短歌OSは本当に変わったか
また短歌OSの話の続きだが、穂村弘の話をあまり真に受けてはいけない、と思い直し、書いている。彼も本当に変わった、とか思ってるわけではなく、そう考えたら若い歌人の短歌に少しでもアプローチできるのでは、という若い歌人に対する応援であるだろう、まず。

それとは別に、ニューウェイヴが起こったときは単なるヴァージョンアップだったと言い、今度のはOSそのものの変化だというのは、確かにそうだ、と最初は思ったけど、それは穂村自身もニューウェイブの担い手として、前衛からニューウェイブへもちろん難なくついていったわけで、だからそんなに言うほどたいした変化じゃなかったんだ、と自分の中ではなるわけで、今度のはひょっとしたら穂村自身がついていってないから、OSの変化のように感じたのでは、とも思えてくる。考え直したらやはり前衛からニューウェイヴに移ったときこそ、OSの変化だったのかもしれない。

穂村が新OSの担い手を何人か挙げているが、その中で肝心の一人を忘れていた。笹井宏之だ。
笹井の短歌は穂村が言うとおり、完全に詩人の短歌だ。こういった二物衝撃的な俳句短歌を作る人はたくさんいて、僕もそういった環境で俳句短歌をやってきたせいか、笹井の短歌には難なくすっと入れた。それは言葉と言葉の意外な配合がごく自然にセンスよく行われているからだ。これは簡単なようで意外に難しい。それと笹井自身の個性に魅了された、というのもある。確かに今までの短歌とは微妙に土壌が違う印象はあるし、その土壌が永井祐らと近いのは感じるが、永井と違って笹井の短歌にはごく近しい馴染み深いものを感じる。ああ、自分と同じ世界にいる、という馴染み深さだ。それはたとえOSが変わったのだとしても、最初のほんの少しのためらいさえ通過すれば、僕からすればなんでもないありふれた世界なのである。だから僕としては笹井の短歌を見る限りOSが変わったとはとても思えない。永井祐なら、そうかな、と思ってしまう、なじみが全く無いので。

それよりやはり前衛からニューウェイヴにいたるときの変化のほうが大きいように思える。
たとえば、塚本邦雄→加藤治郎→笹井宏之、という変化を見る限り、最初の矢印の変化のほうがよほど大きいように感じる。それは文語から口語への変化だから、というだけではすまされない変化のような気がするのだ。

実際、ニューウェイブ短歌を一切拒絶する歌人で、笹井宏之は大好き、と言っていた人がいたぐらいだ。その人は塚本、岡井、魚村のファンでもある。もっとも、斉藤斎藤を嫌ってはいたが。

斉藤斎藤、笹井宏之、中田有里、永井祐、宇都宮敦、とこの新しいOSと言われる代表的な若い歌人の中で、僕にとってはっきり異質なのは、永井祐、宇都宮敦の二人だけである。この二人だけがOSが変わったと言われれば、ああそうかな、と納得してしまうのだ

今度の(穂村の言う)新OSの歌人に対する旧世代の拒否反応より、ニューウェイブに対するそれの旧世代の拒否反応のほうがより大きかったような気がするのだ。

OSが変わったのかどうか、結論は結局出なかったけど、もっとこの二人を読んでからですね、読む気しないんだけど。
ま、そんなに簡単な問題ではないわけで、でも面白い問題ですね。

しかし、時代は確実に移っていくなぁ、という感慨をはっきり感じて、自分が歳いったなぁ、と思ってしまいます、こういったことばかり考えていると。時代は繰り返すんですね、様相は少し違えども。
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ヒラリー・ハーン語録①サブカルチャー
ヒラリー・クリントンでもなくラフガディオ・ハーンでもなく、ヒラリー・ハーンである。
1979年生まれ、ドイツ系アメリカ人のヴァイオリニスト。
とりあえずファンになってしまった。

もちろんその理知的でシャープな演奏に魅入られたのだが、この歳で情けないことにその容貌にも魅入られてしまった。17歳で天才少女としてバッハのCDでデビューした時の、そのジャケット写真のなんと可憐なこと。まるで萩尾望都の漫画から飛び出てきたようだ。
しかしその語録にもなかなかいろんなことを考えさせられる。それを3回か4回に分けて書こうと思う。

まず、あるブログから
「私は確かにアメリカのポップ文化からかけ離れて見えるでしょう。ただ面白いのはアメリカはあらゆる文化が共存しているので、どんな人間も、どこかに属することができるのです。私はボルティモアで育ちロシア人のバイオリンの先生と中国人のピアノの先生につき、両親の方針でテレビを見ないで育ちました。それでもサブカルチャーのどこかで、プライバシーを守って生きていけるわけです」

ここには自分は世界の最高峰の音楽を演奏する有能なヴァイオリニストなのだ、という気負いはどこにもない。それとテレビを見なかった、というのにもちょっと胸キュンです。でも今はアメリカのテレビ番組にはよく出ていて、そこでは結構お茶目で何でもやり、よくも悪くも今時のアメリカ人女性であることを示している。つまり相当愛嬌のある女性なのだ。それで且つ全体としての凛とした風情は類を見ないのだから、これはちょっとファンにならざるを得ないでしょう。

アメリカについてだが、僕も含めて大概の日本人はアメリカの大雑把な文化に辟易している。世界中の様々な文化のモノカルチャー化を先導しているわけで。それは僕がこのブログの「アメリカという文化的遺伝子」でも書いた。しかしそれは外側からの観察にすぎないのであって、内側に入ってみればまた違う様相なのだろう。様々な文化が共存しているから、つまりお互いがお互いを尊重しあっていけるから、どんな人間でもどこかに属することが出来る。それは言ってみれば一つの理想郷である。もちろん実態はそうでもないのだろうけど、単一文化しか許さない日本よりははるかに居心地のよい社会なのだろう。まずお互いのプライバシーを守って生きていけることが最低ラインだ。

それとここで彼女が言っている、サブカルチャー。クラシック音楽は日本ではメインカルチャーのはずだ。軽音楽がサブカルチャーなのであって、あれ、っと思う。つまりありとあらゆるカルチャーがサブカルチャーなのだろうか。日本の識者はメインとサブをはっきり分けて考える。たとえばアニメはサブで、純文学はメイン、というふうに。そして「俺はサブカルにも詳しいんだぜ」と、しきりにアニメの話をする若い文学者が結構多い。そうやって分けて考えることで見えてくることは確かにあるのだけど、僕はこの分けることが大嫌いで、結局全部連続してるんじゃないか、って考える。つながってるんじゃないかと。その意味で全部をサブカルチャーだと考えると、すっとすべてが通ってしまう。質の高いものがメインカルチャーで質の低い大衆的なものがサブカルチャーだと言われても、質の高低は誰が決めるんだ、ってことになるし、そんなこと結局個人の主観だろうし。

それともアメリカではメインストリームになっている文化がはっきりとあって、たとえばハリウッド映画とかブロードウェイミュージカルとかアメフトとか。それに比べて規模が小さいからクラシック音楽はサブカルチャーなのだろうか。要するに儲からないからサブなのか、と。それならそれで客観的な判断だし、これにもすっとする。

まぁどっちにしろ、クラシック音楽はサブカルチャーなのである。これは短歌も同じ。
OSとソフトウェア
また昨日の短歌OSの話の続きだけど、たとえOSが変わったとして、そこに乗るソフトウェアはそんなに変わっていないように思うのだ。

たとえば中田有里。この人の短歌はあの次席に入った20首しか知らないのだけど、「風通し」にもいなかったし、僕は土屋文明の現代女性版というふうに受け止めた。これは褒めすぎかもしれないが、客観的に自分の周囲、つまり社会を見ているわけで、これをアララギというのかどうか知らないが、僕としては共鳴するところの多い歌人だ。

それに対して苦手なのが、社会から遮断して、自分のプライベートな風景だけをだらだらと並べるだけの短歌。これが今までから短歌の世界では最も勢いがあって、圧倒的に多数派を占めているわけである。だから僕が短歌の世界にもう一つなじめない理由がここにあるわけなのだけど。これの新OS版が永井祐であり、宇都宮敦なのではと思ってしまう。だからぼくは彼らを苦手とするわけで、なにも新OSだから苦手なのではないと思っている。でも永井祐のほうがちょっといいかな、という印象はある。というか最近(ここ3日ぐらいで)急に永井祐が気になり始めたことは正直暴露しておく。結構面白い。(なんか悔しいけど)

そして斉藤斎藤。彼は要するに何でもやるのだ。だから僕が大好きなこともやってくれるし大嫌いなこともやってくれる。僕からすれば拍手喝采もあれば大ブーイングもあるわけで、正直、新OSでは最も目が離せない歌人であることは誰もが同意するだろう。

結局、OSが変わったからといって、そんなにたいして何も変わらないわけで。でも何かが微妙に違う、という印象はぬぐえないのだが。
柴咲コウ
最近日記の更新が速い。毎日、あるいは一日2回があったりする。どうしたんだろう。

今日、NHKで柴咲コウのライブをやっていた。舞台裏とかやっていて、この女性がその容貌とは全く反して、純粋で傷つきやすいよくいる今風の感受性の強い女の子だということがわかった。自分の曲の作詞をほとんど手がけていて、時にこんなおっさんでもその言葉に心を打たれることがある。

たとえばドラマ「白夜行」の主題歌「影」から
youtubeのPV

「僕は今どこにいるのだろう」
そんな立ち位置など
たいして興味はない
対になる棘たち
頼りなど はじめから
持ち合わせていない

(中略)

壊れかけてた 夢を繋ぎ
今日を無事に終わろう
君を取り囲んで
唯一の糧にする

なかなかいいんだこれが。もちろんメロディーと相まって言葉の効果が上がってるわけで、言葉だけでは薄っぺらかもしれないが。今の壊れかけている世界の実相が、頼りない言葉でしかし確実に言い表されている。

前の僕の日記の続きで言うと、これは明らかに旧OSなわけで、というかもっと古いOSだろうけど。それでも何か心を打つものがある。詩は人の心を打たなければ意味がない。もちろんそれは一般に通じやすい言葉を使っているからだろうけど。

永井祐を代表とする新しいOSの歌が、僕の心には届いてこない。それはもちろん「退屈なのは舞台のせいか自分のせいか」なわけで、僕自身が鈍感なだけかもしれないが。

しかし一度、OSが変わる前の直前の、白鳥の歌のような心に残る歌に出会ってみたいものだ。
OSの変化
「新彗星2号」の穂村弘vs加藤治郎の対談を読んでいて、お二人から様々な示唆を受けた。ざっと短歌史の流れがつかめるのがとても勉強になる。

その中で、穂村さんの「OSの変化」という発言は確か前も聞いたけど、「短歌の友人」だったか、またあらためて考えさせられた。

これは穂村さんも言っていることなんだろうけど、前衛短歌が起こったときにまずOSが変わったのだろうと。それ以前に近代短歌の起こりに変わっていて。それでライトヴァースのときも変化はあったのだろうけど、それはバージョンが変わっただけだと。つまり今の若い歌人ははっきりとOSが変わってるんじゃないか、っとことで。だから古いOSの我々はもうついていけない、というわけで。う~ん、そうかもしれない、と思わせるだけの説得力はありますね。

一つ面白いのは、現代詩ではほぼ同じ時期に従来の修辞の破壊が行われ、それはOSが変わったような気にさせるぐらいの大変化なわけで。ではなぜ同じ時期に短歌では従来の修辞の解除が起こり、現代詩では修辞が破壊され、再武装が行われたのか。いろいろなことが想像されるが、単に使用期限切れ、と、もう一つ、この社会のすべての信じていた価値が簡単に崩壊し、それまでの言い方では納得できない、というか嘘くさい、というか、詩人や歌人はそこらへん敏感に反応するだろうし。

こういったことは人それぞれ様々な思いがあって議論すると面白いわけで、もっと議論の場があればと思うのだけど。来年の未来大阪大会のシンポジウムは何を議論するのだろう。楽しみである。
ヒラリー・ハーンのシベリウス
もっとヴァイオリン協奏曲を見たくて、youtubeをさまよっていると、なぜかヒラリー・ハーンのシベリウス・ヴァイオリン協奏曲に出会い、チャイコフスキー以上に感動してしまった。この人も見せる音楽だ。
(第一楽章前半)

庄司紗矢香はパンチのある演奏をするが、こちらは理知的でシャープな印象を与える。どちらも好きだが、ヒラリー・ハーンのまるでサイボーグか人形のように首や体をかくかくさせるところは逆に人間味があって面白い。Perfumeもかくかくやるが、あれは単なる振り付けで、こっちは音楽に合わせて自然と出てくるものであり、それにヒラリーのほうが3倍ぐらい動きが速いし面白い。

何より見ていて、ヴァイオリン協奏曲というのはまさにヴァイオリン奏者のためだけにあるのだな、と思い知らされてしまう。指揮者もオーケストラ団員ももうみんな彼女にかしずく家来であり、指揮者はさしずめお姫様に使える忠実な執事だろうか。みんなお姫様を守り立てそしてそのお姫様ぶりにうるうるとして、感動するという、なんだか男として、わかる、という気分になれる、不思議な演奏だ。

女性はだれしもお姫様願望があるのかもしれないが、男は男でお姫様にかしずきたい、という願望があるのではないだろうか。少なくとも僕にはありそうだ。

さて、短歌の世界もこのヒラリー・ハーンという押しも押されぬ世界のトップ奏者のような抜群の実力を誇るお姫様が現れないだろうか。これぞ男のお姫様願望なのである。

上の演奏の続きは以下のリンクから。
(第一楽章後半)
(第二楽章)
(第三楽章)
永井祐問題
永井祐に関して言いたいことは山ほどあるし、彼の短歌がそれほどいいと全く思えないのだけど、唯一つ言うとすれば、永井祐の武装解除的修辞に負けない修辞が今要求されているということ。

そう、従来の修辞は一旦、永井祐が解除したのである。つまりそれはもう無効ということだ。
見る音楽と聴く音楽、そして大衆化
ぼくは20代前半時、チャイコフスキーの大ファンで、何度も何度も同じ曲を聴いて飽きてしまっていて、そのあと20代後半ぐらいからは全く聴かなくなっていた。

それが今日、NHK教育を見ていたら、一聴してチャイコフスキーだとわかるヴァイオリン協奏曲をやっていて、思わず興奮して聴き入ってしまった、いや見入ってしまったのだ。

弓が弦を掻き毟るのが目の当たりに見える。そしてヴァイオリンとオーケストラの競演が視覚情報からも入ってきて、なんだか元気になってくるのだ。これがCDだと、それは意識されない。その目からの情報と耳からの情報が相まって、聴くだけでは感じえない、別の快感に襲われるのである。ああ、チャイコフスキーは聴く音楽ではなく、見る音楽なのだ、とわかったような気になった。奏者は終わってからわかったことだが、ヴァイオリンが庄司紗矢香でオケがサンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団つまり昔のレニングラード・フィルだ。指揮者は誰だか忘れた。

それに対して、僕が最近没頭している、ショスタコービッチは聴くだけでもう十分、というか、視覚情報がむしろ邪魔だろうと思える。これは聴く音楽なのである。バッハ、モーツアルトもおそらくそうだろう。ベートーヴェンもそうかな。

思うにチャイコフスキーはクラシック音楽をとことんエンタテイメント化することに成功したのではないだろうか。音楽の質の高さを維持しつつ大衆化するのに成功した、という、これはなかなかありえないことなのかもしれない、ひょっとすると。

そういった観点で現代短歌を見てみると、口語化によって、短歌は広く大衆化されたわけだけど、質も下がったに違いない。しかし言葉の質の高さを維持しつつ、大衆化に成功したのが確かにいる。それは俵万智、穂村弘、斉藤斎藤の3人だろうか。これはひょっとしらチャイコフスキーと同じく、稀有なことなのかもしれない、とあらためて今日思うようになった。
歌人の点数化
フィギュアスケートとシンクロナイズドスイミングは技術点と芸術点で評価される。最近はこの芸術点が構成点と呼称は変わったが、基本的にはそのプレイヤーの技術以外の表現力による点数だ。

浅田真央はジャンプが得意で技術点は高いが、キム・ヨナに比べて表現力に劣り、芸術点は低く、もし昨日のフリー演技で双方ともミスが無ければキム・ヨナが優勝していただろうというのが日本のマスメディアの一致した意見のようだ。それはやはりキム・ヨナの方が表現力に優れていることが原因しているらしい。

僕がこのフィギュアやシンクロを好きじゃないのは、この表現力に点数をつけようという思想そのものが受け入れられないからだ。そんなもの個人個人の主観によるものだし、それでスポーツといわれてもねぇ、と思ってしまう。スポーツというのは純粋に客観的な指標があって初めて成り立つものだろうし。

それで突然思い出したのは、ちょっと前だったか、ある歌人が、といっても誰だったか全く忘れてしまったが、歌人の実力を点数化してはどうか、という提案をしたことだ。文芸というのはスポーツとは真逆で、純粋に主観的なもののはずだ。主観の総体がそのプレイヤーの客観的な評価となりうる。最初から点数化していては肝心の主観が入る余地がまるっきり無い。そうなると各歌人が点数を稼ぐためにその表現がせせこましいものになるだろうし。表現力がすべてである短歌そのものが衰退するのは間違いない。もちろんもしそうなったら僕は短歌をやめるけど。

もちろんこの点数化はジョーク (だと思う) で、ジョークだとしても、こういったジョークが出ること自体、短歌のこれからに不安を感じてしまう。歌壇が今そういう状況にあるのか、と勘ぐってしまう。

最近の短歌の話題といえば、何がリアルかと、修辞の武装解除、この2点に完全に絞られてきて、その方面でいかに点数を稼ぐか、に各歌人が集中し始めているような気がするのは僕だけだろうか。同じジャンプを飛び、同じスピンを競い、同じシークエンスを見せることにのみ評価を期待するフィギュアスケートを見ているような気がしてくるのだ。いい加減飽きないのだろうか。いい加減終わりたい、と思うが、終わる前に、まず、同じ時期に、なぜ短歌では修辞の武装解除が起こり、現代詩では修辞の再武装が起こったのかを考えなければならないだろう。

いろんなことが考えられるが、一つ思うのは、戦後詩の(つまり従来の修辞の)使用期限切れがやっと最近になって来てしまった、ことにあるのでは、と今のところ思っている。もちろん時代の様相の激変もあるのは間違いないわけで。どう時代と結びつけるかもいろいろと議論のあるところだろう。もちろん詩型の違いが最大の原因だろうし、いろいろと考えていったら面白いこと間違いないんけど。

その前にこんなこと思うのは、僕自身がなんでも飽きっぽい、ということが原因していて、今の歌壇の状況は正しい、とは思いますが。それはフィギュアスケートが正しい、と言っているのとおんなじ様な気もしないわけではないわけで。さてどうなんでしょう。もっと短歌は多様化できるものだと信じてやってるわけで。
ドーナツスピン
女性はどうしてこんなにフィギュアスケートが好きなんだろう、と日頃からあきれていたのだけど。ぼくはこのフィギュアとシンクロナイズドスイミングは大嫌いでどこがスポーツなんだとオリンピックでも見ないくらいだが。それが去年までは妻と母で見ていたのを、今年からは妻一人で見ているものだからなんとなく一緒に見ていると、これが結構面白いことに生まれてはじめて気がついた。

最初はシットスピンという座りながら回るスピンを面白く見ていたのだが、次第にトリプルアクセルなどの難易度の高いジャンプをやるときの緊張感にもはまっていった。しかし何度見ても何回転しているのか、どこがサルコーでトゥループでルッツなのか全くわからないんだけど、伊藤みどりの解説でそうなんだ、とか思いながら見ている。

しかし何といっても一番魅了されたのは、中野友加里のドーナツスピンだ。今日のはちょっと流麗さに欠けたような気がしたけど、前の大会のフリー演技でのスピンには圧倒された。これほどフィギュアスケートを流麗に見せられるとは驚きである。

それと今日の浅田真央の一回目のトリプルアクセルは着地した瞬間、決まった!と興奮した。もちろんわかってないんだけど、ものすごくいい加減なんだけど、グランプリシリーズをずっと見ててある程度の達成感が感じられた。伊藤みどりも決まった、って言ってたし(笑)。でも優勝は韓国地元のキム・ヨナでおさまったほうが良かったのだけど。

あー、でもさすがに飽きた。毎回大体似たメンバーで同じ音楽で同じ演技ばかり見せられるといい加減飽きてしまう。もうオリンピックまでは見ないぞー。「仮面舞踏会」は聴き飽きたよ、もう。
「新彗星」第2号発刊
2008年は短歌同人誌発刊のブームだったらしいんです。知りませんでした。
その火付け役がこの「新彗星」だったって、え、そうなの?

とにかくいつの間にか僕も巻き込まれていて、末席に名を連ねています。

穂村弘×加藤治郎の対談など、読みごたえ十分で、創刊号よりボリュームアップ!

その内容と入手方法は以下の販売サイトで。

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詩的実践それは
「詩的実践それは言葉の固有の法則に対する、言語そのものによる武装蜂起だ」

ボードレールが言ったらしい。松井茂さんがあるレクチャーで引用したとのこと。

今の若い詩人を読んでいると、ほんとそんな感じ。
言葉そのものをやっつけることによって言葉の新たな可能性を引き出すというか、そうやって詩を実践するわけで。

今のこの詩の潮流の源が少しわかってきた。小笠原鳥類とその兄貴分の外山功雄らしい。読みたいけど、こんなことばかりやっているとどんどん短歌から遠ざかっていくので、ぐっと我慢して来年にします。

それで『風通し』を読んだ。とりあえずは最初の4人のみ。
この中では斉藤斎藤がやはり抜きん出ていた。
他の人は、定型にがんじがらめになっていて、もっとどんどん短歌韻律を転がせばいいのに、といらいらしてくる。口語を選んだのだから、今までのようにちんたらと定型に忠実に書いていても今の短歌を表現できないのでは、もっと短歌形式を攻めていけばいいのに、と思ってしまう。守ってどうするんだと。
斉藤斎藤は軽く転がしている、いい感じで。こののりが今の短歌的実践の典型的な一方向なんだろうな、と思う。僕はまた違う方向だけど。もっと重いし硬いと思う。でも軽くやろうという気にはあまりならないのです。