笹井宏之さん急逝
この24日の未明ということでした。26歳。そのあまりに早すぎる死に我々は今悲嘆にくれています。お会いしたことは一度もなかったのに、なのにこんなに悲しいのはなぜでしょう。単に彼のファンだったということだけではどうもないようです。彼が何を伝えたかったのかもっとちゃんと読まなければ、と痛感します。わからないでは済まされない非常に大事なメッセージがあったのではと。

彼のブログ「些細」から彼の最後の日記より

わたしのすきなひとが
しあわせであるといい

わたしをすきなひとが
しあわせであるといい

わたしのきらいなひとが
しあわせであるといい

わたしをきらいなひとが
しあわせであるといい

きれいごとのはんぶんくらいが

そっくりそのまま
しんじつであるといい



こんな人でした。
まさに夭折。
我々はその夭折に、悲しいかな本当に立ち会ってしまったのです。

心よりご冥福をお祈りします。


(ご参考までに)
加藤治郎さんのブログ
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二つの「あかるさ」
笹井宏之をわかっているか、と聞かれたら、いややっぱりわからない、と言うより他にない。だからここでは精一杯自分のわかる範囲でその魅力を述べたい。

以前、自分のブログでいろいろと述べた。↓
笹井宏之歌集『ひとさらい』
一行の詩のような人

確かに漠然とした物言いかもしれない。しかし中でも穂村弘の言う「あらゆるものが等価にある感覚」には考えさせられる。笹井の前ではあらゆるもの、つまりあらゆる人間あらゆる生物あらゆる有機物あらゆる無機物あらゆる目に見えるもの耳に聞こえるもの心に感じられるもの、それらが等価だということになる。このことは、人間だけが平等である、つまり裏を返せば人間以外何の権利もない、という近代の原理を信じて疑わない人には理解しがたいことかもしれない。近代は起伏のあることを好む。泣いたり笑ったり幸せだったり不幸せだったりすることを好む。笹井はそういった起伏のあることからは自由だ。

あるいは前向きでも後ろ向きでもない姿勢。これは僕が言ったことだが、穂村弘の言うのと確かに似ている。これもフラットな世界だ。喜びも悲しみもない、期待も落胆もない。

・ それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした
笹井宏之「ひとさらい」

従来の「あかるさ」には、人間や人間が見る事物に陽光が降り注ぎ、これからの未来が前向きになれる、そんな意味が必ず内包されている。そのことを我々は、あかるい、と呼ぶのだ。しかしこの歌における「あかるさ」はまた別種のように思える。はっきり違う意味と言っていいかもしれない。「世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどの」あかるさとは、従来のあかるさと逆方向を向いている。なぜなら従来のあかるさならデッキチェアを全部開くだろうから。全部閉じるということは逆方向を向いていることに他ならない。逆方向を向かすことによって、従来のあかるさを打ち消してしまう効果がここにはある。そしてその時フラットな世界が現出されるだろう。喜びも悲しみもない、期待も落胆もない、前向きでも後ろ向きでもない「あかるさ」である。ではそれはどういう「あかるさ」だろうか。それはそういったことが何もないフラットであるが故の「あかるさ」ではないだろうか。フラットであるがゆえにあかるいのである。何も無いがゆえにあかるいのである。そのことの発見がこの歌にはある。そしてこの「あかるさ」とは従来の「あかるさ」とは別の意味になるだろう。

真の詩人とは、このように言葉そのものさえも本来の意味からずらすことのできる力量のある人のことではないだろうか。

それと笹井や永井祐に見える共通点として、やはりこのフラットさがある。これは近代的な起伏の激しさに対する無意識の反感かもしれない。フラットで何も無いがゆえに彼らは安心するのかもしれない。これがいいことか悪いことかは別にして。
藤原安紀子の自己紹介
紀伊国屋のサイトに思潮社のシリーズ「新しい詩人」のことが載っている。
その中で各詩人が自己紹介をしているが、藤原安紀子さんのがひときわ目を引いた。

ごきげんいかがですか。わたしは元気。わたしは天気足。ピィって読んでください。からだはカササギが兄貴。ぼくが島々を渡り口狂わすあいだは、ソフト帽に裸体で抱いていてね。決まり?メディテラネをごらん。線上にも、暴状にもきみたちは遠視でくる。きみたちこそばゆいここの太鼓劇場でしょ。


わけわからんのだけど、無上に面白い。言葉が飛び跳ねている。
いろいろと若い詩人の詩集を読んだけど、この詩人が図抜けている様な印象だ。庄野頼子をはじめて読んだときの衝撃より数倍すごい。飯田有子さえ軽くしのぐ。憂いも至福も悲しみも笑いも絶望も希望も何もかもがごった煮で溶けてしまっていて、結局すべてがフラットになっている。短歌で修辞の武装解除が言われているが、これこそあらゆる外部に対する究極の武装解除ではないだろうか。

で、この人の第一詩集と小笠原鳥類の第一詩集、外山功雄の詩集「ODEXVAG」が手に入りそうにありません。ネットの古書店を根気よく探せばいいのでしょうか。

あとだれか注目すべき詩人がいたら教えてほしいのです。
地球の定員
前のブログで、環境分野などで地球の未来は明るいぞー、というようなことを書いたら、ある人から、人口問題だけはどうしても希望が見出せない、そこでこういった問題は考えることをやめてしまうのです、という内容のコメントがあった。

そうなのだ。僕も以前この人口問題が何とかならないか、とさんざん考えて、だめだこりゃあ、とあきらめてしまい、それ以来、この問題は避けて通ってきたわけで、痛いところをつかれてしまったのだ。今回もその問題は無意識に避けていたわけで、それであらためて考えることにした。

十何年まえだったか、ある物理学者が地球の定員は、食糧や資源や人一人当たりが必要とする面積などを考えると、せいぜいが100億だろう、と言っていた。このとき、うーん、100億かぁ、まぁそんなもんだろうなぁ、でもきついなぁ、というかなり悲観的な気持ちを持った。そのときはすぐにでも100億ぐらい越えそうな気がしていたからだ。

そして2009年元旦の日経新聞。日経はこの元旦から「世界この先(サバイバビリティ)」という連載をやっていて、これがなかなか読み応えがある。第一回のコメントは物理学者の松本紘。この人は宇宙プラズマ物理学が専門で、地球外太陽発電からマイクロ波で電力を地球に運ぶことを本気で研究している人で、現在、京大の総長である。

地球だけの閉じた経済圏では安定的な成長が難しくなると指摘してきた。人類には地球温暖化、環境、食料、資源といった問題が待ち構える。たとえば食料は足りるのか。世界の人々が米国並みに食べると、28億の人口しか養えない。食べる量をもっと減らせば、100億ぐらいまでは減らせる。普通で100億人、どんなにがんばっても200億人が限度だ。


この学者は地球外からエネルギーや資源や食料を調達することを考えている人で、ニュアンスは違うがやっぱり100億なのである。そして40年先には世界の人口は100億に近づくと予測していて、研究者はいろいろな知恵を出さなければならない、と言っている。

現在67億人(参照)。地球の人口はこのまま増え続けるのだろうか。僕はそうは思わない。もちろん僕だけでなく客観的な統計でも近いうちに頭打ちするだろう、というのはあったように思う。ヨーロッパでは早いうちから人口が頭打ちで今ははっきりと減り続けていて、今では移民に頼らざるを得ない状況だ。日本も近いうちに頭打ちになり、その後減り続けるだろう。要するに人間という動物は他の動物と違って、食料が足りるからといってどこまでも増え続けるものではなく、ある程度文明化されると、子供を生んで育てるより他のことに興味を持つ人がかなり多数現れるのだろう。そういう文明の下では人口は同じようには増え続けない。アフリカ、インド、中国などの人口急増地域も、もうある程度文明化されてきているが、これからも急速に文明化されるだろう。それがいいか悪いかは別にして、世界全体が人口の頭打ちになる時期は学者が思っているより早いのでは、とぼくは今年に入って急に楽観視することにした。せっかく頭をもたげてきた「希望」をまた踏みつけられたくはないからだが、でもそうではないでしょうか。実際にあるデータを示してみる。

人口統計学を研究するジョエル・コーエンは、世界人口の年平均増加率が、1965年から1970年にかけて2.1%のピークに達した後、現在の1.1%まで大幅に低下したという結果を出している。つまり微分係数は減る方向に変わったのである。これはそのまま微分係数が減り続け、零になり、マイナスになるだろう。つまり人口は減る方向に変わるということだ。100億に達する前に微分係数が零になることを祈るしかないが。

そしてそれからも徐々に減り続け、終いには何千年後あるいは何万年後には絶滅するのだろうけど、それは阿鼻叫喚のあとの絶滅ではなく、静かな絶滅である。そんな世界に住んでみたいものだ。欲望だけがぎらぎらする住みにくい世の中よりよっぽどましで、落ち着けるだろうし。俺たちはいずれ静かに滅ぶんだなぁ、と思いながら生きるのもまた悪くない。

実際には人口よりも金銀銅などの金属資源の枯渇がどうも深刻のようだ。今の採掘技術のままだと40年後には枯渇するとのこと。新たな採掘技術の開発か、地球外に資源を採掘しに行くか、どちらかなのだろう。
村上龍の提言
大江健三郎、司馬遼太郎、池澤夏樹など、以前は文学屋が社会に積極的に提言していたが、最近はあまり聞かないな、と思っていた。文学屋はもっともっと社会に物申すべきで、彼らにしかわからないことがあるわけで、社会に何か言うのは、それで飯を食わせてもらっている文学屋の義務ではないかと思っていたら、今日の日経新聞の「経済教室」に村上龍が「希望再興へビジョンを描け」というタイトルで提言していた。

ポイントは以下の3点だ。
・世界的な信用収縮に対する、政府、マスメディアなどの危機意識のズレ
・社会各層で利害対立が起こり、不信の連鎖、悪循環が起こっている
・高度成長で失われたものの再構築が必要

たとえば政府の予算案でも現実とのズレは顕著だ。あまりに危機意識が無さ過ぎるし、金だけばら撒いて急場しのぎをやったとてそれに何の意味があるのだろう。この危機に対応するにはもっと先を見据えた抜本的な対応が必要だろう、と僕も思う。

サブプライムローン問題が発生する以前から、日本社会は各層、各組織相互の信頼が失われつつあって、今回の経済危機でさらに鮮明に表面化した。与党と野党、与党内の各グループ、官僚と政治家、内閣と議会、経営と労働、正規社員と非正規社員、富裕層と中間層と貧困層、自治体と中央政府、老年層と若年層、そして国民と国家、様々な利害の対立が顕在化し、不信の連鎖が起こり厄介な悪循環始まっているように思える。


各層ごとに乖離が顕著化しさらにそれが対立していって悪循環に陥る、という昨今のぎすぎすした様相がくっきりと整理されていてわかりやすい。たしかに各層で考えていることや方向性が全く違うのだ。これは話がしにくい社会である。僕のように同じ文学をやっていても何か違う、と感じざるをえない。あまり今、文学屋は社会に関心がないのではないか、といぶかる。自分の文学さえ探求できればそれで事足りているのだろうか。それとも今の社会に対して何を言っても始まらない、とあきらめているのだろうか。

これらすでに始まっている悪循環への対抗策として村上龍は二つの方法を提示している。一つは

短期的な対応で、信頼を回復させるための複数の対立項を結ぶ情報の開示と正確な現状認識、つまりアナウンスメントである。


もう一つは

中長期的には、悪循環が始まっているシステムと考え方から離れ、新しい別のシステムを築くことである。


これだけでは、文学屋らしくなんだか漠然としてわからないが、アナウンスメントに関しては、この危機に対する、昨今のマスメディアの対応の場当たり的な対応のことを言っている。その中心は派遣切りで、メディアは彼らの困窮をできるだけ細密に描くことに腐心していて、経営者側からの視点の介在を許さない。

契約を切られる労働者側からの報道が間違っているというわけではない。だが、急激な販売減、需要減で赤字になった輸出企業が雇用をそのまま維持すればどうなるかという経営者側の状況はほとんど知らされない。
需要変動時に雇用調整を行うのは、経営者の恣意的な行動ではなく資本主義に組み込まれたシステムだから企業・経営側を悪役にすればそれで解決するというものではない。個別企業の対応ではなく、セーフティーネットなどの社会システムの見直しが求められる。
さらに、経営を悪役とする労働側に沿った報道は、経営と労働、非正規労働者と正規労働者間の対立と不信を増幅させる。マスメディアに求められるのは、各層、各組織間の信頼を醸成するための、客観的な情報と提示と事実のアナウンスメントである。被害者意識を煽り、問題を矮小化してドラマチックに報道することで、不信の連鎖とシステムの機能不全が引き起こす悪循環が、逆に隠蔽される。


とマスメディアの一方的な報道姿勢を責め、また庇護もする。

もちろんマスメディアに悪意があるわけではないし、怠慢なわけでもない。資本家を強欲な悪役と見なす近代化途上、高度成長期の文脈以外での報道ができないだけだ。


これこそぼくがずっと言い続けてきたことに見事に同期する。ああ、おんなじこというなぁ、と妙に感動したが。しかし他人にあらためて言われると、本当にそうだろうか、と逆にいぶかしく思ったりする。

「複数の対立項を結ぶ情報の開示と正確な現状認識、つまりアナウンスメント」

が本当になされれば、絶望だけが渦巻くかもしれない。たとえば環境問題に対して、もっと掘り進めて行けば、ヒューマニズムが傷つくことは避けられない。なぜならこれ以上人間が増えていけば人類ががどんな対応をしようが、環境は悪化する一方だからだ。戦争や災害で人が大量に死ねば、「これで地球環境は少し良くなったでしょうね」とは口が裂けてもメディアは言えない。それと同じで、「派遣切りは今の経営環境から考えればこれは仕方のないことです」なんていうヒューマニズムに反することはやはり言えないのである。言っちゃぁお仕舞いなのである。それは村上の言うとおり未だに「近代化途上、高度成長期の文脈以外での報道ができない」のである。これができるようになるほうがやはり恐ろしい、と思わざるをえない。時代は近代で止まったままでこのまま行くのだろう。近代の向こうへはそう簡単には行けそうにない。そして現状認識との乖離がまた各層間の乖離に結びつくのかもしれない。

そして村上は、希望を発生させる中長期ビジョンとして、「環境」と「家族、世間などの親密で小規模な共同体の復活」の重要性を挙げることで締めくくっている。

個人的には「小規模な共同体の復活」というのは難しいように思うのだが、「環境」は意外に資本主義に乗ってしまえば簡単なような気が最近してきている。太陽光発電は想像以上に有効らしい。僕個人はここにまさに太陽のような希望を感じるのだ。これさえ何とかなれば人々は「絶望」という重しから久しぶりに解放されるのではないだろうか、と。
楽観主義者の予測
今朝のテレビで環境活動家のレスター・ブラウンがこの大恐慌を「千載一遇のチャンス」と言い切っていた。

なぜならこの2年ほどの間に世界の環境ビジネスは急発展を遂げ、太陽光発電、風力発電、地熱発電などがかつては考えられなかったほどの規模でエネルギー革命を起こしていて、各国政府がそういったビジネスに有利なように厚遇していて、この大恐慌である。どの企業も利潤を上げることに四苦八苦している中、この環境分野だけは間違いなくこれからも急拡大を遂げるわけで、資本主義の原理によると急激にこの分野に世界中の資本が集中するだろう、ということだ。そしてそうなることによって、大規模に雇用が創出され、この大不況も急激に回復するだろう、という。えらく楽観した予測だが、僕も元来この人に負けないぐらいの楽観主義なので、正月からずいぶんと気分が良くなった。なんだか信じてしまった。

確かに世界は人口増で悩ましいのだけど、逆に考えれば、あらゆる産業の担い手や優秀な技術者も大量にいるのである。それらが儲かる方向にいっせいに早いもんがちだと殺到したら、想像以上にその分野は発展するだろうな、と普通に考えてもそう思える。ましてや他の分野はどれも逆風である。儲かるのはこの環境分野しかない、とも言える。

オバマ新大統領も環境分野に大量の投資をすると発表している。

未来が明るいとは言いがたいだろうが、近未来は明るそうな気がしてきた。ただし大きな戦争さえ起こらなければ、の話だが。

やはり去年は何かの終焉であって、今年は何かの始まりなのだろう。そう信じたい。
だらだらと年越し
別に見たくもない紅白を見て、といってもこれを見ないと年を越せない平均的日本人であることをやはり痛感しつつも、今年も年を越せました。一応喪中なんで挨拶は抜きですが。

トップバッター、浜崎あゆみの歌の歌詞で

始まりなのかって、終焉なのかって

というのがあって、あれ、これ既視感ありすぎ、と思ってたら思い出した。

氷片はシンクのうちに音を立てはじまりあるいは終わりを告げる     緒川凛

日経新聞で加藤治郎さんが「新彗星2号」から抜いていた歌。これいいよね。台所から静かにすっと今の世界状況に抜ける感覚。浜崎のつまんない歌よりはるかにいい。一主婦として静かに世界を感じている。
2008年はほんとこんな感じの年で、何かが終わって何かが始まった年なんでしょうね。

でもこれも少し既視感あるなぁと思ってたらまた思い出した。

フライパンたたいてよせる卵かな新しい宗教のはじめに/おわりに    加藤治郎

たしかこれはオーム真理教関連の歌だと思うのですが、時代って変わっているようで全然変わってないのでしょうか。

ポニョがよかった。一緒に手をたたいて歌ってました。

そのあと風呂に入って、Perfumeから。水谷豊があまりに緊張しすぎで見てられなかった。ひとり素人のおっさんが交じってるって感じ。
アンジェら・アキはあまりに陳腐すぎて、ひどい。一番見たくない歌手。

森山直太郎の「生きてることが辛いなら」。

生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい
恋人と親は悲しむが 三日と経てば元通り

で、ちょっとあれ、って思った。三日ぐらいで元通りになるなんて考えは浅はか過ぎ。一生引きずる可能性があるわけで。「小さく」はすごくいいと思ったけど。

で、

生きてることが辛いなら、嫌になるまで生きるがいい
生きてることが辛いなら、くたばる喜びとっておけ

で終わってほっとした。「くたばる喜びとっておけ」はなかなか。結局人生何とか前向きに生きていこうよ、という苦し紛れの人生応援歌になってて、こういうのしか応援歌になりえない今の時代を見事反映していそうな気がして、結局暗くなった。

途中、審査員の松本幸四郎が感想を求められて

「人の悪口を言ったり中傷することは簡単なことだけど、人を感動させるのは難しい。その難しいことを担っている我々はそれを誇りに思う。」

なんてこと言ってました。ほー、と思った。紅白らしくないこと言うなぁ、この人。よっぽど中傷されているのだろうか、とも思ったけど、仰るとおりです。

小林幸子はスルーして、森進一の「おふくろさん」。

この曲がこの紅白の最大の目玉だったらしい。それぐらいヒット曲がなかったのだろう。川口康範の歌詞は歌謡曲の歌詞として完璧だといつも思ってた。それに森進一がつまんない俗っぽいナレーションを付けたもんだから、川口さん怒っちゃったわけで。俺の歌詞、何にもわからずに歌ってのかって、あきれてしまったのだろう。それでもう二度と歌うな、って怒ってしまった。で、亡くなったんで、この日解禁、というわけだけど、見てて辛かった。そんな必死こいて歌う歌じゃなくて、もっとシンプルに歌うものじゃないのでしょうか。最後のあの表情は過剰以外の何物でもない。やっぱりこの人わかってない、と天国から呆れて見ていることでしょうね。もう怒ってないでしょうけど。

で、この「おふくろさん」を聴いていて不思議なことに、去年亡くなった僕自身のおふくろのことと全くリンクしてこなかったわけで、つまり何の感慨も無かったわけで、それぐらい僕のおふくろは世間一般のおふくろと乖離しているのだろうか、とあらためて考えさせられた。でもそのことが不思議とうれしかったのだ、結局。唯一無二のおふくろで。だからこの曲が僕にとっても一番の目玉だったのです。

毎年のことながら、紅白のやかましいフィナーレのあと、何もはさまずに唐突に「ゆく年くる年」の静かな場面に変わるのには驚かされます。気持ちがシーン、と静まります。これは狙っているのでしょう、おそらく。このとき初めて、ああ、年が変わるんだ、と思うのです、毎年。

ということで、今年もよろしくお願いします。