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一行の詩のような人
ひょっとしたら伝説になるのかも。
笹井宏之さんの歌集批評会の模様が出席者から次々とアップされている。

笹井宏之さん本人のブログ

伊津野重美さんのブログ

須藤歩実さんのブログ

ひぐらしひなつさんのブログ (その1)
ひぐらしひなつさんのブログ (その2)
ひぐらしひなつさん日記

だれか樹木のような人とも言ってた。誰だったか。(←ひぐらしさんでした)

穂村弘さんは「あらゆるものが等価にある感覚」とまとめたらしいが、それはすべての事象、すべての事物、すべての感情が笹井の短歌では等価値に置かれているということだろう。これはおそらく誰もが感じたことで、ぼくもブログで「前向きでも後ろ向きでもない表現の位相」と同じようなことを違う言葉で書いたが、穂村さんという人はいつも簡単な言葉で適切に言い表すのがびっくりするほど上手い人だ。痒いところを確実に掻いてくれる。

またひぐらしひなつさんは

この歌人にとってうたうという行為は、不条理な世界を不条理なままに掬いあげいとおしみながら丁寧にさしだす愛の作業=祈り、ということなのかもしれず、またそれによって自分自身も世界に接続しているのかもしれない。


と書いている。うんうんそうだよなぁ、とうなづいてしまう。結局これも同じことを違う言い回しで言っている。みんなおんなじこと思うんですね。このことに感動したりします。

とにかく行くべきだった、伝説に立ち会うべきだった、とため息が出た。
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絶対に言ってはいけないこと
アメリカの女優のシャロン・ストーンという人がカンヌ国際映画祭で言ってしまったとか。
時事通信の記事

「中国のチベット人の扱いに満足できない。地震とか起きたが、これは『カルマ(報い)』だと思う」

絶対に言ってはいけないこと、ってこの世にあるわけで、その極限だろうな、きっと。チベット問題と今度の大地震は全く別個に考えなければならないことで、彼女の人格が奈落の底に墜ちたことは間違いない。あの著名俳人Nのように。

彼女は絶対に謝らなければならない。四川大地震の被災者に。

というか、チベット人も被災者の中に多数いるわけで、全然わかってないな、この人。
ふるさとへの恋文
池田はるみさんの評論(未来:2008年3月号)を読んでいたら、高野公彦さんが愛媛出身だと知った。愛媛のどこだろうと気になってネットで調べたら、出てきた。

文化愛媛56号・特集「ふるさとへの恋文」(←click)

伊予長浜である。司馬遼太郎の本に少し出てきたように記憶しているが、現在の大洲市だ。大洲を通過する肘川の河口である。もちろん行ったこともないし、会ったこともない人のふる里なんだけど、同じ南予で宇和島にすぐ近いせいか、文章を読んでいてなぜか懐かしい気分にさせる。

関東に出てきてから、もう40数年になる。しかし、やっぱり郷里は懐かしい。古びたJR長浜駅のホーム、漁船の集う港、空に舞うカモメたち、町に沿って続く長い防波堤、肱川(ひじかわ)の河口、そこに架かる大きな赤橋、沖浦観音の桜、そして人々の話す南予なまりの柔らかい言葉……などなど。


ここも同じだと、という感じにさせる。過疎化が進む町ほどいとおしくなるのだきっと。それは昔とほとんど町並みが変わらないせいだろう。
また宇和島になんとしても行きたくなった。そして大洲の辺りもぜひ一度行ってみたくなった。
『新彗星』創刊
僕が所属する未来短歌会、加藤治郎選歌欄「彗星集」のメンバーが中心となって短歌同人誌『新彗星』が創刊されました。

鈴木博太さん、高田祥さん、西巻真さん、宮野友和さん、杉森多佳子さん、そして加藤治郎さん、ありがとうございました。本屋さんにも売ってるんじゃないかと見まがうばかりのすばらしい冊子です。でも本屋さんには売ってません。以下のブログで販売されています。
『新彗星』のブログ(←click)

この創刊号は笹井宏之さんの大特集です。
・笹井宏之『ひとさらい』を読む 西村旦/斉藤真伸 
・鼎談「わたしたちの向かう場所」 野口あや子 × 澤美晴 × 笹井宏之
・新作20首 「昏睡動物」 笹井宏之
などなど、その他メンバーの文章や新作短歌が盛りだくさん。各々がそれぞれ得意技を披露してノビノビとその翼を広げております。読みごたえ十分です。

新彗星という名がおそらくメンバーの中で一番似合いそうにない僕ですが、隅のほうで評論を書かせてもらってます。「口語韻律の可能性」という韻律論です。一生懸命書きました。

『新彗星』はどこへ向かうのか。その向かう場所こそが現代短歌の向かう場所なのでは、と少しヒロイックな気分に浸ったりもしております。

感想などお寄せくだされば幸いです。
笹井宏之歌集『ひとさらい』
短歌をやっていると、時折未見の新人の歌にガツンと喰らわされることがある。2004年に短歌の世界に入って以来、以下の4首にそんな印象を受けたことを記憶している。

「蠅はみんな同じ夢をみる」といふ静けき真昼 人を待ちをり     
魚村晋太郎『銀耳』
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって       
中澤系『uta 0001.txt』
雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  
斉藤斎藤『渡辺のわたし』
それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした  
笹井宏之『ひとさらい』

それぞれの歌がそれぞれの歌人の個性をくっきりと映し出しているが、今回はこの中での最年少で最新の歌集、笹井宏之歌集『ひとさらい』を少し取り上げたい。

一読まず「めくるめくメタファー」という印象を受けた。C難度はもちろん、平気でD難度E難度の修辞を駆使してくる。
去年10月のJ歌会京都で土岐友浩氏から「最近は虚構の世界をクリエイションできる想像力が弱まっている」という発言があり、一同うならされた。確かにここ十数年来、現実が虚構を簡単にのり越えてくるわけで、虚構に頼る方向の文学はこの現実にだんだん歯が立たなくなってきたのだ。現実と太刀打ちできない以上その虚構にはなんの存在価値もなくなってしまう。
だが今回この歌集を読んでみて勇気付けられた。「虚構の世界をクリエイションできる想像力」はまだ弱まっていないのだと。それは作歌する側の感受性の問題なのだと。少なくともそれを跳ね返す力が笹井にはあるのだ。まだまだやれるぞ、と武者震いさえ起こってくる。

「ごみ箱にあし圧縮をかけるとき油田が一部ばくはつするの」
骨盤のゆがみをなおすおかゆです、鮭フレークが降る交差点
シャッターを切らないほうの手で受ける白亜紀からの二塁牽制
かんてんの気泡のなかで二枚ほどまぶたの貸し借りをおこなった
水田を歩む クリアファイルから散った真冬の譜面を追って


これらは俳句における攝津幸彦の技法をすこし思い出す。俳人の野口裕氏がこの攝津についてどこかで述べていたと記憶しているが、それは「はぐらかしの喩法」だというのだ。その言葉から次の言葉につながる期待(あるいは必然)を次々に裏切ってゆくというのである。

一月許可のほとけをのせて紙飛行機     攝津幸彦
睡蓮に音ありあひる快楽す             〃
物干しに美しき知事垂れてをり           〃
宇宙是れ洗濯板にヒヤシンス           〃
定型やヴァイオリンにて野菊打つ         〃

笹井はおそらく攝津を知らないだろうから、これは生まれつきの天然と解釈すべきなのだろうか。塚本や岡井や加藤治郎にもそういう技法はもちろんあるが、最初からはやらなかっただろうし、ここまで徹底的にはやってないはずだ。
この「はぐらかしの喩法」が出てくる背景は、おそらく期待通りに言葉をつなげることに対する苛立ち。それはこの世界の装置の一つ、あるいはピースの一つに自分が納まる事に対する苛立ち、とでも言ったらいいだろうか。どこまでも自由でありたい、という人間本来の願望、を定型詩という不自由な詩形でやることで倒錯的な快感を得る、とでも言えるだろうか。僕自身にこそそれがあるのかもしれない。だからこそ他の表現者にもそういったことを敏感に感じるのだけなのかもしれないが。

あともう一つ気がついたことに、表現の位相、とでも言うべき問題がある。最近ずっと僕自身後ろ向きの歌ばかり作っている。というか「表現の位相」なるものに、この歌集を読んではじめて気づかされた。というのは笹井は後ろ向きでも前向きでもないのである。そういう歌がしきりと目に付く。

三階でとてもいいひとになってる主婦のかたちをしたホ乳類
からっぽのうつわ みちているうつわ それから、その途中のうつわ
簡潔に生きる くらげ発電のくらげも最終的には食べて
このケーキ、ベルリンの壁入ってる?(うんスポンジにすこし)にし?(うん)
「スライスチーズ、スライスチーズになる前の話をぼくにきかせておくれ」
この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい
こん、という正しい音を響かせてあなたは笹の舟から降りる


もちろん前向きの歌もあるし、後ろ向きの歌もある。ただ前向きでも後ろ向きでもない歌が特徴的なのだ。たとえば俵万智は前向きだろう。これは異論が無いはずだ。加藤治郎は後ろ向きと解釈している。もちろん前向きの歌もあれば、どちらでもないのもあるが、後ろ向きの歌が特徴的なのだ、少なくとも後ろ向きの歌ばかり作っている僕にはそう感じられる。穂村弘はどうかといえば、前向きでも後ろ向きでもないと言えるだろうか。だが笹井とは立ち位置が違うようだ。穂村はこの世界の中に在って前向きでも後ろ向きでもないことを飄々と言う。笹井は世界の外側に立ってこの世界を見つめ、淡々と冷静にこの世界が前向きでも後ろ向きでもないと述べる。穂村は人間の視点だが、笹井は神の視点、あるいは四人称の視点とでも言おうか。僕はこの笹井のような視点に弱いので、笹井の方に惹かれるが。
先ほど発刊された『新彗星・創刊号』の鼎談で澤美晴氏が以下のように述べている。

言葉主義って、窮屈というか、閉塞感をもたらしてしまうこともあると思うんですが、笹井さんの歌は、言葉に比重があっても、風通しがいいように感じています。それは、世界に対して思いを届けたいという芯があるからだと思うんですね。一首ごとが祈りのように感じています。


全く同感だ。僕の思いを代弁してくれている。喩に頼りすぎると表現が閉塞していく。これは常に僕個人自戒しなければならないことで、だが笹井の歌にはその閉塞感があまり感じられない。

それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした


この歌集で僕が最も衝撃を受けたこの歌は、ではなぜそんなに衝撃を受けたのか。それはきっと澤氏が言うように、「世界に対して思いを届けたいという芯がある」からなわけで、前向きでも後ろ向きでもない、つまり肯定も否定もしたくない世界、これをなんとか表現したい、という祈りのようなもの、それがこの歌の芯にあると感じたからだろう。それはおそらく切実な願いなのだと思う。はっきりと後ろ向きと決まったこの世界に対して、その祈りははっきりと前向きだからだ。その明るさがおそらく「世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさ」なのである。それは澤氏が言うように「風通しがいい」世界なのだ。そしてこれが僕が便宜的に言った「神の視点」なのだ。これは世界の中にいるだけでは、つまり人間の視点では見えない世界だ。世界の外に出て初めて見えてくる世界である。

話は戻るが、ちなみに俵万智は人間の視点で前向き。だから万人に受けたのだろう。加藤治郎はおそらくそのすべての視点を有しているかもしれない。そしてすべての方向を向く。全視点全方向なのかもしれない。この歌人は一口では言い表せないようだ。

思うに、最近はずっと後ろ向きの歌がトレンドだと無意識に感じていたが、この歌集を読んで、ひょっとしたらトレンドが変わったのかもしれない、とはじめて考えさせられた。もういい加減後ろ向きになるのにはみんなうんざりなのか、僕自身も含めて。現実があまりにも後ろ向きだからだろうか。でも、前向きでも後ろ向きでもない表現の位相。これを実際やるのは綱渡りかもしれない。あるいは体操の平均台に喩えたほうがピンと来るかもしれないが。

時代が決して後ろ向きではなかった80年代に前向きでも後ろ向きでもない位相を保つことは、クールな印象を与えただろう。だがそんなに綱渡り的に難しかったわけではないと思うのだ。そこでアクロバティックな表現をすることは体操でたとえるなら、床運動で難度の高い演技をすることに相当するだろうか。それはそれでもちろんすばらしい演技なのだが。しかし今はっきりと後ろ向きの時代に、前向きでも後ろ向きでもない位相を保つことは、バランスを取らないとなかなか難しいように思える。バランスをとらないと、前向きか後ろ向きかどちらかの方向にこけることになる。こければざまぁない。そのバランスを取りながら笹井はアクロバティックな演技をしてくる。それはたとえば平均台で難度の高い、バクテンのような演技をするようなもので、極めて新鮮な印象を与えるだろう。

絶妙にバランスを取りながら、難度の高い歌をものにしてくる笹井宏之という歌人が、その才能も人間性も含めて、これからも大いにこちらを期待させてくれそうだ。


笹井宏之歌集『ひとさらい』はネット販売限定です。以下のサイトで購入できます。
http://www.bookpark.ne.jp/cm/utnh/detail.asp?select_id=59
四川省大地震
今度の四川省大地震は地震大国日本の常識では計り知れない状況のようだ。

まずその規模。マグニチュードは7.9と発表があったが、このマグニチュード8クラスの規模の地震は日本では釧路沖や南海沖など海洋プレート型地震がほとんどで、内陸型では関東大震災と濃尾地震のみが明治以降ではあったと聞いている。海洋プレート型が内陸で起こったわけである。これはいくら地震に慣れた日本人といえども想像しにくい。あの阪神大地震は6.9。つまり今度のは神戸の32倍の規模になる。これがどういう意味での規模なのかいまいちわからない。地震全体のエネルギーということだろうか。震度は7らしいが、これも今のところ曖昧な情報だ。揺れの瞬間の強度ということで「ガル」という加速度を神戸のときは使っていたが、今度のはまだその情報は入っていないようだ。すこし前、樺太でマグニチュード8クラスの大地震があったとき、人がその揺れで30メートルほど吹き飛ばされたということを聞いている。これは神戸をはるかに上回る加速度だったに違いない。地球は常に、その表面に人が生活を営んでいることなどお構い無しに造山活動を続ける。人はそれを自然の驚異と言って恐れるより他にないのだ。

次に建物の強度。今日ニュースを見ていて、中国の建築業界のモラル破壊は相当なものらしいということがわかった。賄賂なくしてどんな建築物も建てることはできないとか。通称「おから工事」と呼ばれるらしいが、あの日本の耐震偽装などとは全く違う次元の手の抜き方らしい。豆腐のようなすこし揺れれば崩れるような建て方で、震度4で簡単に崩れるということだ。これもとにかく想像を絶する。

地震の規模の巨大さと想像を絶する手抜き工事のおかげで、いったいどの程度の強い揺れだから、どの程度の被害なのか、この関連性をざっくりとでも掴むことが今のところ全くできない状態である。震源地汶川県の被害はおそらく想像を絶するだろう。まだしばらくメデイアは地獄を報じ続けることなる。
セカチュー
今頃になってセカチューを見た。というか読んだというか。

宇和島出身の野樹かずみさんから、宇和島がたくさん出てくるよ、と言われ、宇和島出身の片山恭一の原作『世界の中心で愛をさけぶ』を読み出した。確かに出てくる。市立図書館、天赦園、竜華山等覚寺、宇和島東高。あと神社が出てくるんだけど、市立図書館から近いのは宇和津彦神社のはずなんだけど、描写は違うみたい。野樹さんが言ってた、三島神社だろうか。ほとんど地名は出てこないんだけど、宇和島を知っている人だけには、ああ、あそこだ、とわかるところが嬉しい。最後に出てくる中学は城東中かな。

最初は宇和島に関することで面白く読めたのだが、気がつけばしっかりセカチューの世界に嵌まってしまっていた。あんなベタな恋愛ドラマを今さら見れるかい、とか思ってたけど、しっかりTVドラマまで見てしまったのだ。

緒方直人がナチュラルで良かったが、なんと言ってもよかったのは、三浦友和。とにかくセリフがかっこいい。だめな父親を演じつつ、とってもクール。

第6話で娘のアキが白血病だと発覚したあと、アキの恋人サクに対して「なぜアキがあんな目にあわなきゃいけない?俺のせいか?あや子のせいか?君のせいじゃないな。だからこそ君を憎むことでしか俺は立ってられないんだ。」とサクを理不尽に責め拒絶する。

極めつけは最終話。17年後、アキをやっと弔えるようになったサク(緒方直人)に対して、「よくがんばったなぁ、サク。。。。辛かっただろう。。。。もう、十分だ。。。。ありがとう。」

ここでさすがにほろっと来た。亡くなった恋人の父親に赦してもらうことがどういうことなのか、痛いほど伝わってくる。
原作でも今の僕にとってほろっとくる場面はなかったが、ドラマではふんだんにあった。その極め付けがこのシーンである。正直、原作者には申し訳ないが、TVドラマのほうが盛り上がってしまった。

映画版も勢いに任せて見たのだが、完全にしらけてしまった。長澤まさみは嵌まり役だったはずなんだけど、脚本が最低。唐突に好きになったり、唐突に病気になったり、で物語りに入れずじまいだった。

TVドラマ版のロケ地は伊豆。映画版は香川県。両方とも宇和島ではない。ここがだいぶ不満である。
TVドラマ版もぼくとしては綾瀬はるかがちょっと不満なので、今度は今一押しの多部未華子主演で、全篇宇和島ロケでやってもらいたいです、ぜひ。
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