なあ、雪穂
今頃になって、2年前のドラマ「白夜行」を見た。最近は下手な小説や映画よりTVドラマのほうが面白かったりする。これはその際たるものかもしれない。今まで見たドラマで一番面白かった。原作は東野圭吾だが、原作とはずいぶんと違うらしい。どうも脚本家とぼくの好みが一致したようだ。

このドラマは究極の純愛である。どうも最近はこの純愛に弱い体質だということに気がついてしまった。もうけどこれ以上の純愛はないだろうな、おそらく。
11歳のときにお互いの親を殺してしまった男女が、その罪を隠すためお互いのために嘘に嘘を重ね、悪事に悪事を重ねていく人生。売春、強姦、死体損壊、カード詐欺、そしてさらなる殺人。太陽の下を歩けない人生。でもお互いがお互いの太陽であろうとした。深い絆で結ばれた究極の純愛。白夜行。

主演の山田孝之のファンになった。さびしそうに笑うところがたまらない。その彼の雪穂(綾瀬はるか)へ語りかけるモノローグがとても印象的だった。
(なぜか台本のようなものがある)
以下ここからの抜粋コピペ。

「11歳の時、俺たちは出会った。俺は雪穂を守るため、父親を殺した。その俺を庇うため、雪穂は母親を殺した。俺たちは、その罪を隠すため、他人でいることを約束し、別れた。だけど、7年後、俺たちは再会し、いつの日かもう一度、二人で太陽の下を歩くことを約束した。それは、罪に罪を重ねて、生きていく方法しかなかったんだ。」

「なぁ、雪穂。月の裏側には、一筋の光もなかったよ。ひとかけらの優しさも、ぬくもりも、美しさもなかった。だけど、なぁ、雪穂。俺を傷つけて去ることが、あなたのやり方だったこと、いつの日も変わらない、あなたの優しさだったこと、あのむちゃくちゃなわがままだって、一度でいいから幸せな子供のように甘やかされたかっただけなんだって、今なら・・・ちゃんとわかるんだけどな・・・。」

「なぁ、雪穂。白夜ってさ、奪われた夜なのかな。与えられた昼なのかな。夜を昼だと見せかける太陽は、悪意なのか、善意なのか。そんなことを考えた。いずれにしろ・・・俺はもう嫌気がついていたんだ。昼とも夜ともつかない世界を歩き続けることに。」

「あなたは俺の太陽だった。白夜に浮かぶ太陽だった。俺の・・・たった一つの救いだった。」

「なあ、雪穂。俺たちは醜かった。誰もが目をそむけるほど醜かった。だからこそ、誰もが突き放すその醜さを、お互いに抱きしめようと決めたんだ。」


なあ、雪穂。
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「詩のテラス」より
ふらんす堂より発信されている、四人の女性詩人によるブログに『新彗星』のことが紹介されていて、たぶん僕の評論文を読んだ感想だろうな、と思えるところがあった。こちらが逆に重要なことを教えられたので、紹介しておく。

6月12日の河津聖恵さんの日記だ。
「詩のテラス」(←クリック)

五七五七七。
そのリズムは崩そうとして、ひきもどされる「強烈な磁場」だ。
しかし定型があるからこそ、葛藤しうる。挫折もしうる。
リズムを模索することは、自分のからだ=いのちを目覚めさせていく。
かぎられた音数で言葉を取捨選択することが、ひとを成熟させていく。


定型と葛藤することは「自分のからだ=いのちを目覚めさせていく」ことになるのか、とはじめて思い至らされた。なかなか言ってくれるな、と感銘してしまった。こんな文章でも、言葉を自分の中にしっかりと入れ込んで書いてくる。それに比べれば僕などいくら書きまくろうが、上っ面に思えてくる。文章を書くのは本当に難しい。でも負けてられない。
叛乱が起こるとすれば
いつも人の短歌ばかり褒めているので、たまには自分の短歌で文章を書こうと思う。(笑)

・叛乱が起こるとすれば銀製の奴から八つ裂きにされるだろう

この短歌は3年ほど前だったろうか、大阪の秋葉原こと日本橋の電気街の裏通りを歩いているとき、ホームレスの人のねぐらのあまりの多さに驚いてしまい、よく叛乱が起こらないな、なんてことを思っていると、なぜか勝手に短歌モードになっていて、まず「叛乱が起こるとすれば」まで出来てしまったのだ。それから上新電機でプリンターのインクを買って、当時ほしかったデジカメのコーナーを通りかかったとき、銀色のイクシがいいなぁ、なんて思い手に取っているとき、もうそれで「叛乱が起こるとすれば銀製の奴から八つ裂きにされるだろう」と出来てしまっていた。当時は短歌を始めたばっかりで、こんなふうに簡単に短歌が出来てしまうこともときにはあった。(今はない)

さてここから二日前、秋葉原で起こった、通り魔事件のことになる。

メディアによると容疑者はどうも劣等感のかたまりだったようだ。自分以外は全員が勝ち組に見えたらしいから、相当な劣等感である。昔ならこういう経済的に追い詰められたルサンチマンは、徒党を組んでストライキなり叛乱なり革命なり、もっと前なら一揆なりを起しただろう。それは当たっていくべき敵がはっきりとあったからだ。必ずそれは資本家サイドが悪いのである。誰でもがわかる明快な論理であり、判官贔屓もこれと似た心情から生まれる。
だが今は、この完全グローバル化された世界において、あらゆるところで自動化がまだまだ押しすすめられていく世界において、つまりグローバル化により競争が激化すると共に、自動化により人間のやるべきことがどんどんなくなっていく時代において、どこに敵が存在しているのかわからなくなっていて、どこに憤懣をぶつけてよいのか途方に暮れるしかないのだろう。冷静に考えれば考えるほど我々一人一人が加害者であり被害者となって見えてくる。あるいは加害者も被害者も世界中に細切れに分散されていて、見えなくなっている。こんな時代でも何が起こってもなおも資本家のみのせいにする、近代から抜けきらない人にはわからないだろうが、おそらく。わかりっこない。そういう時代遅れのリベラリストはもううんざりである。

こんな時代に追い詰められたものは、まずネットに籠もるのだろう。特に2ちゃんねるか。2ちゃんねるもそういう意味において捌け口としての機能をはたしているので、これはこれで存続していってほしいものだ。どうせここで書かれていることは誰も信じないだろうし。存在してかまわないのではないか。でも時に捌け口を自分のブログやmixiに求める人がいるが、それも実名を書いたりして、そうなると大変な騒ぎになるので、そういう人は2ちゃんねるに書けばいいのである。実名でもなんでも書けばいいのである。何度も言うように、2チャンネルに書かれたことは書いた本人たちもだれも信じていないわけで、つまり何を書いてもいいのではないだろうか。2ちゃんねるは便所と同じなのだから、絶対に必要なのだ。

しかしネットでも満足されない孤独なルサンチマンは、自死を選ぶか、今度のように無差別殺人に行き着くのだろうか。今度のように自分以外の全員が銀製に輝いてみえる人にとっての叛乱はこういうことになるのだろうか。それとも同志で団結して、知恵を出し合い、たとえば秋葉原だけでなく、東京そのものを破壊しようとするようになるのだろうか。かつてのオーム真理教のように。

と、ここまで来て最後にどうしてもある短歌で終わりたくなった。何もこの歌人ばかりを褒めたいわけではない。自然と口をついて出てきたのだから仕方ない。

・真夜中に剥がれる皮のなめらかに環状線を離れて迷う
  加藤治郎『環状線のモンスター』(2006年刊)

わかっているつもりがわかっていなかったようだ。ここに来て初めて〈環状線〉の意味がわかったような気がした。〈環状線〉とはそれは我々が回るべき日常のことなのだ。その日常を回れなくなり離れて迷いだしたとき、人はモンスターとなることがあるのだろう。そんなモンスターがこれからも続々と出現してくるに違いない。

(今日は僕だけのつもりが結局、加藤治郎さんとのコラボとなってしまいました。)