岡井隆歌集『二〇〇六年水無月のころ』より一首評
ニュートラルな立ち位置。それだけが信頼できる時代となってしまった。

以下、『未来』2008年5月号に掲載してもらったぼくの文章です。

おほよそは神社は暗いところだがそこに在る神はみんな同じだ      (p.70)

この歌だけだと、神社だけの話で、日本国内の神道のことだけで終わってしまいかねないが、この歌に続く注釈には、作者の先祖が神社の神官で、その一方幼児期よりキリスト教の雰囲気の中で育ったとあり、さらに「神社にも教会にも、比較的冷静に反応できるのはそのためかもしれない」とある。結果としてこの歌の「神社」にはあらゆる宗教施設を匂わせる仕掛けが仕組まれている。つまりあらゆる宗教、それはキリスト教であれイスラム教であれ仏教であれ神道であれどんな新興宗教であれ、その施設はどこもなんだか暗いところでそこに在る神はみんな同じだ、という歌の解釈に読者は誘導されざるを得ない。
 人は誰しも何らかの宗教あるいはイデオロギーに頼って生活している。無宗教と言われる日本人とて例外ではない。特に昨今、右よりのナショナリストが横行して憚らない。おまえは宗教は何か、あるいは右か左かを常に問われなければならない息苦しい世の中だ。「テロリズムに加担するか文明の側に立つか問う単純のすでに仮借なく」(近藤芳美)という世の中である。
 そんな中、結局どこの神も同じ神だよ、と言い放つ。すべて神は同じようになんだか知らないけれど暗いところにおわすのさ、と。そこには宗教だけでなく、あらゆるイデオロギーからも自由なイデオロギーフリーの立場が窺えるだろう。
 同じ日の一連に「靖国つてよく判らない、判らなくてかまはぬ仕事のために行きぬ」とある。これは同じ靖国を題材にした吉川宏志の「靖国を焼け あけがたの耳のなか羽蟻のごと落ちてくる声」とあまりに対照的だ。吉川の気持ちはよくわかる。あの小泉首相の靖国参拝の時に忸怩たる思いをしたのは私も同じだ。しかし「焼け」とまでは思わなかった。なぜなら首相が行くのが問題なのであって、一般の人が行くのに何の問題も無い。信じている人にとってはまさにそこには神様のような存在がいるのだろうし、それを否定するわけにいかない。あくまで宗教は自由だからだ。
 まさにそれは前の歌が言う通り、靖国も他の神社と同じように暗いところだろうし、他の神社と同じように信じている者にとってはそういう神のようなものが存在しているのだろう、と認めざるをえないわけで。
 ここに挙げた二首はまさに同じ意味である。あらゆる宗教施設も靖国もなんだか暗いよく判らないところに過ぎないのである。そしてそこに在る神は所詮みんな同じ類のものに過ぎないのだ。作者はその神に対して非難もしない代わりに礼賛もしない。
 だがこういったイデオロギーフリーの立場は誤解を招きやすい。右も左も、おまえはどっちなんだ、と問い詰める輩が後を絶たない。どっちかでなければならない時代なのだ。それに歌会始の選者をしていて、実際仕事のためとはいえ、靖国に行くわけで、いろいろと誤解を受けやすい。しかし逆に、イデオロギーフリーという立場が理解されるかどうかの、ちょうどよい指標となりうるケースなのかもしれない。
このイデオロギーフリーの立場に身を置かないことには、実際何も見えてはこないのだから。

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