自閉症のドラマ
昨日からフジTV系で、「僕の歩く道」という自閉症のドラマが始まった。
主役の草なぎ剛がよく似合っていて、まあまあ面白そうだが、気になることがたくさんある。
そのひとつだけ書くが、最初のドラマの設定が

「この物語の主人公は、先天的な障害により、10歳児程度の知能までしか発達しなかった31歳の自閉症の男性です。」

となっている。これはどうなんだろう。僕は自閉症のことは結局よくわからないので、何も言う権利はないのだが、なんだか人間の能力や価値を一次元に解釈しているような気がしてならない。人間には様々な能力や価値の種類があるのに、何もかも「10歳児程度の知能」でくくれるはずがないし、自閉症と一口で言っても人によりその状況は様々だろう。
人間の能力や価値は多次元と解釈すべきだと思うが、そう解釈することによってはじめて、人はみんな様々な個性があるんだ、と思うことが可能なはずだ。そのためのドラマのはずなのに、最初からその個性を否定してしまっているような気がする。

もちろんそう設定することによって、ドラマ的盛り上がりを狙っているんだろうけど、僕としては視聴率稼ぎのために偏狭な差別を助長することは止めてもらいたいとどうしても思う。その差別をなくすためのドラマのはずなのだが。

僕はほかのことでもこのように世界を一次元的に解釈することが大嫌いである。世界が偏狭になるからだ。でもこういった一次元的オヤジや淑女がこの世に如何に多いことか。この世で僕を最もうんざりさせるのがこういう一次元的老若男女である。世の中にはたくさんたくさん面白いことがあるのにそれを全く見ようとしないんだから。
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自分の言葉で
テレビとか見てて、ぺらぺらぺらーとよどみなく喋る人がいてて聞き終わったら、なんだこいつ当たり前のことばっかり言ってるだけじゃないか、と思うことが時々ある。つまりそれは注意深く聞いているとわかるが、自分の言葉で喋らないのである。そういう人は自分の言葉がおそらくないのだろう。自分の言葉がない人に自分の論はない。だから自分の論がない人はおそらく自分の言葉もないのではと勘繰る。
たとえば先日、長島一茂というプロ野球関係の人が、これからのプロ野球について自説を披露していたのだが、とにかくよく喋る。ボキャブラリーも豊富だ。横文字を多用して、一人でまくしたてていたが、こちとら野球の専門家でもなんでもないのに、全部知ってることばかりだった。とにかく怖ろしいほど自分の言葉がない。あれだけ早口で英語を交ぜて器用に雄弁に話しているにもかかわらず、その口から発せられる言葉は全部借り物の他人の言葉なのである。この人のお父さんは突拍子もない言い方を時々する人だったが、息子に比べたらずっと自分の言葉だったように覚えている。

これは句会や歌会でもたまにあることだが、切れ者という感じで、極めて論理的にわかりやすく目から鼻へ抜けるように滑らかに話す人がいて、最初はほぉーっと感心しながら聞いているのだが、しばらくして、自分の理論ではなく他人の論の引用が多かったり、そうではなくても別に当たり前の意見だったりするのだ。なんだかなー、である。こういう人はおそらくあまり自分の言葉がないのだろう。もちろんそれは長島一茂とはまた違う次元だが。
一方、句会や歌会でなかなか批評が出来ない人がいて、批評したとしてもたどたどしくて、ギクシャクとしか喋れない人がいるが、こういった人はおそらく自分の言葉を出そうと、うんうんと苦労されてるのではと思うのだ。ぺらぺらとよく喋る人よりこういった人の方が信用できたりする。もちろんこれは僕もよく経験があるのだが、あてられて緊張で頭の中が真っ白になり、自分の言葉も他人の言葉も何も浮かんでこない状態になって、いわばフリーズ状態になるわけだけど。そういうこともあるが、一生懸命自分の言葉を出そうと苦労されてる人も結構いる。

で、今話題の原稿棒読み総理大臣である。
この安倍首相は1年ぐらい前からだったか、よくテレビに顔を出すようになって、よどみなく喋るんだけど、まあなんと自分の言葉で喋んない人だなぁ、と感心しきりだったことを覚えている。言ってる内容はそれなりのいいことを言ったりもするのだが、なぜかこっちは感づくのだ。おそらくその時から優秀なブレインがたくさんいて、いろいろとこの人の頭に詰め込んでいたのだろう。考えて理解はしているのだが、自分の言葉に翻訳できてないのである。それでこっちにはわかってしまうのだ。優秀なブレインがたくさんいるから、政策面においては結構やるだろうとじつは期待している。でも外交などで、相手国の首脳と会談するときはどうなんだろうなぁ。なんだかとっても心配である。大丈夫なんだろうか、こんな人を日本の首相にして。もうすぐ日中首脳会談である。