韻律について
「細見さんにとって韻律とは何ですか」とあらたまって質問を受けた。歌人の土岐友浩さんから、懇親会も終えてほとんどの人が帰ったあとの2次会で。

その時はぼけたことしか言わなかったような気がする。結構飲んでいたし。それよりここずっと韻律のこと考えていなかったし。

それとその日の歌会で加藤治郎さんから「一度韻律について文章でまとめといたほうがいいよ。」とアドバイスを受けた。でないとなかなか歌人は僕の短歌を短歌として読んでくれないらしい。

まとめるのはなかなか大変だけど、とりあえずメモ代わりでもいいから書いておかなきゃと思う。

短歌の韻律について考えるとき、やはりまず現代詩について考えねばならないと思う。現代詩にも韻律はあるが、どうだろう、詩の韻律というのは僕には何か気持ち悪い。読めたものじゃない。勝手に韻律作るなよ、と抗議したくなるくらいだ。そんな時現れたのが、安川奈緒だった。彼女は詩から、韻律をリズムを音楽性を徹底的に排除してくる。初めての人には読みにくいのかもしれないが、実に清々しいのだ。その韻律に対する禁欲的な姿勢が。いや、韻律に対する嫌悪が。徹底的に韻律がないのにその詩は他のどの詩人の詩より「詩」なのである。まるで奇跡を見るように。

ひるがえって短歌の韻律について考えてみる。57577という短歌の韻律。これがぼくにはなぜか気持ち悪いのだ。短歌を始めた当初はなんともなかったのに、そのうちにこの定型感がうざったくなってきた。だけど短歌の韻律はとても魅力的なのである。韻律があるからそこに自分の情感と思想を同時にぶち込めれるのかもしれない。これはなかなか得がたいことなのだから、短歌をやめて詩に行けば、と言われてもなかなか行けるものではない。だから定型韻律が気持ち悪いのなら、自分の韻律でやるしかない。だがそれは他の歌人からすれば、自分で勝手に韻律作るなよ、ということになる。

詩と比べて短歌は韻律があるからすばらしいのである。なら様々な韻律を試してみるのもよいのでは、と素直に思うのだ。文語から口語に変わって短歌の韻律が変わらないわけがない、と強く思うし、変わらなければ短歌は生き残れないのでは、とさえ思う。もちろん生き残るだろうけど、それは僕にとって何の興味もわかないことなのだ。

短歌韻律は詩の韻律と比べて、一行のすきっと引き締まったたおやかな肉体なのだ。これを自分で奏でるのはすばらしいですよ。なかなかうまくはいきませんが。悪戦苦闘してますが。でも、なにも57577定型でなくてもそれは可能だと思うのです。

逆に定型歌人に聞きたいのは、なぜ57577定型以外は短歌ではないのか。これの納得のいく理由を僕はまだ聞いていない。単なるぼくの勉強不足のせいかもしれないけど、ぜひ聞いてみたいのです。
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キモイ
若い人と話す機会、というのがなかなかないせいか、今日20代の歌人たちと飲んでて、びっくりしたことがあった。

ある男性がその女性のことをとてもよくわかる、と言って、その女性はその男性のことを、「それってキモイのね」と言ったもんだから、その男性のことを嫌ってるんだ、と思ったら、違った。彼女が言うには「キモイ」というのは愛情表現なのだと、愛情があるから言えるわけで、なんかこいつキモイ、となるんだそうだ。これにはびっくりした。天を仰いだ。若者言葉というのは知らない間にいくらでも変化する。「ヤバイ」というのが褒め言葉なのと、同列だろうか。「ヤバイ」にもいい意味と悪い意味の二種類があるように、「キモイ」にも本来の悪い意味もあるそうだ。わかるような気はしたけど。

別れ際に彼女は「細見さんてキモイ」と言って握手を求めてきた。あ、僕に好感があるんだ、と思って気持ちよく握手したけど。。。

一人になって、なんかだまされたような気がしたぞ。(笑)
不寛容
人類の最大の発明品は「不寛容」だろう。この「不寛容」こそが、様々な歴史を生み出した。そして個のレベルでも様々な「不和」も生み出した。この「不和」があるから法律もある。

相手が「不寛容」ならこちらは徹底的に「寛容」でいくしかない。でなければパレスチナと同じだ。
自閉症な人
あるブログで自閉症の著名人を挙げていた。
池田信夫 blog

ゴッホ、メルヴィル、スゥイフト、アインシュタイン、チューリング、ジョイス、ヴィトゲンシュタイン、バルトーク、グレン・グールド

なるほど、ゴッホやグールドはやっぱり、という感じ。バルトークもそうだったのか。

自閉症、という言い方がおかしいのでは、と思ったが説明では「人間関係がうまくいかないので社会的活動には支障をきたすことがあるが、集中力が強いので、共同作業する必要のない芸術家や科学者には自閉的なタイプが多い。」とあり、なるほど正しい使い方だったのだ。

自閉症だから頭がいい、とかいうのもまた偏見で、自閉症にも頭がいい人がいれば単なるドスケベもいるし、殺人者もいるわけで、結局健常者と同じで、ここらへんは偏見のないようにしないとね。プラスの偏見もマイナスの偏見もないように。

また性格が内気で自閉的だから自閉症ではないわけで、自閉症でも人懐っこくて明るい人もたくさんいるし、だから結局、自閉症という言い方はやめよう、となったのかな。広汎性発達障害、ということに落ち着いたのですが。でもやっぱり、自閉症、という呼び名が今でも一般的で、これはやっぱりおかしいのだろうか。結局僕は当事者のようで当事者でないのでわからないのです。

でも世の中でいわゆる天才、と呼ばれる人は、ひょっとしたら全部がこの傾向の人じゃないか、とひそかに思っているのです。要するに、自閉症の中のサヴァン症候群だけのことなのですが。

つまり天才とは結局一つの障碍にすぎないということ、ある障碍の極めて特異な状況だということではないでしょうか。


叛乱
ショスタコーヴィチを聴くほどまでにはどうやら精神が回復してきた。それで調子こいて安川奈緒の詩集を読み、世界の反対側に行こうとして、今聴いているのは交響曲「革命」だ。革命は世界が上昇気流のとき起こるのであって、下降気流のときは単に叛乱である。単なるルサンチマンの謀反である。

世界の反対側に行くのは簡単だ。簡単だけど、すぐに疲れる。疲れて結局世界のこっち側でバッハばかり聴いている。ホームセンターでアングル止水栓を買おうと思ったけど、自信が無くてあきらめた。水道のことは水道屋に任せないと。叛乱はルサンチマンに任せないと。

ウォシュレットを取り外すのは意外に難しくて、難儀してわからなくて、結局やめた。押入れシートの防虫作用はいつまで効くのだろうか。窓枠に20年間こびりついた汚れを拭き落とすのはかなり恐ろしかった。「革命」は今、第3楽章で静かだ。

窓が取り外された窓枠から詩が落ちてくる。人々の詩篇が落ちてくる。人々の屎尿も落ちてくる。食器棚は完璧に収まった。こうもうまくいくとは思わなかった。おかげで今夜はいらぬ祝杯だ。ビールにポテトチップ、そのあと隠れて焼酎の健康茶割りを飲む。

そのあと世界の反対側に行き、また焼酎の健康茶割りを飲む。そして窓が取り外された窓枠から僕の詩篇を落とす。僕の屎尿も落とす。今、「革命」は最終楽章。叛乱だ!世界中の窓枠から窓を取り外せ!