もおんなじことやってじゃないかと仰る御仁は多いだろう。確かにぼくもそう思う。だが短歌においては話が違う。今の言葉で描かないことには今の性愛にならないし、それは短歌においては性愛ですらない。たとえそれが実体験に基づいたものでも、時代がずれると絵空事のようにしらけたものになるものだ。そして最も肝心なことは、その時代の言葉で書いてはじめて普遍性を勝ち得ることにある。『サニー・サイド・アップ』が全く色あせず今も若い人に読み継がれているのはそのためだ。

そして今の時代を最も象徴しているのは、戦争であり理不尽で脈絡のない殺人だろう。

空爆にかなしくゆがむ天地(あめつち)のああ産道に挟まれた頬
戦争の終わる日に降る灰色の雪は無数の瞼なり 消ゆ
降る雨に重くなりゆくジャケットは軍服めいて俺を走らす
八月はそこいらじゅうに影のあるうすむらさきの地上をあゆむ
シーソーの脚が静かにおりてきてそこはそのまま戦場だった
原爆忌激しく晴れて卓上に折れたストローまっすぐなストロー


ここでは何事も肯定されないし何事も否定されない。歌人はただ時代の中に身を潜めて、自身も同時代人として時代を体験し、観察し、そして消耗する。ただそれだけだ。
今、かつてのようにただ単純に反戦を訴えることに一体どれほどの意味があるのか。それはおそらく逆効果だろう。また人の命が最も尊いと訴えることが如何に虚しいことか、でも言わなければならないのだが、残念ながら

弾丸は二発ぶちこむべしべしとブリキのように頭は跳ねて
化粧する女の顔をぶちぬいてもうとめどなく紫陽花である
氷きるおとこの首をコオリキルオトコノクビヲ、ミザルベカラズ


のように状況を突き放して見つめることでしか、時代を勝ち得ることは今できないのである。そして時代を勝ち得ることなしに、何も表現することはできないし意味すらなさない。つまり今の社会状況を真摯に表現するなら、こんなふうにしか表現できないぐらい、詩歌は今追い詰められているのではないだろうか。今、詩歌は大変な時代に入った、と言える。

そして詩の大惨事なり黒髪を後ろに上げて降り立つ鴉


〈詩の大惨事〉にまみえる覚悟なしに、おそらく今、詩歌には携われない。
この歌集は、短歌が浮世離れした風雅な趣味では決してないどころか、その言葉でもって時代を先導し、その言葉でもって時代を素っ裸にすらしかねない文芸だということを、証明しうる歌集だと思うのだ。

まさに〈モンスター〉なのだろう。
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子猫殺しと子種殺し
今話題になっている、作家の坂東眞砂子の「子猫殺し」(日経新聞)。別に興味はなかったのだが、極めてわかりやすいと思ったので書くことにした。

確かに大方の非難にあるとおり、この作家の言うことははっきり破綻している。

飼い猫に避妊手術を施すことは、(中略)生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。


子種を殺すこととできた子を殺すことは絶対に同じことではない。なぜなら子種は生命ではないが、できた子ははっきり生命だからだ。これはわかりやすい批判だ。

しかしこの話には奥がある。

愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる。


つまり坂東眞砂子は、子種を殺すことはできた子を殺すことと同じぐらい悪いことだ、と言いたいのである。

言い方を変えよう。
人が勝手に自分が飼っている愛玩動物を全く自分の都合で去勢することのおぞましさは、去勢せずにできた子を殺すことと同じぐらいおぞましいことなのだ、と。これを彼女は言いたかったのだろう。本来は極めてわかりやすい話なのだ。彼女の言い方が舌ったらずだったために話が複雑になっているとも思えるが、もう一回言い方を変える。
A=子猫殺し、B=子種殺し、として、
AはBと同等ではないが、BはAと同等なのである。だがこの作家はAもBと同等だと勘違いしてしまったのだ。そして実際に行動に移してしまった。言動だけでなく行動まで舌ったらずだったようだ。

子猫殺しはやっぱりやめようね。
野口毅展に寄せて
8月12日、神戸三宮、ギャラリーミウラでの第3回野口毅展「色と遊ぶ」に行ってきた。
2年前の個展も見たのだが、今回明らかに洗練され進化していた。

野口毅くんは17歳の高校生。小さい頃より自閉症と診断され現在に至っている。お父さんの話によると、小さい頃より記憶力は抜群で色にとりわけ敏感だったが、言葉がどうもうまく扱えない、ということだ。ここまで読んだ方は、「なんだ自閉症の画家か」とお思いだろうが、僕も2年前は大なり小なりそんな感じで、俳句短歌の仲間であるお父さんの野口裕さんとの付き合い上仕方なしに行ったところが少しはあった。それと自閉症に関する個人的な興味と。だが作品.37 を見たときから、これはなんだか違う、尋常じゃないものを感じたのだ。あとこのときの作品.55作品.61作品.66 などの絵の色彩感覚とその色彩感覚の奥に込められた奥深い詩性にこのときもうすでに圧倒されていた。これが本当に13~4歳の子供が書いた絵だろうか、と。とても信じられなかった。色彩の奥にとても子供のものとは思えない明晰な頭脳と研ぎ澄まされた抒情を感じずにはいられなかったのだ。

この画家をより理解するためには自閉症についてもっと理解する必要があるのかもしれない、と思い至る。
野口毅くんは声の大きな大変元気の良い少年である。挨拶もとても元気がいいし人懐っこい感じだ。でも実際はどんな少年なのかは他人のぼくが知る由もないし、そもそも自閉症とはどういうものなのか、僕もだいぶ研究したがわからない。それでお父さんの野口裕さんが書いた、個展のための案内文があるので、勝手に拝借してここに全文引用する。第1回から第3回までの3篇の詩である。これで少しはわかるかもしれない。野口裕さんは高校の物理の先生だが詩がお好きで、俳句や短歌だけでなく時々詩も書かれるとのことだ。

1回目の個展

色と遊ぶ――自閉症の少年が発見した世界      野口裕

 あたりは一面真っ白の世界。何ひとつなく、どこまでも果てしなく白い世界。そこをわたしが歩いている。そしてわたしのまわりにだけは、明るいパステルカラーの丸がそこら中にいくつも浮かんで、色とりどりにきらめいている。そのきらめきの中を通ってゆく。うれしくて、声を上げて笑いたくなるような夢だった。――ドナ・ウィリアムズ「自閉症だったわたしへ」(河野万里子訳)より

 自閉症。英語圏ではIとYOUの区別のつかない症例として有名だと言う。自他の区別のない世界とは超越者のいる世界ではなかろうか。あなたのすることも私のすることも同じ。私がしなければならないことも、あなたがしなければならないこともすべて同じ。野口毅君はよく私に向かって、「お父さん、日曜日にお父さんと毅君は映画に行きます。」と呼びかける。決して、「映画に連れていって下さい。」とは言わない。超越者のいる世界からの声はなんと力強いことだろう。ついふらふらと約束をしてしまうのだ。「はい、お父さんと毅君は映画に行きます。」と。
 遠近法とは無縁の野口毅君の絵には豊かな色が満ちあふれている。ひとつひとつの色が野口毅君であり、絵を見ている私たちなのだ。その絵を見ていると私たちもひとつひとつの色それ自身になってゆく。そこに嘆きはない。朗らかな笑いが取り囲んで、私たちを元気づける。野口毅君が自他のない世界から発見したものだ。
 打算のない世界。嘘のつかない世界から来た色とりどりの夢。それは私の世界であり、あなたの世界なのだ。「あなたと私は色と遊びます。」


私とあなたの区別がつかない世界。そこでは「ひとつひとつの色が野口毅君であり、絵を見ている私たちなのだ。その絵を見ていると私たちもひとつひとつの色それ自身になってゆく。そこに嘆きはない。朗らかな笑いが取り囲んで、私たちを元気づける。野口毅君が自他のない世界から発見したものだ。」これを本当に理解するには大変難しいはずだが、彼の絵を見ているとわかったような気になるから不思議だ。本当にこんな鑑賞の仕方が出来れば、その人は大変幸福になれるだろう。

2回目の個展

忘れもの             野口裕

言葉が邪魔になるときはないだろうか?
いつもは大切な言葉
呼びかけたり 答えたり 知らんぷりしたり
計量カップのように気持ちの水かさを知らせてくれる言葉

だけど
あまりにもさわやかに風が吹いて日が落ちる頃や
緑の樹々がなにもかも光にしてくれるお昼時や
ざあざあとたっぷりの水が落ちてくる夜明けなどに
ふっと言葉を置き忘れていて
何かを思っているのだが
言葉にすると何かが違ってきてしまう
そんなことはないだろうか?

人は多くの言葉を知ってしまっていて
夕日の赤と黒のダンスや
緑の葉っぱのくすくす声や
白い光を練り込んだ雨の朝の前に
つい何かしゃべり始めてしまう

言葉を忘れたまま何か考え続けても
何も出てこないと決めてしまって


野口毅君は言葉が少々不自由です
いつも言葉を脇に置いて 色と遊びながら
ものを考えています

彼の絵の
水や夕日や樹々の鳥たち 土や人の顔
すべて色となり
遊び友達を求めて
光となって画面の外へ飛び出して行きます
そんな光を思う存分浴びてしまったら
忘れていたものを思い出せそうな気がしてきます

野口毅君とともに
色と遊びながら
忘れものを取りに行きましょう


注目すべきは「野口毅君は言葉が少々不自由です/いつも言葉を脇に置いて 色と遊びながら/ものを考えています」だろう。言葉を脇に置く、ということ、これは我々にはなかなか理解できることではない。なぜなら言葉から物を考えたり感じたりする癖が身についてしまっているからだ。言葉を脇に置けばたちまち我々は不安になるだろう。何をどう考えていいのか何をどう感じればいいのかわからなくなる。だから絶対にそんなことはしない。だが彼は言葉を脇に置いて、想う、様々なことを。それらを色に託すのだろう。普通のあらゆる画家も言葉を脇に置くということはしない。だから彼らが描く絵はすべてに理屈がある。言葉によって構築された理屈が充満している。それはたとえピカソの「アヴィニョンの娘たち」でも他のどんな抽象画でさえもそうだ。やはり理屈が勝ってしまっている。それは仕方のないことだ。というか、野口毅の絵を見るとそれがわかるのだ。どんな天才であれ、それが言葉を脇に置けない画家の宿命であり限界であるということが。ところが野口毅くんは生まれながらにして、軽々とその限界を越えてしまって向こうの世界にいる。彼は向こうの世界で一人で色と戯れているのだ。それが彼の思索であり、表現なのだろうか。今回の個展の絵でもその色が、喜びや悲しみや不安になったり、様々な推し量れない感情になったりし、見るものを感動させたり、不思議な気持ちにさせたりする。
作品.72作品.78作品.79作品.80作品.88作品.90作品.91作品.92作品.94
言葉を脇に置いて表現されたその作品群は、言葉をどうしたって脇には置けない我々にはあまりに鮮烈で未知の世界に溢れている。彼は言葉を脇に置いて、きっと色でもって自身の詩を表現するのに違いない。

画集の序詩(3回目の個展)

野口毅画集に寄せて            野口裕

誰の心の中にも
いくすじかの時間が流れている

明日は早起きしなければ行けないとか
嫌な人と会わねばならないとか
そろそろ冷蔵庫を整理せねばなど 未来に関すること
雨が降っているから傘を持っていこうとか
中庭の雑草にも花が咲いたとか
腹が減ってきたなとか 今日に関すること
あいつとはしばらく会ってないなあとか
亡くなった父がよくやっていた仕草とか
こどもの頃の遊びとか 過去に関すること

時間の本流は言葉と結びついて
計画され 行動され 記憶されている

だが 心の奥底でどうしても言葉とむすびつかず
かすかに残されている伏流がある
たとえば 棲んだことのない洞窟に感じる親近感
たとえば 天にひろがる星屑と自分しかいないように感じてしまう夜
不思議とそれらは 生前の世界にも 死後の世界のようにも思え
遠い昔と遥かな未来は一気につながってしまう
自分のいる今の両側が一足飛びにやって来るのだ

いつもはそんなことに気付かない
いつも気付くと本流の時間が停滞してしまう
だが たまに気付けば本流もよどまない
だから たまには伏流に遊ぼう

仕事はもともと遊びなのかもしれないが
あんまりたくさんの人が仕事をしているので
仕事は仕事にしかならなかった

ところで
野口毅の仕事は
仕事をはみ出た仕事として 絵を描くこと
ここに彼の画集が完成した
たまたま彼は言葉が不自由なせいか
時間の本流が伏流と直結し
彼のかたわらに太古があり 未来がある
絵の中に
時間の本流の表現たる遠近法は遠ざかり
伏流から湧き出た色だけが遊んでいる

画集を開くと
湧き出た色は光となってあたりを満たし
そこここに
いつもとは違う時間が流れ始めるだろう

さあ、遊ぼう!


野口裕さんの詩も回を重ねるごとに洗練されていくのが感じられる。今までにも好きなフレーズはたくさんあったが、「仕事はもともと遊びなのかもしれないが/あんまりたくさんの人が仕事をしているので/仕事は仕事にしかならなかった」は特に僕の好きなフレーズだ。ああこういうのは詩でしか表現できないな、と感じ入ってしまう。だがここでは毅くんの絵のことを書きたいので、詩そのものに関しての感想は控える。話がぶれてしまうので。

毅くんを理解するにおいて興味深いフレーズがまたある。「たまたま彼は言葉が不自由なせいか/時間の本流が伏流と直結し/彼のかたわらに太古があり 未来がある/絵の中に/時間の本流の表現たる遠近法は遠ざかり/伏流から湧き出た色だけが遊んでいる」
生まれたときから彼を見つめてきたお父さんだから言えることなのだろう。僕にはなかなか理解しがたいがわかるような気がする。確かにいまだに彼の絵には遠近法がないのである。なぜないのか、それはこちらには到底理解しようがないのだが、おそらく言葉を脇に置く、という事からだろうか。言葉を脇に置くことにより「時間の本流の表現たる遠近法は遠ざかり/伏流から湧き出た色だけが遊んでいる」ことになるのだろうか。

個展を見終えてなぜか写真家のダイアン・アーバスのことを思い出した。この不出生の天才写真家は常に、特殊な人にこそ人間のひいてはこの世界の普遍性がひそんでいるのだ、ということを写真哲学として、双子、知的障害者、サーカス団、ヌーディストキャンプ、など普通でない人々を被写体として追い続けた。(参照)確かにその写真には眼を剥くような人間の普遍性が白日に曝されている。これらの写真は紛れもなく奇跡だ。特殊なケースにこそ普遍性がひそむのである。言われてみれば確かに普通のケースにそれを発見するのはなかなか難しいかもしれない。このパラドックスが真理だということは彼女の写真群を見ればわかるはずだ。ならば野口毅くんの場合はどうだろう。彼自身が特殊なケースだと言えば失礼だろうか。でもやはり言葉を脇に置く、ということはもうこれだけで特殊だと言わざるをえない。ダイアン・アーバスは特殊な人を写真にすることによって我々に普遍性を提示してみせた。野口毅くんの場合は自身を特殊なケースとして、自身を通して、我々にこの世界の普遍性を突きつけるのである。この世界の普遍性を具現化した特殊なケースを一旦写真家という表現者を通すのか、この世界を直接特殊なケースを通すのか、の違いだが、考えようによっては、直接特殊なケースを通すほうがより高い普遍性に届くような気がする。見る我々が直接世界の普遍性に触れることができるからではないだろうか。ひょっとしたら彼の絵に感動するのはここが原因かもしれない。

僕は偉そうなことばかり言っているが絵のことなど実は何にもわからないのだ。だが実際に画廊で彼の絵を目の当たりにして、実物の持つ訴求力に圧倒されていた。特に「雪を眺めつつ」という雪の絵の色彩にはただただ圧倒された。ネット上に絵がないのでお見せ出来ないのが残念だが、雪がこうも様々な色を見せるだろうか、と感嘆しながらいつまでも眺めるより他なかった。その様々な色彩があるためよりいっそう雪の白が華やかになるのだろうか。とにかく強烈な白だった。この絵の白色は紛れもなく僕がはじめて見る白色だったのだ。この絵は僕だけでなく同行した何人かの僕の文学仲間も感心していた。僕は1時間ほど画廊にいたが、その間一般客も多く入ってきていて、そのいずれもが申し合わせたようにその絵の前で立ち止まるのだ。それは本当に面白いほどである。中には10分ほども身動きせずに厳しい顔で凝視する男性もいた。

きっと毅くんの画才はフラワーデザイナーのお母様、宗代子さんの血だろう、と勝手に思う。それに裕さんの詩人の血が交ったのだろうか。この豊かな色彩と詩の祭典がこれからもっと大変なことになっていくのをどうしても期待してしまう。こんなにわくわくさせる少年は今絶対にいない。彼自身が表現の可能性だけでなく、人間そのものの可能性を押し広げているような気がしてならない。


野口家のホームページ
画集に関するお問合せ

8月15日の靖国問題
予想は裏切られなかった。昨日8月15日、小泉首相は靖国参拝を強行した。
この靖国問題に関しては過去何度も書いているが(参照)(参照)(参照)、なかなか終わらない。きっとこれからも書くのだろう。
先に断っておかなければならないのは、中国や韓国に反対されたから首相の靖国参拝を反対するわけではない。靖国はあくまで国内問題である。

まず昨日の小泉首相の返答から。
「いつ行っても批判されるので、いつ行っても同じなわけで、今日が適切な日だと判断した。」
全く子供じみた居直り以外の何者でもない。いつ行っても批判されるのなら、そしてどうしても行きたいのなら、最も批判の少ない日に行くべきだろう。それが大人の選択というものだ。

「公約を果たしたまでだ。」
公約は結構だが、どうしても行きたいのなら、参拝して良いという環境作りをしてから参拝するべきだろう。そもそもその環境作りが公約ではなかったのか。

「個人の信教の自由は絶対侵されてはならない。」
二つの意味でこれはおかしい。一つは、一国の首相に一個人と同じ自由があるわけではない。なぜなら皇室の人間に言論の自由がないように、周囲に多大な影響を与える人の自由はある程度制限されても仕方がないのだ。
もう一つは、信教の自由はあるとしても、一国の首相のみならず公人には布教の自由はないのである。このたびの参拝は充分に靖国神社の布教にあたる。

「神道の奨励にはあたらない。」
今回新たに加わったが、布教の自由について誰かに言われたのだろう。今回の参拝は確かに神道の奨励にはあたらない。靖国神社の奨励である。靖国と神道は違う。靖国は古くから続く神道に明治政府が便乗しただけである。靖国は神道に便乗した新興宗教にすぎず、今回の参拝はその布教に充分寄与したことになる。そしてまた一宗教の利益にも寄与する。

あとはA級戦犯の問題だが、最近どうも極東軍事裁判などを否定したり、あの戦争は自存自衛の為だった、とかいう論調がまかり通るので気になる。

なぜあの戦争が起こったのかもう一度考えよう。
確かに経済的な困窮など自衛の要素はあっただろう。だがなにより、日清日露と負け知らずで来ていて、世論自体が行け行けどんどん、という風潮になっていたのは間違いない。要するに不敗神話なるものが形成されていたのだ。そこに軍部が付けこんであの戦争が起こった、と解釈すべきだろう。これはバブル経済に似ている。当時、土地は絶対に下がらない、という土地神話が形成されていて、そこに不動産屋が付けこんでさらにバブルが過熱し、大きなことになったのだ。だからあのバブル経済は我々一般大衆が起こしたのである。そして崩壊するべくして崩壊した。
戦前も日清日露と負け知らずで、満州も収め、この世に敵は無し、という状況で、まさに戦争バブルが形成されていた。この戦争バブルを形成したのは我々一般大衆だ。そこに軍部に付けこまれるべくして付けこまれ、日米開戦となったのである。だからあの戦争の責任を一部の軍部のせいにして一般の人々は単に巻き込まれたのだ、という人が多いが、一般の人が起こしたのも同然だろう。軍部が世間を焚きつけたのではない。一般世論が軍部を焚きつけたのだ。我々は絶対に負けないと信じていたのは軍部ではなく、我々一般大衆のほうである。そして戦争バブルははじけるべくして一挙にはじけた。それが61年前の8月15日なのだ。だからあの戦争を一部の軍部のせいにして終わっているのは極めて卑怯なことになる。何度も言う。あの戦争は我々が起こしたのである。そう思うことでしか真の反省はありえないだろう。

それから翌年、極東軍事裁判が行われ、そこでA級戦犯などが判決を下されたのだが、彼ら戦犯は我々の身代わりだったのである。だから靖国神社が戦犯を合祀するのは理にかなっているのだ。僕個人は賛成である。靖国とはそういう神社なのだから。それこそ信教の自由であり、反対するほうがおかしい。問題はそこへ一国の首相が参拝することにある。
あれだけの戦争を起こしておいて何も謝罪が無しでは絶対に済まされない。ちょうどあの裁判で我々の身代わりを立て裁いてくれて、「さぁ日本の皆さん、これで戦争は終わり。彼らA級B級C級戦犯は貴方がたの身代わりです。そのことを肝に銘じて二度と戦争を起こしては行けませんよ。さぁ明日からは思う存分働いてください。」ということで終わらせてくれたのである。つまりA級B級C級戦犯は象徴である。象徴をたてることにより謝罪の替わりにもなったのである。そして彼ら戦犯はあの戦争のシンボルであるはずだ。つまり言い方を替えれば平和のためのアンチシンボルだろう。その平和のためのアンチシンボルが祀ってある神社に日本の政治の象徴でもある首相が参拝するのはどう考えてもおかしい。誰がどう考えてもあの戦争を反省しているとは思えないのである。日本の政治の象徴でもある首相が参拝することは、我々日本人があの戦争を反省していないと取られても仕方ないのだろう。

8月15日は我々日本人が粛々と不戦を誓う神聖な日である。だが今年の8月15日はその神聖な日が汚された日となってしまった。
OK牧場?
またまたyou tube から。今度は亀田父、ガッツ石松、やくみつる、の三つ巴激論。

亀田父 vs やくみつる
亀田父 vs やくみつる part1
亀田父 vs やくみつる part2

なんでこんなつまんないビデオを取り上げたか、というと、結構いろんなことを考えさせられたからだ。

まず亀田の父さん、かなりガラ悪い。でも最後まで見るとそうでもないかな、とも思う。むしろやくみつるの方がおかしい。何しに来たんだこいつ、って感じ。
この3本のビデオを通した論旨は、まず亀田興毅のスタイル、つまり口の聞き方とか、安っぽいドラマ仕立て、とかだが、これをやくみつるは、わけのわかんない理屈で攻めてたが、何言ってんだろう、という感じ。亀田父の言うとおり、安っぽいドラマが嫌なら見なきゃいいのである。亀田家全体のドラマがあまりに安っぽすぎて、わかりやすいので僕は最初から見ない。絶対に見ない。テレビでやってたら即チャンネルを変える。内容もあまりに不愉快だし。だがどんなスタイルを取ろうが亀田父の言うとおり、個人の自由である。嫌われてもそのスタイルを通すのは、むしろあっぱれとでも言おうか。口の利き方は確かにスタジオや、やくみつるの言うとおり、青少年に与える影響を考えないといけないと僕も思うが、まぁ、この程度なら、いいかな、という気はする。この徹底したタメ口はこのお父さんの影響なんだとこれを見てはっきりわかった。が、この人はとっくに40代だろう。だから様になっているのだが、10代で、あのタメ口は、ちょっときついかな、と思った。特に今回の疑惑の判定の後では。でももう今さら変えれないんだけど。

そしてガッツ石松、この人言いますねぇ。見直しました。

今度のランダエダ戦、僕の判定では完全に亀田の負け、これはやっぱり相当問題だよ、日本人は立ってさえすれば勝てるのか、ということになるよと亀田父に詰め寄る。だから要するに、スタイルは別にいいんだ、と。どんなパフォーマンスをやろうが別にかまわん。ただボクサーは強くなきゃいかん、誰もが納得できる強さがなきゃいかん、と。

その通りだよなぁ。僕も全くそう思う。ガッツ石松って、「OK牧場」しか言えない人だと、ある意味本気で思ってたけど、違った。キャラ変わるんじゃないか、もうバラエティでは食ってけないんじゃないか、とこちらが心配するほど、クリアーでした。鳥越俊太郎含めてスタジオの中で一番クリアーだった。今までのはあれは全部演技なのでした。というか、それぐらい今度の、亀田―ランダエダ戦でボクシング会の危機を感じたのだろう、と思った。何もかもお金で買収して、成功して視聴率稼いでも、そんなものいつまでも続かないよ。ひいては国民全体がしらけて引いてしまうだろう。むしろ青少年への悪影響はこっちの方じゃないか、八百長でも何でも勝てばそれでいいんだという風潮が蔓延するのはどうかと。そしてボクシングは世界スポーツなんだし、世界が日本のボクシング会を相手にしなくなるよ、ということだろう。眉間に皺を寄せながら熱論するこのガッツ石松の横顔を見ていると、相当な悲壮感が見る者に伝わってくる。

スタイルは今のままで全然かまわない、と僕も思う。安っぽいドラマも全くかまわない、それを不愉快と思う人は僕同様見ないだけだから。でもやっぱり、亀田の父さん、ガッツ石松には最終的には「OK牧場」と言わせないと。あんな小難しいこと言わせてちゃ、なんかむずがゆくなってきて、こっちが落ち着かない。

結局今度は亀田興毅の完全なKO勝ちを巨額の金で演出するんだろうな。でもその時おそらく日本のボクシングはスポーツではなくなるでしょう。一般大衆をなめてはいけませんよ、ね、TBSさん。
野口毅展「色と遊ぶ」
僕が日ごろ文学でお世話になっている野口裕さんのご子息、毅くんの個展、今日からである。2年ぶりで、前回彼は14歳。そのピュアな色彩感覚に圧倒されたのがついこの間のようだ。それが間違いなく進化してやってきた。もうすでに何点か絵(参照)(参照)(参照)を見ているが、前回より間違いなくパワーアップしている。これは見るべし。だまされたと思って、行ける方はぜひお越しください。必ず感動しますよ。これに感じない人はもう人間じゃないですね。僕ももちろん行きます。海外でもすでに評価が高いとのことです。

参照ページ →(asahi.com 兵庫欄)(野口家のホームページ)

色と遊ぶ 野口毅展 少年(16歳)が発見した世界
8月8日~8月13日 AM11:00~PM7:00(最終日はPM5:00まで)
ギャラリーミウラ
神戸市中央区中山手通1-8-19 三浦ビル1階
反語表現について少し
ひょっとしたらSugarcubes(シュガーキューブス)がすべての始まりだったのかもしれない。少なくとも僕にとっては。

1988年、Björk(ビョーク)(参照)(参照)率いるアイスランド出身の6人組ロックバンドSugarcubesがその先鋭的で退廃的な音楽でイギリス中を席巻した。シングル「Birthday」(参照)がイギリスのチャートで1位。アルバム『Life's Too Good』も1位。アメリカや日本では余り売れなかったが、さすが当時ロックミュージックの最先端に居たイギリスである。この逸材を見逃さなかった。
Björkは12歳のときからアイスランドで歌手としてデビューし、国民的スターになっていたとのこと。14歳から20歳の間、次々とバンドを結成しては解散させ、21歳のとき当時のアイスランドの新進の詩人を招聘してこのSugarcubesを結成した。たぶんその詩人が歌詞を書いたのだろう、ある曲に当時ぼくは完全に嵌まっていた。それはアルバム『Life's Too Good』に収められた「Delicious demon」(参照)という曲である。

以下にその原文と、英語が苦手な僕が訳詩(訳:Kuni Takeuti)を参考にして僕なりに改めて訳した対訳を載せる。対訳は意味を解釈する上での参考程度で、肝心なのは原文である。
Björk(女性)とEinar(男性)の掛け合いのラップのような音楽である。
He how!はおそらく掛け声とか合いの手のようなものだと思い、訳していない。

Sugarcubes
Life's Too Good (1988)
Delicious demon

原文                  対訳
Björk
Heeeeeeee how!             ヒィーーーーーィハウ!
He how! He how!             ヒィハウ!ヒィハウ!

Einar
One person calls someone         一人が誰かを呼んで
To pour the water,             水を注ぐ
Because it takes two to pour the water, 水を注ぐには二人の人間が必要だから

Björk
To plough takes two as well,        土を耕すのにも二人必要だわ
But only one to hold up the sky.     でも空を持ち上げるには一人で充分

Einar
To plough takes two as well,        土を耕すのにも二人必要さ
But only one to hold up the sky.     でも空を持ち上げるには一人で充分

Einar
One plays the harp,           一人がハープを弾き
beats a rock with a stick,        スティックでロックのビートを刻む

Björk
One plays the harp,           一人がハープを弾き
beats a rock with a stick,        スティックでロックのビートを刻む
Becomes a priest at least,        そして少なくとも司祭か
a delicious demon.           ステキな悪魔になるのよ
Hee how!, hee how!, hee how!      ヒィハウ!、ヒィハウ!、ヒィハウ!

Einar
Least, a delicious demon.        そうさ少なくともステキな悪魔に

Björk
Delicious demon, delicious demon,    ステキな悪魔に、ステキな悪魔に
Delicious demon, delicious demon    ステキな悪魔に、ステキな悪魔に

Björk
Two men need one money        二人の男が一つのお金を必要としても
But one money needs no man,     一つのお金は誰も必要としないわ
One is on ones knees,          一人はひざまずいて
loses ones head,            首を斬られるのよ
Except maybe a delicious demon,    たぶんステキな悪魔のほかはね
hee how!                ヒィハウ!

Einar
Two men need one money        二人の男が一つのお金を必要としても
But one money needs no man,     一つのお金は誰も必要としない

Einar
Two men need no money        二人の男が一つのお金を必要としても
But one money needs no man      一つのお金は誰も必要としないわ
One is on ones knees           一人はひざまずいて
Looses one head             首を斬られるのよ
Except maybe a Delicious demon     たぶんステキな悪魔のほかはね

Björk
Then one is no longer           もう一人はどこにもいないわ
Then one is no longer           影も形もないわ
Then one is no longer           消えてなくなったわ
No longer!               もう!

Björk & Einar
Delicious demon             ステキな悪魔は
Delicious demon             ステキなあいつは
Delicious, oh here he comes again waouh! また戻ってくるくる
Delicious demon             ステキな悪魔
Delicious demon!             ああ、ステキな悪魔!
So Delicious!               なんてステキなの!


〈Delicious demon〉を〈ステキな悪魔〉と訳したが、ほかに訳しようがないのでそうしたまでで、この場合〈Delicious〉という音がとても大事でここはもう〈Delicious demon〉とそのまま原文どおり把握してもらうより他にない。つまり〈Deliciousな悪魔〉なのだと。
読んでわかるとおり、この曲はお金が中心で動くこの世界そのものへの痛烈な批判である。それが〈Delicious demon〉という強烈な反語でもって表現されている。この場合の〈Delicious demon〉がなんなのかというのは我々日本人には実は難しい。アイスランド人の宗教はアニミズムのようなところがあるらしく、別の曲「Deus」(参照)にもそれがうかがえるが、具体的に誰かを指すのではなく、超常的な存在として扱われているような気がする。つまり巷に遍在するのである。だからここの歌詞に匂わせてあるような音楽家のことではないだろう。
水を注ぐのにも土を耕すのにも、二人要るが、お金は誰も必要としないか、せいぜい必要とするのは一人である。そして他の一人は首を斬られる。
近代から現代の社会の縮図を神話的に表現し、〈Delicious demon〉を決して罪悪としてではなく、遍在する真理として強烈な反語で締め上げた。〈Delicious demon〉という言葉でもって、この世界の不条理から逃げずに正面切って対峙することに成功している。おそらく反語表現が表現として成功する必須条件は不条理から逃げないことだろう。安易な平和主義や左翼思想に流れずに、不条理と如何にメンチを切れるか、にかかっていると思う。そしてそのためには言葉だけではなくて、音楽がそしてBjörkの声が必要だったのだ。

アイスランドはノルマン系の民族なのだが、時に人類学的に謎とされている現象が起きるらしい。それはなぜか稀に東洋系が生まれるということだ。その一人がBjörkらしい。ライヴ映像を見てもらえばわかるが、大きなノルマン系の男共を従えて、小柄な東洋系の少女が暴れながら歌っているのがわかる。少女といってもそう見えるだけでこの時おそらく25歳ぐらいである。すでに子供もいた。そのBjörkの声は実に独特で、甘ったるい少女のような声の中に、日本の演歌、たとえば都はるみあるいは元ちとせのような、こぶし、とでも言えばいいのだろうか、そんな節回しをするときがある。喉が絶妙に鳴るのだ。それが音楽全体にある迫力を持たせ、〈Delicious demon〉をくりかえし絶叫する姿態はまるでさながら巫女のようだ。この音楽のもつ反語世界は激しく盛り上がり最後の〈So Delicious!〉というBjörkの絶叫と共に頂点に達し、そして終わる。ここらへんのニュアンスはライヴ映像ではあまりわからないかもしれない。やはりCDで聴くしかないのだが、要はやはり〈Delicious〉という言葉と音である。これは日本語には全くない。日本語でも「おいしい生活」とかいうのがあったが、確かにそれは「ステキな生活」のことで、同じニュアンスではある。しかし〈おいしい〉と〈Delicious〉では音が全く違う。これは決定的だ。〈Delicious〉といういかにもおいしそうな音がこの〈Delicious demon〉の持つ反語性を相当高めているのは間違いない。それにBjörkの声質が大きく寄与しているだろう。おそらく彼らが思った以上に効果をあげたに違いない。これは僕にとっては奇跡だった。この曲でぼくはこれほどの反語表現ができるのだ、ということを思い知らされたのである。
このあと5年ほどして俳句に行き、その後短歌に行ったが、その間ずっと無意識にこの曲のことが頭にあったのかもしれない。

しかし短歌に行って、いきなり思い知らされたのは次の作品である。

紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき      大辻隆弘『デプス』

一般の人には多少の説明が要るだろう。〈紐育〉はニューヨークと読む。最初からルビは振っていない。もうこれでわかるかもしれないが、〈紐育空爆の図〉はだから2001年9月11日のあのニューヨーク同時多発テロの映像のことだ。あの高層ビルにジェット機が突っ込んだ衝撃的な映像、それが壮快だというのだ。そしてそれを我らは長くながく待っていたのだと。さすがに最初これを読んだときは少し引いてしまった。が、すぐにこれが反語だとわかった。そして溜息とともに深く感動せざるを得なかった。これこそ現代社会の持つ不条理と、正面切って対峙した結果なのだ。作者に正面切って対峙するだけの勇気と度量と、そして最終的に歌人としての才量があってはじめてこういう形になれるのだろう。まるで世界中でこの作者だけがこの事件と正面切ってメンチ切っているような、そんな感じにさせられる謂わば孤高の短歌である。目を逸らしてはだめなのだ。この作品はそれを読む者に強烈に強いるだろう。長い間搾取してきた我々資本主義の勝ち組がこうむる単なるこれが起点に過ぎない、これが世界なのだ、これが自然なのだ、と。
この大辻さんの歌集『デプス』が発表された当時、ぼくはまだ短歌に行ってなかったので、詳しいことはわからないが、どうもこの作品に対しては批判的な人が多かったようだ。ネットをさまよってみると、全く通じていない人が結構いて、もうこんな冷血漢とは会っても絶対に挨拶すらしない、とか言ってる人もいた。少し考えれば反語だとわかるだろうに。このときニューヨークで亡くなった人よりもはるかに多くの人々がすでに我々資本主義側のせいで犠牲になっているのである。経済格差は時にじわじわと大量殺戮を生む。この事件に言及するにはそれを避けて通ることは絶対にできないし、そしてそれを何かの形で表現するとすれば、ここまで追い詰められた反語でしか表現できないのである。それを理解できずにこの短歌を批判するということは、救いようのない偽善者でしかない。

Björkの「So Delicious!」という絶叫と大辻隆弘の「われらかく長くながく待ちゐき」という絶唱は、結局のところ我々にこの世界はもう出口がないんだ、ということを教えるに過ぎない。だが出口がないのだ、ということをまず了解しないと、何も前には進めないだろう。
罵倒語について少し
前から罵倒語に関しては少し気にはなっていたのだが、あのジダンの頭突き以来、大いに気になるようになった。ジダンが一体何を言われてカッとなったのかはかなり微妙なとこで、イタリア語がわからない以上詮索しても仕方ないのだが、どうも聞いた話、ラテン系の民族はわりと性的な罵倒語を日常的に使うらしい。それもかなりきついのを。そこが日本人とは感覚がずいぶんと違うだろう。
日本語で罵倒語といえば、「クソッ」「畜生!」「バカ野郎」「ふざけんな」「なめんなよ」「殺すぞこの野郎」とかで、性的なものもあるだろうがあまり聞かない。それが英語になると「motherfucker」なので、日本人としてはこれだけで引いてしまう。いちいち相手を罵倒する時に「てめえおふくろさんとやっただろう」と普通言うかあ?という気持ちに誰もがなるに違いない。だが罵倒語というのは実際その意味をきちんと把握して言ってない場合が多いはずだ。はずだがここら辺が実に微妙なところではある。

「クソッ」「畜生!」を字義通りに捉えて怒る人はいるまい。字義通りに捉えたらこれはもう大変な侮辱であり、名誉毀損に発展するかもしれない。
たとえばこれは罵倒語というよりじゃれあい語だろうが、中高校生の時など男子は級友と冗談を言いながら、きつい冗談を言われたときなど「殺すぞこの野郎」とかよく言ったものだ。僕もよく言った記憶があるし言われた記憶もある。この場合の「殺す」はもちろん言葉の本来の意味とはかけ離れていて、むしろ相手の冗談のきつさを褒め称えるニュアンスがあるぐらいだ。だから別れ際にはちゃんとこう挨拶して別れないといけない。「いっぺんおまえだけは殺したるからな、覚えとけよ!」とニヤニヤ笑いながら言われればこちらも「おう、やれるもんならやってみい」とやはりニヤニヤしながら、手を振って別れるのである。これがかつての男子中高校生の礼儀だ。今は知らないが。

英語で「Oh my god!」と言えば、日本語に訳すとすれば「何てことだ」ぐらいだろう。映画の吹き替えで「おお神様!」と直訳したのにはまず出会わないが、例外もある。『マトリックス・リローデッド』ではじめてスミスが自分のコピーを作る場面で、相手の腹に自分の手を入れた瞬間相手は「Oh God!」と唸る。これを吹き替えは「おお、神様!」とちゃんと訳していた。次の瞬間スミスが「いいやスミスで結構だ」と返すからである。「神様」と訳さないとこの気のきいたスミスのセリフが理解できない。だからあえて「おお、神様!」と訳したのだろうが、この場合意味としては「何てことだ」でいいと思う。だがちゃんと「神様」という意味が英語でもこの場合通っているのはいるのである。実に微妙だろうが。ここが日本語の「畜生」とは違うのかな、と思った。「畜生」は意味が完全に消滅してしまっているが、これと同じ意味の「ケダモノ」という罵倒語は意味がはっきりと今でも生きている。とまぁこんなふうに、罵倒語の意味は実に微妙である。当事者しかわからない微妙なニュアンスがあることが多いのだろう。

東浩紀的に言えば、上記の男子中高校生の場合、「殺すぞ」という言葉が仲間内で、字義通りつまりコンスタティヴに受け取られることは絶対にない。完全にじゃれあっている場合ただただ、修辞としてつまりパフォーマティヴにのみ受け取られるのである。だから安心して彼らは「殺すぞ」と言うわけだ。これは信頼関係があってはじめて通用する。
しかしこの場合は罵倒語ではなくじゃれあい語だからそうなのだが、罵倒語の場合、その中間を意図的に狙うこともあるだろう。おれはパフォーマティヴに言ってんだぜ、だからそう受け止めろよ、と。だが実は裏でコンスタティヴに受け取られることを狙ってはいるのだ。
ジダンがマテロッティに何を言われたか我々にはわからない。ましてやイタリア語だからわかろうはずがないのだが。最初に書いたとおり、ラテン系は性的な罵倒語が相当きついらしい。日本語に訳したら「おまえの母ちゃんでべそ」になっても、それは日本語にはない罵倒語だからそう訳すより他にないわけで、言われた本人はそうは受け取れないこともあるだろう。ましてジダンはフランス人である。イタリアのセリエAに在籍していてイタリア語がいくら堪能でも、罵倒語の持つ微妙なニュアンスまで理解できたかどうかはかなり怪しいと思う。マテロッティはそこまでわかってておそらく狙ったのかもしれない。俺はパフォーマティヴに言ってんだから、そう受け取れよなぁ、と、だが実際はコンスタティヴな意味も最初から通すつもりだったのではないか。

つい最近、二十代の兄弟で殺人事件があったが、日頃何もしない兄に対して片付けるようにと弟が忠告したら、兄は「殺したろうか」と言ったという事だ。兄はおそらくコンスタティヴとパフォーマティヴの中間を狙ったのではないだろうか。それを弟はコンスタティヴにのみ受け取って兄を殺したというのだ。弟はそう言っているが、兄弟なのだから、弟の方もパフォーマティヴにも受け取っていたに違いない。だがいい加減兄に我慢ならなかったのだろう。兄の言う「殺したろうか」の中に、コンスタティヴなニュアンスを微妙に嗅ぎ取っただけでもう切れてしまったのかもしれない。

世の中がすさんでくればくるほど、言葉がパフォーマティヴに通じることはなかなか難しくなるのかもしれない。実際今、男子中高校生は「殺すぞ」という言い方をするのだろうか。使ってはいるとは思うのだが、今度高校の先生に会ったら忘れずに聞いてみようと思う。
差別用語について少し
以前から差別用語に関して気にはなっていたのだが、つまりなんであれは使えてこれは使えないんだろう、という具合に。それで『きっこのブログ』を読んだら、差別用語について結構考証していた(参照)。でも結構的外れなことも書いていた。それでちょっと突っ込みたくなったのだ。それで少しだが差別用語について考えてみた。

『きっこのブログ』では「アイノコ」という言い方がなぜ差別用語で放送コードに引っかかり、「ハーフ」なら良いのかわからない、と吼えていた。こういう疑問は確かに僕にもあり誰にもあるが、この場合の答えは簡単である。「アイノコ」という言葉はそれが使われていた当時、はっきり差別用語として使われていたから、「アイノコ」という言葉は差別的な雰囲気を纏ってしまっているのだ。そして今この言葉を使う人はまずいないので、差別的な雰囲気を纏った言葉としてのみ生き残っている。だから逆にこれは極めてわかりやすい差別用語なのだ。きっこという人は若い人なので、きっとこの言葉が纏っている差別的雰囲気がピンと来ないのだろうと思われる。それに対して「ハーフ」という言葉は差別的に使われたことがないので、差別用語にはならないだけである。それだけのことだ。

こういったはっきりとした差別用語ならわかりやすいのだが、困るのはたとえば「支那」である。学術用語的に言って中国のことを「支那」と呼ばないことはないだろう、と思うし、実際に中国のもう一つの名前だ。だが戦時中あるいは終戦直後は明らかに中国に対する蔑称であった。どうも今もそれを引きずっていて、ましてや昨今の反日ナショナリズムに対して、「支那」と呼ぶのはかなりまずい。このように言葉というものはそれが使われていた時代の雰囲気を嫌でも纏うのである。でも中国と言い換えれば済むので、まぁ困らない。逆に言い換えずに「支那」と読んでいる人は明らかに蔑称として使っているのは間違いない。石原慎太郎が以前このことをに言及していて、「支那」と呼びたがっていたが、明らかに蔑称として使いたいのだ。なぜなら、きっこの言うとおり、その言葉を言われた方が差別だと感じるのが明らかな場合、その言葉は差別用語になる。「支那」や「支那人」と呼ばれて差別を感じる在日中国人はたくさんいるのは間違いないだろうからだ。

とにかく「支那」の場合は言い換えればいいので問題は全くない。本当に困るのは「朝鮮」という言葉である。この言葉も「支那」と同じように戦時中戦後にかけて、明らかな差別用語として使われてきた。だからどうしてもその雰囲気を纏って現代に来ている。しかし「支那」と違って言い換えが非常に難しい。ぼくもはっきりリベラルな文学屋が集まっている集いなら逆にあえて「朝鮮」あるいは「朝鮮人」と使わなくはない。おそらく真意が通じるだろうと思うからだが、それ以外では間違いなく禁句だろう。はっきり差別用語になってしまう。ならどうすればよいか。一応方法はある。その民族を指す場合「朝鮮民族」と言い換えればいいかな、と思うのだが、かなり苦しい。通じるときもあれば通じないときもある。その地域を指す場合はとりあえず南北に分かれているので、南を指すときは「韓国」と言えば済む。しかし朝鮮全体を指す言葉としては困る。なぜなら「朝鮮」という言葉は歴史もあり、極めて客観的にその地域を指す言葉に他ならないからだ。完全な学術用語でもある。つまり言い換えられても言い換えたくない衝動がある。しかし言い換えなければならない。ここで苦し紛れにみんなが使うのはやはり「コレア」だろう。それがどうも今風なのだ。きっこは「ハーフ」と英語ならいいのか、と安易な風潮を凶弾していた。僕もそれは思うが、時代には逆らえない。ひょっとしたら韓国や中国では「日本」と言えば差別的で「ジャパン」と言えばかっこいいのかもしれないし。

とにかく英語は最近になって使われだしたので、まず昔のような差別的雰囲気は纏ってないわけで、便利な言語なのだと思うより他にない、今日この頃なのだ。
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