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松井茂『純粋詩』
7月の三連休に松山で詩人の松井茂さんに遭遇して以来、僕はこの詩人から多大な影響を受け続けている。そのとき見た『松井茂短歌作品集』もさることながら、やはりネットで見た『純粋詩』がより決定的だったし、松井茂入門としてもこの『純粋詩』の方だろうと思う。この『純粋詩』でぼくは文学との接し方を根本的に変えさせられたと言ってもいいのかもしれない。それは、言葉を使って詩歌を書く、ということに対する根底的な懐疑なくして、詩歌に接するということはどうなんだろうか、という問いかけが、この『純粋詩』から発せられている、と感じたからだ。
以下、便宜上、松井さんに出遭う以前を〈松井茂以前〉。出遭ったあとを〈松井茂以降〉と表記することにする。

『純粋詩』は以下のページで全篇を見ることが出来る。
Pure Poem

おそらく最初から順番に読む必要はないのだろうと思う。だからたとえばランダムに選んだ一篇を以下に引用してみる。

0927~1001

II III II I III I II III III I I III II III II II I II I I
I II I III II III I II II III III II I II I I III I III III
III I III II I II III I I II II I III I III III II III II II
I II I III III I III I II II I I I II III II II III III II
III I III II II III II III I I III III III I II I I II II I
II III II I I II I II III III II II II III I III III I I III
I I II II I I III II II I II III III III II I III I II III
III III I I III III II I I III I II II II I III II III I II
II II III III II II I III III II III I I I III II I II III I
I I III III III II I III I III I II II II II II I II I III
III III II II II I III II III II III I I I I I III I III II
II II I I I III II I II I II III III III III III II III II I
II I I II II I III III II II III III I II I III II III I I
I III III I I III II II I I II II III I III II I II III III
III II II III III II I I III III I I II III II I III I II II
I II II II III III II I III I II II I I II I III III I III
III I I I II II I III II III I I III III I III II II III II
II III III III I I III II I II III III II II III II I I II I
III I III I II II III III I I I II I II III II III I II II
II III II III I I II II III III III I III I II I II III I I


他のどの一篇もこのようにローマ数字のⅠ、Ⅱ、Ⅲの並びでしかない。松井茂は必ず五日おきにネットに新作をアップしていて、こういうのが何百篇とあり延々これが続くのである。なんなんだ、これはー?というのが正直な感想だろう。前知識があっても何なんだ、と感じるだろうが、僕の場合前知識なしにいきなりだったので、かなり面食らった。しかし最初は余計な前知識は無いほうがいいのかもしれない。そのほうが純粋にこの『純粋詩』を感受できるだろうから。

まず僕はこの『純粋詩』を読まずに、眺めた。眺めるだけで美しいのである。Times New Roman の書体によるⅠ、Ⅱ、Ⅲのランダムな羅列の美しさを感受できる。眺めるだけで詩の最小単位がさらさらと流れていそうで、自分までさらさら感に覆われ、気持ちよくなれる。なるほどこれはいいなぁ、と感心した。
だが作者本人が言うには、基本的に書体は何でも言いそうだ。実際最初は漢数字の一、二、三による縦書きだったということだ。縦書きなら眺めただけでは全然美しくない。う~ん、つまり読め、ということである。しかし数字の単なる羅列を読んでどうなるのか。わからないままネットをさまよっていると、さかいれいしう、というソプラノ歌手の朗読に出会った。

Pure Poem for Reisiu Sakai

現代音楽に向くであろうそのピュアな声質とプロ歌手による確かな音程が、朗読というよりは音楽のような雰囲気を作り上げている。『純粋詩』は音楽にもなりうるのか。そうなのかは別にして、松井氏が小学生に授業をしたとき、全員が大声で朗読し始めて盛り上がったとのこと。ということは別にプロの歌手が歌うように読まなくたってかまわないのである。普通の人が普通に読めばいいらしい。それでとりあえずは、さかいれいしうの真似をして、声を出して抑揚をつけて読み出したら、これが止められない。面白い。いつまでも読み続けている自分を発見する。そうか読むんだやっぱり、この『純粋詩』はまず読むものなのだ、ということに大分たってからわかったわけだ(まさか正直読むものとは思わなかったのだ)。だから書体はなんだっていいし、縦書きでも横書きでもなんだっていいのである。要は数字のⅠⅡⅢの羅列だということが肝心なのだ。それは声に出して読んでもいいし黙読してもいいのである。日本語のイチ、ニ、サン、でもいいし、何語だってかまわないのではないか。実際ドイツ語で読んでみたら、全く別の面白さが味わえた。(しかし、もちろんこのTimes New Roman のⅠⅡⅢを眺めるだけでも結構いけると思うのだが)

様々な言葉を使って僕らは詩や短歌や俳句を作る。それら無数の言葉をⅠⅡⅢという三種類の記号の羅列のみに置き換えるとしよう。そうすることによって詩歌におけるあらゆる事象が抒情が韻律が粉々に粉砕されて、無数の詩の最小単位になり、その最小単位のみがきらきらとそこに散在しているのが見えないだろうか。松井茂は詩の最小単位を見せるためにこの『純粋詩』を起草したのでは。
と思ったが、伊藤彩氏の文章を読み、逆にこうも考えた。あらゆる言葉をⅠⅡⅢという三種類の記号の羅列のみに置き換えることにより、詩歌におけるあらゆる事象を抒情を韻律をこのⅠⅡⅢの羅列のみに抽象させることが出来るかもしれない。だとすればこれらⅠⅡⅢの羅列は、世界中の様々な事象を表現することの出来る、極めて多義性の高い線行だということになる。あらゆることがそれらⅠⅡⅢの羅列に抽象されているということは、その抽象過程をもし逆に遡行できるのだとすれば、そのⅠⅡⅢの羅列からあらゆることが生まれるはずだ。つまり世界中の様々な読み手が自分の好きな感情で好きな意味合いで読める線行なのではないだろうか。少なくとも僕は僕の感情で抒情で勝手に読むことができ、なかなか気持ちがよかったのだから。

これらは松山で、松井茂さんに僕を結局引き合わせることになった田中槐さんの言と通じる。彼女は「最小単位は最大単位でもあるんだから。」と他の話の流れで言っていた。そのときは何の意味なのか全くわからなかったのだが、『純粋詩』を読み、少し合点がいったように思う。最小単位は最大単位にもなりうるのだ。『純粋詩』はそのことを証明するためのひとつの科学なのかもしれない。あるいは単なるマジックなのかもしれないが。

これは僕自身の抒情の質の問題だろうと思うが、この『純粋詩』においてはあらゆることを結局捨象しているわけで、ということは僕から見れば、僕の嫌いな近代的な個人主義による個人の発露や、あるいは浪漫的な大げさな感情の吐露、などが全部捨象されていて、大変気持ちのよい文字列のなっているのである。ほんとすがすがしいのだ。
でもきっとこれはさっきも書いたように、誰もが自分に引き寄せて読めるからだろうと思う。

次にコンクリート・ポエトリーについて多少なりとも話さなければならない。
これを知らずに松井茂に接するのは、ある意味無謀だと言えるからだ。もちろんある程度無謀な方が新しい発見があるわけで、変に前知識があると、当然獲得できるはずの自分だけの発見が無いまま過ぎ去ってしまう、というリスクが必ず発生する。だから、以下読まれるのなら、リスク覚悟でお読みいただきたい。

ぼくがコンクリート・ポエトリーという概念や形式を知ったのはもちろん〈松井茂以降〉である。『未来』の2006年1月号からの表紙が岡井隆氏の選定によるコンクリート・ポエトリーの特集だと認識したのも〈松井茂以降〉である。最初のりんごの絵だけは確認していたのだが、それがなんなんだ、ということで以降は全部スルーしていた。気がついてから慌てて最近全部見たのである。これがなかなかいい。ぼくもこのレクラム文庫の『Konkrete Poesie』が是非ほしくなった。なんとしても手に入れようと思っている。ドイツ語は全く読めないのだが、絵を見ればいいのだし、何とかなるだろう。

ではコンクリート・ポエトリー(concrete poetry)とは何か。conreteとはabstract(抽象的な)の逆で、(具象的な)という意味である。つまり具象詩。詩を見える形にか聴こえる形にか具体化しようということである。
1950年代にスイスの詩人オイゲン・ゴムリンガーにより始まったとされ、ブラジルのデシオ・ピニャタリ、フランスのピエール・ガルニエや日本の新国誠一、北園克衛など世界中でほぼ同時多発的に起こった芸術運動らしい。
視覚詩(ヴィジュアル・ポエトリー)の場合、言葉の持つ造形的なもの(シニフィアン)を強調していくことにより、言葉の持つ意味内容(シニフィエ)を無力化していく。そして読まれるよりオブジェとして知覚される。言い方を変えれば、言葉という素材を使った現代美術、とも言え、つまりその詩によって、その意味内容や意味から派生する抒情や感情を伝えようとはしない。そういったものを捨象していき、できるだけ言葉の持つ具象美を追求する。美術と詩の双方に跨ったアートと言えるのだろう。日本などの書道はまさにこのヴィジュアル・ポエトリーあるいはコンクリート・ポエトリーだと思うのだが。
また、これらコンクリート・ポエトリーを鑑賞するだけで、言葉の意味を重視した従来の詩への辛辣な批評を見てとれもする。(その意味では書道はおそらくコンクリート・ポエトリーではないだろう。)

とりあえず以下のサイトを参照していただければより理解が深まると思う。建畠晢氏のは作品もたくさん載ってます。それらを見るだけでも面白いですから。

建畠晢「日本の視覚詩の運動について --- VOU と ASA を中心に」

清水俊彦「ヴィジュアル・ポエトリー」

松井茂の『純粋詩』はとりあえずこのコンクリート・ポエトリーの延長上にあるのだと思う。だが決定的に違うのは、言葉の持つ意味内容(シニフィエ)を捨象するのではなくて、言葉そのものをⅠⅡⅢという三種類の記号の羅列のみに抽象化し、逆に意味内容(シニフィエ)を無限に湧き立たせた。あるいは別の解釈で言うと、シニフィアンもシニフィエも剥ぎ取り、つまり言葉そのものを全部消失させることにより、そこに詩の最小単位のみを顕現させる。
松井茂が天才なのか、単なるセロのような天才マジシャンなのだろうか、僕にはわからないが。たとえマジシャンだとしても、仕掛けがわかったところで、セロのように興ざめするわけではないのは間違いない。

以下、松井茂氏本人による仕掛けの話。

「純粋詩」について(方法 第7号2001年3月3日発行より)

「純粋詩」について考えてみたい。このことは、定型詩ではなく自由詩と一般に呼ばれている現代詩において、本来、常に問われるべき課題だ。何をもってその作品が詩と呼べるかに関わるからだ。今年に入って「音数律を失った詩の枠組みは比喩である」とする吉本隆明と、「詩は一作品ごとになんらかの鋳型を持つ」とする藤井貞和に依拠した「純粋詩」作品の実作を試みている。
 まず拙作では、「一」「二」「三」という三つの漢字が使用されている。三項を使用することは、吉本の論からの演繹による。吉本の論は、意味を変えずにバラエティを増大させる比喩表現に詩の「価値」を見出す。これは主に近代詩が志向した詩の立場といえる。この論から演繹したのは、詩は比喩表現であり、「AのようなB」という型を詩の構文、あるいは詩そのものとみなすことだ。これを「A」「B」の二項と、二項間にあってその関係性を定義する「のような」の三項の記号に置換する。この三項が「純粋詩」の極小の単位となるだろう。 三項の記号に漢字を使用したのは、日本の詩の表記の来歴をは、当初から漢字を使用していたという至極当然の理由による。選択された「一」「二」「三」は、漢字として指示に分類され、それぞれが概念によって人為的に作字されていること、画数と意味と形態が極めて緊密な関係を持つことから、完璧な文字(漢字)
と考えられたので使用した。しかしこれらは、比喩表現の便宜的な三項としてあるだけなので、他の記号に代替されてもよい。
 次に拙作の枠組みだが、ここでは原稿用紙を前提としており、これは藤井の論からの演繹による。藤井は、『古日本文学発生論』において「詩は一作品ごとになんらかの鋳型を持ち、次作を提出する際には、前作を破壊し新たな鋳型を」と訴えたのだった。一作品ごとが定型詩であるとするこの論は、自由詩の側から、短歌や俳句なども、一首、一句ごとに新たな強度を持ち、詩の発生を経験すべきだという示唆をなげかける。



「純粋詩」について

篠原氏は、現在の詩のあり方を定型詩、偶成詩、方法詩と分類したうえで、自らの作品を方法詩としています。氏の定義によれば、定型詩は短歌、俳句、ソネットなど伝統詩。偶成詩は「行きあたりばったりにひとつひとつの詩を書いていくという、現代詩人におなじみの」詩(篠原資明『まぶさび記──空海と生きる』弘文堂2002年)。方法詩は「型を決めたうえで、それにのっとって」(同前)作られる詩としています。野暮な説明をするよりも、氏の粋な実作をご参照いただきたいと思いますが、一方で、氏の作品には、極めて鋭い現代詩への批評があることを忘れずに。
 「方法」における方法詩は、「方法に服する」「現代の詩の状況への批判」という点で氏と同じ範疇ですが、先の「宣言」中で、氏の方法詩とは異なった意味付けをしています。「方法詩は、私情と没入を禁じて方法自体と化した文字列である。ただし抒情を叙事する実際の文字は、周到に他の記号に代替されることもある」と。つまり「方法」は、還元主義というくくりで、内容の捨象を前提としているのです。
(中略)
20世紀にいたると、近代化の名のもとに神は死にました。これは、自然観の革命といってもよいでしょう。つまり、神から科学へと世界観の根拠が委譲されたということです。自然の擬人化から、数値化へというとわかりやすいでしょうか。こうした現代の世界に生きる私にとって、神のいない神謡(あるいは数値化された神謡)こそが、時代の要請に応えた「これこそ詩なのだ」と言えるものになると思えます。そういった意識で、私は「純粋詩」という作品を制作しました。

「純粋詩」は、2001年1月7日から制作を始めました。2002年からは、5日毎にHP上で発表しています。2002年12月16日現在85編が発表されています。1篇は、二十文字×二十行の原稿用紙状のフォーマットに四百の記号を並べたものです。このフォーマットは、現代日本で文学を行うということのアイデンティティとして選択しています。用いられる記号は、たんに書かれた文字であるべきだと考え、書く行為と意味が一致する「一」「二」「三」という指事の漢字を選びました。この記号は、数であり、順番であり、量であり、動きです。語順は、規則的な並べ替え。順列組み替えです。その結果、重ね、繰り返しが多様に発生し、記号との連鎖で“豊穣な韻律”が機械的に生成されていきます。語順は、規則的な並べ替えによって決まっているので、まだ書いていない先の展開もすでに決まっています。ですから、「純粋詩」は、常に、あるいはすでに、そして永遠に存在するともいえるでしょう。私は、この遍在性こそが「純粋詩」のポイントであると考えています。さらに踏み込んで「純粋詩」を捨象していくと、詩は、書く行為すら必要のない段階に到達します。最後に、個人的な好みも含めて、中島敦の作品『名人伝』の一節を引いて話を終えたいと思います。
「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ること無しと」。
 以上、説明不足もありますが、これが現在の私の方法詩論の到達点です。



神の死による「自然の擬人化から、数値化へ」という流れは、近代より、むしろポスト近代の方がより顕著のように思える。もっとわかりやすく言うと、〈プレ近代→近代→ポスト近代〉という流れのなかで松井茂の言う自然は、〈自然の神格化→自然の擬人化→自然の数値化〉に対応しているだろうか。このほうが僕にはすっきりわかる。近代は個人主義の時代である。つまり人間中心の時代である。あの時代は何でも人間に見立てただろうから。もちろん今も(特に短歌は)近代を著しく引きずっているだろうから、〈自然の擬人化〉がいまだに盛んなわけで、〈自然の数値化〉というのがあまりに斬新なのだ。

この〈数値化〉をキーに松井茂は他にも様々な方法を仕掛けてくる。その全貌はまだ僕もよくつかめていない。Method Poem

そのいずれもが現代の詩やそれ以外の既存の文芸に対する、ピュアな批判であり、新しい詩への鼓舞であるだろう。
我々短歌や詩だけでなくあらゆるアートの分野の表現者たちは、これから松井茂を通過し咀嚼し、いたぶられ絶望し、そして真の希望へと進むことになるのかもしれない。
それにもまして我々言葉を扱うものにとって、言葉を常に捨象しようと試みるこの詩人は、なおいっそう、行き場の無い絶望であり、だからこそ、そこからの新たな希望が生まれるはずなのだ。

また、松井茂さん自身の言によると、自分の作品は質問状なので、その問いに対して様々な返答があってほしい、ということだ。「Aesthetics」に対する岡井隆氏の翻訳もひとつの返答である、と。つまりその作品を如何様に解釈してもいいわけで、その懐の深さがひょっとしたら松井茂のそれこそ本領なのかもしれない。

だといっても僕は時々思うのだ。松井茂はテロリストかもしれない、と。詩歌人の世界に送り込まれた、詩歌人だけを標的にしたテロリストだ。言葉をよりどころとする者にとって、言葉を徹底的に否定する彼の作品は、心酔すればするほどその己の立場を危うくする。なぜなら言葉を駆使してレトリックを使い何かを作ることへの意欲を失うからだ。もう何人も殺しているかもしれないし、僕自身も今危ないのかもしれない。

松井茂はおそらく天才詩人か、天才マジシャンか、テロリストだろう。そのいずれなのかは僕などにわかるはずもないのである。
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エースの登場
ついにエースの登場である。

僕はどこの政党にも依存していない。が現実として政治を考えないといけない時期に来ていて、その現実としての政治をやる上で今最もバランスのとれた人がこの福田氏だろうと思うのだ。
確かに民主党との2大政党制は最も望むところだが、どうにも民主党が頼りなくて仕方がない。参院選の結果をそのまま引きずって解散総選挙になだれ込むのがはたしていいのかどうか。もうちょっと民主党を鍛えないといけない。安倍氏では鍛えたことにはならないだろう。自滅したのも同然なのだから。福田氏と対峙して初めて鍛えられるのだと思う。

民主党の鳩山氏は、今回の自民党の派閥政治に民意が反映されていない、と言っていたが、十分民意は反映されていると思う。麻生氏で行けば、また国民の人気取りだけでは政権が頓挫するかもしれない、ということを大衆は今敏感に察知しているだろうから。その民意を汲んで地味な福田氏を担ぎ出したのだ。福田氏の誠実さに期待したのだろう。僕の好みの問題かもしれないが、あの麻生氏ではいかにも軽くて頼りない。安倍氏が言わないジョークを言っているだけの中身のない単なる普通のオヤジのようにどうも思えてならない。

とりあえず僕としては、靖国に行かない首相であれば誰でもいいのだが、福田氏の泰然自若としたあのとぼけたキャラが僕の好みでもある。
無音化
与謝野馨官房長官、ひそかに期待してるんだけど。

(参照)

与謝野馨官房長官は11日午前の記者会見で、安倍政権が小泉改革路線から後退したとの批判を受けて、「『もはや改革のエンジンはない』と酷評する人もいるが、改革という機関車は相変わらず力強くレールを走っている」と反論。改革への抵抗や反発を機関車の「騒音」に例え、「騒音が聞けないと改革が進んでいないと思う方がいたら、改革について無音化が進んだと思っていただきたい」と述べた。



さすが与謝野晶子のお孫さん、上手い、と思うんだけど、政治に批判という騒音が無くなったらもう終わりなんですね。今一番怖い状態だということに逆に気づかされます。だれもが年金ばっかり。年金問題は自民党が改革から注目を逸らすためにわざと目立たせたのかな、とも思えてくる。
年金問題はもちろん一番重要なんだけど。
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