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糞尿をしない犬
今日、近所を歩いていたら、犬の散歩をしている人が、突如周囲をキョロキョロ見たかと思うと、その犬がその場にしゃがんでおしっこをするのだ。そこで突然思いついた。将来、遺伝子工学が発達したら、きっと糞尿をしない犬が発明されるに違いない。技術的にどうやって開発するのかは考えなかったけど、なんの根拠もなく実現可能だと確信してしまった。糞尿をさせる側もされる側も困っているのだから、こんな犬がいたらみんな飛びつくだろうし。
おそらく糞尿を違う形で(つまりきれいな形で)排泄させることが可能だと思うのだ。どんな形であれ、とにかく体内の不用なものを体外に排泄させればいいのだから。

帰る道々、あまり長生きはしたくないなぁ、と思った。

あるいは人間もそうなるかもしれない。
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武力よりルール
なんと1月6日の読売新聞の記事からだ。もうずいぶん前の記事で、書こう書こうと思って、書かないことが最近特に多いのだけど、これだけは絶対書こうと思っていた。日本を外国人の目から見ている。

英国の外交官で東京駐在の経験もあり親日家で、現在はEUの対外政治軍事問題担当事務局長であるロバート・クーパー氏という人の国際政治に関する論説。目から鱗だった。

まず、日本、英国共に中規模国家だと断じる、大国ではなくて。それは「自国の利害を独力で守るには小さすぎる」からで、しかし「こうした中規模国家こそ、世界を武力ではなく、国際的な規則によって統治することに最大の関心を持つ勢力だ」と期待を寄せる。そしてこのような立場を維持するにおいてこそアメリカの傘(安全保障)が必要なのだと説く。英国を含めた欧州も日本もアメリカの傘なくして国際的なルール作りを進めることはできない、と力説する。矛盾するようだが確かにそうなのだ。特に「日本は海外派兵を自ら制度的に禁じる国」であり、この特徴こそが「政治より経済力」「武力ではなくて国際ルール」の国を作ったと高く評価している。

そしてクーパー氏は現代国家を次の三つの段階に分ける。

「近代」国家・・・古典的な国家で、軍隊や政府など国家の制度が整っていて自国の安全保障を基本的に自国の武力に頼る。アメリカ、中国、インドなど現代の多くの国がこの部類に入る。国益のための戦争をすることもあり、時には帝国主義的に振舞う。

「ポスト近代」国家・・・領土拡張や他民族の支配に興味を持たない。自国内での民主制度が確立している上に、紛争解決に武力を用いようとはせず、国際法やルールで解決しようとする。「近代」国家に比べ進化していて、欧州連合(EU)や日本がこの部類に入る。

「プレ近代」国家・・・統治機構が不十分で、国民に最低限の秩序を提供できない国。ソマリヤ、アフガニスタン、など。

う~ん、わかりやすい。
ただEUと日本の違いは周辺の国際環境で、「日本の周辺諸国は、安保や国力についての考え方が古い。武力頼みの国もある。」だから周辺国の考えを変えて国際ルールで紛争を解決するようにならなければ、と説く。

なるほどー、目から鱗でした。日本人はもっと日本という国に誇りを持つべきだ、と言外に言われているような気がした。ひょっとしたら日本は戦後、無意識に「ポスト近代」国家の最先端を突っ走ってきたのかもしれない。周辺国の考え方が古いのだ。確かにそうなのだが、それを変えるのは並大抵のことではない、がやっていくしかない。

クーパー氏は日本人を「本質的に製造業が得意な国民であり、そのデザイン、芸術感覚、創造力はすばらしいの一語に尽きる」と絶賛する。じつはクーパー氏のプライベートでのパートナーはなんとあのピアニストの内田光子さんなのだ。びっくりした。これにはびっくりした。モーツァルト弾かしたら世界中で右に出るものはいない、と絶賛されているあの内田光子だ。まぁそういうこともあって、日本人には甘いのかもしれないが、やはりもっと誇りを持つべきだろう。いい意味での誇りを。そんなに卑屈にならずに。もちろん日本人がこの世界で一番だー、という排他的なウルトラナショナリズムでもなく、適度な誇りを。

しかし日本に対する苦言もある。
「日本はEUに比べ、ルール作りが弱い。EUは国際標準やルールを次々と生み出し、米国をもしのぐ、国際規範作りの最先端地域である。これに対して、日本は米欧が作ったルールに追われるばかりだ。製造業の強さを生かすためにも、規範作りにもっと強くなる必要がある。」

そのためには強い政治家が必要だ。そして日米安全保障を維持しつつ(つまりアメリカの言うことを聞きつつ)、周辺国家に媚びずに考え方を変えさせていき、つまりアジアをリードしていき、欧州に見習って自ら国際規範を整備していく必要がある。それをやれてこそ、真にクーパー氏の言う「ポスト近代」国家になれるのだろう、と思うのだ。なかなか困難な道のりなのだけれど、その方向を見定めて、国民全員がその方向に舵を取るだけでもずいぶんと違うのではないだろうか。

沖縄問題もそういう観点から見ることも必要だと思う。また周辺諸国を納得させる謝罪ももちろん必要で、そのためなら皇室も動いていいのではないか、と思うのだ。

思うに、宮台真司氏の唱える日本重武装論は「近代」国家的で古い。国土を守るだけではなくて踏み込まれたら終わりなので、踏み込まれる前にこちらから攻めることの出来る体制を整えよ、これが日本重武装論だが、それこそ周辺国家の古い考え方に合わせているだけではないだろうか。もっと外部からの目を持って社会学者はものを言ってほしいものだ。クーパー氏のほうがよほど社会学者的である。井戸の中のかわず大海を知らず、である。

また日本がそういう方向へ進むことは世界全体もいい方向に向かうはずだ。クーパー氏の論説を読み、そう信じる自信だけは持てた。日本の外に立って客観的な観点から見て、

日本がんばれ!

なのである。世界から見て日本は相当必要とされている国なのだ。日本しか出来ないことがまだまだあると信じることが出来た論説だった。クーパーさんありがとう。日本人として自信が持てました。
多様性そのものが世界
世界は多様性に満ちている、とよく言うけれど、多様性そのものが世界なのではないか、と思うのだ。その多様性こそが世界そのものなのである。だからその多様性を受け入れていない、ということはこの世界を受け入れていないことになる。

しかしこれは大変難しいことで、この世界にはそれこそ無限に多様性があるからだ。様々な民族、文化、宗教、モノ、生物、それら無限の多様性を認識して受け入れることは、まず不可能なわけで。しかしこの世界には、自分には到底理解できない無限に多様な物事があるのだ、という認識ぐらいなら誰にでも出来る。そう認識するだけで、ずいぶんこの世界への向かい方が変わってくるだろう。まだまだ自分の知らないことがいくらでもこの世の中にはあるのだ、という謙虚な認識だ。これは簡単なようで、年齢が高くなると、頭が固くなり、自分の知らないこと認識したくないことはもうこの世界のことではないように思いがちだ。これはこんなことを言っている僕自身自戒せねばならないわけで。

でも最も難しい多様性は、自分と相反する多様性に対面した場合だろう。人は自分と利害を反する多様性に直面した場合、たいていの場合、うろたえ、絶望する。そして相手を拒絶してしまう。相手の存在を認めなくなる。それはたとえばパレスチナ問題だ。でもそれを解決不可能、と簡単に断じてはいけない。大変難しいことだ、とまず思うべきで。多様性そのものが世界なのだから、自分も世界の一部、相手も世界の一部なのだし。不可能だと思って拒絶するのではなく、この相反する多様性を受け入れることは大変難しいことなのだ、と認識するだけで、もう相手を半分受け入れているのである。相手も同じ思いなら、もう半分以上解決しているではないか。

多様性そのものが世界なのだから、その多様性がいくらでもあるのだと、いうこと、だっていくらでも多様性があることそのことが世界なのだから、このことを認識するだけで、ずいぶんと世界が違って見える。しかしそれは大変難しいことなのだということ、その難しさを認識することが一番大事なことのような気がするのだ。多様性そのものが世界なのだと認識し、その難しさを認識して初めて、一歩前に踏み出せるのである。世界が自身に開かれてくるのである。
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