天動説と地動説
天動説とは大地は静止していて、空の星々が動いているとみなすこと。地動説は逆に大地のほうが動いているとみなすこと。今やもう地動説が当たり前だが、これには続きがある。この地球が動いて回っている太陽系も、じつは銀河系の中の渦の中で動いて回っているし、その銀河系も大宇宙の中で動いている。一切が静止していないのだ。何かが静止していないことには誰もが落ち着かないわけで、その意味で人は誰もが多かれ少なかれ天動説者だと言えないだろうか。どこかが静止していると無意識に思い込んでいるのだ。

経済のグローバリズムについてもこれは言えて経済も地動説だと重々わかりながら、政治家は国内経済のどこかが静止していると思い込む。あるいは思いたいのだろう。そう思わないことには何を基準に考えればいいのか途方にくれるだろうから。だからどの政治家も経済を見誤るのかもしれない。今の民主党政権もそうなのだと思う。

俳句や短歌においても、動かないものがあると、我々は思い込んでいるだけなのかもしれない。周りが動いているだけで、自分たちは永遠だと。永遠にこの詩形が続くのだと。本当は一切が静止していないはずなのに。

ベツレヘムに導かれても東方で妻らは餓える天動説者
Staring at the star of Bethlehem,she`s a starving stargazar!

中島裕介歌集『Starving Stargazer』


日本語は英語短歌のルビだということだ、翻訳ではなくて。ルビもまた一つの短歌になっていて、本文とお互い響きあう構成になっている。
人は誰もが「餓える天動説者」だと、どんなすばらしい思想に導かれても。こう読めないこともない。そして同時に短歌の旧態依然とした在り様を、この歌集巻頭の一首で暗に批判しているのだろうか。

短歌の大地は動いているか。短歌にはまだコペルニクスは現れていない。
12月5日東京で、この歌集の批評会が行われる。
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南港にて
きっと女から別れ話を持ち出され、かっと切れて、殺ってしまったのだろう。それだけの話なら、太古の昔からよくある話で、人間に男と女がいる限りこれからも起こり続けていく単なる痴話げんかの果ての殺人であり、とりわけニュースバリューがあるわけではないはずなのだが、いろいろと枝葉がついた。まず相手の女性が白人だったこと。そして現場から2年半も逃走していたこと。挙句の果ては整形で顔を変えて、ちゃんとまじめに働いていたこと。ニュースバリューというものはその事件の本質にあるのではなく、その枝葉のほうにあるのだ、と思い知らされた。この男もすぐ捕まっていたら、こんな大きなニュースにはならずに、お互いのご両親をこんなにまで悲しませずにはすんだかもしれないのに。世間とは酷薄である。

そして個人的には、この間まで南港に住んでいたものとしては、捕まった場所にまた、ニュースバリューがあった。南港フェリーターミナルの待合室は、二度ほど散歩がてら行ったことがあるだけで、あまり記憶はないのだけど、なんとなく覚えてはいた。最初に犯人が護送された住之江署は、引越しの際に車の通行許可証をもらうべく何度も行ったなじみのところである。妙に懐かしかった。

フェリーターミナルや住之江署とは少し場所がずれるが、僕が住んでいた、南港ポートタウンはとても住みよいところ。許可証がないと車は入れないので車はほとんど走ってなく、海に囲まれているので大阪市内だというのに、空気がとってもきれい。埋立島だといのに、緑が豊かで、新緑のシーズンに散歩するのがいつも楽しみだった。今頃は様々な広葉樹林が様々な色に色づき、目を楽しませてくれる、なかなか得がたいところだ。海辺に行くと海鳥がやってきいて、夏はコアジサシ、海鵜、冬はユリカモメやカモメあるいは鴨が見られる。南港野鳥園、というのもあるがあそこはなぜだかほとんど野鳥は来ない。普通に海辺に行けばいくらでも見られる。野鳥も自然な状態が好きなのだ。南港は今度の事件で日本中の耳目を集め評判を落としたかもしれないので、とりあえず書いておいた。これから大阪に住みたい、という人にはぜひお勧めです。公団は結構家賃安いしね。
一つの真理
読んですごーーくわかった。これはこれで一つの真理だ。
ブログ「空ゆく雲の」より

昨日、就学時検診で、列になって並んでいたら、私たちの前にいた別の幼稚園の女の子たちがにぎやかに喋っていた。
「○○くんは、△△ちゃんがすきなのよ」
「でも△△ちゃんは、□□くんのほうがすきかもよ」
「えー、わたしは、□□くんがだーいっきらい」

ぞーっ、とした。
いや、ありふれた子どもの景色じゃあるんだろうが。

そうして、いきなり理解した。
こういう女の子たちというのは、中学生になってもおんなじことを喋っていて、50歳のおばさんになっても70歳のお婆さんになっても、おんなじことを喋ってるのではないだろうか。

昔私が、中学校の教室で、まわりの女の子たちが何をそんなに楽しそうに話しているのか、わけがわからなくて、しょうがないので、ひとりで本読んで休み時間を過ごしていたときの、女の子たちのおしゃべりが、まったくこんな感じだった。

すきとかきらいとかが、はっきりわかるというのが、そもそもわかんないよ。

女の子たちのおしゃべりは、うっとうしい。この手のおしゃべりは、5歳だろうが、15歳だろうが、70歳だろうが、いやもううっとうしい。生臭くてかなわん。


だれそれが好き嫌いの話ばかりしている女性は、なにも自分の女房ばかりではないのだ。世のお父さん、安心しましょう。そしてあきらめましょう。
村上春樹の風力発電
なぜそんな辺鄙なところに発電所があるのだろう、と読み進めていくと、大地に穴が開いていて、そこから風が吹き上げてきていて、そこに巨大な円筒が建ててあり、その中に扇風機の巨大なものが設置されていて、大地から吹き上げる風で羽根が回ることにより、発電する、とある。これは風力発電じゃないか。大地から風が吹き上げてくることは、まぁ、ないだろうけど。

1985年刊行の村上春樹の小説「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」にある一節だ。1985年はまだ環境問題が全く言われていなかったし、風力発電は1980年代にアメリカで始まったとあるので、おそらく村上春樹はエコ発電のことを全く知らずに、無意識にエコ発電を小説内で描いているのだろう。
まだ小説は3分の2ぐらいしか読んでいないが、妙に共感する。この作者独特の嫌味ったらしいキザっぽさを差し引いても充分にあまるぐらいの共感だ。それは、僕自身もこの小説の主人公同様、影を失ったのかもしれないからだろうか。影は必要なのだ。つくづく思った。取り返さなければいけない。しかしそれはプライベートの難事がすべて終わったあとだ。来年だろうな。