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誠実な痛み
またまた人の文の引用である。最近は自分の文がない。

また野樹かずみさんのブログ「空ゆく雲の」より、孫引き。

27歳で異国の福岡で獄死した朝鮮の国民的詩人、尹東柱(ユンドンジュ)の「たやすく書かれた詩」から

人生は生きるのが難しいというのに
詩がこんなにもたやすく書かれるのは
恥ずかしいことだ。


詩をおとしめているようで、ここでは人生と詩が対等に存在している。

それと宋友恵(ソンウヘ)著の評伝「空と風と星の詩人 尹東柱評伝」の序文。

ほんとうに誠実な痛みは、それ自体でそのまま治癒剤ともなる


うーん、これにはうならされた。昔はぼくにもこの「誠実な痛み」なるものがあったなぁ、と思ったが、今はどこを探しても無い。今はただ粗野な痛みだけがある。ひょっとして真の不幸とはこの「誠実な痛み」が無いことなのでは、とさえ思えてくる。

ああ、でもこの「誠実な痛み」が無い、という痛みだけはかろうじて誠実だろうか。

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短歌とは
いい言葉はいくらでもメモしとこう。

またまた野樹かずみさんのブログから今度は孫引き
鶴見和子歌集「回生」のあとがきより

歌は情動と理性的認識とを統一して表現するすぐれた思索の方法である。


そうなんですよね。
そんなことはわかってたんだけど、最近忘れてた。また初心に戻って短歌にトライ!
らぶりぃだが、みにくい
今「イケテル言葉」っていうのは、きっと従来の詩や短歌の「詩語」から如何に外れるか、にかかっているのかもしれない。だから短歌では「修辞の武装解除」なるものが起こったのか、どうなのかは知らないが。

とりあえず、渡辺玄英はイケテル。詩集『火曜日になったら戦争に行く』を読んでて、「イケテル言葉」に出会えてホッとした。最近短歌ばかり読んでいて、気分が晴れなかったのが、玄英のはずれっぷりには大いに元気づけられた。ただこの詩人は、外れっぷりは非常に愉快なのだけど、結局最後、予定調和的なものに帰ってくる。そこに少しがっかりさせられる。その点、安川奈緒のほうが納得できる。ただはずれっぷりの愉快さは玄英が図抜けている。わかりやすいし。

だがこういった詩は

らぶりぃだが、みにくい


のだろう、おそらく。しかしそれは、この世界も

らぶりぃだが、みにくい


からだろうし、そういった世界を正直に詩で表現すればそれは必ず

らぶりぃだが、みにくい


ことになるわけで。玄英はだれよりも世界に正直な詩人なのだ。
私が選んだ
いい文言はメモしとこうと思う。

野樹かずみさんのブログ「空ゆく雲の」より

6歳の夜に、「どうしてわたしはここに生まれたのか」と母に聞いたら、「あんたがここがいいと言ったのよ」とあっさり言われて、いやそんなおぼえはないんだが、と思いつつも、でもそうかもしれないと、納得していた。私が、えらんだのだ。
ふりかえって思えば、たぶん、あのときに、自分の不幸を他人のせいにしない、という精神は叩き込まれたと思う。それは母に永遠に感謝だ。
何が幸福で何が不幸かはわからないが、自分の不幸を他人のせいにしている間は、不幸にしかならないというのは確かなことだと思う。たぶんそれって無間地獄だ。


そうなのだ。自分の不幸を他人のせいにすることは、ほんと情けないことだと思う。自分がこの世界を選んだのだから、そう思えばたしかに、全部責任を引き受けていけるだろう。強くなれるし寛大にもなれる。明るくなれる。朗らかになれる。いいことばかりだ。まぁでもあまり自分ばかり責めないようにしないとね。
百年に一度
日経平均が1万円を超え、景気の底を打った感の強い相場が最近続いていて、これからも雇用に不安を残しながらも続伸していくらしい。アメリカの住宅問題は解決していないし、欧州は不安だらけで、特にラトビア危機はかなりやばいらしいけど。

「百年に一度」の恐慌と言われたわりには回復が早かったように思うが、それも日米中などが政府丸抱えの財政出動を積極果敢に行ったおかげらしい。それは財政赤字を生むことになり、今後が心配だが、もう一つ心配なことが、昨日の日経新聞朝刊の一面に載っていた。景気回復により、世界中のマネーが市場に急速に再流入してくるのではないか、という懸念だ。つまり相場が(今すぐにではないが)急速に上昇するのでは、ということで、またぞろバブル相場になるのでないかという懸念である。

思うに、百年前の世界恐慌は今と違って、経済のグローバル化はさほど進んでいなかったはずだし、市場の規模も違う。だから百年前に今の規模の恐慌があればそれは本当に大変だったわけだけど、今ならグローバル化が進んだことにより、わりと一気にこのレベルの破綻になるわけで、またこの速さで回復基調にもなる。これからはこの「百年に一度」のレベルの恐慌が5年か10年に一度ぐらいは起こるのではないか、という懸念が逆に出てきた。それはちっとも「百年に一度」ではないわけだけど、こんなバブル崩壊が何度もやってきたらこっちはやはりたまらない。

チャーチルはかつて「民主主義は最悪の政治システムと言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治システムを除けば」と言った。言い換えると「民主主義はよくないけどそれしかないんだよ」という意味だろう。この民主主義を資本主義に置き換えても同じことだろうと思う。つまり資本主義は最悪の経済システムだけど、それしかないわけだ。

資本主義しかないわけだから、だからこの資本主義を改訂していくしかないわけで、この「百年に一度」と大騒ぎしたことを機に、そこから学んで、資本主義を少しでも良いものに改めていくしかないのだろう。そしてバブルがさほど大きくならないように調整していければと願う。それこそこれからの経済学者の仕事なのだろうな、と素人ながら思うのだ。
W杯予選:北アイルランドと北朝鮮
サッカーのW杯予選、日本は早々に出場を決めて、やれやれだけど、他はいつものことながら激戦のようだ。
(スポーツナビ)

北中米ではメキシコがかなりやばいらしい。まさかインフルエンザ騒ぎとは関係ないと思うけど、あるのかな。

次に、毎回、この国が出ないなんてありえない!、と叫びたくなる国が一つや二つではないヨーロッパ予選。まさに激戦中の激戦である。絶対に本大会より面白い。

ヨーロッパは9グループあって、各グループ1位が自動的に出場。あとは各グループ2位のうち上位8カ国がプレーオフをやり、上位4チームが出場という、アジア予選とは比較にならないハードなスケジュール。

今現在、全体のだいたい6割から7割進んでいて、

まずグループ1はデンマーク1位、ハンガリー2位、あとポルトガル、スウェーデンと低迷していて、もしサッカー大国であるポルトガルとスウェーデンが出場しないとなると、その国はどんな騒ぎになるのだろう、他人事ながら心配になる。

グループ2はギリシャとスイスがリード。

グループ4はドイツとロシアがリード。ひょっとしたらどちらかが出ない可能性もある。

グループ5はスペインが1位で、伏兵のボスニア・ヘルツェゴビナが続き、これも強豪のトルコとベルギーが低迷。この2チームはどうも無理っぽい。これも出場しないとなると、これもお国が大変なことになる。

グループ6はイングランドが全勝ぶっちぎりでほぼ決定。あとクロアチア、ウクライナ、ベラルーシが骨肉の2位争い。

グループ7はなんと伏兵のセルビアが1位。フランスが続き、リトアニア、オーストリア、ルーマニアまでチャンスがある。大激戦。他人事ながら大変面白い。

グループ8はイタリアがリードして、アイルランド、ブルガリアが続く。これでまだ楽なほうか。

グループ9は早々にオランダが全勝で出場決定。2位争いはスコットランドが優位に進める。ここが9グループの中で一番楽なグループのようだ。

なんといっても僕が個人的に注目しているのはグループ3。強豪スロバキアがリードして、伏兵の北アイルランドが2位、そのあとポーランド、チェコ、スロベニアと続く、大激戦区。もし北アイルランドが出場すれば、イングランドは決定なので、本大会の予選の組み合わせによっては、あの北アイルランド紛争が再現、なんてこともあるかも。他人事だからか、悪いけどわくわくする。

と、ここまで書いて、ハタと気がついた。アジア予選、5枠のうち、日本、韓国、オーストラリア、と3国が早々に決定、そのあとグループ2の2位争いが熾烈だ。北朝鮮とサウジアラビア、あとイランも可能性が残っている。北朝鮮が出場して、もし本大会で日本と当たったら、どうなるんだろう、と、これは他人事ではない。自分事。かなりやばいんじゃないか、と。もしそうなったら負けたら悔しいし、勝ったら怖い。いったいどうしろというんだ。

6月10日に韓国とサウジアラビアがやるが、ここでもし出場決定した韓国がサウジに勝つか引き分けたら、俄然北朝鮮は有利になる。でも韓国がもし手を抜いて負けたら、サウジが逆に圧倒的に有利。その場合どういうことになるのか、ちょっと心配。何しろなんでも因縁つけてくる国だし。今、政治が相当微妙な状況だし。朝鮮戦争は実はまだ終わってないのだし。

でもこの2国の関係は実は我々日本人にはよくわからないのかもしれない。仲が良いのか悪いのか。いったいどうなんだろう。
日本の難点⑤モンスターペアレントやクレーマー対策とは
最近、モンスターペアレントやクレーマーがにょきにょきと自分の周りにも出てきているみたいで、漱石が昔「とかくに人の世は住みにくい」と嘆いた「すみにくさ」とは別次元の「すみにくさ」が今差し迫っているように思える。

宮台真司が言うには、いじめの問題と似たような背景があるとのこと。
「社会の包摂性」が失われてきた、つまり〈生活世界〉が空洞化してきた昨今、何か悩みを抱える人を社会が直接受け止めなければならない状況が否応なしに作られていて、「全体を顧みない理不尽さ」や「社会的期待に対する鈍感さ」が突然ぼこっと出現してしまい、常識はずれな行動や言動を起こしてしまうとのことだ。
だから社会がこうである以上、こういった行動や言動を少しも制約されない人たちが増えるのは仕方ないことで、問題はクレーマーごときに振り回される社会の側にあるそうだ。つまりモンスターペアレントやクレーマーの言うことを真に受けて聞くメカニズムがあるから彼らが生き残ってしまう、ということらしい。

クレーマーの言い分を聞いてあげることと、言い分を真に受けることとは、別の問題です。門前払いはマズイですが、クレーマーが主張する「部分的最適化」を上回る全体に合理性があるならばそれを一通り説明し、「なので、クレームはお受けできません」と言うしかありません。
ここからは応用編の話になりますが、テレビやラジオのディレクターには、電話などでのクレームや匿名掲示板での「実況」や「批判」を過剰に気にする人が、実にたくさんいます。彼らに対して僕は「クレームや批判は、いわゆる世論とは何の関係もないことを肝に銘じよ」と言ってきています。
 クレーマーにせよ匿名掲示板のディープユーザーにせよ、いわゆる世論=サイレント・マジョリティではなく、キーキー声が目立つだけの少数者=ラウド・マイノリティが大半だからです。ラウド・マイノリティの言うことを直ちに真に受けることは、マスメディアの自殺行為になります。


なるほど明快だが、言うは易し、行うは難し、である。宮台の言うような、相手の意見は一応聞いて、お断りするなんていうそんな器用なこはなかなかできないだろうが、こういうことを一応頭にとめておくことは有効だろう。

それと僕が以前から書いていることとつながってくるけど、クレーマーなどの原因は〈生活世界〉の空洞化だけでなく、皆に平等に権利がある、という近代的民主主義のはき違え、にもあるように思える。皆に権利があるなら、自分もその皆の一人なんだから当然権利がある、と受け止め、それがエスカレートし「全体を顧みない理不尽さ」を発揮してしまう。平等な権利とは、皆にうすーく権利があるだけで、誰か一人に突出した権利があるわけではない。それを近代は提示してこなかったのだ。
近代がどんどん行き詰まっていき、何もかもが取り留めのないカオス的な様相となっていきそうで、そのカオスを統御できるのが、国民を統一させる何か尊い概念、たとえば天皇制、なのだとすれば、それは宮台の言う「馬鹿保守」でしかないわけで。しかし宮台の言うように、アメリカを排除することも、ほとんどこの「馬鹿保守」と変わりがないような気がする。排除できないものを排除することは、リスペクトできない対象を無理やりリスペクトすることと同じぐらい、せつないことで、排除もリスペクトも、結局は裏返しにしか過ぎないだろう。そんなことで社会の包摂性が取り返せるとはとても思えないのだ。

皆にうすーく権利がある、ということをちゃんと提示することのほうが、社会の包摂性の回復につながるのでは、と思うのだがどうだろう。もちろん決して極端な全体主義に陥ってはならないが。
日本の難点④いじめ問題
宮台真司は上から目線だから嫌だ、と言う人がいるらしいが、社会学者なのだから上から目線で当たり前である。上から目線だからこそ見えてくることもあるわけで。

今回は、いじめ問題。かなりいいことを言っていると思った。

最初に確認しておくと、「いじめ」とは、単に誰かを嫌うことや、嫌うがゆえに悪口を言ったり、嫌がらせをすることとは違います。その程度のことであれば、誰でもどこでも、常に既に、やっています。だから、逆に、それを理由に「いじめ」はなくならないと言うのも、誤りです。
「いじめ」は人の「自由」な日常的活動のベースになっている「尊厳」(他者の承認を契機とする自己価値)を、回復不能なまでに傷つけることで、以前と同じ生活を送れないようにしてしまうことです。「尊厳」を破壊することで「自由」を奪う営みこそが、「いじめ」の正確な定義です。


ここまで明確な「いじめ」の定義をはじめて見た。これに対して何も付け加えることはない。そしてこう続ける。

このように定義され直した「いじめ」であれば、完全になくすことは現実的に無理でも、相当程度なくすことができるはずです。言い換えれば“「いじめ」はなくならない”ではなく、“「いじめ」はほとんどなくすことができる”という物言いのリアリティこそが、真実を言い当てています。


感動してしまう。あきらめるのではなく、別に根絶しようとがんばるのでもなく、相当程度なくすよう前向きになる、ということ。では実際どうすれば、その、相当程度なくすことができるのか。

宮台が言うには、人が本気で話したことは本気で聞く、という環境でないとだめだ、ということ。つまり今はそういう環境になく、特定の相手にコミットしてバカを見るより、相手を取り替えたほうが低コストになる環境。あとは宮台の言うことをそのまま書き写したほうがわかりやすいので、そのまま書く。

 つまり昔は「本気」で聞かなければ生きていけなかったのが、「本気」で聞かなくてよくなりました。「本気」で聞かなくてよくなったということは、「本気」で聞いてくれる人がいなくなるということですから、「本気」で喋るのもバカバカしくなります。あとは単なる悪循環です。
 そんな悪循環の中で「場」への適応だけが肥大します。この「場」では、昔と違って、誰も「本気」で話したり「本気」で聞いたりすることがない。そんな「場」で「仲間と同じでなくちゃいけない」という同調圧力に対処しなければいけない。昔の共同体にはなかった課題です。
 それでも他に「場」がなければ、この課題は優先されざるを得ません。そうした課題が優先されれば、他者の「尊厳」を回復不能に損壊することも「あり」になってしまいます。ここに度を越した「いじめ」が蔓延してしまう社会環境があります。社会環境への適応が「いじめ」をもたらす以上、環境をいじるしかありません。


最後のところが少しわかりにくいかもしれないので付け加えると、周囲に同調しなければならないということが優先される環境においては、他者の「尊厳」を回復不能に損壊することよりも、自身の周囲への同調のほうが優先されてしまう、ということになり、自然と「いじめ」が発生する、ということ。

思い返せば、僕自身が相手を話せる相手かどうか、ということを無意識に識別していたポイントは、この、こちらが本気で話してよいのかどうか、相手も本気で話すかどうか、ということにあったのだ。相手が本気で話さない限り、こちらも本気で話すことは絶対にできない。これは経験上ものすごくわかる。その点、俳句短歌詩人仲間の人たちはほとんどが本気で話すことが大前提となっている。だから僕もそこに参加していこうと無意識に思うわけで。これには実は気がついているようで気がついていなかったのかも。相手が本気でさえあれば、意見の食い違いなどたいしたことではないのだ。

で、最後宮台は、その問題とするいまの環境をどういじればよいのか、というところで、「政治体制のシフトが必要になる」ということ、つまり、僕が日本の難点②のところで書いた、アメリカへの負い目から自由になって、日本が軍事化するということ、これが必要なんだと言っている。最後で愕然とさせられます。でもここら辺は目をつぶって、今のところ、この人についていきます。だってこの人、面白いもの。
邪馬台国北九州説
箸墓古墳(奈良県桜井市)の築造時期について、国立歴史民俗博物館の研究グループが放射性炭素年代測定法で測定した結果、西暦240~260年とする調査結果をまとめた。以前の測定方法より技術が進歩し、格段に年代を絞り込むことに成功したとしている。

というだけのニュースである。箸墓古墳の築造年代が今までと違って格段に絞り込まれた、というだけのことで、古代史ファンはロマンを掻き立てられる、という事なだけで、なぜこれだけのことで、単に年代が合致しただけで、なぜこの古墳が西暦247年死亡したとされる卑弥呼の墓になるのか、あまりに突拍子もない。

春成秀爾・歴博名誉教授は「この時代、他に有力者はおらず、卑弥呼の墓であることが確定的になった」と述べた、とあるが、いやいや待てよ、3世紀という時代に、卑弥呼以外に有力者がいなかった、という証拠はどこにもないし、逆に、卑弥呼が巨大な墓を造営するだけの有力な王だったという証拠もこれまたどこにもない。

3世紀の日本列島はおそらくいたるところに豪族がいて、それぞれの地域を治めていて、彼らが中央集権的な強大な王、つまり後の大和朝廷のような王をいただいていたとはとても考えにくい。まだある程度ばらばらだったのではないか。それの一つの証明として、5世紀の吉備古墳群がある。同じ頃畿内では応神王朝がヤマト王権として強大な権力を誇っていたが、5世紀後半にいたってようやくこのヤマト王権は最大のライバルだった吉備王朝を服従させたとある。それでやっとヤマト王権は九州とつながったはずだ。その200年前に北九州までとどろく政権が畿内にあったとはおよそ考えにくい。プロの考古学者はいったいどこをどう研究しているのだろうと思う。それとも邪馬台国は畿内にないと都合の悪いことでもあるのだろうか。卑弥呼人気は絶大なるもので、皇室の系譜に卑弥呼を組み入れることで、その卑弥呼人気にいまの皇室もあやからせたいのか、そんな理不尽で下衆な想像さえ思い浮かぶ。

以下はほとんどが松本清張の『清張通史1・邪馬台国』(講談社文庫)の受け売りだが、まず、3世紀前半、当時の北九州は朝鮮半島南部と同一文化圏に属していた。当時は陸路よりも海路のほうが容易で、世界中で海洋文明が盛んだった。典型的なのがエーゲ海文明である。今の国境に何の関係もなく一つの国家連合が形成されていた。小規模だがこれと同じく対馬海峡も、対馬、壱岐、五島列島、済州島などを挟んで、両岸は共通の言語、文化、人種で一つの文明を築き上げていたのだ。そして当時の「倭」という地域はまさにこの海洋文明地域全体のことで、北九州は正確には倭国南部となる。そこから南方や東方は中国本土からはまったく認識されていず、もちろん強大な豪族はいくつもあったわけだが(その領主の一人が箸墓古墳の被葬者であったことは間違いない)、中国本土から見て、朝鮮半島までが東夷であり、北九州はその延長に過ぎない。つまり日本列島そのものは認識されていなかったわけだ。

古代史を考えるとき、今の国境で考えるのはどの地域も無意味となる。宮台真司ではないが、「境界線の恣意性」を常に(というか無意識に)念頭に置かなければ古代史は絶対に読み解けない。

3世紀前半、北九州は飛びぬけた国がなく、大乱となり、このままでは各国が消耗戦となるので平和協定を結び、その中の一番の大国だった伊都国が中心となり、占いのよく当たる少女・卑弥呼に自分たちの政治の決定権をあたえ、一応、平穏を見たわけだ。その卑弥呼が居住した場所が「ヤマタイ」と呼ばれるところで、この意味は諸説あるが、単に「山の麓」を当時の朝鮮語で「ヤマタイ」と呼んだ、という説もあり、いまの福岡県に似た地名があってそこではないか、と諸説があって、謎のままだが、畿内の「大和」と別に直接関係があるわけではない。ヤマタイやヤマトは古代には、どこにでもある地名だったのだろう。

そして邪馬台国という国は無かったとも言える。単に周辺諸国の政治決定所だったわけで。また卑弥呼が女王なんかではなく、単に巫女の親玉ぐらいだと見たほうが妥当だろう。当時は科学知見が全く無く、実際に重要な政治の決定が普通に占いで行われていた。だから予知能力があるんじゃないか、と思われるぐらい占いがよく当たる少女が大変重宝されたらしい。この占い師と執政官の関係は飛鳥時代の推古女帝と蘇我馬子との関係に形骸化された形で受け継がれていて、卑弥呼が制度的には天皇制の原型に当たらないわけではない。しかしそれはあくまで制度としてである。

他にも邪馬台国九州説を裏付ける物的証拠がたくさんあったが、15年ほど前に読んだ本なのでほとんど記憶になく、今まで書いたことをまとめると、当時北九州にあった伊都国を中心とした倭国南部の国家連合の政治決定所であった邪馬台という場所が、畿内にあるはずはなく、同じ北九州にあったのは否定しようがない。なぜプロの古代史学者が畿内説にこだわるのか、どう考えてもわからないのだ。
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