アレグリのミゼレーレ
世に僕が知らない名作名曲はまだまだたくさんたくさんある。

たまたまFMを聴いていたら、あまりに美しい音楽に驚いてしまった。アレグリの「ミゼレーレ」という曲ということだ。初めて聞いた。無伴奏の合唱曲である。

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調べたら、グレゴリオ・アレグリ(1582年―1652年)はルネンサンス期後期のローマ楽派の代表的作曲家で、この「ミゼレーレ」という曲が代表曲ということだ。音楽はバロックから始まったと思い込んでいただけに、世界はまだまだ奥が深く広いのだと思い知らされる。

この静謐で美しい教会音楽を当時のローマ教皇庁はその霊気を保たんがため、楽譜の複写を禁じた。それで長く楽譜が出版されなかったらしいが、1770年になって、当時14歳のモーツァルトが父親に連れられてローマを訪れた際これを2度聴いて記憶を元に記譜をし、その翌年、このモーツァルトの記譜をもとにイギリスで楽譜が始めて出版されたという作ったみたいな逸話もある。

場合によってはバロック以前の最高傑作らしいが、バロック、古典派、ロマン派、近代音楽、こそがクラシック音楽だと思い込んでいる耳には何か不思議と現代音楽のようにも聴こえる。従来知っている枠の外にあるからだろうか。
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みんなロックで大人になった
NHKのシリーズもの「みんなロックで大人になった」の今日は第3回で「パンクロック」。

ラモーンズ、セックスピストルズ、パティスミス、ザ・クラッシュ。と続き、結局ちゃんと知っている曲はザ・クラッシュの「ロンドン・コーリング」のみだったが、血が騒いだ。僕も結局ロックで大人になったのだから。

全体に通じてあるのは、体制に対する反逆だ。キリストに対して、イギリス王室に対して、政府に対して、企業家に対して、それはこの世界を牛耳っているあらゆる威圧的な存在、権威、に対する、無意識の嫌悪だったろう。この1970年代のイギリスにおいて、あらゆる反逆精神はすべてそこにピントを合わせることができた。だからパンクロックが成り立ったのだ。

翻ってこの現代、若い人の反逆精神はどこにピントが合うだろうか。体制に反逆しても自分に跳ね返ってくる。だからピントはバラバラになるしかない。労働者のデモ行進一つとっても、精彩がないし、筋が通っていない。はては人種差別のデモ行進もあったりして、犯罪まがいのヘイト・スピーチがまかり通ったりする世の中だ。

だから反逆精神のある歌人や詩人やミュージシャンは攻撃目標を失い、フラットになり、無意識にノイズばかりを生産するのだろうか。彼らのとってノイズこそが唯一つのアイデンティティなのかもしれない。

あのパンクロック・ムーヴメントの先頭を疾走しながら突然自壊したセックスピストルズはその最後のステージで、ジョニー・ロットンが観客に向かい「やっとだまされていたのがわかったか、ばかやろう」とつぶやいてその幕を閉じた。後年彼は自分もだまされていたことに気がついた、と言っている。天に向かって唾を吐けば自分に返ってくるのである。今はそんな時代だ。セックスピストルズは何十年も先を行っていたのかもしれない。
西瓜の奈良漬
最初、ご飯と一緒に食べて、大変おいしかったのだけど、これはお酒にものすごく合うのでは、と思い、その日の晩、ビールのつまみに食べたらこれが激うま!それ以来、毎日これでビールを飲んでいて、あと少ししか残っていない。ああ、やみつきになる。これヤバイわ。なくなったらどうしよう。

ということで、本場奈良の老舗、森奈良漬店の西瓜の奈良漬です。西瓜と言っても、あの大きな西瓜ではなく、直径5cmぐらいの西瓜の赤ちゃんを奈良漬にしている。
森奈良漬店
これはなくなったらここで取り寄せるしかない。

これは単品で取り寄せ出来るんだけど、6年ほど前、「お江戸でござる」の杉浦日向子さんがテレビの「はなまるカフェ」でこの森奈良漬店のひょうたんの奈良漬を激賞されていて、でもこのひょうたんは単品では取り寄せ出来なさそうです。残念。詰め合わせで頼むしかないみたい。日本酒にものすごく合うとか。この西瓜も日本酒に合いそうです。ぜひ試さなきゃ。

ものすごくおいしいもの食べると、精神がどこか落ち着いたりする、という効果がきっとあるのだと思った。ほんと、しあわせな気分です。
みんな友達
精神障害者の幻聴や妄想を理解してもらうため、「幻聴妄想かるた」というのが作られ評判になっているらしい。抜粋を読んでみたらなかなか面白かったし、これは統合失調症などで苦しんでいる人を理解する上でいい試みだと僕は思うのですが。批判もあるようだけど。差別を助長するだけだとか。でもやっぱり善意の人の理解を深めることがまず第一だと思うのです。
Yahoo!ニュース

あ…「ありがとう幻聴さん ありがとう大野さん イライラする」
お…「弟を犬にしてしまった」
か…「過去から現在をながめる予言者となった」
こ…「コンビニに入るとみんな友達だった」
ち…「ちょっとだけ将来を考える 後頭部に違和感を感じる」
て…「テレパシーがやってきて 自分の望みがすべてかなった」
な…「なにかやっていないと聴こえてくる」
に…「にわとりになった弟と親父」
の…「脳のなかに機械がうめこまれ しっちゃかめっちゃかだ」
ほ…「星が人々だと思って叫んでいた」
ま…「毎日 金縛り状態」
ら…「ラジオから 自分のことがいわれている」
り…「理由もなくやってくる金属音キーン」


抜粋を読んだだけだけど、結構なんていうか面白い。もちろん幻聴や妄想がどういうことなのか理解するのに役立つんだけど、僕のように俳句や短歌をそれも自由律でやってきたものにとっては、無意識にそういう作品として読んでしまったりするわけで。中でも秀逸だと思ったのは

「コンビニに入るとみんな友達だった」

これは一読笑える。作成者サイドはユーモアを交えて作っていると言っているので、これは笑っていいと僕は思うのだ。強いプラスの妄想を持つとこう思うのは、なんとなくわかるし。ところが「幻聴妄想かるた」から切り離して一般の人が作ったとすれば、それは本当にコンビニに入ったら、偶然友人ばかりいた、ということになる。お互い、へー、偶然だねぇ、ということだ。これは全くありえないことではない。だがちっとも作品としては面白くない。
一方、もしトリッキーで難解な現代川柳の作品一覧の中にこの作品を入れれば、がらっとニュアンスが変わる。それはまるで現代の若者の孤独を逆説的に言っているような、たとえば、「みんな友達に見えるぐらい孤独なのだ」、とか、「だから友達なんかいないんだって」、とか、悪意をこめて「だからみんな友達なんだよ」と言っているとか、つい深読みしてしまう。形式も577で、現代川柳としては特別破調でもなく、かなり考えさせるシリアスな一句に仕上がっているような気がするのだ。コンビニという狭くて閉じた空間にいる見ず知らずの人たちがみんな友達だという虚構は、現代人の孤独の在り処がぱっと見えた気にさせる。

あと
「脳のなかに機械がうめこまれ しっちゃかめっちゃかだ」
「星が人々だと思って叫んでいた」
も現代川柳として深読みできそうである。いや、どれもそんな読みが可能な気がしてくる。

俳句や川柳というのは短いだけに様々な解釈を誘発してくるけど、この「幻聴妄想かるた」はやはりちゃんと作成者側の意図を酌んで読むべきなんだと思う。そしてちゃんと意図を酌んで読んでもわかるし、短詩形文学としても面白く読めた。このかるたがなんだかほしくなりました。