笹井宏之歌集『ひとさらい』
短歌をやっていると、時折未見の新人の歌にガツンと喰らわされることがある。2004年に短歌の世界に入って以来、以下の4首にそんな印象を受けたことを記憶している。

「蠅はみんな同じ夢をみる」といふ静けき真昼 人を待ちをり     
魚村晋太郎『銀耳』
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって       
中澤系『uta 0001.txt』
雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  
斉藤斎藤『渡辺のわたし』
それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした  
笹井宏之『ひとさらい』

それぞれの歌がそれぞれの歌人の個性をくっきりと映し出しているが、今回はこの中での最年少で最新の歌集、笹井宏之歌集『ひとさらい』を少し取り上げたい。

一読まず「めくるめくメタファー」という印象を受けた。C難度はもちろん、平気でD難度E難度の修辞を駆使してくる。
去年10月のJ歌会京都で土岐友浩氏から「最近は虚構の世界をクリエイションできる想像力が弱まっている」という発言があり、一同うならされた。確かにここ十数年来、現実が虚構を簡単にのり越えてくるわけで、虚構に頼る方向の文学はこの現実にだんだん歯が立たなくなってきたのだ。現実と太刀打ちできない以上その虚構にはなんの存在価値もなくなってしまう。
だが今回この歌集を読んでみて勇気付けられた。「虚構の世界をクリエイションできる想像力」はまだ弱まっていないのだと。それは作歌する側の感受性の問題なのだと。少なくともそれを跳ね返す力が笹井にはあるのだ。まだまだやれるぞ、と武者震いさえ起こってくる。

「ごみ箱にあし圧縮をかけるとき油田が一部ばくはつするの」
骨盤のゆがみをなおすおかゆです、鮭フレークが降る交差点
シャッターを切らないほうの手で受ける白亜紀からの二塁牽制
かんてんの気泡のなかで二枚ほどまぶたの貸し借りをおこなった
水田を歩む クリアファイルから散った真冬の譜面を追って


これらは俳句における攝津幸彦の技法をすこし思い出す。俳人の野口裕氏がこの攝津についてどこかで述べていたと記憶しているが、それは「はぐらかしの喩法」だというのだ。その言葉から次の言葉につながる期待(あるいは必然)を次々に裏切ってゆくというのである。

一月許可のほとけをのせて紙飛行機     攝津幸彦
睡蓮に音ありあひる快楽す             〃
物干しに美しき知事垂れてをり           〃
宇宙是れ洗濯板にヒヤシンス           〃
定型やヴァイオリンにて野菊打つ         〃

笹井はおそらく攝津を知らないだろうから、これは生まれつきの天然と解釈すべきなのだろうか。塚本や岡井や加藤治郎にもそういう技法はもちろんあるが、最初からはやらなかっただろうし、ここまで徹底的にはやってないはずだ。
この「はぐらかしの喩法」が出てくる背景は、おそらく期待通りに言葉をつなげることに対する苛立ち。それはこの世界の装置の一つ、あるいはピースの一つに自分が納まる事に対する苛立ち、とでも言ったらいいだろうか。どこまでも自由でありたい、という人間本来の願望、を定型詩という不自由な詩形でやることで倒錯的な快感を得る、とでも言えるだろうか。僕自身にこそそれがあるのかもしれない。だからこそ他の表現者にもそういったことを敏感に感じるのだけなのかもしれないが。

あともう一つ気がついたことに、表現の位相、とでも言うべき問題がある。最近ずっと僕自身後ろ向きの歌ばかり作っている。というか「表現の位相」なるものに、この歌集を読んではじめて気づかされた。というのは笹井は後ろ向きでも前向きでもないのである。そういう歌がしきりと目に付く。

三階でとてもいいひとになってる主婦のかたちをしたホ乳類
からっぽのうつわ みちているうつわ それから、その途中のうつわ
簡潔に生きる くらげ発電のくらげも最終的には食べて
このケーキ、ベルリンの壁入ってる?(うんスポンジにすこし)にし?(うん)
「スライスチーズ、スライスチーズになる前の話をぼくにきかせておくれ」
この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい
こん、という正しい音を響かせてあなたは笹の舟から降りる


もちろん前向きの歌もあるし、後ろ向きの歌もある。ただ前向きでも後ろ向きでもない歌が特徴的なのだ。たとえば俵万智は前向きだろう。これは異論が無いはずだ。加藤治郎は後ろ向きと解釈している。もちろん前向きの歌もあれば、どちらでもないのもあるが、後ろ向きの歌が特徴的なのだ、少なくとも後ろ向きの歌ばかり作っている僕にはそう感じられる。穂村弘はどうかといえば、前向きでも後ろ向きでもないと言えるだろうか。だが笹井とは立ち位置が違うようだ。穂村はこの世界の中に在って前向きでも後ろ向きでもないことを飄々と言う。笹井は世界の外側に立ってこの世界を見つめ、淡々と冷静にこの世界が前向きでも後ろ向きでもないと述べる。穂村は人間の視点だが、笹井は神の視点、あるいは四人称の視点とでも言おうか。僕はこの笹井のような視点に弱いので、笹井の方に惹かれるが。
先ほど発刊された『新彗星・創刊号』の鼎談で澤美晴氏が以下のように述べている。

言葉主義って、窮屈というか、閉塞感をもたらしてしまうこともあると思うんですが、笹井さんの歌は、言葉に比重があっても、風通しがいいように感じています。それは、世界に対して思いを届けたいという芯があるからだと思うんですね。一首ごとが祈りのように感じています。


全く同感だ。僕の思いを代弁してくれている。喩に頼りすぎると表現が閉塞していく。これは常に僕個人自戒しなければならないことで、だが笹井の歌にはその閉塞感があまり感じられない。

それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした


この歌集で僕が最も衝撃を受けたこの歌は、ではなぜそんなに衝撃を受けたのか。それはきっと澤氏が言うように、「世界に対して思いを届けたいという芯がある」からなわけで、前向きでも後ろ向きでもない、つまり肯定も否定もしたくない世界、これをなんとか表現したい、という祈りのようなもの、それがこの歌の芯にあると感じたからだろう。それはおそらく切実な願いなのだと思う。はっきりと後ろ向きと決まったこの世界に対して、その祈りははっきりと前向きだからだ。その明るさがおそらく「世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさ」なのである。それは澤氏が言うように「風通しがいい」世界なのだ。そしてこれが僕が便宜的に言った「神の視点」なのだ。これは世界の中にいるだけでは、つまり人間の視点では見えない世界だ。世界の外に出て初めて見えてくる世界である。

話は戻るが、ちなみに俵万智は人間の視点で前向き。だから万人に受けたのだろう。加藤治郎はおそらくそのすべての視点を有しているかもしれない。そしてすべての方向を向く。全視点全方向なのかもしれない。この歌人は一口では言い表せないようだ。

思うに、最近はずっと後ろ向きの歌がトレンドだと無意識に感じていたが、この歌集を読んで、ひょっとしたらトレンドが変わったのかもしれない、とはじめて考えさせられた。もういい加減後ろ向きになるのにはみんなうんざりなのか、僕自身も含めて。現実があまりにも後ろ向きだからだろうか。でも、前向きでも後ろ向きでもない表現の位相。これを実際やるのは綱渡りかもしれない。あるいは体操の平均台に喩えたほうがピンと来るかもしれないが。

時代が決して後ろ向きではなかった80年代に前向きでも後ろ向きでもない位相を保つことは、クールな印象を与えただろう。だがそんなに綱渡り的に難しかったわけではないと思うのだ。そこでアクロバティックな表現をすることは体操でたとえるなら、床運動で難度の高い演技をすることに相当するだろうか。それはそれでもちろんすばらしい演技なのだが。しかし今はっきりと後ろ向きの時代に、前向きでも後ろ向きでもない位相を保つことは、バランスを取らないとなかなか難しいように思える。バランスをとらないと、前向きか後ろ向きかどちらかの方向にこけることになる。こければざまぁない。そのバランスを取りながら笹井はアクロバティックな演技をしてくる。それはたとえば平均台で難度の高い、バクテンのような演技をするようなもので、極めて新鮮な印象を与えるだろう。

絶妙にバランスを取りながら、難度の高い歌をものにしてくる笹井宏之という歌人が、その才能も人間性も含めて、これからも大いにこちらを期待させてくれそうだ。


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