言葉という缶詰
 何年か前、「第1回詩のボクシング」というのがNHKでやっていて、見たことがある。僕は途中から偶然チャンネルを合わせただけで、そのとき若林真理子という女の子がリングに立ちマイクに向かって何か朗読するふうに喋っていた。たんたんと発せられる言葉に思わずぐいぐいと引き込まれていった。何だろうと思ったら、詩の朗読だったのだ。完全に彼女の言葉に魅了されてしまい、それで結局最後まで見てしまった。当時彼女は17歳で高校3年生ということだった。もちろんこの時優勝したのは彼女だ。しかもぶっちぎりである。そのあと図書館に行って何かないかと探した本の中にこの大会のことがあり、この時の彼女の詩の一節がそのままあったので、ここに引用してみる。引用する時は、書名著者名などを明記しないといけないのだろうけれど、コピーしたものを今やっと取り出してきただけなので、一切不明である。かまわず引用する。

わたしの家のちかくに
ちいさな林がある
わか葉をたいたような
みどりのけむりがたちこめる
木立のなかで
たいようはとおい

わたしはまいごになるために
ここへくる

自然のなかは孤独である
自然はわたしの知りえない言葉で語り合う

ちいさいころ
わたしが知りたかったのは
あの小さな猫とはなす方法
木の葉のささやきを
じぶんの知っている言葉におきかえることだった

わたしの知りえない言葉で自然は語り合う
かぜとはっぱ
はっぱとき
きとつち
つちとみず
みずとすいてき
すいてきとくものす
くものすと青い羽
青い羽とかぜ

世界の言葉は
ちょうどちいさなほほえみをかわしあうように
そうやってくるりとつながっている



 確かに17歳の女の子が書くような内容ではある。大の大人がこんなことは絶対に言わない。だが今読んでみても実にみずみずしい。一つ一つの言葉が粒だっている。しかも彼女は事前に書いてきた詩を朗読するのではなく、いくつかの言葉をメモしてくるだけで、あとは全部本番一発の即興なのだ。それを聞いたとき腰が砕けそうなほど驚いたのを覚えている。少なくともテレビに出るのである。それだけでも普通は事前に綿密にいろいろと準備してくるものだ。そしてがんがんに緊張してしまって、とちったりするのが普通である。
 こういうのを詩人と言うのだろうと思った。むかし漱石だったか鷗外だったか、だれかが言ったように、詩人とは生まれてくるものなのだ。あとで苦学して成れるものではないのである。このことをまず思い知らされた。

 この番組の途中に彼女へのインタビューがあり、そこで彼女は大変興味深いことを言っていた。
 言葉は缶詰みたいなもので、中身が詰まっていたり、少ししかなかったり、空っぽだったりして、自分は友達と会話するときこの空っぽの缶詰を相手に渡してしまって大変後悔することがあるんだそうだ。
 そんなことで後悔するならオジサンなどは年がら年中後悔のしっぱなしである。とても身が持たない。だいたい今書いている文章で相当後悔することになるはずだ。止めてくれ、人の文章のアラなど探すのは。
 要するに彼女が言いたいのは、一つ一つの言葉にぎっしりと中身が詰まっていないと納得できない、ということなのである。缶詰の中身というのはもちろん、その言葉の意味だけではない。言葉とはまず音と意味の融合体である。そして諸々の概念の存在の投影であり、なにより自分が所属する現象としてのこの世界と、つながっていなければいけない。つながって初めてその言葉に中身が生じてくるはずだ。つながらなければいくら修辞を駆使しても空っぽのままだろう。(なかなか自分で耳が痛いぞ)
 僕はこのとき俳句をやっていて、句会などに出入りしたりして仲間の句を読んだりするとき、まさにこの空っぽの缶詰に思い当たることがよくあり、鼻白んだことが何度もあった。自分の俳句はもちろん棚にあげてである。たった17文字なのにもかかわらず、俳人や川柳人は安易に言葉を投げ出すことが多いものだった(僕も実はそうなのだが)。その度に僕は苦言を呈するのをじっと我慢して、でも時々は何か言っていたように思う。空っぽの缶詰ばかりで17音詩を作るというその安易な姿勢がとてもいやだったのを覚えている。実際、言葉と言葉を如何につなげるかで、その言葉が生きてくることがあるのだ。たとえばさっきの若林真理子の詩の一節から

かぜとはっぱ
はっぱとき
きとつち
つちとみず
みずとすいてき
すいてきとくものす
くものすと青い羽
青い羽とかぜ



一つ一つの言葉はなんでもない誰もが良く使う普通の言葉だ。実際彼女の詩を最後まで聞いたが、彼女自身は特別な言葉は全く使わなかったように思える。まだ17歳ということもあってか彼女のボキャブラリーは貧困のように思った。本当の詩人とはきっとボキャヒンなのだろう。
 しかしそれがこんなふうにつながると、すべての言葉に命が吹き込まれ、若林真理子ふうに言うと一つ一つの言葉が「びっしりと中身が詰まった缶詰」になり、言葉がぴちぴちと潤う。そして

たぶんゆめのレプリカだから水滴のいっぱいついた刺草を抱く

加藤治郎「マイロマンサー」


状態になってしまう。いずれにせよ言葉とはぴちぴちとするものなのである。これは才能なのだろうか、それともその人の生き方なのだろうか。才能以前に生き方の問題があるような気がしてならない。
 川柳はまた違うようで、僕は川柳のことはわからないので言わないが、こと俳句においては、缶詰の中身が詰まっているかいないかはかなり致命的なことのように思える。

 でもどうも短歌は違うようだ。空っぽの缶詰ばかりをつなげるというのも、それも一つの戦略足りえるのだろうか。
 もっとも僕のほうが短歌をやっているようで短歌とは別のものをやっているのかもしれないし、それでこれから徐々に短歌に近づいていくのかもしれない。またずっと短歌とは平行線のままなのかもしれない。だから短歌がわからないのかも。それでもとにかく回りに惑わされないことだ。自分の感じるままに行くしかないのだから。そのために文芸なるものをやっているのである。

 とにかく、言葉を缶詰にたとえる、という概念は僕にとって一番勉強になったようだ。僕自身にとっての自戒となった。時として17歳が先生となるのだ。(う~ん、でも紺のハイソックスはちょっと萌えたなぁ)
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