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好調
短歌作ると精神衛生上良い、というのは前から思っていたけど、つくづくいいんだと思った。昨日から今日にかけて10首も作ってしまった。かつてない好調ぶりだ。気分もなかなかいい。あと3日ほどこれを続けよう。どうも藤原安紀子がいい、というのがわかってきた。あと安川奈緒と。人の力を借りないと作れないのは情けないんだけど、精神衛生のほうが一等今は重要なのです。藤原さん安川さんに深謝。
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再び池澤夏樹
池澤夏樹の小説『スティル・ライフ』より

 この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない 。
 世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
 きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
 でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
 大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
 たとえば、星を見るとかして。

                    
僕が20代に読んだ書物のなかで、最も感銘を与えられた文章かもしれない。『スティル・ライフ』の冒頭部分である。小説というより一篇の詩だ。

人はこの世界に頼ってはいけない、という当たり前のことにはじめて気付かされた。人は世界の中にいるのではなく、世界と並び立っているのだと。これは20代のとき、驚愕だった。てっきりこの世界の中に人はいるのだと思い込んでいたからだ。あの鬼塚ちひろの「月光」の歌詞のごとく。世界は自分を守る義務があるのだと、無意識に思い込んでいた。ドストエフスキーをそんなふうに読んでいたのだ、恥ずかしながら。

そしてその外の世界と、自分の内部の世界に連絡をつけること、これが一等大事なのだと、ここでは言っている。そのためには外側の世界を出来る限り正確に認識しないといけない。そして自分の内部の世界も同様に正確に認識する。これらを僕自身は一生やっていくのだろうな、と思う。主に文学を通じて。あるいは自然科学、社会学など。その他個人的な経験が一番重要だろうけど。

おそらく文学というものはそのためにこそ存在意義があるのではないだろうか。逆に言えば、これら認識のために役に立たない文学はその人にとっては存在意義が無い。これは間違いないだろう。

つまり文学にとって重要なのは、その役に立つ文学がまた人それぞれ違うことにある。それは人それぞれが世界に対する認識を異にするからで、自分に対する認識も人それぞれ違うからだ。これが文学の最も面白いところであり、最も厄介なところでもある。数学は一つの問題に対し答えは必ず一つだ。解き方は幾通りあろうが、最終的に向かう答えは必ず一つである。しかし文学の場合、答えは人の数だけある。だから人は自分の文学を傍からなんと言われようがやり抜くしかない。それこそが文学だからだ。人のいうとおりにすることはそれがどんなに優秀なことであれそれは全く文学ではない。答えは人の数だけある。それこそが文学だからだ。だから自分だけの答えを出す方向に向かわなければいけない。文学は数学や物理とは全く違う次元にある。文学そのものを否定する風潮が最近目立つけど、それこそ最も悲観すべきことかもしれない。人それぞれ、ということが通じない世界なのかもしれないからだ。逆に文学の世界で、人それぞれであるという概念、が通じない杓子定規な問答も、また最も悲観すべきことかもしれない。そういった杓子定規なことがもしその文学の世界で簡単に通じてしまい、王道にすらなるのなら、その文学ジャンルそのものの衰退を感じないわけにはいかないだろう。
ミスターおっちゃん
狭い信号の向こうに変なおっさんがよく通る声で何かアナウンスするように言っているなぁ、と思って、大阪は変なのが多いので別になんともないのだけど、目だけは合わせないでおこう、と思い、車が全く来てないので、その信号を赤なのに渡ろうとしたら、そのおっさんが

「子供が必ず見てますからね、赤信号は必ず止まりましょう」

とまるでアナウンサーのように言うもんだから、えっ、と思わず止まり、そのおっさんとおもわず目が合ってしまった。

「ありがとう」

いえどうも、と口ごもり、早く青になんないかな、こんなおっさんの相手したくない、と信号を見ていたら、そのおっさん

「ありがとう、わたし、ミスターおっちゃん、またテレビでますんで、みてください」

とぼくに、にこっと会釈。ぼくも、にこっと会釈。わけわからん。わけわからんけど、赤信号は必ず止まりましょう。
イチローの記録
アメリカでは9年連続200本安打はあまり評価されてないらしい。
ZAKZAK

それはイチローそのものが評価されていないのではなく、試合数の多いメジャーで年間200本安打に対する評価が低いということなだけでは、と思うのだが。それとも外国人だから評価が低いのだろうか。日本でもローズやラミレスの記録に対する報道は華やかではないわけで。ここらへんが日本人にはわからないところ。とにかくこの記録の報道は日本だけが熱いらしい。でもイチローにはまだまだ果てしない可能性を感じます。
正義のひとみ
川上未映子の詩集を読んでいたら、自分の短歌まで大阪弁になってしまったので、中断。首が痛い。いや、のどが痛い。別にインフルエンザでもないのに。インフルエンザではないのでやっぱり赤ワインをがぶがぶ飲む。それで結局反省しない。反省できない。わたしこそが正義のひとみだ、というひとみがあちこち多すぎて、こっちも反省する気になれない。なれないじゃないか。だから日産ディーラーに入り浸るな、と言っただろう。日産ディーラーに入り浸ると、はやってないので、お茶が出るわコーヒーは出るわジュースは出るわ、見積りはしてくれるわ、はては全国のラーメンを5袋もくれるわで、居心地なんかちっともよくない。

西淀川も最近は空気がきれいで、ユリカモメなんかももうすぐ来る。淀川の西だからね。西。挨拶もなしにセグロカモメなんかも来て、にぎわう。大阪市西淀川区。大阪なんだから大阪弁で喋ればいいのに、短歌が大阪弁になって困る。んであえて標準語。標準語はいい。標準語は心情を正直に吐露しなくてすむ。大阪弁だとおそろしいほど心情が心情が心情が、ああ、みんな大阪弁になったら恐ろしい世の中だ。みんな泣きながら心情というものを吐露しまくるぞ。きっと世界中が正義のひとみであふれる。
反省しない
ある飲み会で、ぼくと同年代の男性がこんなジョークらしきことを言っていた。

「・・・・その点僕はひどいやつでね、まず反省しない。そして○○しない、○○しない」

指を三つ折り、そしてガハハハと笑い飛ばした。僕もつられてアハハハと笑ったけどそのときは僕にとって意味不明。あとの二つが何だったのか思い出せないのだけど、で、後になって、その「反省しない」の意味がわかった。

「反省しない」には意味が三つある。

① あとで反省するようなことを言わないやらない。
② 反省していても回りに反省しているようなそぶりは絶対に見せない。
③ 何があっても実際に反省しない。


①は大変難しい。僕には無理。何も言えなくなる。
②は僕の場合、これは努力してやらないと。いい歳していつまでも反省してます、じゃかっこ悪いし。若い人ならかまわないけど。麻生太郎なんかはあれだけ反省に値すること言ってて、全く反省のそぶりがなかったもの。あれはあれですごい。
③は単なる厚顔無恥のセクハラおやじ。でもこのほうが楽かも。

もっとも、①と③はかなり近いときがあるけど。


こっちが鈍いせいか、この男性の言うことはいつもあとになって、ハハーンとわかることがある。あとの二つは何を言ってたのかなぁ。すごい深いことかもしれないし、全く意味のないことかもしれない。


でも本当にかっこいいのは、50,60すぎて上に立つ人で、

「昨日のあれは僕反省してるね、やっぱりちょっとまずかったよ」

とか言って、さまになる人。そしてそののりで部下を統率できる人かな。これはちょっといないと思う。どうしてもいい歳して反省を言えば部下に示しがつかないと思うわけで。

鳩山新首相なんかは言いそうだけどね。
未来大阪大会
とにかく終わったー、という感じ。ホッとしております。

夏休みの宿題を内容はともかく、とにかく全部提出した、という安堵感にものすごく似ていることに今日はじめて気がつきました。

そう、内容の出来不出来はともかく、全部一応提出したということで。

嵯峨直樹歌集「神の翼」における世代論のみ、加藤治郎さんやその他多くの方から、面白かった、頭の中が整理出来た、と褒めていただき、とりあえず良かったです。

岡井隆歌集「ネフスキイ」におけるノイズ論は、作者の方からのみ「この歌集はいろいろなこと言われたけど、これは初めてで、以外に面白かったね。」とねぎらいのお言葉。他の方からはなんにも言われなかったけど、とりあえずねぎらってもらいました。

ワークショップの司会は司会ジャックに遭い制御不能。勝手に暴走してました。司会としての力不足を痛感するより他無く。懇親会のあとだからこんなものかもしれませんが。アルコール持込でしたし。まあーとにかくすごいメンバーでしたし。
大辻さんの言われるとおり、笹井短歌を様々な観念論でまとめるより今は一首ずつテキストにそって読むことが一等大事なのですね。おかげで、笹井短歌をワークショップ以前より格段に深く読み込めたように思いました。短歌がまた新たに僕に前に切り開かれた、という印象です。僕はまだまだ短歌は素人なんだと痛感するより他なく。御託並べずにとにかく人の短歌を読むべし読むべし。

大盛況で、150人ぐらいだったのでしょうか。大盛況はいいんだけど、二日目は前日1時ぐらいまで飲んだ二日酔いと、その人酔いでもうふらふら。誰とも話す気がせず、でもなんとか最後までいました。ホスト側だし。

一日目は自分のことで精一杯で、二日目は体調最悪で、多くの方に失礼してしまいました。

今はとにかくなんにも勉強しなくていいのが、むちゃくちゃうれしいぞー。

明日ぐらいからぼちぼち短歌つくりはじめようと思ってます。(あれ?これ昨日もどこかに書いたような気がする)
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