スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
エピゴーネン
知らない言葉はいくつになってもいくらでも出てくる。読書量の絶対量が不足しているのだから仕方がないが。
恥ずかしながら「エピゴーネン」という言葉を生まれてはじめて知った。以下の文章からである。聞いたことはあったのだが、そのたびにスルーしていたのだろう。

一方で穂村弘はどうか。穂村は〈歴史〉とのつながりを切実に希求しながらそれを果たせないという歌人では、無論ない。短歌の歴史性を踏まえたうえで、自らの意志でそれを強引に断ち切っているのである。そして無重力的な空間を己の腕力のみで支え切っている。険しい道だが、その独自性こそが穂村と彼の多数のエピゴーネンたちを遠く隔てている。
西村旦「そこに〈歴史〉はあるのか」『未来』2006年1月号より


これを最初に読んだのは去年の1月である。その時「エピゴーネン」という言葉がわからずここの部分をスルーしていたようだ。今読み返してみてやっぱりわからないのでWikipediaで「エピゴーネン」を調べた。(参照)

エピゴーネン (ドイツ語:Epigonen) は、文学や芸術の分野などで、先人のスタイル等をそのまま流用・模倣して、オリジナル性に欠けた作品を制作する者を指す。「模倣者・亜流」等とも言う。


なるほど、合点がいく。特に穂村弘のエピゴーネンは多いだろう、と簡単に思える。じゃ、誰がそうなのか、は知らないが、いくらでもいそうな気は確かにする。簡単に真似できそうで絶対に誰にも真似できないというのが、この歌人の一番の特徴だろうか。以下、穂村弘の代表作。

体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ
サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい
終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて
泣きじゃくりながらおまえが俺の金でぐるぐるまわすスロットマシン
目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ ほんかくてき
ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。


今までの短歌の歴史を考えると相当破壊的である。だが今までの短歌を知らずにこういったポップな韻律で短歌を書く無数の彼のエピゴーネンたちと、短歌の歴史を踏まえたうえでその歴史をたたっきってくるこの穂村とは、西村氏の言うとおり相当な隔たりがあるのだろう。
僕も似たようなことを最近書いている。(参照)

穂村弘も俵万智も口語短歌を押しすすめたが、それまでの短歌の遺産をことごとく口語短歌につなげたのは加藤治郎ではないだろうか。穂村はおそらくそれまでの短歌遺産と切り離したところで新しいエクリチュールを創出している。これはこれでまた大変なことだろう。


実に拙い文章で恥ずかしい。ブログとはいえ、まさに文字通り「拙文」である。「これはこれでまた大変なことだろう」なんてものではなく、はっきりすごいことなのだ。穂村が短歌の歴史と切り離してきた、というところは、この時僕の直感で書いたつもりだが、西村氏の文章が頭の端の方にひょっとしたらあったのだろうか。自分では定かではない。

「エピゴーネン」という言葉はまさに穂村弘のためにあるのでは、と思えてくる。彼ほど模倣するのが簡単そうで絶対に誰にも模倣できない歌人はいないだろう。このギャップが彼の最大の魅力だろうか。

西村氏も僕もかっこつけて外来語で「エピゴーネン」と言っているわけでは決してない。「模倣者」あるいは「亜流」と日本語で言えばいいのだろうけど、「エピゴーネン」の持つ独特のニュアンスは伝わらない。言葉はまず〈音〉である。それがたとえ外来語であれやはりその言葉の〈音〉はそのニュアンスを大きく左右するだろう。「エピゴーネン」の〈音〉に微妙なニュアンスが隠されているようだ。それはおそらく批判的なニュアンスだ。「なんかやらしいな」というニュアンスである。そういった批判的なニュアンスこそ批評の言葉として適しているのだろう。「模倣者」「亜流」ではそこまで批判的なニュアンスはない。関西弁の「真似し」がこれに少し近いだろうか。だが「真似し」では批評用語にはならない。

最近、自分の過去から現在の短歌を顧みる機会があった。顧みて特に2年程前のはひどいと思った。汗が出た。これでは加藤治郎のエピゴーネンではないか。というかエピゴーネンにもなってないかもしれない。そういったものはもちろん没にするが。最近のは少しましになったかなと思っているが、これも2年経ったらわからない。2年程経って初めて冷静に自分の短歌を客観視できるのだろうか。2年経ったら、自分の中ではまた誰かのエピゴーネンに堕しているのかもしれない。

以上「エピゴーネン」をはじめて使ってみました。まさか自分に使うとは思ってもみませんでしたが。
スポンサーサイト
春の赤紙
今日は加藤治郎第六歌集『環状線のモンスター』の番外編である。

またまたぼくの願望に基づく理解が続く。

この歌集にとても気になる一首がある。どうもあちこちで様々な評価をされているらしい。賛否両論なのだろう。それで今日はこの一首のみにぼくの願望に基づく理解をあてはめたいと思う。それは次の歌だ。

おそらくは電子メールで来るだろう二〇一〇年春の赤紙


この短歌をそのまま詮索ワードに入れてネットをさまよったが、やはりあちこちで賛否両論があった。たとえば一般的な若い人の受け方の代表は次のようなものだろうか。(参照)

本当にありそうに思える1首。今の不安な時代を上手く反映していると感じる。今の日本には、徴兵制度は無い。しかし、世界情勢をみると、日本が戦争の時代に逆戻りをしそうな予感がある。その頃には、何の感情もないままに電子メールと言う媒体で、まるで難破でもするように知らせが届きそうな気がするのだ。感情が無いぶん、余計に怖い。それが、桜の時期にやってくるのだ。春はうきうきする。しかし、反面寂しさや切なさの伴う時期である。そんな時に、赤紙が突然届くのである。己の散り行くことまでも予感させる。まさに、モンスターがやってくるのだ。
☆ なんちゃって歌人 kamomeの発熱する短歌 ☆2006/08/06 87号


実に素直に反応している。逆に言えばだまされやすいというか。こんなに素直で大丈夫かな、と危惧してしまうぐらいだ。

次に少し上の世代のニューウェイヴ短歌は理解したくなさそうなおじさんの代表意見。(参照)

私は、このような作品にかなりの危惧をもつ。一体、社会と自分の関係をどう考えているのだろうか。危機感がゼロのように見えてしまう。加藤の電子メールと赤紙のとりあわせ。どう読んでも他人事である。二〇一〇年はまもなくである。そんなことが現実的にありえない。何かを言えたと思うのはかなりの錯覚ではないか。
ふたたび社会詠について(「かりん」2006.11月号より転載)


つまり、こんな大事なことを言うのに電子メールでは軽すぎる、とうわけだ。

次にわりと真っ当な意見。(参照)

問題なのは、本気で赤紙が電子メールで届くことも有り得ると考えているのなら作者は馬鹿であり、本気でないのなら不真面目だと非難するのであり、どちらにしても名を成した人の発表する作品ではない。
黒田英雄の安輝素日記/2006年12月11日


確かになるほど、と思える。だがこの黒田氏はあちこちでこの短歌に関して、批判しているが、そのほとんどが加藤治郎本人に対する中傷めいた罵詈雑言であり、全く品がない。一体何が不満でこんなに人の悪口ばかり書くのだろうといつも不思議に思っている。この短歌に関してまともに客観批評らしかったのはこの部分だけだった。

黒田氏が言うには、赤紙のような重要なものをセキュリティの確立していない電子メールでなど送るはずがない、ということだ。
また小高氏は、赤紙のような重みのあるものを電子メールなんかで送る発想というものに戦争に対する危機感が全く無い、と危惧されているのだ。

両氏をまとめると、赤紙が電子メールで送られてくることが、黒田氏は物理的にありえない、小高氏は感情的にありえない、というか許せない、ということで、両氏とも赤紙と電子メールの取り合わせにリアリティが無い、ということだろう。

だが僕の場合この点では全く逆である。赤紙というのは昔実際に赤い紙で届いたのだろうが、そんなことを何べん言われても映画などで何度見ても、今現実問題としてリアリティは全く感じられないのが誰もが正直なところだろうと思う。ところがそれが将来には電子メールで来るんだよ、と言われた途端、赤紙というものがリアリティをもって眼前に迫ってくるわけだ。この点において、この短歌は大変成功していると思った。電子メールというツールが現在においては何よりもリアルなものとして存在しているのだということを逆に思い知らされる。だからセキュリティの問題で赤紙が電子メールで来る来ないは、この短歌の場合、瑣末なことだろう。

しかしぼくが問題にしたいのは「電子メール」ではなく「赤紙」そのものである。つまり赤紙そのものにリアリティがあるだろうか、ということを問いたい。
赤紙になんのリアリティも無ければ、このよく出来た短歌はひどくつまらない薄っぺらなものに堕することになる。

結論から言って、赤紙つまり召集令状はもう絶対に来ないだろうということだ。じゃ、おまえは戦争は絶対に起こらない、とでも言うのか、と叱られそうだが、戦争は逆に絶対に起こると思う。中国が覇権主義をやめない以上、将来戦争は絶対に起こると大変危惧している。でも召集令状はありえない。なぜか。

まず召集令状がなんなのか、ということを冷静に考えよう。戦争をやる側に立てば自ずとこのことの非現実性が見えてくる。これは戦争に行きたくない若い人を無理矢理戦争に連れて行くことである。戦争をやる側に立てばこんな嫌なことはない。何が嫌かというと、士気が上がらないのである。士気が上がらずに戦争がうまくやれるはずがない。だから戦前この士気をあげるために靖国というシステムがあったのだが。今そんな非科学的なものを小泉がいくら鼓舞しようとも誰も信じないだろう。
次に、一般の働き盛りの若者をごっそり戦争に持っていく、ということが何を意味するのか、である。20代30代の人々によって、ある程度国の経済は持っているのではないだろうか。命令する人だけでは経済は成り立たないだろう。実際に前線で大いに働く人がいなくなると国体は到底維持できない。つまり召集礼状まで来るということは、もうその戦争は負けなのである。召集令状そのものが実はかなり非現実的なものだ、ということだ。だから戦争、即、召集令状、という考え方自体が戦争に対する考え方を硬直化している。召集令状の前に必ず志願兵募集、というのがあるだろう。士気の在る者、あるいはお金がほしい人、を募集するのがまず現実的な選択だ。

最後に、科学技術の進歩がある。あの太平洋戦争時とはおよそ比較にならない兵器などの戦争技術の進歩をもたらしている。あの戦争時、なぜ一般の人を招集したのか。おそらく歩兵が足らなかったのだろう。それは圧倒的に歩兵に頼る戦争だったからだ。今はかつてほど歩兵に頼る戦争はしていない。いきなり空爆である。このほうがよほど効果的である。素人の歩兵ぐらい邪魔なものはない。それに日本が召集令状というばかげたものを発行するぐらいならその前に、日本が世界に誇る科学技術、特にロボット技術を国を挙げてその戦争に注入するだろう。そうすればあの戦争先進国アメリカですら驚くほどのロボット兵器なり兵士ロボットなりが出来上がるに違いない。もし核に頼る戦争さえしなければ、おそらく日本は世界で最強の軍隊を持つことになるかもしれない。これはしかし実際怖ろしいことだが。

ということで僕から見れば「春の赤紙」の短歌は結局つまらないものとなった。最初に歌集でこの短歌を見たとき、あーあ、と思ったのだ。なぜかと言うと、この作者に限らず、戦争が起こったら、必ず赤紙が来ると、思い込んでいる、安直な反戦イデオロギーの人がこの世のまともな人にほど多い、ということだ。つまり時代は繰り返す、と頑なに思い込んでいる人がなんと多いことか。それも立派ないい人に限ってそう思うのだ。リベラルな人ほど。
時代は絶対に繰り返さない。いや、たとえ繰り返したとしてもそれはほとんど偶然である。僕が言いたいのは、時代が繰り返す、と思うことの安易さである。実際には時代はどう変わるかは誰にもわからない。だから想像力をたくましくさせていろいろと思い巡らせないといけない。時代は繰り返す、と思うことは、そういったあらゆる思考の停止である。様々なことに備えて、何が来るんだろう、と常に思ってないと、不測の事態になかなか対応できないだろう。つまり時代が繰り返す、と思ってはいけないということだ。

ただ、徴兵制はニュアンスが違う。徴兵制とは外国に攻めてこられたときに備えた準備であり、これはどの国もやっていて、誤解を恐れずに言えば、日本にもあって不思議はないと僕は思う。これに対して召集令状とは、今現実に行われている戦争に直接駆り出されることである。徴兵制はおそらく将来日本でもあるだろうと思う。だが韓国のように皆が皆、というわけではなく、適性がある人だけにしてほしい。そのほうが効率的だし、世論の反対を少しでも回避できるだろうと思うからだ。とにかく召集令状にしろ、徴兵制にしろやる気のない人間に訓練させるのは極めて非効率だし、反対されやすい。

反戦も一つのイデオロギーにすぎない。戦争は人間の業である、という客観的な観念が抜けている。
ぼくはできる限りイデオロギー・フリーの立場から戦争というものを見ていきたいと願うのだ。


う~ん、かなり誤解を招く文章をまた書いてしまった。僕を右翼と見る人はいるだろうな。あるいは戦争礼賛者だと。

右の眼に左翼左の眼に右翼   鈴木六林男

ですから、ええ。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。