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ステロタイプ
先日のsora歌会で枡野浩一のCMについてちょこっと話題になった。
賃貸住宅のCMで「いい部屋みつかっ短歌」というのだ。(参照)(参照)

短歌を大衆が思いたいステロタイプに押し込めてていやだなー、と思ってたので、そのことをちょこっと僕が言った。あんな変なお経のような抑揚をつけて「わけもなく~家出したくてたまらない~一人暮らしの部屋にいるのに~」と枡野が詠んだり、相手の女の子がこれは着るもんだと言わんばかりに着物着てたりとか、短冊に書いたりとか、なんかいやだったのだ。それらのこと全部、僕ら歌人は絶対にしないもん。
そしたらかつてCMプランナーをしていた川田一路さんが「プロデューサーの言うことには絶対逆らえんよ」と言ってた。なんだよね。枡野もきっと嫌だったに違いない。でも彼は短歌で食ってんだから逆らいようがないわけだ。川田さんの言うことを聞いて納得した。

でも一番嫌だったのは枡野が「短歌は絶対に57577」とか言ってたことだ。ぼくは短歌がこうあるべきだとは何も思わずに短歌を作っている。唯一思うのは短歌に何が出来るかだ。この一点にのみ興味がある。そういった意味で短歌という詩形を使うことに喜びを感じる。57577に閉じ込められたら喜びは全く感じない。
時代と共に短歌の様式は変わっていくだろうし、変わらないことには単なる過去の遺物になるより他にない。短歌は時代と共に、言葉の変遷と共にあるはずだ。
短歌にあるのは、決して57577だけではなく、短歌という韻律があるだけである。短歌という韻律の中に57577という韻律も含まれているにすぎない。まだ確信はないが、そう思って短歌を作っている。

でも枡野浩一を見ていると、彼の言うのこそが短歌なら、ぼくがやっていることは、短歌からはおよそ遠く離れたものなのだろう、と思わずにはいられない。実際にそうかもしれないわけだけど。
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岐路
今日は9月11日。もう一度5年前の今日のことを詠んだ例の短歌に言及したい。(参照)

紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき
 大辻隆弘『デプス』


まず〈紐育空爆之図〉だが、これはジェット機がニューヨークの貿易センタービルに突っ込む瞬間のあの有名な映像で、あれが壮快だと言うのだ。僕も記憶にあるが、最初見たときは驚愕しながらも、体験したことのないような恐怖の念に駆られながらも、ある種のカタルシスを含んだ快感があったことは確かだ。誰しもそうだろう。これを否定する人は単なる偽善者に過ぎないと断言できる(女性は別かもしれないが)。だが数回見せられて、これはヤバイ映像だとすぐに感づいた。何度も見るべきもんじゃない、と。
このことに関してある歌人が次のように言っていた。

あの事件は本当に悲惨な事件であった。しかし、あの事件を本当に悲惨なものとして受け止めるには、私たちはあの映像から、絶対に目を背けなければならない。それはあのテロの犠牲者の遺族の方々のように、あの映像を自分のものとして受け止める、ということだからだ。


つまりあの映画的な映像を見ているだけでは真にこの事件の悲惨さがいつまでたってもわからない、というわけである。あの映像を自分のものとして受け止めるためには目を背けなければならないというパラドックスが存在するぐらい、あまりにあの映像はスペクタクルなのである。またこうも言う。

われらかく長くながく待ちゐき
    ↓ 
ぼくたちはデカイ一発を待っていた。

そう、ぼくたちはいつもでかい一発を待っていた。
日常が覆るような、そんな大きな瞬間を、この作中主体は、テレビのこちら側で口を開けて待っていたのではないだろうか。自分が傍観者であるという、この現実には絶対に巻き込まれない、という前提で。

むろん、作者である大辻が、この作中の「われら」と同一の思想を持っているという読みは、注意深く退けられなければならない。


つまりこの短歌はまず現代という時代に対する悪意として提出されている。ここでまず誤解する人がいたわけである。だが〈むろん、作者である大辻が、この作中の「われら」と同一の思想を持っているという読みは、注意深く退けられなければならない。〉わけである。作中の話者はあくまで〈われら〉であるからだ。この場合この〈われら〉についてぜひ検証を試みなければならないだろう。

短歌結社誌『未来』2006年8月号の黒瀬珂瀾氏の時評「近藤芳美と大状況」から、

本年6月21日、近藤芳美氏が逝去された。享年93歳。近藤氏の歌人としての歩みは戦後短歌の軌跡であるばかりではなく、戦後日本の歩みそのものでもあった。「今日有用の歌」の理論を基調とし、一貫して平和祈念と戦争憎悪を歌い続けた近藤氏の歌業。それはややもすれば小状況の詠嘆のみに偏向しがちな短歌において、大状況を歌う試行の場を護り続けたということでもあったのではないか。(中略)「個人生活のリアル」、そして「心情のリアル」に固執した読解では、これら近藤作品に本当の意味で迫ることは出来ない。《大状況を大状況として歌う》という技法の可能性を、今私たちは問い質されているのではないだろうか。


そうした大状況を大状況として歌った典型的な短歌作品として次の一首を挙げている。

テロリズムに加担するか文明の側に立つか問う単純のすでに仮借なく
  近藤芳美『岐路』


歌集『岐路』は近藤芳美(参照)の最後の歌集で2004年刊行である。つまりこの短歌の内容は9.11のニューヨーク同時多発テロ事件を受けているのは明白だ。あの事件で我々は〈テロリズムに加担するか〉〈文明の側に立つか〉というあまりにも単純な問いを突きつけられている、ということだ。つまり絶対にどちらかでなくてはならないわけで、どちらもわかる、あるいはどちらの側にも立たないではもうナンセンスなのである。話にならないのである。そういった切羽詰った状況に我々はもう追い詰められている、ということをここではドライで精悍な韻律に乗せて歌っている。あらゆるイデオロギー、民族、宗教、そして国家を超えたいわゆる大状況としてあの事件は『岐路』なのである。つまりここではこんなふうに追い詰められた人類を俯瞰しているわけである、岐路に立った人類を。
この近藤作品は最初に挙げた大辻作品の説明ではないか、と思えなくもない。
近藤作品は黒瀬氏の言うとおり単純に《大状況を大状況として歌う》ことに成功した傑作だろう。だが大辻作品は2重構造のように思える。上句〈紐育空爆之図の壮快よ〉はまずあの事件に対する個人的な「心情のリアル」である。つまり〈小状況の詠嘆〉である。しかし下句〈われらかく長くながく待ちゐき〉という一人称複数を主語にした反語的表現を使うことによって、その小状況から一気に大状況へと昇華してしまっていないだろうか。つまり「デカイ一発を待っていた」というある種の本音を一人称複数を話者にすることによって、反語へと転化させていないか。それが本音であればあるほど、反語への転化度は強いものになる、というパラドックスがこの作品の難解さであり、最大の魅力なのかもしれない。そして反語へと転換された途端、読み手は大状況へと引きずり出される。この大辻作品でも、あらゆるイデオロギー、民族、宗教、そして国家を超えた大状況としての視点からの『岐路』を凝視しているのである。そして大辻作品から近藤作品へと移行することによって、今明らかに我々は、どちらかの側に立たなければならない『岐路』にいることを個人の「心情のリアル」からも思い知らされるわけだ。近藤作品は大辻作品の返歌とも言えなくはない。片方だけでも状況は飲み込めなくもないが、この二つの作品が合わさって、よりリアルに大状況が迫って来はしないだろうか。

元に返ってあの映像だが、個人の「心情のリアル」としてはあの映像からは目を背けなければならない。それは、目を背けなければあの事件の真の凄惨さがわからないからである。だが大状況としてはあの映像からは絶対に目を背けてはならないはずだ。それは、あの映像から目を背けていては、『岐路』を大状況の「心情のリアル」として受け止めることが出来ないからである。絶対にそれは出来ない。大辻作品はこの如何ともしがたい不条理を最も言いたかったのかもしれない。ここまで考えてはじめてそれがわかる。大変な作品である。
ブログ炎上
乙武洋匡さんのブログが炎上した。(参照)
ブログが炎上するのを見たのははじめてである。
以下の記事に対してである。

紀子さま出産

世間は昨日から「めでたい、めでたい」と騒いでるけど……

ひとつの命が誕生したことがめでたいの?

それとも誕生した命が「男児だったから」めでたいの?

どちらにしても。

これで、また大事な議論は先送りにされてしまうんだろうなあ…。


行間の空け方が微妙で誤解を招いたようだ。彼は、めでたくない、とは全く言ってない。それら過剰な報道、そして皇室典範についての議論の先送りに対して、疑問を投げかけただけだが、なんとも記事が短すぎる。よく読めば真意は汲み取れるのだが、書き方があまりに不親切だった。
僕は炎上しているものとは知らずに、まじめに以下のようにコメント欄に書き込んだ。

男子の誕生は正直ぼくも嬉しかったのですが、一方で、乙武さんにも共感します。
「おめでたい」ということを強制されているような気がするのです。人は何が自分にとっておめでたいか、それを選ぶ権利があるはずです。でも今回ないですね。そこに圧迫感を感じます。「親戚でも友人でもないのに、会ったこともないのに、そんなにめでたいことなのか」と言う人がいても全然かまわないし、むしろそのほうが健全でしょう。
それと皇室報道の凄まじさにはほとほとうんざりしています。あたかも皇室というのは報道されることによってのみ存在するかのごとくです。もっと静かにそっとしてあげたいですね。
でもこれで、最も皇室報道の犠牲になっていた雅子さんはホッとされているのではないでしょうか。肩の荷も降りたことだし。ま、正直やれやれ、という印象ではありますが。


しかし現在で500件を越えたコメントの中に完全に紛れてしまい、僕自身探すのが不可能になってしまった。もちろん乙武さんも読んではいないはずだ。

これらコメントをもちろん全部読んではいないが、とにかくネット右翼と障害者差別の嵐だ。両方書く輩も多い。世の中こんなに不愉快な奴が多かったのか、と唖然とするほかない。読んでいてこんなに不愉快になることもめずらしいです。皆さん絶対に読まないでください。
寅さんと渥美清
僕は何をかくそう寅さんのファンである。ファンと言っても、『男はつらいよ』シリーズは全部で10話ぐらい見ただろうか、さすがに飽きてしまってもう見ない。その程度ではあるが。

その渥美清の特番が昨日NHKで放映されていた。
それで一番興味深かったのは、渥美清がある脚本家に「もう寅さんやるの飽きちゃったよ」とボソッと言ったことだ。そりゃあれだけもやれば飽きるのは当たり前だが、我々としては、渥美清=寅さん、なのである。二人は一心同体なのである。その渥美清が寅さんに飽きたというのにはとても不思議に感じられる。それは同体だと思っていたものが乖離する不思議さだろうか。しかしその途端、寅さんから切り離された役者渥美清が浮かび上がってくる。
当時人気絶頂でどんな役でもこなせて印象度の強いこの役者には様々なところから映画の主役のオファーがあったということだ。しかし、松竹のドル箱だったこの『男はつらいよ』シリーズのおかげで、松竹は、寅さん=渥美清のイメージを守るため、すべての主役のオファーを断っていたらしい。断らなかったのは端役だけである。つまり友情出演とかいう。

それでその脚本家に渥美清のほうからドラマの提案があったということだ。「俳人の尾崎放哉をやりたい」と。渥美清は俳句を嗜む。その脚本家は、じゃ、NHKでやろうと。それで二人は取材やら脚本やらをやりながら着々と準備を進めていったのだが、その間にNHKで尾崎放哉のドラマが放映されたのだ。二人の目論見は見事にパーである。テレビでは寅さんではない50代ぐらいの渥美のモノクロ写真が映っていて、それがとてもシリアスな印象があり、あの飲んだくれでどうしようもなく孤独で一人で庵にこもり続けた孤高の俳人尾崎放哉、それが寅さんとはまさに対極に位置する役柄でありながら、とても似合ったんじゃないか、とつくづく残念な気にさせられたのである。この役者はとことん喜劇的な役ととことん悲劇的な役の両方がこなせる役者なのだろう。だからこそ寅さんという喜劇的な役をやっても奥が深いのではないだろうか。そんなことを思えば思うほど残念で仕方がなかった。
それでその脚本家は、じゃ、種田山頭火をやろう、と言い出し、また着々と準備を進めていったのだが、土壇場になって、渥美の方から降りた、ということらしい。いわゆるドタキャンである。松竹の手前もあっただろうが、やはり山頭火にはあまり乗り気ではなかったのでは、と僕は思う。だって、似合わないもの。放哉なら相当似合ったと思うのだが。

渥美清という人は、様々な面があり、その人生も波乱万丈である。幼少のときは病弱でなかなか学校へは行けなかったらしい。大学にも進学したが中退して喜劇役者になっている。一方で、若いときは不良で鳴らし警察には何度もお世話になっているとのことだ。結核に罹り、片方の肺を摘出している。だから結核で「咳をしてもひとり」という句を残した放哉をやりたかったのかしれないが。おそらくドラマでは結核を経験した者にしかできない咳をしただろう。
その実像もまた興味深い。病気で酒たばこをやめたせいか、飲み会へは絶対に顔を出さない。映画の打ち上げでさえである。日頃はほとんど人には会わず、一人で本ばかり読み、人付き合いが極めて悪い。でも俳句が趣味で句会には時々顔を出し、小難しい句を出す奴がいると、「よ、インテリの兄ちゃん」と寅さんみたいに本当に言ったということだ。自身がインテリかもしれないくせにだ。これらすべてが支離滅裂のようで、僕にはなんとなくわかるなぁ、という気がする。こんなことを考えてると、余計、放哉の役がなかったのが残念でならない。

結局、渥美清という役者は、自身の役者生命を、寅さんに捧げたのだろう。そして他のすべてのやれたかもしれない役を犠牲にしたのである。このことが役者にとって幸せなのかどうかは僕などにはもちろんわかるはずもないが。でも映画界全体からすればはっきり損失だろうと思うのだ。数多い傑作がお蔵入りになっているかもしれないわけで。

今の映画界で、とことん悲劇的な役ととことん喜劇的な役の両方をこなせる役者が一体どれほどいるだろうか。この両方をやることによって、より深みのある演技が出来るのではと思うからだ。
たとえば、高倉健や吉永小百合は悲劇的な役はいくらでも出来ても、喜劇的な役はまず出来ないだろう。それは佐藤浩市も浅野忠信もである。中途半端にはいくらでも出来るだろうが、とことんは無理だろう。このことは才能というよりはもって生まれたキャラなのだから。役所広司、尾美としのり、がいい線行ってそうだが、やはり薬師丸ひろ子にとどめを刺すのではないか。宮藤官九郎脚本のTVドラマ『木更津キャッツアイ』でそのコメディエンヌの才が公になったが、僕は以前からこんな人だと思っていたので、今さら遅いな、という気がしたぐらいだ。青山真治監督の『レイクサイドマーダーケース』ではとことんシリアスな役を見事にこなしていたが、やはり両方やれるということでシリアスな役でもより深みが増すのではないだろうか。尾美としのりも最近は平凡なお父さんの役が多いように、薬師丸も平凡なお母さん役が多い。二人ともまだまだ老け込む歳ではないだけに、なんとも歯がゆいばかりだ。大げさでなく日本映画界の損失だと思ってしまう。
最後は話が少しずれてしまった。しかしずれてしまったのはほんの少しである。(笑
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