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『いま、社会詠は』(青磁社)
『いま、社会詠は』を読んで、短歌において社会がどう扱われるのか、あるいはどう扱えるのか、様々なことを思ったが、ここでは簡単に以下のことのみ記したい。

p.79の大辻氏の弁で、

歴史を見るときものすごく気をつけないといけないのは、僕らは歴史の一番最後にいるわけです。いつも結果論的に裁断できる立場にある。


そうだ、確かにあとからならいくらでも言えるわけである。後になって戦火想望歌が軽薄だとか言っても、じゃあ自分が当時生きてたら何を歌ったか、わかったもんじゃないわけで、後出しジャンケンのようなものだ。だから小高氏のように後のことを恐れて何も歌わないことは歌人としてどうか、という意見はよくわかる。そのとき感じたことをストレートに詠む。それが歌人の業だ、という大辻氏の意見には激しく同感せざるをえない。歌人たるものそんなことを恐れていては歌人の役目は果たせないだろう、ということだ。

だが、だからと言って岡野弘彦歌集『バクダット燃ゆ』がどうなのか、とはまた別問題ではないか。

戦時中は言ってみれば価値観が一つしかなかった。日本は戦争に勝たなければいけない。英米は鬼畜である。人間ではない。だからやっつけないといけない。という極論すれば単純な価値観のみだ。
戦後冷戦時でも価値観は二つである。左か右か。歌人もどちらかに付くよりほかない。どちらの側にしろ善悪ははっきりしていた。短歌というのは自分に引き寄せて自身の感情に沿って歌うことが多く、善悪がはっきりしている方が社会詠としては扱いやすかっただろう。
だが現在はp.16で小高氏が言われるように「善悪が入り混じり、入れ子状態にならざるをえない」時代である。冷戦構造が解体し、何が善で何が悪なのか全くわからなくなり、価値軸を求めて彷徨わざるをえない時代である。あるいは環境問題が勃興し、人間のやることすべてが否定されかねない、こんな時代に、ただ単純に反米だけで事足りるとする、アメリカさえ悪者としてしまえばすべてのことが解決すると確信しているような稚拙な思想の短歌を僕は読む気にはなれないのだ。だからそれがいい歌か悪い歌かの判断の前に、判断中止に追いやられてしまう。

『バクダット燃ゆ』の場合、今これはおかしいんじゃないか、とわかるわけで、戦火想望歌は後になってやっとわかるわけである。一緒にはできないのは当然だろう。

社会認識が歌より先に立つとは思わないが、最低限の社会認識は必要なんじゃないか、と思うのだ。

またこれと関連したことだが、p.57下段からp.58にかけて、大辻氏が島田脩三氏の小高批判を引用されていて、二人して「トータルな社会認識」は可能なのか、と問い詰めている。

これに対して小高氏の代わりに答えさせてもらうと、もちろん「トータルな社会認識」など可能なはずはない。しかしだからといって、それを最初からあきらめるのはどうだろうか、と思う。人間というのは常にこの「トータルな社会認識」を目指して進歩してきたのではないだろうか。そしてこれからもそれを目指してやっていくのだろう。たとえ到達しないとわかっていてもだ。それが人間である。それが人間の仕事なのだ。それを進歩主義と揶揄するのは、じゃぁ、歌人は短歌さえ作っていればそれで済むのか、と逆にこちらが聞きたくなる。
「トータルな社会認識」を最初から拒絶したような社会詠を僕は到底読む気にはなれない。

確かに今、社会詠は難しいのだろう。単純な善悪にのみ頼っていたかつての社会詠の文脈ではむしろそれは不可能だ。『バクダット燃ゆ』はその単純さに寄りかかったかつての社会詠の最後の歌集なのかもしれない。
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