見る音楽と聴く音楽、そして大衆化
ぼくは20代前半時、チャイコフスキーの大ファンで、何度も何度も同じ曲を聴いて飽きてしまっていて、そのあと20代後半ぐらいからは全く聴かなくなっていた。

それが今日、NHK教育を見ていたら、一聴してチャイコフスキーだとわかるヴァイオリン協奏曲をやっていて、思わず興奮して聴き入ってしまった、いや見入ってしまったのだ。

弓が弦を掻き毟るのが目の当たりに見える。そしてヴァイオリンとオーケストラの競演が視覚情報からも入ってきて、なんだか元気になってくるのだ。これがCDだと、それは意識されない。その目からの情報と耳からの情報が相まって、聴くだけでは感じえない、別の快感に襲われるのである。ああ、チャイコフスキーは聴く音楽ではなく、見る音楽なのだ、とわかったような気になった。奏者は終わってからわかったことだが、ヴァイオリンが庄司紗矢香でオケがサンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団つまり昔のレニングラード・フィルだ。指揮者は誰だか忘れた。

それに対して、僕が最近没頭している、ショスタコービッチは聴くだけでもう十分、というか、視覚情報がむしろ邪魔だろうと思える。これは聴く音楽なのである。バッハ、モーツアルトもおそらくそうだろう。ベートーヴェンもそうかな。

思うにチャイコフスキーはクラシック音楽をとことんエンタテイメント化することに成功したのではないだろうか。音楽の質の高さを維持しつつ大衆化するのに成功した、という、これはなかなかありえないことなのかもしれない、ひょっとすると。

そういった観点で現代短歌を見てみると、口語化によって、短歌は広く大衆化されたわけだけど、質も下がったに違いない。しかし言葉の質の高さを維持しつつ、大衆化に成功したのが確かにいる。それは俵万智、穂村弘、斉藤斎藤の3人だろうか。これはひょっとしらチャイコフスキーと同じく、稀有なことなのかもしれない、とあらためて今日思うようになった。
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