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小津安二郎監督『宗方姉妹』
小津安二郎監督の『宗方姉妹』(1950年)を観た。三日前、『晩春』を小津監督作品としては初めて見て、いたく感動してしまい、そのあと三日連続で『麦秋』『宗方姉妹』と観た。
『晩春』は特に描写や物語の展開を抑えることでちょっとした表情の変化などを際立たせていて、昨今の派手な映画やドラマとは全く違うストイックさを感じて小津安二郎にはまってしまった。小津作品に対して食わず嫌いだったことを思い知らされた。

『宗方姉妹』は『晩春』程の感動はなかったけど、高峰秀子の圧巻の演技に圧倒された。弁士の真似をして上原謙をからかう場面だ。こんな女優さん今いない。
でも特に印象に残ったのはやはり田中絹代演じる姉が高峰秀子演じる妹にこう諭す場面だ。

「私は古くならないことが新しいことだと思うのよ。ほんとに新しいことはいつまでたっても古くならないことだと思ってんのよ。そうじゃない? あんたの新しいってこと、去年流行った長いスカートが今年は短くなるってことじゃない? みんなが爪を赤くすれば自分も赤く染めなきゃ気がすまないってことじゃないの? 明日古くなるものでも今日だけ新しく見えさえすりゃ、あんたそれが好き? 前島さん見てご覧なさい。戦争中先に立って特攻隊に飛び込んだ人が、今じゃそんなことケロッと忘れてダンスや競輪に夢中になってるじゃないの。あれがあんたの言う新しいことなの?」


要するにいつまでたっても古びず時の試練に耐えていくものを見極めろということだ。新しく出てくるものにもそういうものがあるのだが、なかなか見極めるのが難しかったりする。言うことはよくわかるし共感するが、刹那的なものにも面白いものはあるのだけど。

言えることは高峰秀子の弁士の真似に68年の時を経て大笑いできたので、これは真に新しいことなのでしょう。それと共に小津安二郎の映画も今になって感動できてそれは真に新しいものなのだと思う。

小津作品は著作権切れなのだろうか、youtubeで簡単に見ることができる。年末年始は小津安二郎祭りになりそうだ。
さて今日はどれを見よう。
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高校国語から文学が消える?
今日の毎日新聞から阿部公彦さんと田中和生さんの対談。

大原 「国語教育やテストから文学が消える」という議論がありますね。紅野氏の新書で問題が指摘されています。

阿部 「国語」を形式的な論理を学ぶ科目ととらえる考え方が跋扈しているんです。

田中 言語を一種の情報ツールとみなす考え方ですね。

阿部 そうなんです。かつて科学が発達しつつあったイギリスでも同じことがあった。「物と言葉は一対一の対応が可能」という考えです。文学者は反発した。言葉と物が完全に重なるという理念に依存するのは危険です。人間には思惑があるから、言葉はつねに表面的な字義と含意がずれる。それを先鋭に表現するのが文学。それに、誤解や意味のずれからこそ、新しい認識や文化が生まれる。文章の根本にはそういう把握困難な「他者性」があるということを、さまざまな出合いを通して生徒に実感させるのが国語の本務だと私は思います。

田中 一対一で対応させるのは、それぞれの人間にある言語のデータベースが一致しない以上、不可能な夢という気がしますね。教育現場にその考え方がやってくるのは危険で、そこでは文学を読むことが不可能です。でも、メール一本打つのでも文学的な言葉の使い方をするし、情報だけでは返事ももらえない。


物と言葉が一対一に対応していないからこそ、そのずれから様々な豊かさが生まれてくる。
そして言葉は常に変わろうとしている。辞書に載っている意味はほんの参考程度に過ぎないのだから。