中澤系さん逝去
まただ、また。いつまで続くのだろう。

24日の晩に中澤系さんが息をひきとられたとのこと。

笹井さんに負けないくらい僕は多大な影響を受けました。笹井さん同様短歌における一つの希望でした。

ただただご冥福をお祈りします。
スポンサーサイト
セキュリティ社会
またまた現代詩手帖4月号だが、対談で、佐藤雄一氏の

「法律よりセキュリティが優先される状況」が急激に可視化されていますね。


という発言が気になっていた。そしてそれに対して河津聖恵さんがブログで「排除の構造」だと指摘されたことにも、う~ん、確かに、とうならされていた。本当にそうで、昔に比べて、一般の家の防犯にしろ国防にしろ、セキュリティにものすごく皆が過敏になってきている。セキュリティが法律を決める方向にある、と言っても過言ではない。それは確かに「排除の構造」なのだ。危ないもの嫌なものを極力排除して安全で楽しい空間を維持しようという、排除。それにだれも気がついていないような薄気味悪い世の中に我々は住んでいるのだろうか。

タレントの草なぎ剛さんが、公然猥褻罪とかいう罪で逮捕され、やっと釈放された。最初麻薬なのか、と緊張したが、何のことはない。泥酔して真夜中にだれもいない公園で素っ裸になって、叫び続けた、というだけである。一般人なら単なる笑い話で終わる。それがCMや番組やらテレビ局は彼をいっせいに降ろし始めた。これもセキュリティだろう。これも排除の構造である。そしてまさしくセキュリティが人々の行動規範を決めてしまっている。

確かにセキュリティは大事だし、排除しなければならないものは排除していくしか、この社会を維持できない。だが、あまりにこういうことに過敏になっていると、きちきちで息苦しい世界になっていくだけだ。息苦しさから、またぞろ真夜中に全裸になる人が出現するに違いない。
笹井宏之・白鳥の歌
未来・4月号が笹井宏之さんの最後の歌稿。その10首から1首。

水鳥をうみつづけてもしあわせになれないことを知っていて、産む



そういうことなんだ。そういう人生が逆に一番しあわせなような気がしてくる。なにかを産みつづけるということが。


田中庸介氏の書評について②
昨日の続きである。
現代詩手帖4月号の詩書合評欄で、野樹かずみさんと河津聖恵さんのコラボ集『christmas mountain わたしたちの路地』が、田中庸介氏によって取りあげられていて、それに対して野樹さんと河津さん共々ご自身のブログで反論されている。

河津聖恵さんが参加するブログ「詩のテラス」
野樹かずみさんのブログ「空ゆく雲の」①
野樹かずみさんのブログ「空ゆく雲の」②
野樹かずみさんのブログ「空ゆく雲の」③

作者ご自身なのでなかなか熱烈な反論だが、僕は第三者としてできる限り冷静に対応しようと思う。(冷静になっていられるかどうか自信はあまりないですが)

まずその問題の田中庸介氏の文章から人格批判ともとれる部分をそのまま引用する。昨日の田中氏の引用の最後の部分からつながる。

これは詩の不自由ではないか。そして、詩作品に「ファクチュアル」なフレーバーを加えるために現実の社会問題が利用されている印象さえもがある。このテキストの論理のなかでは、ゴミ山や同和は、この特定の作者らに「詩のことば」を書かせるために、この世界に存在していたかのような扱いであるが、詩人は「詩のことば」を書くことに、そんな文化的特権性を付与してはいけない。
また、詩だから何を書いてもよいということもなかろう。「すりきれて穴もあいてるてらてらの黄色い毛布でねむれねむれ」という野樹さんの歌があるが、毛布や孤児の描写が通りいっぺんで粗く、処理が軽いと思う。それは、あまりに悲惨なものを目にして、適応不全のため判断停止に陥っているせいかもしれないが、どうも世界の事物に十分な愛を注いでいるようには見えなくなっている。裏返して考えれば、愛が必要なのは孤児ではなく、かわいそうな作者のほうかもしれないのだ。作者らの自我の場所は、フィリピンによっても、中上によっても、ほとんど移動していない。誰かに用意してもらった絶対安全地帯からセカイを眺望、観覧して、それが自分自身の『癒し』であることに錯覚させられていることに気がつかなければならない。


確かにこれは二人の作者に対する人格批判とも思われる。お二人が熱烈なる反論をされるのも無理はない。しかしここは第三者としてできる限り冷静で客観的な意見を言わなければいけない。

で、最初のほうの「ゴミ山や同和は、この特定の作者らに「詩のことば」を書かせるために、この世界に存在していたかのような扱いであるが、詩人は「詩のことば」を書くことに、そんな文化的特権性を付与してはいけない。」であるが、僕がこの『christmas mountain わたしたちの路地』を読んだ限り、そんなふうには全く思えなかった。作者はゴミ山の体験を追想して、できる限りこの状況、我々が謳歌している資本主義のこの影の部分を言葉にして伝えなければ、と悪戦苦闘したに違いないのだ。田中氏の意見だと、社会問題を詩歌にする権利は誰にもないような、そんなふうに読み取れる。何なんだろう、この人は。僕の読み違いだろうか。これは熱くならざるを得ない。我々はこの社会のなかに生きている、と言えるが、この社会と対峙して存在している、とも言える。そんな状況でだれもがこの社会に接し、社会詠なるものが自然と出来上がる。野樹かずみさんの短歌は悲惨な状況に対峙して目を背けず活写した、アララギ的社会詠の一つの極みだろう。これがわからない人に短歌を批評する権利はない、と言いたくなるぐらいだ。

最初のほうの文章に「救恤とかセツルメントというような古い言葉が思い浮かぶが、野樹さんはフィリピンのごみ山スラムに出向いて社会活動をしているらしい。」とあるように、田中氏の中に、社会奉仕などの活動を行う人に対する一種の嫌悪感のようなものがどうしても垣間見えてしまう。それは自分がそうしないことによる罪悪感が根底にあるのではと思ってしまう。そういった感情がこの本を読むに当たってのベースになっているのかもしれない。「こういうの好きな人いるんだよな、まるで正義の味方気取りで、まぁ、勝手にやってくれたらいいんだけど、一般の我々に関係のないところでやっといほしいよ、ったく。」てなぐあいだ。

かつて高遠菜穂子さんが「自己責任」だと日本中からバッシングされたのも、こういった社会奉仕に対する罪悪感から来る嫌悪感がベースになっていたのだろう。彼女たちは確かにやりたいことをやっているわけで、それは自己責任でやらなければいけないわけだけど、そんなことは十分にわかってやっているわけで、しかしその奉仕活動を批判することはなかろう、とうんざりするほど思った。詩人にもこんな人がいたのか、と思うとげんなりだ。(どうも冷静にはなっていられないようだ)大体もし彼らのような存在がいなければ、この世界はもつだろうか。彼らが献身的に努力していることにより、この世界は世界として最低限もっているのでは、と思い至らされる。この世界は経済と幾許かのヒューマニズムと(良質な意味での)個人主義とだけで成り立っているのではない。もっと突っ込んだ徹底したヒューマニズムを実際に実践する少数の人がいるからこそ、この世界は世界として成り立っているのではないか。世界を根底のところで切り結んでいるのではないだろうか。それはおそらく人間という存在がヒューマニズムを礎にして初めて存在できるからだろう。

僕の親戚の女性にもインドネシアでジャイカの一員として、児童労働の研究、国境なき医師団の通訳などの活動を行っている人(亀山恵理子さん)がいるが、これだけ回りにこういう人がいると、彼女たちを突き動かすのは何だろう、と考えざるを得ない。しかしここでその考えを披露すると田中氏と同じような決め付けになるだけなので、言わないほうがいいが、あえて少し言わしてもらうと、世界を知りたい、という単純な気持ちと、女性の場合、母性本能、がやはり関係しているのでは、と少し思う。でも決め付けるのは全く良くない。それは人それぞれにそれぞれの理由があるからだ。その理由が個性であり、その個性を理解することこそが人を理解するということだからだ。ひとは決して十把一絡げには扱えない。人を十把一絡げで考えること、つまり人をカテゴライズすることこそ、その人に対する最大の侮辱になるだろうから。

また、「裏返して考えれば、愛が必要なのは孤児ではなく、かわいそうな作者のほうかもしれないのだ。」とあるが、わざわざ言うことだろうか。だから何がいけないのだろう。お互いに愛を必要としているわけで、相思相愛ではないか。作者サイドもブログでこの部分を激烈に非難されていたが、その気持ちは痛いほどわかるけど、これはすばらしいことで、うらやましいことでもある、と僕なんかは思うが。ただ田中氏の書き方がむかつく、のはものすごくわかるのだけど。なんせ嫌悪感がみえみえなもんだから。
作者らの自我の場所は、フィリピンによっても、中上によっても、ほとんど移動していない。誰かに用意してもらった絶対安全地帯からセカイを眺望、観覧して、それが自分自身の『癒し』であることに錯覚させられていることに気がつかなければならない。」これも確かに言うとおりだと思う。どこまで行っても日本に帰れる以上そこは日本人として絶対安全地帯であるからだ。だから何がいけないのだろう。いったい田中氏は何を批判しているのだろう。そこが絶対安全地帯だとわかっているからこそ、自分たちは所詮安全だという罪悪感があるからこそ、必死で子どもたちのために行動するのだろう。彼女たちもそれは十分自覚してやっているわけで、それを自分のための幾許かの『癒し』だと十分わかってやっているわけで、どこまでやっても満足は得られないのだろう。こんなことで満足しているのは、それこそこれを生業とする芸能人のような正真正銘の偽善者のみである。満足しないからこそ、詩歌として伝えたいのではないだろうか。徹底したヒューマニズムを実践する理由は何であれ、その実践は尊いはずだ。それを小馬鹿にするような似非知識人が、本来最も尊敬されるべき詩人としてこの世に生きているとは信じたくない。偽善者扱いされて彼女たちが怒るのも当然である。

こういった批判の仕方をする田中氏こそ、社会奉仕活動に対する罪悪感から来る嫌悪感を無意識のうちに持っている人なのではと、一般によくいる日本の利益が第一だと考えている厚顔無恥な輩だと、十把一絡げで考えてしまう。ああ、この決め付けはよくないんでしたね。ともかく政治家や一般の人ならともかく、詩人がこういうこと言うもんだから、我々は怒っているのである。だから決め付けてしまうのだ、一緒じゃないかと。

この4月の末に、京都で『christmas mountain わたしたちの路地』のささやかな批評会を作者のお二人を招いて行います。十把一絡げで考えてほしくなければ、遠いでしょうけど、参戦されてはと思うのですが。田中さん、いかがでしょう。
田中庸介氏の書評について①
現代詩手帖4月号の詩書合評欄で、野樹かずみさんと河津聖恵さんのコラボ集『christmas mountain わたしたちの路地』が、田中庸介氏によって取りあげられていて、波紋を投げかけているが、詩の素人ながらぼくも間に少し割って入ろうと思う。短歌のことでもあるし。同意もあるけど、もちろん反論もあることだし。

まず出だしの部分。

文化は真剣な遊びでいいんじゃないかと思う。「真剣」というのは、タマシイを賭けるということである。それによって自我が変容する、メタモルフォーゼする、といことである。そして「遊び」というのは、深刻にならないようにする、ということである。文学を第一義的に自己実現の道具にしようとすると、下手な大工が作ったふすまの敷居のように、遊びがなくなって、緊張でしゃっちょこばって不自由になってよくない。「真剣」と「遊び」。この二点を大切にするだけで、詩は間違いなく面白くなるだろう。


ここで言う「遊び」には二通りの意味が同時に書かれてあって、読み手としてはどっちを取るべきなのか迷う。

まず一つ目の意味は、深刻になるな、真剣に遊べ、という意味である。この意味なら即座に反論するだろう。深刻になって何が悪い、しかもこんなに社会が深刻な状況のときに、詩も当然深刻にならざるを得ない。ふざけるなっ、と一喝したい気持ちになる。

一方、二つ目の意味は、ふすまの敷居にある「遊び」のように、詩にもなかに少し余裕を持たしたほうが、詩が面白くなるのでは、という意味。この意味なら僕としては同意できる。やはりきちきちに余裕の無い詩は読んでて窮屈だ。

しかし、「深刻になるな」と「余裕を持て」は結局のところ同じところに行き着くのかもしれないが。

そして河津聖恵批判が始まる。

そもそも自動記述とは、言葉の意味から言葉の美しさへと向かうベクトルであったろう。自動記述においては、書く瞬間には言葉にしっかりした意味があるのに、その意味がぞろっと落ちてことばの美しさに遊ぶ瞬間に感動があった。しかし本作においては、そのような「うまくいった自動記述」へと一足飛びに作品を成立させようとしてあせるがために、意味がぞろっと落ちるのではなく、最初から意味が成立することを回避しているように見えてしまう。これは詩の不自由ではないか。


これは何か違うな、という印象を持った。河津さんの詩は、「最初から意味が成立することを回避しているように」は見えないからだ。逆にどこを読んでもどの言葉も同じ方向を向いていて、意味がきちきちに詰まっているように思える。もっともこれは僕が詩を知らないせいで持った印象かもしれないが。

一方で河津さんのブログの文章を読んだ。北爪満喜さんとの議論の中から結論のようなものが出てきたのだ。

詩のテラスより

先日私は「ひとは一つの詩とともに生まれてくる」という一行を書いたのですが、そのとき「ひと」「一つ」「詩」「生まれてくる」がそれぞれにまなざそうとするものが一致したのではないか、と。言葉がまなざす・・・それは、言葉が何か言いたげな顔をしている、ということのようです。この一行で中心は「ひと」あるいは「詩」だったと思うのですが、それがそれぞれ他の三つの言葉に「ほら見てごらん」と誘ったのだと考えることができます。もちろん、あとで読めば、何もみえていないかもしれませんが、そのときは言葉たちが一瞬そろって何かを見た、あるいは見ようと誘い合ったから、私はこのように書いたのではないか、と。


いっせいに言葉が同じ方向をまなざす、このとき詩が生まれるのでは、という素敵な詩論である。何かうっとりとしていまう。しかし僕は以下のように反論めいたことをコメント欄に書いた。しかも少しずれているような気もするのだけど。

僕個人の詩の好みから言うと、すべての言葉が一つの方向に向くとかえってわかりすぎてしらけてしまい、たとえば五つか十に一つぐらい全く違う方向を向いているほうが詩としては面白いのかも、と勝手なことを考えています。詩にハプニング性が出てきて、逆に言葉が生き生きとしてくるような気がするのですが。


そのあとの河津さんのコメントにあるように「真剣な一つのまなざしも詩のいいところ」はもちろんなのだが、ここに言う「ハプニング性」とはまさしく田中氏の言う「遊び」、つまり余裕、という意味での「遊び」なのか、とはたと気がついた。

しかし、そういった「ハプニング性」や「遊び」を詩に持ち込むことは、今の社会状況を詩に反映させるためには、やはり邪道であり卑怯なのかもしれない、とか思ったりする。結果として田中氏の言う二つの「遊び」の意味は同じ意味なのかもしれない。詩は深刻になったらだめになる、という意味において。しかし深刻な社会状況に「遊び」を持ち込むこともまた難しいようなのだ。

今の詩の状況で、今の社会状況を描ききることは無理なのか。詩の一端しかまだ知らないものとして、やはりもう少し詩に踏み込んでみようと思う。その価値は、その面白さは間違いなくあるのだし。

しかし田中氏や僕のようなこういった大雑把な意見は、所詮、河津さんの言われる「詩の内実には踏み込まない、詩の愛好家的批評」に過ぎないのかもしれないのだけど。

明日に続きます。
カンボジアにもゴミの山
野樹かずみさんにフィリピンのゴミの山、スモーキーマウンテンのフリースクール(パアララン・パンタオ)のことを教えてもらっていたが、今日、テレビで「ソロモン流」という番組をたまたま見ていたら、カンボジアのゴミの山をやっていた。ああ、やっぱりあるんだ。これは世界中にあるに違いない、と今日確信した。

カンボジアも野樹さんに教えてもらった状況とやっぱり同じなのだ。
パアララン・パンタオ
パアララン・パンタオのブログ

資本主義の明と暗。まさに我々が消費することによって排出するゴミが世界中から集まったようなゴミの集積地だ。子供たちはここでゴミを拾ってそれを売ったりそのまま食べたりして暮らしている。絶対的な貧困がここにある。我々日本人がギャーギャー騒ぐ格差社会以前の絶対的な貧困である。それは資本主義がもたらした。西欧的な資本主義が浸透しなければ、彼らは自身の文化でもって自足し、他の文化と比較することなく平穏に暮らしていただろう。そこにはゴミを拾って生活するというレベルの貧困は無いはずだ。別の貧困はあったかもしれないが、それはそれで一つの文化として、つまり貧困も一つの独自の文化として成り立ったはずだ。だが我々の西欧的な文化を受け入れざるを得なくなった彼らは、貧困を独自の文化としてではなく、単に貧困として強制されて受け入れるしかなかった。それも我々が捨てたゴミを食う文化として。グローバリゼイションとはこのことでもある。

youtubeの映像
フィリピンのゴミ山
カンボジアのゴミ山


我々はもうこのゴミの山をちゃんと知る義務があるのだろう。グローバリゼイションをちゃんと理解するとはそういうことなのだ、おそらく。

野樹さんが詩人の河津聖恵さんと出版された短歌と詩のコラボ集「christmas mountainわたしたちの路地」にフィリピンのゴミの山のことが詩歌の形で展開されている。ドキュメンタリーや写真なんかではわからない現地の人の息づかいや匂いまで伝わってくる迫真の歌群だ。ぜひご一読ください。

販売サイト
セブンアンドワイ
野樹かずみさんのブログ
最新UKロック事情
急にUKロックなんか聴きだして、大好きだったバッハやショスタコーヴィッチが聴けなくなってしまった。クラシック聴いててなんかすっごくくだらなくて。これはきっと不幸なことに違いないんだけど仕方ない。きっとそのうちに元に戻るんだろう。戻ってもらわないとほんと困る。ロックばかり聴いていると、全然気分が落ち着かない。

きっかけは「現代詩手帖4月号」で小笠原鳥類氏がKeane(キーンと読む)を紹介していたことだ。氏が言うとおり電子ピアノがとても涼しげで気持ちよい。ヴォーカルの童顔っぽさがポール・マッカートニーっぽくてなんだか懐かしい。曲調はU2とマッカートニーを足して2で割ったかのよう。これぞUKロックの正統派なのか?それにしてはちょっと音がおとなしいけど。
Everybody's Changing - Keane


あと芋づる式に出てきた。
White Lies(ホワイトライズ:たわない嘘、という意味らしい)
デビッド・ボウイーとクラッシュを足して2で割ったかのよう。いかにも俺たち労働者階級、というのりが変に心地よい。このくら~い情熱が僕の好み。
White Lies - Farewell To The Fairground


Late of The Pier(レイト・オヴ・ザ・ピア)
ガキっぽいけど、とてもシャープ。90年代の誰かに似てるんだろうけど、その時代のロックを僕は知らない。
Late of The Pier - Focker


CRYSTAL CASTLES(クリスタル・キャッスルズ)
女性ヴォーカルの目の黒いくまが気色悪いけど、我慢して聴いていたら、これが結構のれる。ヴォーカルの声を加工しすぎと思ったけど、この楽器だか人間の声だかわからんところがいいんだろうね。ゲイリー・ニューマンとYMOと誰かを足して3で割った感じ?この誰かがわからないんだけど、これが肝心なのかも。電子楽器を駆使しながらも、その雰囲気はかなり人間味がある感じ。
Crystal Castles - Crimewave


え?おっさんが無理するなって?
おっさんがUKロック聴いたらあかんのかい。
ま、確かにちょっと無理してるけど。
元気が出るけどおちつかへんし。きっとそのうち元戻るでしょう。

面白いけど、独自性があまり感じられない、のは気のせい?
どれも誰かに似ているような。現代短歌もそうなのかな。それは違うと思ってるんだけど。
絶対安全地帯
別に絶対、とか思わないけど、つまり将来的にはわからないわけで、でも確かに安全地帯から自分はモノ言ってるわけで、貧困には相対的貧困と絶対的貧困がある、と言っても、それは安全地帯からの物言いで、相対的貧困の辛さは所詮わからないのだし、絶対的貧困はなおさらわからないわけで、でも将来的にはこれもわかるようになるかもしれない、とか、そんなふうに、なんとなく不安な世界にいるのがこの現代の日本人と言うか、いやどこの国も一緒と言うか、外国にはハワイ以外行ったことのない者にはそんなこと言う権利はないんだけど、絶対安全地帯なんてこの世には絶対存在し得ないということが最近になってやっとわかった、というか、絶対、という言葉を安易に使うな、絶対使うな、詩人が使う言葉じゃないだろう、とか言って、二人の女性の味方して、ちょっともてよう、とか思ったりするんだけど、あしたテポドンが発射されて日本列島をはるかに越えて、どこ行くんだろう、それが心配で、今日寝れないか、というとやっぱり寝れるわけで、ちっとも安全地帯ではない安全地帯にいることになんとなく安心するというか、WBCが終わってもやっぱりプロ野球は明日から始まるわけで、たぶん見ないだろうな。
ヒステリックに
ヒステリックにただ元気なだけで、中身の全く感じられないあの千葉県知事のように、この社会も思えて、ただうるさいだけで、特にテレビがうるさくて、TBSとか改変したのが、むちゃくちゃうるさくて、でも見てたりするし、静かな海を見たいな、と思うけど、もうあの海沿いの棲家は棲家として機能してなく、詩人は喧嘩好きなんだ、それもヒステリックに喧嘩好きで、その点、歌人はみんな仲良しで、居心地が良くて、少し眠りましょうか。