人を殺せる人間と殺せない人間と
土浦の8人殺傷事件に続き、岡山のホームからの突き落とし事件、こういった無差別殺人の一方で、硫化水素中毒による自殺がネット発で流行しているという。練炭自殺の新ヴァージョンらしい。
突発的な無差別殺人の流行と硫化水素中毒自殺の流行。この二つの流行から見えてくることは多いかもしれないが、まず思ったことは、人間には人を殺せる人間と殺せない人間がいるのだろう、ということだ。つまり追い詰められると、他人を殺傷する方向に向かう人間、と自分を殺傷する方向に向かう人間の二種類に分けられることになる。

神戸の酒鬼薔薇の事件のことで、あれは誰にでもありえることだ、とか言う人が結構多いのだが、それはこちらにはぎょっとするより他に無い。あの事件を自分にもありえた、と思える人はやはり人を殺せる人間の側としか思えないわけである。それはあなたにはありえたかもしれないが普通はありえないことだろうと、どうしても思ってしまう。しかしそんな人でも最後本当にナイフを他人の肉体に刺せるのかどうかは別である。つまり殺意が本当に実行されるのかどうかは別だろう。人間、殺意があっても本当にそれを実行するのはごく稀だからだ。

こういうふうに人を区別することは差別につながるかもしれない。がしかしたとえば最近の殺人事件で広汎性発達障害や統合失調症の人が事件を起して、彼らと同じ障害の人が危険視されたりすることはまさしく差別以外の何物でもなく、障害だからおかしい人だから殺人を犯したのではなくて、元来人を殺せる資質があったからこそ、そしてそれを実行できる勇気と資質があったからこそ殺人に至ったわけである。その資質があった人がたまたま障害もあっただけのことである。これは間違いない。こういったことを考慮すれば、人を殺せる資質がある人間とない人間とを分けて考えることは差別にはならないと思う。むしろ無用な差別をなくすことになるだろう。

また、オーム真理教のサリン事件やアルカイダの自爆テロ、靖国をいただく特攻隊などは、狂信的なグループに人がいる場合の特殊な例として考えたい。どんなに人を殺せる資質のない人間でも、ああいう狂信的なグループにいれば、たとえばサリンの入ったポリエチレン袋を傘で刺すぐらいはやるかもしれない。ぼくだってそれはやったかもしれないし、自爆テロも狂信的に何かを信じればやったかもしれない。もちろんその勇気があればの話だが。

ぼくがここで言いたいのは、その人が追い詰められた場合、全くその人個人の判断で殺人まで至れるのか、至れないのかということである。また一般的な正当防衛は別に考えたい。

ただ、もう一つ考慮しなければいけないのは、その時代のもつ空気のようなものである。
最近の若い人の間では、社会が加害者で自分はその被害者なのだ、という意識が強い人がどうもいるようなのだ。だから極端に言えば、道を歩いている他人は社会以外の何物でもなく、それは自分にとって加害者であり、敵なのだ。だからそれをやっつける、ということは自分は正義を実行していることに過ぎないのだ、という怖ろしい被害妄想が実際にあるらしい。今度の殺人事件はそのあたりから来ていそうだ。ここまではいかなくても結構普通に若い人の中でも、もっと軽い被害妄想として、単に自分が社会の被害者だと思っている節があるのは僕の周りにも感じられる。こういう人たちの中には、自分こそが社会なのだという当たり前の意識が、怖ろしいほど欠如しているように思えてならない。要するに社会に対する甘えである。それ以外の何物でもないだろう。十代、二十代前半の子供ならいざ知らず、三十歳も過ぎてこんなこと思っている人はやはり大人とは言えない。

しかしだとしても、そういう被害妄想的な追い詰められ方をしても、最後に人を殺せる人間と殺せない人間に分かれるのだろうと思う。それは理性があるかどうかの問題というより、資質と勇気の問題だと思うのだ。
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コメント
この記事へのコメント
これはね、戦争体験があるかどうかによって大きく異なりますね。
戦後PTSDというか。

「就職戦争」をくぐると自分以外の人間は全て敵だと思えてくるね。
控えめにいっても誰も信用できない。

自分にもそんなふうに考えていた時期がありました。
今の若者もそうなるんじゃないかな。
2010/12/09(木) 15:28:26 | URL | モルスァ #-[ 編集]
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