日本語の醍醐味
 角田純さんの第一歌集「海境(うなさか)」を読んだ。読了して思ったのは、高度な修辞に乗せて日本語の音と意味を短歌の韻律に高密度に編み込み、日本語の醍醐味というものを十分味あわせてくれたことだ。読んだ後はしばらく軽い酩酊状態になる。日本人に生まれてよかったなぁ、とつくづく思わせてくれる歌集である。

草叢に墜ちたる鳥のごときかな霧にまぎれてあさの水際へ
今朝もまたみぎわに鷺が挫折とふいひわけあまた振り撒きながら
ただ朝を掬ひあげたるのみにして灰緑(くわいりょく)のかぜ頬をぬらせり
星あまたねむるがごとくこゑ絶えて悪徳の〈徳〉輝(かがよ)ふわれら
酸(す)ゆさとはこころの軋り群れつどふ海鳥あまたあざけりを秘め
泥濘(ぬかるみ)にこゑあららげる鷺はゐてつぶやいてみるあさの憎悪を
わたつみの海(わた)の底なる淀みかな葬(はふ)りの雨はうすずみのあめ
たまきはる蝉の薄羽のかろさかなみどりの刻(とき)をはつか剖(ひら)きて
我がほねを搏(う)ちてはばたく化石(いしぶみ)の候鳥(とり)はゆきたり。水漬くこひびと
きさらぎはひかり降るつき苦しみのほどかれしごと繊(ほそ)き雨ふる
かぜに晒(さら)すよごれた朝のわたくしのさびしき一樹(ひとき)たちて黙(もだ)せり
首提げて野の道ゆきぬそこまでの噫(ああ)そこまでのさびしい夢が
籠りゐしひと日はあめの雨垂れのくらき乳房を伝ひゆく見ゆ
やがてまた汚れたよるが来るだらう澱むみなもに雨はやさしく
うつくしき法則にしもあらざれどよるに啄ばむあをい仮説を
陸(くが)を背にさけびたきかな、海境(うなさか)へゆけゆきつけよぼくの葦舟
ねむり濃き快楽(けらく)のひるのうたかたのたとえばくらげ或いはひとで
僕はぼくはどこへ流るる哭きながらくらい水路に舟を浮かべて
真白(ましろ)なるつきかげは地に滲みてをり。舌滑らかに偽りをいふ
朽ち果てし砂の上(へ)の舟としつきは梳(くしけづ)るがにみづの記憶を
やはらかき闇截(き)りひらき舟を漕ぐをとこのせなか手触(たふ)るれば雨
押しやれどまた戻りくるその骸(むくろ)。或いは〈蹉跌〉かも知れなくて
まなうらの痕(きず)に凍み込む蜜なれや、やさしい鳥が恐怖(テロル)をうたふ
朝の陽が溶けだすころの湿地かな雨の匂ひの乳房を提げて
そのこゑは届きたりしや耳底をながるる水のみづの嘆きを
みづのやうに流るるひかりわたくしはわたくしを鎖すゆめを匂はせ


 美しい歌片が滔滔と流れる。
 僕は口語短歌をこれからも作り続けると思うが、逆にこういった文語短歌を鑑賞することがいかに自分の血となり骨となるかを今回思い知らされた。日本語が今まで長い時間をかけて積み重ねてきたその積分値と言えばいいのだろうか、そのようなものがこの歌集全体の通奏低音とし機能しているような気がする。しっかりとした言葉の土台の中央にでんと座って朗々と角田純は詠う。即席の文語ではない日本語を知り尽くした文語だろう。ぼくらはだれでもこの歌集の文語の難しそうな修辞のどれをも、実はもともとからだの中に通過させる素地を持って生まれてきているはずなのだ。僕はゆっくりと一つ一つの歌片を体の中に刺し入れて漂わせ、細胞の一つ一つに言葉が溶解していくのを味わう。そのとき人間は言葉で出来た物体と化するのだ。

 方法論的にもエクリチュールとしても、おそらく新しいものは何もないだろう。でもそういったことは全くどうでもいいごく些細なことのように思われてならない。いったい「新しい」といったことにどれほどの価値があるものなのか、一度それらをこれらの歌片に並べて提示してみればいい。短歌において何が一番重要なのか、かえってそれがはっきりわかることになるのではないか。言葉が揺るぎ無いというのはこういうことを言うのだ。
 今年最も注目される歌集の一つになるように思われてならない。
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