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自選二十首と短歌韻律について
未来7月号の新人特集で僕の短歌自選二十首を取り上げてもらった。

自選二十首       細見晴一
人間にまだ会う前の薔薇園はバラが端から薔薇殺しゆく
ドビュッシーは世界が叩き割られたあとに生まれた液体である
崩れゆく壁の向こうにまた壁があり猥褻とは言えないまでも
プロジェクトだあの黒い空は 無言のイエス・キリストがその下を行く
私生児のように正義を産んだあと僕らは海に囲まれていた
ノイズだらけのシステムの中聞き分けるこの惑星の回転音など
海は私のフィクションだった(もっと青色のインクを捨ててください)
(ルビ:青色=シアン)
ミサイルが飛ぶように海鳥が飛ぶ愉快な時代にみんな生まれて
カレイドスコープで見ればわかるよ 世界とは砕けた万華鏡だと
(ルビ:万華鏡=カレイドスコープ)
すべてが自動化され人は踊るしか能がなくなったからレッツダンス
限りなく怒号に近い暗号を打電し続ける資本主義とは
議論する準備はあると翡翠のささやく今日とささやかぬ明日
(ルビ:翡翠=かわせみ)
静かなる海まで流れその下に複写終えたる静かな海が
半球の雲の動きはでたらめでもう半球は苺畑だ
どの鬼籍くぐれば紺き環境の水稲を食む鬼となりしか
(ルビ:紺=あお)
氷壁の蒼く翳りゆくせつな 番の鳥がつがいの刹那
だきしめてもだきしめてもモノクロの畝はつづくよ 雨のにおいがする
小説のように桟橋と平行に飛ぶ海鳥を撃ち落としけり
(ルビ:小説=ロマン)
ただ受像機は延々と曇り空を映しつづける まして裸体者は
どこまでも抜けてゆくあの青い空にも碧い障害があるのだという


ルビが多くてネットでは少し読みづらいのが申し訳ない。
これに対して、同誌上で大辻隆弘さんに辛口の批評をいただいた。以下その前半の部分である。短歌韻律についてだ。後半の部分はここには載せないが、僕自身の表現の詰めの甘さや時制に関してのことだ。こういった辛口の批評はなかなかもらえないので、ありがたかった。これらはすべて僕にとって重要なことだが、僕個人が克服していくべきことだろうし、ここでは韻律論のみに集中したい。


定型への叛意  ―細見晴一の自選二十首―    大辻隆弘

 社会システムに対する苛立ちが一首の背景から強く漂う歌だ。その苛立ちは、細見の場合、そのまま短歌定型に対する叛意として顕現しているように思われる。

ドビュッシーは世界が叩き割られたあとに生まれた液体である
プロジェクトだあの黒い空は 無言のイエス・キリストがその下を行く

一首目の歌、ドビュッシーの音楽が流動性をもった液体だという把握はよく分かる。それは魅力的な把握であろう。二首目の歌の「黒い空」はなにか世界の終末のようなものを感じさせる寓喩だが、具体的な像が描かれていないためにきわめて理念的になってしまっているだろう。
しかしながら、これらの歌は「句跨りの歌」として読むことはできない。完全な自由律とみなさざるを得ない。これらの歌はこのままだと単なる一行の短詩にしかすぎないだろう。私はそこに強い疑問を感じる。細見は短歌という定型詩を自らの意志によって選択した。その実存的な選択はこれらの作品にどうのように反映しているのか。塚本邦雄の短歌を見ればわかるように、定型に対する叛意は、その背後に定型に対する深い尊敬がなければ意味を持たないはずだ。定型に対する破壊願望だけがむき出しになったこれらの作品に、私はその定型への尊敬を感受することはできなかった。
(以下省略)


これに対して僕は個人的にメールで大辻さんにお礼とともに細かいことも書いたのだが、韻律に関しては重要なことなのでブログに挙げますね、と書いていて、今その約束を果たしているのだが、じつは10日ほど前、お互いが属する未来短歌会の松山大会があり、その初日の二次会で大辻さんが僕の前にどかっと座り、さあ聞こうか、という感じで構えたのだ。そのとき僕は他のことに気をとられていたのか、台風で当日の朝になるまで松山に行けるのかどうかもわからなかったこともあり、大辻さんとの議論を少し失念していて急に思い出せなかったのか、しばらく黙っていたら大辻さんは「あ、ブログで書くって言ってたよね」「あ、そ、そうでしたね」で終わってしまった。なんとも情けない。めったにないチャンスであり、周囲もけしかけたしみんなで韻律論の大議論をやればよかった、と悔やまれてならない。
で、本論に入る前にこの松山大会の続きがいろいろとある。二日目、歌会で岡井隆さんに僕の次の歌を批評していただいた。

ビルの蒼い影を斜めに降る雨 明らかな錯誤が待っている

要旨はこうだ。「こんなふうに定型をはずせば、短歌ではなくて一行の詩に過ぎない。それとこれをやるならもっとシャープにやらないと形になってこない。これだとゆるいね。」

とまたまた辛らつな批評をいただいた。きっと的を射ていたのだろう。なんだか快感があり、自分がマゾではないのか、とちょっと疑ったぐらいだ。もっともあんな歌会の場で褒められても仕方がないのだが。僕もこの歌に関しては上句が破調の韻律として上手くいったのに、下句が七七の定型で逆にギクシャクとしてしまって、しまりのないものになっている、というまた別の反省があった。
さてその後の打ち上げで、加藤治郎さんの強い勧めがあり岡井さんの横に座らせてもらった。緊張してしまって何を話したらよいのか分からないので、一番引っかかっているこの韻律の問題をぶつけた。岡井さんが言うには、君のやろうとしていることは結局現代詩のジャンルのことで、短歌でやることではないのだよ、ということだった。つまり現代詩に行ってやりなさい、ということだ。岡井さんが帰られた後、横に座っていた治郎さんに「全否定されちゃいました」と報告すると、治郎さんは「まぁああ見えて岡井さんは定型派だからね」と僕をねぎらう。そうか岡井さんは定型派だったんだ、とそのとき初めて認識した。
そのあとの二次会で詩人の松井茂さんと初めて話す機会があった。僕ははじめて名前を聞いたこの松井茂という人がこの時点では単なる詩人で、バカ話の天才ぐらいにしか思っていなかった。大阪に帰ってからネットをさまよい大変な詩人なのだと初めて知ったのだ。二次会は大いに盛り上がったが、その盛り上がっている最中、急に僕と松井さんは短いやり取りだったが、韻律論を始めた。よく覚えていないがこのとき僕はきっと岡井さんにぶつけた質問と同じようなことを聞いたのだろう。ただこの時点で彼は僕の短歌を知らない。松井さんが言うには、あなたのやろうとしていることは、つまり短歌の韻律をはずして詩に近づけようとすることは、詩人の立場から見ると気色の悪いことだ、とばっさりだった。詩人の立場からのじつに真摯な意見である。このときも僕はまた自分がマゾなのかもしれないと思った。何か快感のようなものを感じたからだ。結局大辻さんも岡井さんも松井さんもなんの邪念も駆け引きもなく真摯な意見を僕にぶつけてくるからだろう。真摯な意見ほど気持ちのよいものはない。ましてや歌壇詩壇を代表する人たちの意見である。ありがたい以外の何物でもない。

さて、ここまでほぼ全否定されてきたが、ここから巻き返さないといけない。立場がなくなる。しかしまず大辻さんの冒頭の2行は僕に対する極めて簡潔な賛辞と受け止めた。

 社会システムに対する苛立ちが一首の背景から強く漂う歌だ。その苛立ちは、細見の場合、そのまま短歌定型に対する叛意として顕現しているように思われる。


ああ、そうだったんだ、言われてみれば確かにそうである。細見はこのように見られていたんだ、という深い感慨を覚える。実に的を射ていると思った。それと全くつまらない余談だが、細見と呼び捨てにされることが、なんだかかっこいい。うれしい。なんだか歌人として認めてもらったような錯覚を覚える。(ほんとつまらないことでごめんなさい)

さて、大辻さんの文章の要は、短歌定型への尊敬の念があるか否か、である。正直に言おう。短歌定型に対しての尊敬の念は別にない。畏怖の念はあるが。ではなぜ尊敬の念がなくてはならないのか、僕には全くわからない。歌人が短歌を外から眺め批評してはいけないだろうか。また僕から見れば塚本の短歌は短歌定型に対する叛意などではない。短歌定型そのものだからだ。句跨りや字余りははっきり短歌定型の内部で処理されている。僕はそこをはずしたいのだ。ではなぜはずしたいのか。大辻さんの言われるように「社会システムに対する苛立ち」もあるだろう。だが短歌を単なる短歌愛好家のための趣味などではなくて、はっきり今を表現する表現装置として機能させるためには、従来の57577定型ではゆるいと感じるのだ。また口語の問題もある。従来の短歌定型は文語の韻律である。それが最近口語に移って、やはり57577でやっているが、これは暫定的なことではないのか、と感じている。いきなり口語にふさわしい韻律には行けないだろう。文語ははっきりとした音数律である。口語の音数律は文語ほどはっきりとはしていない。撥音や促音、長母音など言葉のリズムがずいぶんと違わないだろうか。言葉のリズムが違う以上その韻律も変わる可能性はある。それを頭ごなしに否定はできないだろう。
また韻律の内在化外在化の問題がある。筑紫磐井氏の大著『定型詩学の原理』には、五七調や様々な定型韻律は日本語そのものに内在化していたものではなくて、長年その韻律を日本語の中でやっているうちに外在化したものだと結論付けていた。これには少しだけ異論がある。五七調そのものは日本語の中に元々内在化していた可能性がないだろうか。でも短歌定型57577は間違いなく外在化した韻律だろう。長年その韻律で作り続けていたからその韻律が固定化したのだ。これは間違いない。つまり短歌韻律を長年続けていたから日本語そのものに短歌韻律が外在化して定着したのだ。57577を長年やっている間に日本語の中に短歌定型が定着し、そしてこの短歌定型も含めた短歌韻律が日本語の中に土着したのだと思う。それは一本の棒のように短歌韻律が日本語の中にひそんでいると、僕は感じている。この短歌定型と短歌韻律を区別することは重要だと思う。ぼくはこの短歌韻律の方により信頼感がある。つまり僕は従来の短歌定型に対する尊敬の念はないが短歌韻律に対する尊敬の念ならあると思っている。だから短歌をやっているのだろう。
五七調は元々文語韻律である。これも間違いないだろう。今口語になった以上五七調は崩れるほうが自然である。かたくなに守るほうが不自然だろう。
つまり五七調がくずれた今、五七調による57577短歌定型もくずれ、あとには短歌韻律のみが残っているはずだ。
つまりその五七調とは違う調子の棒のような短歌韻律を日本語の中からぬーっと抜き出せてこられないか。それが僕のやりたいことだ。それはどんな形になるかはわからないが。これらを岡井さんにも簡単にだが言ったのだが「だからそれは現代詩に行ってやんなさい」だった。はぁ、ツレナイ。
だがもし五七調が日本語のなかに内在化していたのなら、口語の中でもその五七調はくずれないかもしれないし、僕のやろうとしていることはなかなか難しいことになるのだろうけど。逆に五七調が外在化していたものなら、僕のやろうとしていることはいとも簡単に普通に実行されるだろう。もちろんそれは詩としてではなく短歌としてである。
だが待てよ、もし五七調がくずれそして五七五七七短歌定型がくずれたら、短歌韻律までもくずれてしまわないだろうか。大辻さんや岡井さんは歌人としての本能的な危機感から頑ななまでに短歌定型を守ろうとしているのだろうか。それは結局短歌韻律を守るためなのか。そうかもしれない。もしみんなが短歌定型を崩して短歌を書き出したら、結局のところ短歌韻律までも崩れ後には何も残らなくなる。だがそれが自然の流れなら仕方のないことだ。自然保護のように短歌を保護しても仕方ない。そんな脆弱な文芸に何も出来るわけがないからだ。滅びるのなら滅びる方向に身を任せるしかないだろう。

視点を変えよう。僕の短歌の師である加藤治郎さんもこの韻律に関しては以前から歌会、未来誌などで指摘はあった。要するに僕の短歌は字余りや字足らず句跨りを考慮すれば、五七五七七短歌定型に還元されるという間口の広い考えだった。なるほどそうかなと思う。たしかに五七五七七定型に還元されてなくもない。ようく見れば大辻さんが書かれているほど僕は短歌定型を破壊しているわけではない。定型破壊という観点から立てば、同じ加藤選歌欄の長谷川眞理子さんに比べれば僕の短歌はずっとゆるい。
また加藤さんは今年の未来3月号に僕の短歌に関してこう書かれている。

独特のスピード感のある韻律で読ませる。破調が緩みにならないところが持ち味。


短いがなんとも的確で個人的にはうっとりする。大辻さんの最初の2行とこの1行で僕は歌人として、満足してしまう。こんな批評をいただいて、ほんと未来に入ってよかったなぁ、と実感するのだ。

また一方で、松井茂さんからあのあと個人的にメールでこの自選20首と大辻さんの批評文を読んだ感想が送られてきた。一転僕に対して前向きで、何よりも短歌韻律にチャレンジすることを有意義に捉えておられた。僕と近いことをやっている歌人に石井辰彦さんがおられることも教えていただいた。同志がいるとは心強い。今までお名前しか知らなかったので、これから研究しようと思う。(以上、ご本人より掲載許可をいただいている)

結局僕は短歌と詩の隙間に身をひそめたいのではないはずだ。でも、ま、それもあるかもしれないが。というのは松山大会で僕の性向が一つわかった。どうも隙間が好きらしい、ということだ。かつて俳句と短歌の隙間にいたのだが、そこはいくら僕でも狭すぎて居心地が悪かった。そこから出て短歌の世界に入った途端、今度は短歌と詩の隙間に安住している。ここは適度に広くて居心地がいいのだ。
でも違うと思う。僕は短歌の中から短歌の可能性を押し広げたいのだと思っているはずだ。五七五七七短歌定型を頑なにいつまでもやっていたのでは、表現としての短歌にはもう限界が来るだろう。表現としての短歌に可能性を見出すにはこの方向しかないだろうと思うのだ。

以上長々とありがとうございました。僕自身はもっと気楽に短歌をやってはいるのですが。なんだか勢いで書いてしまいました。

それとまたまた自分の短歌ばかりで申し訳ないですが、上の20首以外に、従来の短歌定型からはみ出していそうな観点から十首を以下に選びました。自分のブログですし、宣伝も兼ねて。ご参考までに。でも実際のところもちろん半分以上は57577短歌定型で作っているのですよ。やっぱり。だからこれからも五七五七七短歌定型に沿いつつもそれをはずしたい欲動にも従っていくのでしょう。

自選十首   細見晴一
世界は肺の中まで砂塵がいっぱいで、ねぇ友達になろうよ、ねぇ
フォークリフトに対かい科白をただ棒読みするだけの妻となり果てぬ
炎天とは横殴りに俺を殴ってくる一つのモードだったか
空の色がこの民族のアイデンティティだとしたら(だとしたら完璧だ)
カスピ海ヨーグルトのような軟らかな星に棲み威嚇しあう日々かな
さあ署名を 僕らは黄緑色の草原に突っ立ったまま涙している
私は明るいグラフィティだ 集塵装置が絶え間なく回りつづける
ハピバスデイトゥーユー そして東アジアに深く打ち込まれた一億本の釘と
まだ雪が残っている荒地とこれから降り積もるであろう荒地との格差
写真を撮る行為は聡明な蒼い愚だ 冷えたクジラが俺には見える

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