「私の心の中の朝鮮学校」日本語版出版記念イベントin大阪
野樹かずみさんに誘われて、会場である在日大韓基督教大阪教会に行ってきました。民族主義的なことがあまり好きでないので気が乗らなかったのだけど、バッハの無伴奏チェロ組曲の演奏が演目にあり、それが聞きたかったのと詩人の河津聖恵さんの朗読。それと会場が歩いて15分のところにあり、ほんとすぐ着いてびっくり。仕事終わって夕飯済ませてちょっと歩いていくのにちょうどよかった。

肝心のバッハは、チェロ奏者の任キョンアさんが足を骨折されたとかで少し不調でしたが、他の演奏は素晴らしく、特にスライドに映しだされる絵の制作過程を見ながらの彼女の即興演奏は圧巻でした。シューマンもよかったし。チャンセナプ(オーボエのような管楽器)とピアノとの三重奏も聴きごたえがありました。

「私の心の中の朝鮮学校」という本は朝鮮学校の子供たちの絵に韓国の俳優クォン・ヘヒョさんが文章をつけている。その文章の一部を在日コリアンの詩人、許玉汝さんが原語のハングルで、河津さんが今回翻訳された日本語訳で交互に朗読していく。

聞いてて思ったことは、僕自身が在日コリアンの世界を何も知らなかったことだ。特に、彼らの位置づけをほとんど考えたことが無かったことに気がついた。彼らは朝鮮半島の北でも南でもない統一コリアに根ざしていて、しかもこの日本に在る。このことは喧嘩ばかりして仲が悪いことでたぶん世界中に有名なこの三国の拠り所となる位置に彼らは自ずといることになるだろう。在日コリアンの社会こそ、北東アジアの要となる社会なのではないのか。我々日本人は日本人であることを考えるのと同時に彼らの存在にも思いを寄せなければならないだろう。北東アジアの住人としてもっと意識しないといけないと思う。なんとか彼らを頼りにこの三国が交流して行ければと願う。今日はこれがわかっただけでも行ってよかった。領土問題でガタガタしている昨今、日本人として自分の立ち位置がわからなくなっていた矢先、何か救われたような気になった。

しかし、行きも帰りも教会の入り口のところで、在特会が一人でがなってたのはとても不愉快だった。日章旗と旭日旗をはためかせながら。でもたった一人で完全アウェーなのだからご苦労なことだけど。

明日は神戸で歌会。岩尾淳子さんの歌集批評会である。
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アルヴォ・ペルト「アリーナのために」
youtube「Arvo Pärt, Für Alina」

バレエ、じゃなくて、舞踏、だと思えばいいんだ。英語と日本語でずいぶん印象が違う。
もともと舞踏のための音楽ではないと思う。

舞踏で表現したいのは行き場のない現代人の閉塞感だろうか。
モノトーンの舞台と衣装、そしてとても静かな祈るようなピアノにひきつけられた。
仕草が時々面白くて、結構笑いながら見た。
特に、男女がお互いの足を踏もうとして踏み競っているところは、ああ、夫婦ってやだなー、とほんとに嫌になった。僕のところはこんなんですから。

踊っている人は誰だか知らないが、音楽はアルヴォ・ペルトの「アリーナのために」というピアノ曲。
アルヴォ・ペルトは1935年生まれ。エストニアの作曲家。名前も音楽も初めて聞いたけど、静かで僕の好みだ。

最もよく演奏されるという「フラトレス」も大変よかった。クラシックにありがちな大仰なところが微塵もない。

「Arvo Pärt: Frates (for cello and piano) (1989)」
鈴木博太「ハッピーアイランド」
今年の短歌研究新人賞受賞作、鈴木博太さんの「ハッピーアイランド」30首を読んだ。

以前からタイトルは知っていたので期待はしていたけど、全く予想以上だった。
30首があっという間で、読み終わった時、まだあると思ってもう1ページ捲り、別の人だったので、ああもう終わりなのか、もうこれ以上はないのかと、なんと残念だったことか。あと100首ぐらいはこの調子で読みたいと切に思った。今まで20首、30首の連作は何度も読んだことがあるけど、ここまで思ったのは初めてだ。どんなに優れた一連でもここまでは思わない。

選考委員5人のうち、一位が3人、二位が一人、3位が一人、とぶっちぎりである。今回受賞を狙っていた人は相手が悪かったと思って観念するしかない。

以下、30首から8首のみ抜いた。

鳥籠の後ろの正面惨後憂き上は大水下は大火事
ゆでたまごをれんじにかけるとおくからおもしろそうなハイぼくのこえ
歳ガ素の人がオトずれ「フッキュウにヒト尽き」「ここハマッタンでして」
とりあえず窓を閉め切り出来るだけ出ないおもてに奔と卯のそら
Dieコンノへ んナカタちがテント ウニナラびはじメタハチがツショじゅん
フクスィマにいきたくない使徒フクスィマでいきたく死と うえのえきなう
ふりかえるトきがあるナラみなでまたやヨイとおカヲやろうじゃないか
ふるさとはハッピーアイランドよどみなくイエルダろうか アカイナ マリデ
「短歌研究9月号より」


鈴木博太さんは福島県いわき市在住。それも福島第一原発から40キロの距離。避難しなくていいのだが、避難しなくていいだけに最も過酷なところだったのかもしれない。

表記が特殊だ。選考委員の一人、加藤治郎氏の批評が非常にわかりやすかった。
つまり、平仮名、片仮名、漢字交じりの表記でまるで誤変換のように文節をズタズタに破壊してゆく。その破壊された文節が日常の比喩になってて、だからこれは表記的な喩、というわけ。それは福島の人にとって体に直接的な痛みがあるわけでなく、でも放射能は危険だと言われて現実が歪んでいるようにしか見えない。その歪みがこの表記に表れているという。

なるほど見事な表記的な喩です。ため息が出るぐらい。

ということで、あえて上の8首をここでは解読しない。なぜなら、読み解く楽しみを奪いたくないからだ。読み解けた一瞬、読み解けたという快感に襲われ、その次の一瞬、福島の人の苦悩がせり上がってきてそれと同化してしまう。快感と重い傷みがほとんど一緒に胸にズンと来る。この不思議な感覚は他では絶対に味わえない。他人に解読してもらったところで、感動は半減する。だからネタばれ厳禁なのだ。

そして同化することで、フクシマを悼むことになるだろう。我々はまだフクシマを悼んではいない。それどころか責任の所在の追求ばかりに熱心で、フクシマそのものからは逃げてしまっていないだろうか。我々一人一人がフクシマを悼むことから始めないと、フクシマをのりこえてゆくことはできないだろう。フクシマをのりこえずに未来はない。

もちろん表記的な喩を駆使した歌ばかりではなく、普通の表記の歌の方が多く、全体にバランスが取れてて、一連として読んで初めて感動できるのかもしれない。ぜひ30首全部読んでいただきたい。

ふりかえるトきがあるナラみなでまたやヨイとおカヲやろうじゃないか


何度読んでも泣きそうになる歌だ。我々はフクシマについて一度泣くべきなのだと思う。怒るばかりではなくて。博太さんはそれを教えてくれた。ありがとう、博太さん。本当に大変だったんですね。そのことがこの30首を読んでよくわかりました。

この震災や原発事故を扱った文学作品は多々あるのだけど、これがその白眉ではないかと思うのだが、どうなんだろう。
被害者と加害者
今頃、去年の『未来』を読んでいる。

ちぎられた羽根が散乱する部屋で僕たちはみな被害者である    北原亜紗未
ここに血が流れなくとも残虐な僕たちはみな加害者である         〃
(『未来』2011年10月号彗星集より)


人間なんてのは誰でも被害者意識を持ちたがるが、加害者意識は絶対に持ちたがらない、と事あるごとにあちこちで僕は言っているが(で嫌われているが)、やっぱりみんな、被害者であり加害者なのだ、とこの二首を読んで納得した。

フクシマにおいては、日本人はみんな被害者面するんだけど、僕からすれば、深刻な被害を受けた福島人のみが被害者であり、それ以外の日本人はみんな電気を使う側にしか過ぎないのだから、れっきとした加害者である、とこれもあちこちで僕は言ったが(その度に嫌われたが)この2首を読んで考えが変わった。

言いなおすと、福島人はやはり被害者でしかない。これは当たり前だ。しかしそれ以外の日本人は皆、被害者でもあり加害者でもあるのだ。これが感情的ではない、そしてイデオロギー的でもない正確な言い方だろう。少しは僕も丸くなったか。これで嫌われなくなるか。いや、やっぱり福島人以外の日本人は皆、自分は被害者でしかない、とやはり思っているのなら、これっぽっちも加害者と思っていないのなら、やっぱり僕はこれを言うと嫌われるだろう。

でもどんなに嫌われてもやっぱり言うしかない。一人一人が加害者意識も持たないと、社会が円滑にまとまることは絶対にないのだから。何が起こっても全部お上ばかりのせいにするのはもううんざりである。政府や東電ばかりに責任があるのではない。電気を垂れ流し的に使い続けた我々一人一人の方にこそ責任があるのだから。政府や東電のせいにしたいのは責任を自身から転嫁したいだけなのだろう。

上の2首は別にフクシマのことを言ったわけではなくて、もっと素朴な感情だろうと思う。それだけに純化されていると思った。女性なのに〈僕たち〉と言うところがまたいいのかも。これが男性の作品ならどう感じただろうか。おそらく、男性が〈僕たち〉と言うと男性のことのみ言ってるようなニュアンスがどこか残るのだけど、女性が〈僕たち〉と言うと男女を越えて完全な一人称複数として作用するのではないだろうか。短歌実作者としては女性の方が得してるような気もするけど、おっと、これが被害者意識か。あぶない、あぶない。
尖閣諸島はヤギの領土?
都の尖閣調査 ヤギの食害、洞穴など確認(八重山毎日新聞)

尖閣諸島はヤギの食害が深刻でこのままだと生態系や島の形状が変わるかもしれないという。
とりあえず尖閣諸島はヤギの領土ってことでいいんじゃないの。
どうせどこの国の人間が入っても生態系や島の形状が変わるんだから。