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日本の難点③嫌米派
昨日、一昨日の続きだが、ここは反論しなければ、と思い直し、再び「社会の包摂性」つまり「場」の喪失、について述べる。

宮台真司は、「場」の喪失、つまり、お茶の間や井戸端、一杯飲み屋などの人々の共通の「場」(あとこれに付け加えるなら「親戚」という場もある)、つまり社会へと直接つながる前の中間の「場」が、80年代から失われつつあった、ということ、これが「社会の包摂性」を失う原因になったということ、この中間の「場」の喪失が、アメリカの日本に対する内政干渉が起因している、と述べていた。少しはそれがあったのかどうかは知らないが、そんなことよりもっと他のことがずっと大きな原因として考えられるだろう。

つまり当時の若い人が、今の若い人ももちろんそうだが、その中間の「場」を望まなかったことが第一に起因しているはずだ。彼らはそれらを「シガラミ」を言って極度に毛嫌いした。ではなぜその毛嫌いが起こったか。それは宮台も言うとおり、情報化が起因している。それはインターネットが普及するはるか以前から、マスコミなどがこの世界の様々な情報を流し、それらすべてが、中間の「場」を通り越した、向こうの世界の情報だったから、彼らはそれに飛びついたし、マスコミもそれら情報を如何にフレンドリーに流すかに腐心した。それによって、中間の「場」を通さずとも、様々な情報が得られ、それで満足でき、それら中間の「場」は不用になっていった。不用になった、中間の「場」、は単なる「シガラミ」でしかなくなったのだ。だから不用になった中間の「場」から彼らは徐々に距離をとり始めた。ただそれだけのことなのである。

人間というものは、遠くへ行きたい、多くのことを知りたい、という欲望が古代からあって、20世紀後半から起こった情報革命はその欲望に見事にマッチしたわけで、それは人間本来が生まれつき持つ「欲望」に他ならない。だからそれを止めることはできないわけで、何の役にも立たない「シガラミ」に戻るわけにはもう行かないのだ。そんなことが極めて政治的に過ぎなかったアメリカの内政干渉とはほとんど関係ないだろう。

宮台は結局、嫌米派にすぎないのでは。嫌米派は僕の近くにも結構いるが、彼らはいろいろなことにケチをつけて、できるだけアメリカを悪者にしようと必死である。アメリカさえ悪者にしてしまえば、こちらが悪いわけではなく、たとえば日本はもっと慎ましい人種で、アメリカさえなければ、日本人はもっと幸福だったに違いない、という論理。それはたとえば尾崎豊などの世界で、僕ら子供は本当はもっとすばらしいはずなのに、大人たちがそれをスポイルして僕ら子供を不幸にしてしまっている。確かに一理あるだろうけど、それはあくまで子供の言い分だ。成熟した大人の言うことではない。そしてこの嫌米派も結局は「排除の構造」なのである。何か自分が嫌いなもの(この場合はアメリカ)を排除すればその分安心できる、という構図だ。

確かにアメリカの資本主義が世界中を席巻し世界中を荒んだものにした。しかしそれらの何もかもがアメリカが起因しているとは思わないし、それらは結局すべて人々が自分の欲望に忠実だっただけだとも言えるし。資本主義はアメリカの欲望だけでなく、この世界すべての欲望でもあったわけで、グローバリズムの本当の意味はそこにあるのだということ、それを認識しないことには、このグローバリズムに真向かうことはできないだろう。

しかし、嫌米派という地点に宮台はあえてコミットメントしたのだろうか。そういう流れなのかな、この本は。なにしろ宮台をはじめて読むので、空気が読めない。
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日本の難点②軽武装から重武装へ
昨日の続きである。「日本の難点」の36ページから37ページ。

ここでまず宮台は、日本に内政干渉を執拗にしてくる米国に強い不快感を示す。そしてこう続ける。

アメリカの言うままになったのはなぜか。第一に、輸出市場としての米国の重要性。第二に、軍事的安全保障の米国依存。
ところが、日本の輸出総額に占める米国向け輸出の割合は、今では2割にしかすぎません。安全保障についても、大切なのは軍事だけでなく、資源の、食糧の、技術の、文化の、安全保障が重要です。軍事側面だけを突出して重要だと見做すのは、単なる「軍事オタク」の発想に過ぎません。


うんうん、確かにそうだ。

加えて、僕の持論を言えば、「軽武装・対米依存」から「重武装・対米中立」へとシフトすべきです。重武装とは、対地攻撃能力を中核とした反撃能力による攻撃抑止能力を備えることです。それには専守防衛の憲法九条を変える必要があります。これは平和主義に反するでしょうか。
逆です。日本は最近まで地雷やクラスター爆弾を禁じる条約を批准しませんでした。自衛隊が残虐な地雷やクラスター爆弾を持つのは、専守防衛の大儀ゆえに地上戦を想定せざるを得ないからです。敵が日本に上陸している時点で「負け」です。先の大戦において沖縄では地上戦でたくさんの人が死にました。それと同じようなことを繰り返すのが平和主義といえるのでしょうか。


ここら辺は多分に誘導的である。まるで自衛隊が専守防衛でなければならないために、この世で最も残虐な印象を与える、地雷やクラスター爆弾を使わざるを得ないように、誘導している。しかし、攻撃的な防衛をしないことが決して平和主義にはならない、というところには大いに賛成だ。僕が前から言ってきたことでもあるし。

平和主義を守るために重武装化が必要であり、そのために憲法改正が必要であるならば憲法を変えるべきです。憲法九条を変えるには中国を含めたアジア諸国の感情的回復が必須となります。それには周辺諸国に謝罪する・しないであれこれ騒ぐの「馬鹿保守」を取り除く必要があります。憲法改正による重武装化に賛成してくれるのなら、謝罪は何回しても構いません。そんなことは問題ではないのです。


ここで「そうだ」とポンと膝をたたいた。しかし次の瞬間、いや待て待て、そうじゃないだろう、と思い直した。「周辺諸国に謝罪する・しないであれこれ騒ぐの「馬鹿保守」を取り除く必要があります」までは見事に溜飲が下がる。頭の悪い右翼ほど嫌なものはない。ところが、「憲法改正による重武装化に賛成してくれるのなら、謝罪は何回しても構いません。」は違う。何か別の目的のために謝罪するのではなく、本当に悪かったと心から謝罪しなければ謝罪の意味はない。当たり前だ。それをしてはじめてこっちも謝罪をした、という気分になれるし、向こうにも真意は伝わる。それではじめて謝罪といえるのだろう。だいたいそんな軽い見え透いた謝罪に周辺諸国が靡くだろうか。靡かないだろう。宮台は頭のいい右翼なのか、と疑念が生じ始めた。

しかしここで飛ばそうと思っていた、この「日本の難点」という本の序文(参照)に戻らなければならない。
ここで宮台は「境界線の恣意性」と、「コミットメント(熱心な関わり)の恣意性」について述べる。

「境界線の恣意性」とは、「みんなとは誰か」「我々とは誰か」「日本人とは誰か」という線引きが偶発的で便宜的なものに過ぎないという認識で、先に述べた相対主義にあたります。


つまり人間はすべてに境界をつけて考えるわけだけど、その境界線が常に恣意的で偶発的だ、ということ、それは絶対的にこれが境界線だということはだれも言えないのだ、常に人によってそれはとり方が違うわけで、それをまず認識しないといけない、という考えかたのようだ。そして「コミットメントの恣意性」についてこう続ける。

「境界線の恣意性」はコミットメントの梯子外しをもたらします。これに対し、「コミットメントの恣意性」は、「境界線の恣意性」については百も承知の上で、如何にしてコミットメントが可能になるかを探求することが大切だという認識です。認識が逆方向を向いていることが大切です。
 分かりやすくいえば、「境界線の恣意性」を問題にする段階が「素朴に信じてはいけない」という否定的メッセージだとすると、「コミットメントの恣意性」を問題にする段階は、対照的に、こうした否定性への自制や自覚をもちつつ「コミットメントせよ」という肯定的メッセージです。


つまり「境界線の恣意性」については百も承知の上で、いかにコミットメント(熱心な関わり)が可能になるかを探求すること、どこからコミットメントすればよいのか、をちゃんと考えてコミットメントするということ、もうかっこつけてだらだらと傍観者でいることは許されないのだ、と言っているのだろう。

以前はどこからが日本なのか(決して国境線のことではなく)をそれぞれが独自の考え方で展開することが許されていた。しかし今はそれが許されることを百も承知の上で、どこからが日本なのかをちゃんと考えてそこにコミットメントするために、またどこからコミットメントすればよいのかを各々が独自に考えてコミットメントする方向で考えろ、いつまでも日本について傍観者でいるな、とそういうことだろう。

こういったことを下敷きにして、宮台は「憲法九条を変える必要があります」と言っているに違いない。つまり宮台はどこからが日本なのか、それは各々が自由に考えてよい、つまり「境界線の恣意性」は百も承知の上で自分はこの地点からコミットメントする。その地点とは、自分は日本に日本人として生まれて日本に育ち、日本文化になじみ、これからも日本に住み続ける以上、まず日本の経済を守り、日本の安全を守るために憲法九条を改正したい、というそういうわけだ。これには全く反論できない。「境界線の恣意性」と、「コミットメントの恣意性」を持ち出される限りだれも反論できないだろう。

しかし次の締めの文章には反論する。

 アジア諸国を感情的に包摂し、憲法改正による重武装化を成し遂げ、米国への負い目から自由になって、軍事・資源・技術・文化の包括的な安全保障戦略を、日本が自立的に考えるようになること。それなくして、実は社会的包摂性の回復や〈生活世界〉の回復はあり得ません。


確かに日本に限らずそうやって国家が自立的に考えるようになることはすばらしいことだしそうなるべきだけど、なにもそうなったとて、昨日言及した「社会の包摂性」が回復することには別にならないように思う。結局、個人と社会が直接つながってしまっていることには変わりないわけだし。ということは社会に何かあったとき個人が直撃されるのも変わりないだろう。「社会の包摂性」が回復されない限り、社会は相変わらず荒んだ状態を維持する。

結局、宮台は「頭のとてもいい右翼」にすぎないのでは、という疑念は相変わらず払拭されないままだ。どこか文章が誘導的なのだ。それもかなり用意周到である。気をつけねばならない。言うことはすごくもっともだし、とっても面白いんだけどね。
日本の難点①社会の包摂性
恥ずかしながら、いままで宮台真司という社会学者(おそらくこの分野のトップランナー?)を一度も読んだことがなかった。読んでみると僕とかなり考え方が近く共感できるところが多い、ということに気がついた。もちろんプロの社会学者だから僕よりはずっとシャープに突っ込むし、明快に答えを出す。この「日本の難点」という本、なかなか読んでいて心地よい。それで、読みながら少しずつ感想を書いていこうと思う。

まず序文(参照)がすばらしく、感動したけど、これは飛ばして、32ページの「社会情勢の変化は人々のライフスタイルを変えたのか」というところ。

ここで宮台は80年代のおけるアメリカの日本に対する内政干渉を起点に考えているが、これが関係あるのかどうなのか僕にはちょっとわかりかねる。で、これも飛ばして、前の章での、場の喪失、つまり、お茶の間や井戸端、一杯飲み屋などの人々の共通の「場」が80年代から失われつつあった、ということ、ここを起点にしたい。
そしてネット化が進み、社会が様々な社会の「場」を飛び越して、社会と個人が直接つながる、ということ、ここに宮台は最大の危機を感じている。

 物理的空間に拘束された人間関係は意味をなくし、多様に開かれた情報空間を代わりに頼りにするようになります。それまでの家族や地域や職場の関係から何かを調達するよりも、インターネットと宅配サービスで何もかも調達するようになります。その結果、何が起こるのか。
 答えは簡単。社会が包摂性を失うのです。経済が回るときには社会も回るように見えますが、経済が回らなくなると個人が直撃されるようになります。なぜなら、経済につまずいても家族や地域の自立的な(=行政を頼らない)相互扶助が個人を支援してくれる社会が、薄っぺらくなるからです。
 秋葉原連続殺傷事件が起こったとき、若手論壇人らが「個人を直撃するグローバル化や格差社会がいけない」という論陣を張りました。これは間違いです。グローバル化もそれに伴う経済格差化も不可避です。むしろ、それらによって個人が直撃されないような社会の包摂性が必要なのです。


うーん、このくだりには拍手でした。全くもって言うとおり。あの秋葉原の事件はまさに個人が直撃された、というところがはっきりと可視化されてしまった事件でした。
しかしもちろん社会の包摂性が失われるのも不可避のような気がするのですが。しかしそれをあきらめずに国が後押しするべきなのでしょうね。

 別の言い方をすれば、国家(行政)は「個人の自立」を支援するのではなく、「社会の自立」を支援するべきなのです。社会学者のアンソニー・ギデンズはそれを「社会投資国家」と呼びますが、欧州の政策的な共通了解になっています。


そして国だけでなく、一人一人が「社会の包摂性」が必要だという共通認識を持つべきなのでしょう。

このあと、宮台はこの「社会の包摂性」を回復させるために、武装国家の必要性を説きますが、疲れてきたので、これは次回に。これにはちょっと賛成しかねるけど、なかなか面白い意見です。
排除の構造
昨日の話の続きだが、「排除の構造」について少し考えてみたい。

まず、フーコー、佐藤雄一、河津聖恵の三氏の言うことを僕なりにまとめると、法律よりセキュリティが優先される状況、がいま急激に可視化されていて、そこには「排除の構造」がある、ということだ。

しかし考えてみればもちろん「排除の構造」というのは昔からあったわけである。
たとえばインドのカースト制度や日本の部落差別問題だが、不可触賤民、非人、あるいは穢多と呼ばれた人たちは、生まれつき穢れた存在として、触るだけでこちらが穢れる、とされ社会から排除されてきた。では病気でもない彼らがなぜ排除されたのか。それは何かを排除することによって、社会は一つ安心を得るのではないか、ということ、そこに「排除の構造」があると思われるのだ。だがこの場合理由は何でも言いわけで、何でもいいからあいつらに触ると穢れるから排除しろ、となるだけなのだ。もっとわかりやすい例で言えば、中世の魔女裁判である。だれか個性的な女性を魔女と弾劾して排除することによって、その社会は一つの安心を得るのだろう。この場合も魔女たる理由は何でもいいわけで、とにかく排除することが目的で、そして最終目的は安心感を得ることである。社会というものはいつの時代もどこの国でも安心できないものなのである。だから安心するために何かを契機としてこの「排除の構造」が機能するのではないか、と思われるのだ。

しかしいまは科学的知見が一般大衆にまである程度流布し(もちろんある程度だが)、こんな何の根拠もない非科学的な排除は影を潜めてきた。だがもちろん今でもあるのはある。カースト制度も部落差別も魔女裁判も。魔女裁判はないだろう、と思われるだろうが、十年ほど前に日本であった。野村佐知代、つまりサッチー騒ぎと呼ばれた一連の騒ぎだけど、この人は確かに変な人だった。だがあそこまで日本中から総すかんを食ったのは、この「排除の構造」が働いたのではないか、と見ていいだろう。つまり彼女一人を排除することによって、社会は何か安心を得るのだ。自分たちはここまでひどくない、とか。だから自分たちはまともだ、とか。

そして科学的知見が一般大衆にまである程度流布した現在において、最も「排除の構造」の対象となりやすいのは、病気、あるいは衛生面ではないだろうか。いまの新型インフルエンザ騒ぎも典型例だが、ちょっと前の毒入り餃子事件もそうだった。中国製食品がどれも極端に売れなくなった。主婦はまず食品包装を裏返して、どこ製かを確かめる。中国製なら即断で陳列棚に戻し、国産なら安心して買う。韓国や東南アジア製なら少し躊躇して、自分のふところ具合と相談して、買うか買わないかを決める。中途半端な科学的根拠だ。彼女たちは中国製を排除することにより、その見返りとして、一つの安心を得るわけである。この中途半端な科学的知見というのが一番厄介かもしれない。自分は科学を知っていると過信しているからだ。もっと言えば、「排除の構造」が働きやすい科学的知見のみに執着し他の意見はあまり聞かない。マスコミも、医者など専門家が何を言おうが一般大衆があまり聞かないので、正確な知見より流布しやすい知見のほうを流すことに自ずとなる。また医者も万一のことを重要視しないといけない職業柄、千に一つや万に一つしか起こらないことをことさら重要視して言うことになり(つまり科学の専門家というのは科学的知見には優れていても、全体を見渡した判断というものがなかなかできないので)、そういったことにより、ますます混乱に拍車がかかることになる。通常の季節性インフルエンザでも日本国内だけで、年間1千万人以上が罹患し、1万人以上の人が死ぬ、非常に怖い病気なのだけど、それでも社会は別に混乱していない。しかしそのことをちゃんと認識している人はあまりいないようだ。こういった情報が流れてもあまり気に留めないのか、マスコミのほうが流してもあまり注目されないからあえて流さないのかどうなのかは知らないが。

もしこの新型インフルエンザで一人でも死者が出れば(出るに決まっているが)そら恐ろしい混乱が起こるに違いない。花粉を体から排除するために免疫機構がフル回転しすぎてその人間が死んでしまうような、この社会にそんなことが起こらなければよいが、とそのときのことを懸念してしまう。

書くのにつかれてきたが、この「排除の構造」についてもう一つ。それは民族差別問題だ。いわゆるウルトラナショナリズムである。昨今の民族差別感覚ははっきり異常だ。普通に仕事関係や親戚と話していてびっくりすることがある。たとえば、ある奈良の土産物屋の経営者だが、このインフルエンザ騒ぎで関東からの修学旅行生が軒並みキャンセルをしてきて弱り果てていた。これ自体は同情以外に何もない。もうすぐこの騒ぎも下火になるでしょう、と根拠のないことを言ってこちらは慰めるだけである。その社長と一ヶ月ほど前に外国人旅行客について話していたのだが、この金融恐慌でも中国人は相変わらず羽振りがいいので、大阪なんかはどう彼らを取り込むかに躍起ですよ、というようなことをこちらが言ったら、その社長は急に血相を変え「中国人や朝鮮人はうちはごめんなんや。あいつら匂うやろ、臭いんや。廻りの日本人のお客さんに迷惑なんや。せやから入店お断りしてるねん。」とえらい剣幕である。唖然とするより他になく、この話題を打ち切るしかなかった。中国人は臭い。ただ深く不愉快なため息をつくより他にない。しかし後で考えたら、にんにくの匂いのことかも、とも思ったが、そういう形相ではなかった。はっきり差別感丸出しだったのだから。

この社長に限らず今の日本人の中国や朝鮮に対する嫌悪感は度を越している。これも「排除の構造」ではないか、と思われるのだ。つまり中国や朝鮮を排除することにより、何か安心感を得るのだろう。自分のほうが優れているとか。もちろんそうやって他国の文化を排除することにより自国の文化を守る、ということもあって、一概に責めることもできないのだけど。

これはもちろん日本だけに限らずどの国にもある。たとえばその中国や韓国でも、日本に対する嫌悪感は凄まじいものだろう。これも自国に多大な悪影響を与えた日本を排除することにより、一つの大きな安心感を得ることになるのではないか。それは歴史が違う以上、日本の比ではないのかもしれない。

いや、しかし、今度の日本の新型インフルエンザ騒ぎと少し前の中国の日本バッシングはそのヒステリックさにおいて、国を挙げてということも含め、その排除の猛烈な勢いは同質のもののように感じられるのだ。お互い、それを排除することにより、何かとてつもない安心感が得られるのだろうか。
1957年以前生まれに免疫か
インフルエンザ騒ぎが騒々しいが、まるで社会システム全体が花粉症にでもかかったかのように異物を懸命に吐き出そうとしているかのようだ。子どもに、遊びに行かずに家にいなさい、ということを国を挙げて取り組むというのは気持ち悪いほど異常である。確かに佐藤雄一氏の言う、「法律よりセキュリティが優先される状況」が急激に可視化されている。河津聖恵氏の言うとおりそれはまさに「排除の構造」だ。社会全体がヒステリックに異物を排除しようとしている。

で、ここらで新型インフルエンザ安心論なるものをちょっと。
47NEWSより

これはアメリカでの研究だが、米国の入院患者のうち50歳以上は13%で、高齢者が重症化する傾向のある季節性インフルエンザとは特徴が異なるという。日本でも確かに高校生を中心として若年層に多い。これは何か免疫が関係しているはずだ、とだれもが疑うだろう。記事はこう続く。

1918年から19年にかけ世界的に大流行したスペイン風邪はH1N1型で、終息後もウイルスは変異を続けた。その後、H2N2型のアジア風邪が57年に大流行したが、それまでの間に、現在の新型ウイルスと関連するH1N1型に感染した世代が存在する可能性があるとしている。
 季節性インフルエンザにもH1N1型ウイルス(Aソ連型)があるが、現在流行し、豚に起源がある新型のH1N1型との関連は薄いとされている。


ということで1957年以前に生まれた人には免疫がある可能性がある。というより、1958年以降に生まれた人には絶対に免疫はない、とも読み取れる。僕は1958年生まれである。あー、なんとぎりぎりだめ。安心しようと思ったけど、僕個人は全く安心できない。しかしアバウトにおっちゃん、おばちゃんはうつりにくい、ということで社会は少し落ち着かないだろうか。だめかなぁ。
神戸にて
昨日は神戸三宮のスペイン料理店カルメンにてsora歌会。あいにくの雨とあの新型流感騒ぎで、出席者はたったの5名。それでも充実していました。
神戸の町も閑散としていて、さすがのカルメンもお客さんは来ず、1時半から懇親会が終わる9時ごろまでだ~れもこなかった。完全貸切状態でした。オーナーの大橋愛由等さんにも選評参加していただきました。ありがとうございました。むっちゃ暇そうだったもん。

しかし、この新型流感騒ぎ、僕が思ってたよりおおごとのようです。いったいどういった収束の仕方を取るのか。まだビジョンが全く見えてきません。

要するに一般の季節性流感と毒性は同じで、抗体を持っている人が少ないので感染力は強い、ということなのでしょうか。一気に流行ったほうがかえって社会的混乱は少ないのか、流行をできる限り防ぎながら徐々に広がったほうか混乱は小さいのか。いったいどっちなのかわからないのです。とにかく影響は様々な方面に及びそうで、これはかなり心配です。

名古屋、関東、他地域にも間違いなく上陸するでしょうね。というより来ると思ってたほうがある程度備えられていいと思うのです。
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