北朝鮮の中国化
北朝鮮問題は日本人ならだれもがやきもきしながら、どうにかならんか、と気に病んでいるに違いない。

今日、池上彰の番組を見ていて、ふっと今まで全く気がつかなかったことを思いついた。これは池上彰が言ったわけではなくて、この人のわかりやすい説明から思いついたのだけど。

中国は、北朝鮮をアメリカ圏の国(この場合は韓国)との緩衝地帯として重要視していると、これは知っていた。ロシアもそうだとは知らなかったけど。つまり中国はアメリカ圏の国と国境を接するのをひどく恐れるのだと。だから中国は北朝鮮が今のままでいるのがベストなのだと。そうだろうなたしかに。しかし、北朝鮮があまりバカなことをやりだしたらそうも言ってられない。

そうだろう、ここまでが池上彰の説明、ここからが僕の発想。

完全に北朝鮮はもう、無茶苦茶な政治をやりだした。このままなら、米韓が攻めてきて、朝鮮半島統一、になるかもしれない。これだけは中国は絶対に避けたいはずだ。ならそうなる前にどうするか。北朝鮮を中国化すればいいわけだ。属国として、チベットのように。

これはありうる。金正日を説得して、中国に政権を渡すようにすればいいわけだ。戦争をせずに。今の北朝鮮の経済状況ならありえる。これは案外名案かも。すごいぞ、俺。

でも、こんなこと気がついていなかったのは僕だけで、みんな知ってて、水面下でもう進んでいるのではないか、と思い、ググったら、やっぱりあった。

youtube映像①

youtube映像②

青木直人という中国専門のジャーナリストの映像。2008年とちょっと古いが、状況はよくわかる。もうすでに北朝鮮には華僑がはいっていて、経済的に特権階級を形成しているそうだ。その華僑から,つまり内部から中国化していくのが中国の常套手段らしい。血を流さずに相手を併呑する手法とのこと。金正日が死ぬのを待って、本格的な属国化の行動を起こすとか。しかしこれは2年前の状況で、今の状況なら、中国も待ってられないかもしれない。上海万博が終わったら、何かあるかも。

もしそうなるのなら、米韓は大反対するだろう。日本も中国の肥大化をどう見ればいいのか。しかし、世界全体としては明るいこととして受け入れられるだろう。だって暗黒の北朝鮮が解放されるのだから。しかも血を流さずに。きっとその時の中国の主席はこの功績でノーベル平和賞だってありえる。そして間違いなく拉致問題は解決だ。中国は世界中の称賛を浴びるために絶対にこの拉致問題を解決させるに違いない。

朝鮮半島統一は、血を流さずにはありえない。それを思えば、こっちのほうがいいのかも。中国肥大化の脅威は今よりもさらに増幅されることになるのだけど。
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世界の痛み
ある詩人のブログで僕は「相対主義者」というレッテルを貼られてしまった。たしかにそうかもしれない、とも思う。しかしわかるようでわからない、そこでの相対主義がなんなのかは。

ようするに、この世界には圧倒的弱者がいて、彼らの痛みを感じずにはいられないわけで、それを弱者も強者も同じでいっしょくたにしてしまい冷笑しているのが「相対主義者」らしいのだ。僕に関しては、冷笑していない、のはわかってもらったらしいけど、「相対主義者」であることにかわりはない、とのことだった。たしかに僕は強者と弱者を分けるのは好きじゃない。勧善懲悪的なものの考え方には一歩引いてしまう。それで、この世界が見えなくなるのではないか、ということを僕が最も恐れるからだ。

そしてこうも聞かれた。

「うた」が発生するとき、その中心には痛みがあるのではないですか?


それにたいして僕は

うたを作るときに、その中心にたしかに痛みがあるときもあります。しかしそれはこの世界の痛みです。そしてその世界は弱者が中心にいるわけではなく、弱者は一様に遍在しています。そして強者も一様に遍在しているでしょう。


この返答に対して

細見さんがうたを作る時は、細見さんが主体となるのではなく、世界が主体となるということですね。しかしそういうことは実際不可能ですから、とりあえずそういう虚構としての姿勢を取るということですね。そのような虚構が可能と考えるか否かというのは、私たちの決定的な違いを示しているのではないかと思います。


これに対して僕は返答しなかったが、はたして「世界の痛み」は虚構だろうか。僕はここおそらく20年ぐらいずっと「世界の痛み」を感じずにはいられないのだ。

例えば最近のことでいうと、宮崎県の口蹄疫問題、20万頭以上の牛が殺処分対象となっている。たしかに畜産農家の経済的痛み、心理的な痛みは計り知れない。政府にはしっかりとした経済的援助をしてほしいと僕も強く希望する。

しかし、この世界は人間だけが住んでいるのではない。さまざまな生物、あるいはモノが存在している。それらをひっくるめて我々は「世界」と呼んでいるはずだ。

殺処分される牛たちはきっと肉体的痛みを全く感じずに殺されるのだろうし、ぜひそうすべきだと思う。しかし我々人間の幸福のためだけに飼育された牛たちが、また人間の幸福のためだけに殺されるのである。それも20万頭以上も。そこに何か痛みを感じずにはいられないだろう。

例えばこんな短歌がある。

雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁    斉藤斎藤『渡辺のわたし』


雨の道路にのり弁がぶちまけられて、ああ、もうこれはどうしようもないや、という見たくもない光景が眼前にある。その光景は再生不能の現代という時代を象徴しているように僕には思えるのだ。生き物と食べ物の差こそあるが、殺処分される牛たちと「のり弁」は再生不能という次元で、この短歌の中で等価となる。そこがこの短歌の良さ、強さ、であると思うのだ。
メキシコ湾での原油流出事故でもそうだが、世界が傷みゆく光景をこの「のり弁」が象徴しているように思えてならない。もちろんこれら光景として見えてくる傷みだけではなく、見えてこないこの世界の痛みもある。それらひっくるめて「のり弁」が象徴しようとしている、と僕は見る。たしかにこの短歌はとてもクールだ。だが決してそれは冷笑ではない。この世界を真摯に見ようとする熱い思いが僕には感じられる。そこをいったん冷まして短歌にしている。

世界が傷みゆくのを感じる時、「世界の痛み」を僕は感じるのかもしれない。そしてその痛みが僕の短歌の大きなモチーフになっているようだ。それはその詩人のブログで議論していた時気がついたのである。そのブログの人たちをお騒がせしてしまい申し訳なかったのだけど、何でも書いてみるもんだと正直思った。

これ以上この世界が傷んでいったら、いずれ我々はこの世界を悼むことになるかもしれない。そうならないためにもこの世界の痛みをもう少し敏感に感じていきたい、と思うのだ。決して絶望的にはならずに、冷めきらずに。
現代詩手帖6月号
現代詩手帖6月号を取り寄せて、「ゼロ年代の短歌100選(黒瀬珂瀾選)」を今一気に読み終えた。あまりに面白かったので。久しぶりに現代短歌にわくわくしてしまった。

たくさん知らなかった秀歌もあるし、もちろん知っているのも多くあって、選に不満も無いわけではないし、たくさんの歌をここで紹介したい気分だけど、今日はこの一首を書きます。

花の奥にさらに花在りわたくしの奥にわれ無く白犬棲むを   水原紫苑『あかるたへ』


母のことがあって以来、僕もこんな感じでしょうか。痛く共鳴してしまいました。

そのほかまだ読んでないけど、歌人の方が大勢、対談や評論で出演されてます。この号は現代短歌に興味のある方は必読ですね。

それとこれの俳句版も同時収録ですが、これは僕の周りでは不評のようです。まだ読んでいませんけど。

以下の出版社のサイトから直接購入しました。ご参考までに。
思潮社
ソマリアより
ソマリアと言えば内戦、内戦と言えばソマリア、というぐらい内戦の代名詞のような国からやってきた歌手、ケイナーンという人が今度のワールドカップサッカーのキャンペーンソングを歌うということだ。彼はそのつらい体験を打ち消す明るさを常に求めていたという。いわゆるPTSDを打ち消す明るさを、強さを。それだけに文明国の歌手の単に明るいだけの楽曲とは違うようだ。

というか、来週ワールドカップなんだ、忘れてた。それも初のアフリカ開催。これもその意味を認識していなかった。

しばし、目先の選挙しか考えない了見の狭い政治から目を離し、ワールドカップをアフリカをちゃんと見ていこうと思う。人類みんなの祖国アフリカを。