歌人の点数化
フィギュアスケートとシンクロナイズドスイミングは技術点と芸術点で評価される。最近はこの芸術点が構成点と呼称は変わったが、基本的にはそのプレイヤーの技術以外の表現力による点数だ。

浅田真央はジャンプが得意で技術点は高いが、キム・ヨナに比べて表現力に劣り、芸術点は低く、もし昨日のフリー演技で双方ともミスが無ければキム・ヨナが優勝していただろうというのが日本のマスメディアの一致した意見のようだ。それはやはりキム・ヨナの方が表現力に優れていることが原因しているらしい。

僕がこのフィギュアやシンクロを好きじゃないのは、この表現力に点数をつけようという思想そのものが受け入れられないからだ。そんなもの個人個人の主観によるものだし、それでスポーツといわれてもねぇ、と思ってしまう。スポーツというのは純粋に客観的な指標があって初めて成り立つものだろうし。

それで突然思い出したのは、ちょっと前だったか、ある歌人が、といっても誰だったか全く忘れてしまったが、歌人の実力を点数化してはどうか、という提案をしたことだ。文芸というのはスポーツとは真逆で、純粋に主観的なもののはずだ。主観の総体がそのプレイヤーの客観的な評価となりうる。最初から点数化していては肝心の主観が入る余地がまるっきり無い。そうなると各歌人が点数を稼ぐためにその表現がせせこましいものになるだろうし。表現力がすべてである短歌そのものが衰退するのは間違いない。もちろんもしそうなったら僕は短歌をやめるけど。

もちろんこの点数化はジョーク (だと思う) で、ジョークだとしても、こういったジョークが出ること自体、短歌のこれからに不安を感じてしまう。歌壇が今そういう状況にあるのか、と勘ぐってしまう。

最近の短歌の話題といえば、何がリアルかと、修辞の武装解除、この2点に完全に絞られてきて、その方面でいかに点数を稼ぐか、に各歌人が集中し始めているような気がするのは僕だけだろうか。同じジャンプを飛び、同じスピンを競い、同じシークエンスを見せることにのみ評価を期待するフィギュアスケートを見ているような気がしてくるのだ。いい加減飽きないのだろうか。いい加減終わりたい、と思うが、終わる前に、まず、同じ時期に、なぜ短歌では修辞の武装解除が起こり、現代詩では修辞の再武装が起こったのかを考えなければならないだろう。

いろんなことが考えられるが、一つ思うのは、戦後詩の(つまり従来の修辞の)使用期限切れがやっと最近になって来てしまった、ことにあるのでは、と今のところ思っている。もちろん時代の様相の激変もあるのは間違いないわけで。どう時代と結びつけるかもいろいろと議論のあるところだろう。もちろん詩型の違いが最大の原因だろうし、いろいろと考えていったら面白いこと間違いないんけど。

その前にこんなこと思うのは、僕自身がなんでも飽きっぽい、ということが原因していて、今の歌壇の状況は正しい、とは思いますが。それはフィギュアスケートが正しい、と言っているのとおんなじ様な気もしないわけではないわけで。さてどうなんでしょう。もっと短歌は多様化できるものだと信じてやってるわけで。
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